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2009年3月29日 (日)

「美しく生きる 中原淳一展 愛する心」へ

中原淳一展、松屋銀座へ

このところレトロな話題ばかりながら、やはりレポートはしておきたい。NHK「新日曜美術館」(322日)での放映から間もなかったので相当な混みようだった。圧倒的に女性高齢者が多い中、若い世代、男性もちらほらという感じである。会場受付にあるチラシをよくみると、主催はNHKサービスセンターなのであった。会場の一室では、NHKの番組が常時放映されていて、展示室にもその声が流れていた。(会期:2009年月18日~30日、松屋創業140周年記念)私の中原淳一体験も直接的なものではなく、自分より「少しお姉さんたち」の見ていた雑誌『それいゆ』の中原淳一であった。淳一の描くスタイル画から抜け出てきたような、フレアーのワンピース、つば広帽子、大きなリボンのついた手提げで遊びに来たりする年上の従姉がまぶしかったことを思い出す。真っ赤な小さな、テカテカのビニールのバッグをみやげにもらって有頂天になったのもその頃である。

戦中期と弾圧                                   

展示は、淳一の仕事の出発点である人形から始まり、挿絵、雑誌、ファッション、インテリア、作詞などいくつかのコーナーに分かれていた。1913年香川県に生まれ、絵を描くことと手仕事が大好きな少年は、美術学校卒業後に上野の仕立屋に就職、1932年、19歳の時、松屋銀座でのフランス人形展で『少女の友』の主筆内田基に見出され、挿絵を描くようになったという。その後は挿絵にとどまらず、口絵や数々の付録の作者として、1935年からは表紙を任され、軍部の圧力で降板させられる19406月号まで続いた。彼の描く少女像は時局に合わない不健全なものと烙印を押され、妥協も探られたが、あえてその任を降りたという。竹久夢二やチェコ出身のミュシャを想像させる、装飾性と気品の高いメッセージが宿されているように思う。1939年正月号付録の「啄木かるた」は、いまの私でも手元にあったらいいなと思う。復刻版もあるらしい。

満を持した敗戦後

そして、敗戦の翌年からは満を持して『それいゆ』(19461960年)『ひまわり』(19471952年)『ジュニアそれいゆ』(19541960年)という自ら編集・発行する雑誌に、美しく、心豊かな若い女性のライフスタイルを確立すべく様々な情報を発信し続けた。いわゆる「高嶺の花」ではない、実用的な記事が多いのも特徴だろうか。ファッションも、ヘアメイクも、くずれをみせないポリシーが漂い、逆に、現代にも通用しそうである。

働き盛りに、突然

 1959年、40代の若さで病に倒れ、長い療養生活を余儀なくされ、その後1970年『女の部屋』を創刊するが再び心臓病に倒れ、1年で廃刊となる。以降、女性のライフスタイルも多様化し、文化の様相も激動を迎えるが、淳一の残した仕事は、イラスト、漫画、ファッションはじめ、女性雑誌の在りようにも継承されているものが多いのではないか。私が、一つ興味深かったのは、人形作家としてのスタートにおいても、男たち、それもアナキーな、どこか不良ぽい?しかも格好いい男たちを主題にしていることだ。1970年以降、千葉県館山での晩年においても、変わらず、そうした男たちを人形としていることを今回の展示で知ったのである。

 「図録」に一言

 今回も、何かのかたちでレポートをしたいと思っていたので、その資料にと出口で「図録」(1400円)を購入して帰った。見本をよく見ればよかったのだが、それは、今回の展示会のカタログではなかった。展示会の会期や場所も示されていないし、展示目録が付されるでもなく、会場のパネルにあった「年表」も収録されていなかった。収録は、表紙を入れても60点ほどの絵や人形の写真で、最後尾に「収録作品一覧」と略歴、肖像写真があるのみであった。「花」「色」「信じる」「思いやり」「小鳥」「音楽」「詩」「愛する心」「人形」の題のもとに、それにまつわる中原淳一が書き残した言葉が抄録されている。「主要代表作品集」と呼ぶべきものであって、展覧会のカタログではないので、なにか騙されたような気がしないでもない。反転印刷ミスの一枚がある欠陥商品でもあったのだ。一方、グッズの売り場は大々的で、そのコマーシャリズムにはやや違和感を覚えるほどだった。遺族がしっかりと親の業績を残し、顕彰することは必要なことではあるが、主催のNHKサービスセンターが、展示会全般どのようにかかわったのかが明確ではない。

                                     

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2009年3月23日 (月)

「山川惣治展」行ってきました

 

昨年、弥生美術館へは出かけそこなったので「生誕100年・山川惣治展―少年王者・少年ケニヤのいた昭和」(佐倉市立美術館、200927日~322日)を見に行ってきた。ちょうど、その日の朝のテレビ番組で、『少年サンデー』『少年マガジン』が創刊50年になるという特集が組まれていた。美術館への通り道の郵便局に寄って、切手を買おうしたら、その創刊50年記念切手が発売されたばかりであった。マンガ、劇画が時代を画する前、山川惣治の昭和前期、戦中・戦後の活躍は目覚ましいものだったらしい。展示会は、次のような章立てをとっていた。

1.漫画家を志して(大正末から昭和初期)

2.「紙芝居」から「絵物語」へ(昭和6年から昭和20年)

