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2009年3月16日 (月)

小島清(1905~1979)~戦中・戦後を「節をまげざる」歌人(2)

 

2.『青冥集』まで(19351945年、『対篁居』収録)

 『龍墟集』(1934年)以後、第2歌集『青冥集』の出版は1971年となり、その収録範囲は敗戦後の作品に限られる。没後に編まれた『対篁居』には、この空白部分1935年から1945年までの作品が収録されたので、時系列でたどってみよう。

 『龍墟集』の刊行が193410月であったが、前年1月には『六甲』の創刊に参加、『ポトナム』の2誌を中心に著作活動は活発となり、作品のみならず、エッセイ、評論、歌人論を精力的に展開し、その勢いは1942年ころまで続く。ジャンルを超えた交友関係も幅広く、1936年、大阪放送局募集の清元新曲「万葉四季寿」や筝曲「河太郎」が入選、多才ぶりをも示す。しかし、プライベートでは、「義金募集に大新聞のはりあへるは日を経るにつれてひどくいやしき」という世相のなかで、イタリア領事館の勤めを辞めることになったのはいつのことだったのだろうか。このような生活の嘆きは、現代にも通じるものがある。

 

1)失業者外交員も図書館に時すごすといふを見て疑はず

2)逃亡者名簿繰りつつ空碧き伊太利亜に住めぬ人の名を読む

3)わがくらし極まる知れば世のつねのかかはりごとに目つぶりとほす

4)家庭教師のつとめすませて午前零時の松原をかへること二三度ならず

5)ひけどきの巷をゆきて職もたぬわがいきどほりの表情かくす

 

19364月結婚、神戸市内で古書店青甲堂を開店し、母の死に遭い、長女が誕生した頃だろうか、次のような作品も残す。その店も193875日の阪神大水害により浸水している。資料によれば、神戸市だけでも死者616名、全壊・半壊家屋が1万戸を超え、浸水家屋は8万戸に及んだという(神戸災害と戦災資料館)。また、当時の『ポトナム』で、小島清の消息をたどってゆくと、1940年神戸婦人子供服製造工業組合書記長に就任、多忙を極めたとあり、翌年半ばには「都心店協会」に勤務の記述がある。また先の年譜によれば、19434月から大阪瓦統制株式会社に職を得たとあり、目まぐるしくもあったらしい。

 

6)古本の市より帰り母上の肩を撫でつついたく嬉しき

7)くらし立たぬ嘆はあれど谿水の流れきたりて冬にうちむかふ

8)時変下(ママ)にあきなひのみち狭められ「キング」「日の出」など背負うてかへる

 

 そして身辺にも戦争の影が色濃く迫る。街には戦車が走り、友人は出征し、傷兵や「英霊」となって帰ってくる隣人たちに心をいためる。 

9)坂下の人むれに冬日しみらなり戦車みえねど地をゆする音
10)戦の彼岸に楊樹は枝はりてあしたあしたに蕾ますべし
11)あたらしき機構に移るそれまでのくらし立たぬを嘆くぞ切に
12)傷兵の白衣に落とす枝のかげさむさむわれは見過ぐしかねつ
13)バスを待つわが目の前を曲がり角より戦車とどろと地を揺りきたる
14)英霊に頭をたれし人波が地下鉄へとつづく歩をはやめつつ
15)今われに銃後を護るといふことがいたく身につく齢となりぬ
16)すぐる日の欧州大戦の黒幕にユダヤ人をりて国あやつりし

 

1941年には、次の(16)(17)などを含む「海港忬情」の7首が『文芸春秋』(3月号)に、「暁」と題し(18)(19)(20)の3首が『セルパン』(3月号)に発表された。『セルパン』は、創刊当初1931年福田清人、35年には春山行夫編集となった第一書房から刊行されていた文化雑誌で、翻訳作品、時事評論にもそのユニークさが着目されていた。1941年4月号からは、「新体制」に添う『新文化』と誌名を変えることになるのだが、3月号は、『セルパン』と名乗る最終号でもあったのである。当時、大阪放送局は詩歌の朗読放送にかなり力を入れ、いくつかのテキストが刊行されたが、1942年には、『中等学生のための朗詠歌集』(10月、湯川弘文社、5000部)を編集している。当ブログ「短歌の朗読、音声表現をめぐって」でも触れている。その「序」の冒頭では「日本精神の昂揚」をうたっているが、「特別の目的をもつて編纂したものではないから、愛国勤皇の歌ばかりをあつめてもゐない」とも記している。

 

17)かつて吾が伊太利領事館員たりし頃エチオピアいたく打ちひしがれぬ

18)うつそみの今の世紀にたちむかふ我のしりへに子らよく育つ

19)海かけて薔薇光に明けゆく神戸をば時の間にすぐる飛行機をおもひぬ

20)あかつきの空をすぎゆく飛行機をめざめにきくよ昨日も今日も

21)飛行機の音ひびき来るあかつきの凍土の上に吾子たちつくす

 

 戦局はますます厳しくなり、情報は、統制、操作される中、市民は精一杯国策への協力を余儀なくされた。1943年、(26)に見るように、仕事の傍ら町内会長を務めているが、1944年に入っては、紙不足などによる雑誌統合により4月から『ポトナム』休刊となる。1945年には、40歳を目前にして防衛隊に入隊し、(27)のような作品をなした。また、神戸市も、同年317日、511日、65日の3回にわたって空襲を受け、ほぼ全市域が壊滅状態になるが、小島清の自宅も65日に焼出、縁者を頼って大和高田市に疎開し、そこで敗戦を迎えることになる。

 

22)いのち捨てむ心きまればああ特別突撃隊の征き征きにけり

23)捷報をよみをはりたる頃かけて汽車はあかねの淀川を過ぐ

24)かへり来て心すなほに寝につけり明日はあしたの仕事をもちて

25)哨戒機過ぎゆくころを常のごとわが眠りをり子ろのかたへに

26)組長われ指揮の至らぬことなどを一日のうちに思ふいくたび

27)子の書きしかなしき葉書を身につけて老兵われのきほひ居りつつ

28)みいくさのをはりしくにのやまと路に立ちてかなしもまなつのひかり

 

 

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