はじめての靖国神社
靖国神社へ
『蟻の兵隊』を見て間を置かない新年に、靖国神社へ出かけた。東京に生まれて育ちながら、私は靖国神社境内に入ったことがなかった。10年以上いた職場から決して遠くはないのに、皇居一周のジョギングコース、千鳥が淵、武道館、イタリア文化会館あたりまでは走ったり、歩いたりはしているのに、足を踏み入れたことがなかった。この日は、飯田橋方面からパレスホテル、冬青木坂(もちのきざか)、フィリピン大使館を経て大鳥居をくぐった。
参道の右手に目立つのは「常陸丸殉難の碑」であり、「田中支隊の忠魂碑」である。前者では日露戦争時1904年の玄界灘でロシアに撃たれ沈没、乗員1100名以上が犠牲となったことが分かる。忠魂碑は、1919年のシベリアで、歩兵第72連隊田中勝輔支隊の戦闘で全滅した兵たちのものだ。いずれも九段会館近くにあったものを昭和、平成になってこの地に移転されたという。また、第二の鳥居を経て、右に曲がり、今日の目的地、遊就館近くまで進むと前庭には、軍馬、軍犬の慰霊像があり、東京裁判のパル判事の胸像までもある。
軍馬は、太平洋戦争だけで20万頭、軍犬は1万頭が命を落とした。軍犬の銅像の裏に回ってみると「平成4年(1992)動物愛護の日に」とある。身勝手な人間を思い、複雑な気持ちになった。パル博士は、東京裁判の判事団の一人のインドの法律学者で、「日本無罪判決」の少数意見を書いたとして著名である。この「無罪論」は、日本を戦争責任から解放したい人たちからは金科玉条のように言われるが、事後法は及ばず、戦争犯罪を個人の責任できないというのが骨子で、国家の戦争責任自体を回避するものではないといわれている。靖国神社に顕彰碑が立ったのは2005年と最近のことであった。
遊就館に入る
閉館までだいぶ余裕をもって入館したつもりだったが、せわしなかった。走り抜けるようにしか見られなかったのところもあって残念ではあった。遊就館の前身は、1882年、靖国神社ゆかりの品を収める絵馬堂、美術館としてスタートしている。以降、軍事博物館としての役割を果たしてきたが、1945年敗戦により閉館、1986年になって再建、2002年に新館建設と大幅な修復を経て、2007年には展示も改まったという。だから「博物館」のディスプレイとしては、最近よく見かける文学館風でもあった。しかし、展示をつらぬくのは「英霊顕彰」、「英霊のまごころを事実に即して伝える場所」という位置づけである。年表を軸に都合のよい「事実」と「歴史観」で綴られてゆくのが歯がゆかった。「事実」の検証は、公文書をはじめ、統計、新聞記事、手紙・遺書など私文書、写真・動画などでなされているかのようだが、いまとなっては、客観性や信ぴょう性に疑問のある資料が多い。とくに、兵力、損害等の数字も示されるもののその根拠や出典が明確ではないのが気になった。私自身が学んできた日本の近現代史との「ぶれ」は大きい。アジア諸国への侵略、植民地化、加害者としての戦争責任を認識しようとする姿勢がないことは、歴史として語り継ぐには、大きな欠陥になるだろう。戦争の歴史は、作戦や武器の歴史ではないはずだ。
私が興味深かったのは、ここに収められている戦争絵画の数々であり、そして展示室の随所に大書された天皇や軍人の短歌、遺書の最後に書かれている母を想う短歌であった。日本人にとっての短歌とは、もう一度、あらためて考えねばと思った。
また、私がもっとも衝撃的だったのは、遺骨収集の際に集められた、大展示室のガラスの陳列棚に際限なく並べられた遺留品の数々であった。兵士たちが肌身離さなかった、飯ごう、鉄兜、家族写真・・・、遺品の一つ一つの傍らに在ったお骨の命を思うと、そしてまだ収集もされていないお骨を思うと、胸が詰まる。神社ではない、宗教色のない、公的な戦死者慰霊の場が欲しいと、切実に思った。そして、ベルリン旅行で出会った「ドイツ歴史博物館」のような、より客観的な史実に基づく「歴史博物館」の出現が待たれるのだった。
| 固定リンク
コメント