3.「少年王者」「少年ケニヤ」の誕生(昭和20年代)

4.絵物語衰退の予兆(昭和30年代)

5.絵物語の落日(昭和40年代)

6.再起をかけた挑戦(昭和50年代)

7.終焉の地・佐倉(昭和60年代から没年まで)

紙芝居「少年王者」と「イモあめ」と

 私の直接の山川惣治体験といえば、池袋の焼跡のバラックに疎開先から呼び戻された後、街頭紙芝居のオジサンが街を回り始めたころだったろうか。母ものと冒険もの(「少年王者」もその一つだったのか)の2本立ての紙芝居が楽しみで、拍子木の音に5円玉?を握りしめて家を飛び出したり、外の遊びを投げ出したりして、オジサンの自転車が停まる銭湯の横の路地へと駆け込んだ。硬貨を渡すと、オジサンは、短い割りばしで紙芝居の木枠の下の引き出しから手際よく親指ほどのイモあめを絡めてくれる。私もすぐには舐めてはしまわず、こねて、こねて白くしてから大事に食したものだった。登場人物の声色も擬音もすべてオジサン一人がこなしていたのが、「ソコノニアラワレタルワァ~、ドッドッドーン」と太鼓が使われるようになったのはいつごろだったろうか。私が、近所の友達と回し読みするのはもっぱら学年別雑誌(小学館)や少女雑誌だったから、雑誌で山川を読んだ記憶があまりない。
 
紙芝居「少年王者」は、1946年全優社から発表され、好評を博し、ラジオ放送もされ、集英社の「おもしろブックシリーズ」として単行本にもなった。1949年には「少年王者」を柱とした月刊誌『おもしろブック』が創刊される。展示会カタログによれば、195110月から195510月まで「少年ケニヤ」を連載した「産業経済新聞」(産経新聞前身)は、その人気で、発行部数5万を120万部にまで伸ばしたという。さらに山川は、1954年の所得番付、画家の部で第1位(実収入771万円)になったというのだ。
 
私の体験は昭和20年代前半に重なる。最近、私より若い友人と山川惣治の話になったとき、彼女は、その産経新聞の「少年王者」が毎日楽しみで、新聞切り抜きまでしていたそうだ。そして、息子さんは、1980年代に復刻された角川文庫で山川を愛読しているので、家のどこかに本はまだ残っているかもしれないということだった。

晩年の山川惣治は

 そして、私がつぎに山川惣治に出会うのは、いまの住まいに転居して、しばらく経ってのことであった。今回の展示会の年譜によれば、1992年の初秋であり、何とその年の12月に他界されているので、最晩年にお会いしたことになる。と言っても、すぐ近くのマンション1階の小料理屋が閉店して、がらんどうになったスペースで、「山川惣治・高橋真琴チャリティー絵画展」が開催されていたのである。
 二
人は佐倉市ゆかりの画家であったのだ。山川は、すぐ隣の丁目に住んでいることを知った。点数はそんなには多くなかったが、まぎれもない、二人の原画を身近にたっぷりと見ることができた感激は忘れがたい。お二人が会場にいらっしゃる中、2回ほどのぞいていた。小品の販売もあったような気がする。山川さんは、人物やペットの絵を描いてくださるとのこと、時間などは個別にご相談ください、というコーナーもあって、私は本気で描いてもらおうと思ったりしたが、何となく気遅れがして果たさずじまいだった。その後、亡くなったことは知ったが、絵画展のあったすぐ後のこととは知らずにいた。つい最近まで、「山川惣治」という表札があった旧居ではあったが、現在は表札もない無人のお宅になってしまっている。
 
一方の高橋さんは、お住まいに隣接して画廊をお持ちで、あの瞳に星が輝くような少女マンガの世界を築いた功績は大きい。その画廊で、私も思わず、小さな絵を購入している。高橋さんは、地域で、PTAや青少年育成会の仕事をされていて、市の何かのイベントでお会いしたりし、展覧会のお知らせをいただいていた時期もあった。
 そんなことを思い出しながら、今回の第7章の展示を見ていたのだが、山川がこの地に転居したのは、私たちより1年早いくらいで、亡くなるまでのほんの数年間のようで、家族たちとゆったりした時間を過ごされたという。しかし、私などが知る由もない戦前、戦後の絶頂期を経た後の思いもかけない展開、まさに昭和を生き抜いた山川惣治の波乱に満ちた生涯は、衝撃的でもあった。

絵の大好きな少年は

  1908年、福島県安積郡に生まれるが、すぐに一家で上京し、本所高等小学校をすぐに製版所に写真製版工として働き、夜学で好きな絵を学んだりした。23歳の時に兄と似顔絵や紙芝居の絵を描く仕事を始め、人気紙芝居「少年タイガー」などの制作者・貸元としての仕事を軌道にのせる。さらにキングレコード紙芝居「勇犬軍人号」や編集者からの勧めもあって『少年倶楽部』誌上紙芝居という形から「絵物語」というジャンルの先駆けともなる。アメリカ映画の「ターザン」や活劇の影響も色濃く、いま見ても、動物の絵の精密さやダイナミックなカットは臨場感あふれるものであった。日中戦争が激しくなると、紙芝居「愛馬進軍歌」「護れ軍艦旗」(1939年製作)「神兵の母」(1944年)や『少年倶楽部』掲載の作品は『愛国絵話集』として初めての単行本となし(1941年)、国策協力時代へとなだれ込む。1940年には共産主義の嫌疑で目白署に拘置されたこともあるという。

