小島清(1905~1979)~戦中・戦後を「節をまげざる」歌人 (1)
歌人、小島清について、最近、短文を書く必要があって、あらためて歌集を読むことになった。普段は小島先生と呼び慣れているのだが、ここではすべて敬称を略した。
小島清が、小泉苳三創刊の短歌結社雑誌『ポトナム』に拠ったのは1926年であった。その『ポトナム』も今年8月に1000号を迎える。私が入会したのは学生時代、1960年なので、小島清からは20年近く、直接、間接に指導を受けていたことになる。私の直接の師というならば阿部静枝なのだが、ここでも不肖の教え子であった。社会人になった頃からは、しばらくの間『ポトナム』全国大会にもよく参加していたので、小島清の謦咳に接することも多く、文芸への広い知見ときびしい姿勢、やさしい人柄に惹かれてゆくのだった。
今年は、没後30年にあたるが、小島清の生涯と秀歌は、すでに、最近では荻原欣子『ポトナムの歌人』(晃洋書房 2008年)に詳しい。またこれまでも、下記の追悼号や『ポトナム』『風景』などでは幾編かの評伝や作品研究が残されている。ここでは「小島清年譜」(醍醐志万子編、『ポトナム』1979年10月、小島清追悼号)を傍らに、私自身の思いと時代背景にも重ねながら、3冊の歌集に少しでも分け入りたい。
1.『龍墟集』(1930~1934年)
第一歌集『龍墟集』は、1934年10月の刊行であり、小泉苳三の「序」と作者自身の生い立ちにも触れる、自在な筆致の「後記」が付されている。
1)ひつそりと鳥獣魚介のねむる夜は気象台の鉄塔に雲かかりゐむ
2)絵日傘の明るさが持つおちつきは街上の女を眉目よからしむ
当時、住んでいた港街、神戸の「夜と昼」「暗と明」がたくまず描かれている。
3)愛国号の爆音やうやく消えしときラヂオをとほして鴉のこゑきく
4)式場放送にまじりて鴉のこゑきけば冬木に日ある代々木 をおもふ
3)の「愛国号」は、1932年1月10日、東京代々木練兵場で、陸軍への献納機「あいこく」第一号(爆撃機)・第二号(患者輸送機)の命名式が行われ、物々しい式場のマイクが期せずして拾った鴉の鳴き声が放送で流れたことを詠んでいる。その後「愛国号」は、7000機近くが、個人や地域、各種団体名などを付して献納され、地元新聞などで華やかに報道されたが、その行方となると記録が残っていないらしい。機の名前はすぐに消されて迷彩色を施されることも多く、寿命も短かったという。1・2号機は、1月15日には奉天へと飛行、関東軍に渡されたという(「陸軍愛国号献納機調査報告」)。4)では、神戸でのイタリア総領事館勤めの身でありながら、幼少時の東京生活をなつかしむ風でもある。
当時大阪放送局でも始まったばかりの「職業案内」放送を次のように詠み、仕事への意欲や夢も語られる。
5)求人放送にきびしき世相を思ひつつわが食ふ飯は身につかぬなり
6)失職をおもへば手当あがらずともよし然(しか)いひつつ母寂しげなり
7)家庭教師をやめて衢にささやかな珈琲店ひらかむとプランをたつる
現在の「未曽有」「百年に一度」という経済危機がまるで災害のように喧伝されるけれども、経済政策上ある程度予測できたことではなかったか。手を拱いて「市場に任せた」結果ではなかったのか。企業への公的資金投入を余儀なくされ、しかも、弱者には手が届かない、その場限りの対策しかとれない政府をもどかしく思う。そしてその行く先を思うと、昭和初期の次のような作品に突き当たるのである。
8)文明国独逸もナチスとなりてより初夏のちまたに書を焚くといふ
9)職を賭して京大教授のあらそへる自治権擁護をわれも諾ふ
10)京大紛争をよそに真昼を大臣は芝生かけりてゴルフしたまふ
11)破産せし銀行前の列にゐて寒さ身に徹るとき島徳にくむ
12)希望もとめてぐんぐんつづく移民の群に日やけせる顔子を負へる男
1933年1月ドイツではヒトラーが首相に就任、5月には焚書事件が起き、日本では滝川幸辰京大教授の『刑法読本』が赤化思想とされ免官となった。さかのぼってその年の1月には大塚金之助、河上肇が検挙され、2月には小林多喜二が検挙後拷問死する、といった思想弾圧は厳しくなり、ますます息苦しくなった時代である。ブラジル移民が国家事業の契約移民として、笠戸丸が神戸メリケン波場を出航したのは1907年4月、1928年には国立移民収容所がスタートし、ブラジルへの移民はすべて戸港から日本を離れ、1933年頃がピークであったという。ここの収容所を舞台とした石川達三『蒼氓』が発表されたのは1935年であった。2008年にはブラジル移民100周年記念行事が行われたばかりである。最近の報道によれば、新たな資料の発見によって「ブラジル移民は、海運業者、財界、労働力を放出したい政府の三位一体の国策であったことが読み取れる」とある(「ブラジル移民はやはり『国策』」『朝日新聞』2009年3月11日)。
小島短歌における地名、人名などの固有名詞が一首の詠みや解釈の最大のよりどころとなることも多く、その役割は大きい。固有名詞が読者には思いがけないイメージや背景の広がりをもたらすこともある。11)の「島徳」を調べていくと、「島徳」こと島徳蔵は北浜の相場師から「乗取り屋」の異名をとり、大阪株式取引所理事長、日魯漁業、阪急電鉄の社長などを務め、その女婿が野田卯一であり、その孫が野田聖子ということも知ることになる。
『龍墟集』の「後記」によれば、京橋区舟松町(中央区湊3丁目)に生まれ、築地幼稚園、明石小学校に通い、後、母方の祖母の家のあった牛込の津久戸小学校に転校している。
10歳で父の仕事により神戸に転居、市立神港商業学校に進学、高原美忠教諭と出会い、作歌をはじめる。神宮皇学館出身の高原は教員生活の後1923年より神職の道を歩み、八坂神社宮司を長く務め、戦後は皇学館大学も務めた神道史の学究でもある。小島清は終生敬慕していたことは、「函館大火―高原先生をおもふ」の一連でもわかる。
13)まさかと思ひをりし函館八幡は焼けて鳥居のみ残りたる写真出づ
14)小説に耽りて生意気ざかりの中学生われをひとりかばひ通せしも先生ぞ
なお、この『龍墟集』には、幾人かの親しい友人への挽歌も収められている。1932年1月、犬飼武家族と同行の堀美代と播磨の名勝室津に遊ぶ、とする詞書がある「室津へ」において「枯笹の中に見いでしすみれ花にほひなけれどひとは摘み着ぬ来ぬ」とうたった堀美代を、「昭和七年十二月二十三日」と題して最期を看取ることになるのだった。
15)死に近きひとりのみとりのひまひまに在り経しことをいひて嘆きぬ
16)ただひとり看護の座にゐてまむかへど此のきはにわれら言ふこともなし
17)なきひとの夢に覚めたる朝空は光まばゆき風日和なり
小泉苳三は「序」において次のようの述べる。
「龍墟集は主情的歌集である。青春の日の詩想が隅々まで、気品高い香気を放つてゐる。全巻を通じて、吾人の前に展開せられるものは、著者の都会人らしい繊細な神経と鋭敏な官覚とによつて描出された空間の微妙相である。さらに、それに適度の陰影をあたへてゐる律調の快適な韻である。」
さらに、苳三は近代短歌史の学究として、「子規の俳句革新運動も、短歌革新運動も、(中略)短歌領域の拡大こそ、言ひかへれば、伝統短歌のうちに時代の感情を止揚せんとする意図こそ、彼の短歌運動の出発点であるとともに到着点であつた筈である」と述べた後、次のように記す。
「龍墟集の著者に寄せる期待は二重の意義を持つ。龍墟集は、後半にいたるに従つて、短歌の進展への志向を見せてゐる。そこには、見らるる如く、主情的作品より現実的作品への移行が明瞭な一線を画してゐる。単に、前半に於て逝く青春をして逝かしめたあとにくる、個心的心境の転換とのみいひ去り得ないものがある。これは、まことに、現代短歌の領域の拡大である」
『龍墟集』からの私の選んだ短歌は、現実的作品に偏ったかもしれない。冒頭の(1)、相聞の(15)(16)(17)など、この歌集の深く根ざすところでもあろう。(続く)
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