敗戦後から絶頂期へ、そして 
 敗戦直後、すでに昭和初期に手掛けていたものの貸元倒産でとん挫した紙芝居「少年王者」が発表され、人気を博し、前述のようにラジオ放送や月刊雑誌の形で連載、映画「少年ケニヤ」(1954年、南旺映画)、自伝的な「中野源治の冒険」(1955年、東映)も公開され、経済的にも絶頂期を迎え、今回の展示会でも築土八幡に新築した豪邸の前で愛車「インペリアル1957年」と映っている一枚があった(1961年)。1967年には自らタイガー書房を設立し、『ワイルド』を創刊した。山川は、当時読者の人気が高まってきたストーリー漫画、週刊劇画雑誌に対抗して、ひとコマ、ひとコマ、絵としての完成度が高いもの、美しいものを目標に、かつての人気作品や新作を提供したが、発行部数は伸びず、翌年には借金を抱え倒産してしまう。ときはまさに、高度経済成長期にあって、山川の勧善懲悪を理念にとした「困難に打ち勝つ強い少年」の世界は、過去のものとなってしまったようだ。1969年には、次男とともに横浜でレストラン「ドルフィン」経営にかかわる。1970年代になって劇画「指輪・骨の兵隊さん」などにも挑戦するが、むしろ、「少年王者」や「少年ケニヤ」などかつての読者をターゲットにした豪華復刻版などが刊行された。1982年、レストランが手形詐欺に遭って破産し、借金返済に追われる窮状に陥った。これを知った、角川書店の角川春樹が山川支援のため、「少年王者」「少年ケニヤ」「少年エース」を相次いで文庫本として出版、山川を主力作家とした月刊誌『冒険王』も創刊し、角川アニメ「少年ケニヤ」も制作された(1984年)。しかし、往年のブーム再来には至らなかった。
 この間、山川は雑誌『旅』の企画で、まだ一度も訪ねてはいない、ケニヤへの取材旅行を敢行した、1980年、75歳の時である。ボールペンと水彩による原画が数点展示されていた。そのうちの1枚は、動物を描いても精密画ではなく、巨大な裸木の梢にとまる鳥であり、前景の一頭のハイエナを配した静寂で、荒涼とした風景であった。また、19929月、横尾忠則が佐倉の展示会会場で注文をし、亡くなる12月、その月初めに見舞いの折に受け取った絵は、躍動感あふれるホワイトバッファローの油絵であった。

晩年も創作意欲の衰えなかった画家であったことを知って、なにか、ほっとする思いで会場を後にした。

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2009年3月16日 (月)

小島清(1905~1979)~戦中・戦後を「節をまげざる」歌人(2)

 

2.『青冥集』まで(19351945年、『対篁居』収録)

 『龍墟集』(1934年)以後、第2歌集『青冥集』の出版は1971年となり、その収録範囲は敗戦後の作品に限られる。没後に編まれた『対篁居』には、この空白部分1935年から1945年までの作品が収録されたので、時系列でたどってみよう。

 『龍墟集』の刊行が193410月であったが、前年1月には『六甲』の創刊に参加、『ポトナム』の2誌を中心に著作活動は活発となり、作品のみならず、エッセイ、評論、歌人論を精力的に展開し、その勢いは1942年ころまで続く。ジャンルを超えた交友関係も幅広く、1936年、大阪放送局募集の清元新曲「万葉四季寿」や筝曲「河太郎」が入選、多才ぶりをも示す。しかし、プライベートでは、「義金募集に大新聞のはりあへるは日を経るにつれてひどくいやしき」という世相のなかで、イタリア領事館の勤めを辞めることになったのはいつのことだったのだろうか。このような生活の嘆きは、現代にも通じるものがある。

 

1)失業者外交員も図書館に時すごすといふを見て疑はず

2)逃亡者名簿繰りつつ空碧き伊太利亜に住めぬ人の名を読む

3)わがくらし極まる知れば世のつねのかかはりごとに目つぶりとほす

4)家庭教師のつとめすませて午前零時の松原をかへること二三度ならず

5)ひけどきの巷をゆきて職もたぬわがいきどほりの表情かくす

 

19364月結婚、神戸市内で古書店青甲堂を開店し、母の死に遭い、長女が誕生した頃だろうか、次のような作品も残す。その店も193875日の阪神大水害により浸水している。資料によれば、神戸市だけでも死者616名、全壊・半壊家屋が1万戸を超え、浸水家屋は8万戸に及んだという(神戸災害と戦災資料館)。また、当時の『ポトナム』で、小島清の消息をたどってゆくと、1940年神戸婦人子供服製造工業組合書記長に就任、多忙を極めたとあり、翌年半ばには「都心店協会」に勤務の記述がある。また先の年譜によれば、19434月から大阪瓦統制株式会社に職を得たとあり、目まぐるしくもあったらしい。

 

6)古本の市より帰り母上の肩を撫でつついたく嬉しき

7)くらし立たぬ嘆はあれど谿水の流れきたりて冬にうちむかふ

8)時変下(ママ)にあきなひのみち狭められ「キング」「日の出」など背負うてかへる

 

 そして身辺にも戦争の影が色濃く迫る。街には戦車が走り、友人は出征し、傷兵や「英霊」となって帰ってくる隣人たちに心をいためる。 

9)坂下の人むれに冬日しみらなり戦車みえねど地をゆする音
10)戦の彼岸に楊樹は枝はりてあしたあしたに蕾ますべし
11)あたらしき機構に移るそれまでのくらし立たぬを嘆くぞ切に
12)傷兵の白衣に落とす枝のかげさむさむわれは見過ぐしかねつ
13)バスを待つわが目の前を曲がり角より戦車とどろと地を揺りきたる
14)英霊に頭をたれし人波が地下鉄へとつづく歩をはやめつつ
15)今われに銃後を護るといふことがいたく身につく齢となりぬ
16)すぐる日の欧州大戦の黒幕にユダヤ人をりて国あやつりし

 

1941年には、次の(16)(17)などを含む「海港忬情」の7首が『文芸春秋』(3月号)に、「暁」と題し(18)(19)(20)の3首が『セルパン』(3月号)に発表された。『セルパン』は、創刊当初1931年福田清人、35年には春山行夫編集となった第一書房から刊行されていた文化雑誌で、翻訳作品、時事評論にもそのユニークさが着目されていた。1941年4月号からは、「新体制」に添う『新文化』と誌名を変えることになるのだが、3月号は、『セルパン』と名乗る最終号でもあったのである。当時、大阪放送局は詩歌の朗読放送にかなり力を入れ、いくつかのテキストが刊行されたが、1942年には、『中等学生のための朗詠歌集』(10月、湯川弘文社、5000部)を編集している。当ブログ「短歌の朗読、音声表現をめぐって」でも触れている。その「序」の冒頭では「日本精神の昂揚」をうたっているが、「特別の目的をもつて編纂したものではないから、愛国勤皇の歌ばかりをあつめてもゐない」とも記している。

 

17)かつて吾が伊太利領事館員たりし頃エチオピアいたく打ちひしがれぬ

18)うつそみの今の世紀にたちむかふ我のしりへに子らよく育つ

19)海かけて薔薇光に明けゆく神戸をば時の間にすぐる飛行機をおもひぬ

20)あかつきの空をすぎゆく飛行機をめざめにきくよ昨日も今日も

21)飛行機の音ひびき来るあかつきの凍土の上に吾子たちつくす

 

 戦局はますます厳しくなり、情報は、統制、操作される中、市民は精一杯国策への協力を余儀なくされた。1943年、(26)に見るように、仕事の傍ら町内会長を務めているが、1944年に入っては、紙不足などによる雑誌統合により4月から『ポトナム』休刊となる。1945年には、40歳を目前にして防衛隊に入隊し、(27)のような作品をなした。また、神戸市も、同年317日、511日、65日の3回にわたって空襲を受け、ほぼ全市域が壊滅状態になるが、小島清の自宅も65日に焼出、縁者を頼って大和高田市に疎開し、そこで敗戦を迎えることになる。

 

22)いのち捨てむ心きまればああ特別突撃隊の征き征きにけり

23)捷報をよみをはりたる頃かけて汽車はあかねの淀川を過ぐ

24)かへり来て心すなほに寝につけり明日はあしたの仕事をもちて

25)哨戒機過ぎゆくころを常のごとわが眠りをり子ろのかたへに

26)組長われ指揮の至らぬことなどを一日のうちに思ふいくたび

27)子の書きしかなしき葉書を身につけて老兵われのきほひ居りつつ

28)みいくさのをはりしくにのやまと路に立ちてかなしもまなつのひかり

 

 

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2009年3月15日 (日)

小島清(1905~1979)~戦中・戦後を「節をまげざる」歌人 (1)

 

 歌人、小島清について、最近、短文を書く必要があって、あらためて歌集を読むことになった。普段は小島先生と呼び慣れているのだが、ここではすべて敬称を略した。

小島清が、小泉苳三創刊の短歌結社雑誌『ポトナム』に拠ったのは1926年であった。その『ポトナム』も今年8月に1000号を迎える。私が入会したのは学生時代、1960年なので、小島清からは20年近く、直接、間接に指導を受けていたことになる。私の直接の師というならば阿部静枝なのだが、ここでも不肖の教え子であった。社会人になった頃からは、しばらくの間『ポトナム』全国大会にもよく参加していたので、小島清の謦咳に接することも多く、文芸への広い知見ときびしい姿勢、やさしい人柄に惹かれてゆくのだった。

 今年は、没後30年にあたるが、小島清の生涯と秀歌は、すでに、最近では荻原欣子『ポトナムの歌人』(晃洋書房 2008年)に詳しい。またこれまでも、下記の追悼号や『ポトナム』『風景』などでは幾編かの評伝や作品研究が残されている。ここでは「小島清年譜」(醍醐志万子編、『ポトナム』197910月、小島清追悼号)を傍らに、私自身の思いと時代背景にも重ねながら、3冊の歌集に少しでも分け入りたい。

 

1.『龍墟集』(19301934年)  

第一歌集『龍墟集』は、193410月の刊行であり、小泉苳三の「序」と作者自身の生い立ちにも触れる、自在な筆致の「後記」が付されている。

1)ひつそりと鳥獣魚介のねむる夜は気象台の鉄塔に雲かかりゐむ 

2)絵日傘の明るさが持つおちつきは街上の女を眉目よからしむ

 

  当時、住んでいた港街、神戸の「夜と昼」「暗と明」がたくまず描かれている。

 

3)愛国号の爆音やうやく消えしときラヂオをとほして鴉のこゑきく

4)式場放送にまじりて鴉のこゑきけば冬木に日ある代々木 をおもふ                                       

  3)の「愛国号」は、1932110日、東京代々木練兵場で、陸軍への献納機「あいこく」第一号(爆撃機)・第二号(患者輸送機)の命名式が行われ、物々しい式場のマイクが期せずして拾った鴉の鳴き声が放送で流れたことを詠んでいる。その後「愛国号」は、7000機近くが、個人や地域、各種団体名などを付して献納され、地元新聞などで華やかに報道されたが、その行方となると記録が残っていないらしい。機の名前はすぐに消されて迷彩色を施されることも多く、寿命も短かったという。12号機は、115日には奉天へと飛行、関東軍に渡されたという(「陸軍愛国号献納機調査報告」)。4)では、神戸でのイタリア総領事館勤めの身でありながら、幼少時の東京生活をなつかしむ風でもある。

  当時大阪放送局でも始まったばかりの「職業案内」放送を次のように詠み、仕事への意欲や夢も語られる。

 

5)求人放送にきびしき世相を思ひつつわが食ふ飯は身につかぬなり

6)失職をおもへば手当あがらずともよし然(しか)いひつつ母寂しげなり

7)家庭教師をやめて衢にささやかな珈琲店ひらかむとプランをたつる 

 

 現在の「未曽有」「百年に一度」という経済危機がまるで災害のように喧伝されるけれども、経済政策上ある程度予測できたことではなかったか。手を拱いて「市場に任せた」結果ではなかったのか。企業への公的資金投入を余儀なくされ、しかも、弱者には手が届かない、その場限りの対策しかとれない政府をもどかしく思う。そしてその行く先を思うと、昭和初期の次のような作品に突き当たるのである。

 

8)文明国独逸もナチスとなりてより初夏のちまたに書を焚くといふ 

9)職を賭して京大教授のあらそへる自治権擁護をわれも諾ふ

10)京大紛争をよそに真昼を大臣は芝生かけりてゴルフしたまふ

11)破産せし銀行前の列にゐて寒さ身に徹るとき島徳にくむ

12)希望もとめてぐんぐんつづく移民の群に日やけせる顔子を負へる男

 

   19331月ドイツではヒトラーが首相に就任、5月には焚書事件が起き、日本では滝川幸辰京大教授の『刑法読本』が赤化思想とされ免官となった。さかのぼってその年の1月には大塚金之助、河肇が検挙され、2月には小林多喜二が検挙後拷問死する、といった思想弾圧は厳しくなり、ますま息苦しくなった時代である。ブラジル移民が国家事業の契約移民として、笠戸丸が神戸メリケン波場を出航したのは19074月、1928年には国立移民収容所がスタートし、ブラジルへの移民はすべて戸港から日本を離れ、1933年頃がピークであったという。ここの収容所を舞台とした石川達三『蒼氓』が発表されたのは1935年であった。2008年にはブラジル移民100周年記念行事が行われたばかりである。最近の報道によれば、新たな資料の発見によって「ブラジル移民は、海運業者、財界、労働力を放出したい政府の三位一体の国策であったことが読み取れる」とある(「ブラジル移民はやはり『国策』」『朝日新聞』2009311日)。

小島短歌における地名、人名などの固有名詞が一首の詠みや解釈の最大のよりどころとなることも多く、その役割は大きい。固有名詞が読者には思いがけないイメージや背景の広がりをもたらすこともある。11)の「島徳」を調べていくと、「島徳」こと島徳蔵は北浜の相場師から「乗取り屋」の異名をとり、大阪株式取引所理事長、日魯漁業、阪急電鉄の社長などを務め、その女婿が野田卯一であり、その孫が野田聖子ということも知ることになる。

 『龍墟集』の「後記」によれば、京橋区舟松町(中央区湊3丁目)に生まれ、築地幼稚園、明石小学校に通い、後、母方の祖母の家のあった牛込の津久戸小学校に転校している。

10歳で父の仕事により神戸に転居、市立神港商業学校に進学、高原美忠教諭と出会い、作歌をはじめる。神宮皇学館出身の高原は教員生活の後1923年より神職の道を歩み、八坂神社宮司を長く務め、戦後は皇学館大学も務めた神道史の学究でもある。小島清は終生敬慕していたことは、「函館大火―高原先生をおもふ」の一連でもわかる。

 

13)まさかと思ひをりし函館八幡は焼けて鳥居のみ残りたる写真出づ

14)小説に耽りて生意気ざかりの中学生われをひとりかばひ通せしも先生ぞ

 

なお、この『龍墟集』には、幾人かの親しい友人への挽歌も収められている。19321月、犬飼武家族と同行の堀美代と播磨の名勝室津に遊ぶ、とする詞書がある「室津へ」において「枯笹の中に見いでしすみれ花にほひなけれどひとは摘み着ぬ来ぬ」とうたった堀美代を、「昭和七年十二月二十三日」と題して最期を看取ることになるのだった。

 

15)死に近きひとりのみとりのひまひまに在り経しことをいひて嘆きぬ 

16)ただひとり看護の座にゐてまむかへど此のきはにわれら言ふこともなし

17)なきひとの夢に覚めたる朝空は光まばゆき風日和なり

 

小泉苳三は「序」において次のようの述べる。

 

 「龍墟集は主情的歌集である。青春の日の詩想が隅々まで、気品高い香気を放つてゐる。全巻を通じて、吾人の前に展開せられるものは、著者の都会人らしい繊細な神経と鋭敏な官覚とによつて描出された空間の微妙相である。さらに、それに適度の陰影をあたへてゐる律調の快適な韻である。」

 

さらに、苳三は近代短歌史の学究として、「子規の俳句革新運動も、短歌革新運動も、(中略)短歌領域の拡大こそ、言ひかへれば、伝統短歌のうちに時代の感情を止揚せんとする意図こそ、彼の短歌運動の出発点であるとともに到着点であつた筈である」と述べた後、次のように記す。 

  「龍墟集の著者に寄せる期待は二重の意義を持つ。墟集は、後半にいたるに従つて、短歌の進展への志向を見せてゐる。そこには、見らるる如く、主情的作品より現実的作品への移行が明瞭な一線を画してゐる。単に、前半に於て逝く青春をして逝かしめたあとにくる、個心的心境の転換とのみいひ去り得ないものがある。これは、まことに、現代短歌の領域の拡大である」

 

『龍墟集』からの私の選んだ短歌は、現実的作品に偏ったかもしれない。冒頭の(1)、相聞の(15)(16)(17)など、この歌集の深く根ざすところでもあろう。(続く)

 

 

 

 

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2009年3月 7日 (土)

歌人、醍醐志万子をたどる

最近、醍醐志万子について書く機会があった。字数の制限があって思うように例歌などを引用できなかったので、ここでは、やや気ままに書きとどめておこう と思う。

醍醐志万子は一九二六年(大正十五年)生まれであったから、昭和の年号とともに年を重ねた。この世代にしては、残された写真はかなり多いように思った。東京、池袋の商家に育った、同い年だった私の長兄の幼少・少年期の写真はすこぶる少なかったのだ。

志万子の女学校時代のアルバムにある「浜谷農繁託児所昭和十三年五月二十八日~六月三日」と読める一枚には、二〇人ほどの乳幼児と世話役の住職家族、五人のセーラー服の女学生が並ぶ。少女たちは、緊張の面持ちながらにおやかさをも漂わせ、その左端に醍醐志万子も立つ。背後に貼られた「国民精神総動員 曹洞宗」「勝って兜の緒を締めよ 陸軍省」、日の丸と青年の横顔を背景にした「国民精神総動員」の三枚のポスターは何よりも時代をもの語っている。前年一九三七年八月には「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、一九三八年四月一日に「国家総動員法」が公布されていた。

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 志万子は、一九四二年兵庫県篠山高等女学校卒業、一九四五年東洋ベアリング武庫川工場に挺身隊として勤務、敗戦を迎える。この頃から、本格的な作歌を始め、小島清に師事、一九四九年、現在の『ポトナム』に入会、作歌の拠点とした。一九四九年、短い結婚生活を経て、家業を手伝う傍ら「書」の研鑽も積む、戦後の生活が始まる。

初期より父の死まで

・二〇代の大方を軍に従ひし夫病めば何に向けむ怒りぞこれは(『花文』)

・共に死なむと言はばあるひは真実となるかもしれぬ病み臥すわれら(同)

・別れたる夫より長く生きむこと当然としてわが月日あり(同)

第一歌集『花文』(一九五八年)の底流にある形を変えた相聞と次のような述志が一体となって、この集の特色をなしている。

・生業をつぐべくわれのをんなにて火のなき窯に身をもたせゐつ(『花文』)

・再軍備に傾く拍手ラジオよりひびき手の甲に汗ぬぐひをり(『花文』)

 また、一九四九年九月創刊の『女人短歌』には、八号から参加、「一〇号記念号作品(三〇首)」(一九五一年一二月)に応募、葛原妙子と醍醐志万子の二人が入賞している。

・おびただしき蛾のむくろあり一本の蝋のひかりの立ちゆらぐ中(葛原)

・夕べの火燃ゆるを得たり爐の前にわれは一つの古椅子を据う(葛原)

・燃えのぼる火に汗たりてわがゐたり動揺の日は過ぎて短く(醍醐)

・蝋の火に蚊を焼きをりて昨日より空想にむごき結果きたる(醍醐)

(『花信』収録は「蝋の火に蚊を焼きをりて昨日よりの空想にむごき結末きたる」となっている)

次の号で宮田益子が、「包容性の厚い素直な詠風」が安らぎを、抵抗を感じさせない表現が内容を深め、「理知からくる直観の高度な燃焼」うかがわせる、との評を寄せている。葛原の「自己への抵抗」「不屈さ」、醍醐志万子の「没我」「柔軟性」に着目している点も興味深い。

一九六五年、自宅にて書道塾を開き、第二歌集『木草』(一九六七年)を刊行、父の急逝後は『花信』(一九七七年)を刊行する。

・物乏しくて勤め帰りを花買ひき日本がたたかひに敗るる以前(『花信』)

・泣くほどのこともなかりし一日のをはりを何の嗚咽こみあぐ(『木草』)

・傘のなか塩と黄薔薇をかかへたり塩はしづかにびんに充ちゐる(同)

小島清の死から晩年 

小島清の死に直面して『霜天の星』(一九八一年)を編む。頴田島一二郎の死後、第六歌集『玄圃梨』(一九九三年)にたどり着く。決して失ってはならないものを自らの身に手繰り寄せる懸命さが顕著となる。


・焼跡のけぶる大阪駅前に千代紙買へるを誰か信じよ(『霜天の星』)

・還暦の三浦環の歌ひたる「冬の旅」よりいくさ激しき(霜天の星)

・たたかひに国敗れたる冬に見しぎしぎしの葉の猛きくれなゐ(『玄圃梨』)

母親を看取りながら『伐折羅』(一九九八年)を成し、亡くした後に『田庭』(二〇〇五年)を編む。

・かわきたる涙のあとのつめたさをいかにか告げん若き日の過ぐ(『伐折羅』)

・満にして九十四歳となりし母髪切りていよよ媼さびつつ(同)

・椅子に机に伝ひてあるく母にしてかかる役目を持てる家具たち(同)

・寂しくはなきかと問へる寂しとはいかなることかと応ふ(『田庭』)

・死のきはの母につづきて犬の死を思ひてかなし目覚めゆきつつ(同)

二〇〇八年九月に他界した醍醐志万子は、私にとっては、学生時代に入会した『ポトナム』の大先輩であり、私も参加した『風景』(一九八二~二〇〇五年)の編集発行人であった。八〇年を過ごした生家では、一九九八年、母親を看取った。県道拡張のため区画整理に遭い、千葉県に転居したのが、二〇〇六年秋だった。翌年「人の負ひ目やすやす衝ける幼子を幼子ゆゑわれはゆるさず(『木草』)」が「折々のうた」(二〇〇七年三月一〇日)に掲載されたとき、大岡信の「幼子がそんなにやすやす大人の〈負ひ目〉を衝けるものだろうか」というコメントに異議を唱えたのも志万子の個性であったろうか(『塩』三号二〇〇八年二月)。

 自ら編集発行人となっていた『風景』一一五号をもって終刊とした後は、身近な、気の合った仲間四人との『塩』の編集と発行は、喜びでもあり、励みでもあったのではないか。

・戦前も戦中戦後もわがうちを通り過ぎ行く一つくくりに(『短歌現代』二〇〇六年六月)

・その時代に生まれ合わせて詠いたる戦意高揚歌はた戦場の図(『塩』一号二〇〇七年六月)

・机の下に椅子を納めてふり返るそこには一人のわれさえ居らず(『塩』二号二〇〇七年一〇月)

一周忌には、第九歌集『照葉の森』(遠藤秀子解説・短歌新聞社)の出版、「歌と書・醍醐志万子追悼展」(青心会・榛の会主催、兵庫県民会館)開催が予定されている。

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2009年3月 1日 (日)

インターネット「歌壇」はどうなるか(1)

インターネットの可能性             

パソコンでのメールは、地域の自治会活動やミニコミ誌編集には欠かせない存在となった。インターネット上の検索によって、私の図書館通いや調べものはかなり効率のよいものとなっている。「内野光子のブログ~地域と短歌の可能性をさぐる」を立ち上げて4年を経た。私がブログを開いたのは、調べたり、書いたりすることが嫌いではないので、書き溜めておくよりはと、その発表する手段が欲しかったこともある。発表された記事には、誰でもコメントがつけられるので(受付拒否、未公表も可)、双方向の情報伝達、伝達の速さと範囲が最大の強みである。

ホームページやブログを持つ歌人たちが多いのは知っていた。ときどき覗いてはいたが、社会性のないプライベートな記事、私にはなじめない作品、自己顕示の露骨さに辟易とすることが多かった。一方、パソコン、インターネット自体を毛嫌いする歌人たちがいることも確かである。私の拙い短いインターネット体験に、二〇〇八年の秋、衝撃的な出来事が加わった。

安倍、福田さんが首相の座を投げ出した後、九月には、まるで茶番のような自民党総裁選が展開された。さなかの九月一〇日、夜七時のNHK総合テレビのニュースで、いつもの三〇分枠を拡大して、四十五分間、候補者五人を特設スタジオに並べて所信表明をさせた。一政党の総裁選にもかかわらず、その報道ぶりがあまりにも異常であった。私はNHKの視聴者コールセンターに電話をし、「なぜこれほどまでに一政党の総裁選に時間をかけるのか」と問えば「そんなことも分からないですか、自民党のPRですよ」と担当者は答えた。一瞬信じられなかったのだが「公共放送としての中立性に欠けるのではないか」と問えば、「自民党総裁は首相にもなり、国民の関心が高いから」と答えた。その後も種々やり取りがあったが、あまりの理不尽さに、その夜「やっぱりおかしい、NHK七時のニュース」と題してブログに書いた。

この記事へのアクセス数がいつになく多いな、と思っていた所、翌日からコメントがつき始め、紹介やリンクをしてくれたりする人たちが連動したのか、瞬く間にアクセスは劇的に増大した。一日に一万件を超える日があったりして、驚いた。アクセスランキングのトップになったこともある。そんな矢先、NHKから電話があって、コールセンターの職員の対応に失礼があったので、お詫びに伺いたいというのだ。「NHKが謝罪、担当者処分へ」の情報は、他のブロガーがNHKからキャッチし、ネット上ただちに広がっていた。捏造とは思わなくても、私の記事が半信半疑だった読者は「謝罪」と聞いて、NHKの異常な報道や対応にあらためて怒りを募らせたのかもしれない。私がその後の経緯を報告すると、またアクセスが増えた。ネット上のフィーバーぶりに着目したのか、ある新聞社から電話取材が入ったのは、記事を書いた日からちょうど一か月後だった。翌日の夕刊に「総裁選報道への質問電話に NHK側<自民PR> 対応責任者ら処分」が載ると、他の新聞も翌朝一斉に報道した。NHKの広報がやむなく顛末を公表し、記事となったのだろう。いずれも私への取材はなかった。私にとっては想定外の展開であったが、掲示板での中傷や「炎上」などにも見舞われず、ブログの威力を知らされた一件であった。

折も折、『ブログ論壇の誕生』(佐々木俊尚 文春新書 二〇〇八年九月二〇日)が刊行され、その帯には「新しく巨大な言論の波 マスコミを揺るがし 政治を動かし旧弊な言説を一掃する」とあった。やや大げさではあるが、マスメディアや論壇の変容は確かで、多くの雑誌が休・廃刊に追い込まれている。

インターネット受容の行方

 まず、短歌とインターネットに関する出来事を年表作成によって確認、また、近年の短歌総合雑誌などの「短歌とインターネット」などの特集を眺めておこうと思う。

 年表に関しては、『短歌ヴァーサス』(一一<最終>号 二〇〇七年一〇月)の「現代短歌クロニクル一九八四-二〇〇六」(佐藤りえ作成)を参考に、手元の各年の『短歌年鑑』のレビュー・文献表と辞典の年表などを参照し、登場するサイトをネットで検索・確認しながら、年表を作成中である。ここでは、紙面の都合上、割愛する。短歌史にインターネットが登場する前に、その前史として、ライトバース短歌、ニューウェーブ短歌の存在がある。といってもこれは多分に短歌ジャーナリズムが仕掛けた部分も多かったとみるべきだろう。

「ライトバース」の定義がそもそもあったのかも問題だが、俵万智が「八月の朝」で角川短歌賞を受賞したのが一九八六年、『サラダ記念日』が空前のベストセラーになり、一九八八年には、現代歌人協会賞を加藤治郎『サニー・サイド・アップ』と同時受賞している。一九八四年・八五年頃からすでに中山明や紀野恵、大塚寅彦、仙波龍英らの歌集の軽くて饒舌な小気味よさが話題となっていたように思う。俵・加藤は、口語体、会話体を駆使した風俗詠で、恋愛や性も明るく歌う作品が多かったという印象だった。

一九八七年の『短歌研究』現代短歌評論賞は「ライトヴァースが残した問題」(谷岡亜紀)であり、一九九〇年には「ライトバースは終わったか」の特集(『歌壇』九月)も組まれている。

 一九八〇年代後半には、その担い手を微妙に重ねながら「ニューウェーブ」と名付けられた論評が目立ち始める。一九九〇年には、担い手といわれた荻原裕幸(『甘藍派宣言』)、穂村弘(『シンジケート』)、正岡豊(『四月の魚』)らの歌集が出そろう。

 これらの動きに呼応して、伝統短歌に抗する一つの運動の機運に乗じる部分もあって、短歌ジャーナリズムが活気を帯びてくるのも確かだ。一九八七年には『現代短歌 雁』、『歌壇』が、一九八九年には『短歌往来』、『短歌四季』が創刊されている。昭和から平成に変わる頃でもある。加藤治郎は、「ライトバース」「ニューウェーブ」と呼ばれた歌人群を<ニューウェーブ世代>とひと括りにし、この世代が口語化と大衆化を達成したとき、近代短歌の本質である「革新性」からの自由を得たと言い、現代短歌史がここに始まると宣言する(『短歌ヴァーサス』一一号、『短歌年鑑平成一八年度版』)。そしてポスト・ニューウェーブ世代の歌人とは一九九〇年代の半ばから活動する、「口語性、大衆性、ニューウェーブの技法を継承しながらも、やり尽くされた後で短歌という詩型の可能性をその外部(インターネット・朗読パフォーマンス)に求めざるを得なかった」歌人たちで、彼らがインターネット世代であるとも総括する。

いずれにしても、「詩型の可能性をインターネットに求める」という背景には次のようなインターネットの普及率はみのがせない。

パソコンの普及率は、内閣府の統計によれば一九八七年から一九九六年までは、一〇%台で推移していたが、次の一〇年間、二〇〇七年には七三%に達し、単身世帯を含めればもっと高い数字になるだろう。インターネットの普及率(携帯電話も含む)は、総務省の統計によれば一九九六年三・三%、二〇〇七年には九一・三%に達するのである。

インターネットは、短歌の世界に、どのような形で受容されてきたのか。次回からは本題に入りたい。(続く)

(『ポトナム』20092月号・3月号所収)

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