「美しく生きる 中原淳一展 愛する心」へ
中原淳一展、松屋銀座へ
このところレトロな話題ばかりながら、やはりレポートはしておきたい。NHK「新日曜美術館」(3月22日)での放映から間もなかったので相当な混みようだった。圧倒的に女性高齢者が多い中、若い世代、男性もちらほらという感じである。会場受付にあるチラシをよくみると、主催はNHKサービスセンターなのであった。会場の一室では、NHKの番組が常時放映されていて、展示室にもその声が流れていた。(会期:2009年月18日~30日、松屋創業140周年記念)私の中原淳一体験も直接的なものではなく、自分より「少しお姉さんたち」の見ていた雑誌『それいゆ』の中原淳一であった。淳一の描くスタイル画から抜け出てきたような、フレアーのワンピース、つば広帽子、大きなリボンのついた手提げで遊びに来たりする年上の従姉がまぶしかったことを思い出す。真っ赤な小さな、テカテカのビニールのバッグをみやげにもらって有頂天になったのもその頃である。
戦中期と弾圧
展示は、淳一の仕事の出発点である人形から始まり、挿絵、雑誌、ファッション、インテリア、作詞などいくつかのコーナーに分かれていた。1913年香川県に生まれ、絵を描くことと手仕事が大好きな少年は、美術学校卒業後に上野の仕立屋に就職、1932年、19歳の時、松屋銀座でのフランス人形展で『少女の友』の主筆内田基に見出され、挿絵を描くようになったという。その後は挿絵にとどまらず、口絵や数々の付録の作者として、1935年からは表紙を任され、軍部の圧力で降板させられる1940年6月号まで続いた。彼の描く少女像は時局に合わない不健全なものと烙印を押され、妥協も探られたが、あえてその任を降りたという。竹久夢二やチェコ出身のミュシャを想像させる、装飾性と気品の高いメッセージが宿されているように思う。1939年正月号付録の「啄木かるた」は、いまの私でも手元にあったらいいなと思う。復刻版もあるらしい。
満を持した敗戦後
そして、敗戦の翌年からは満を持して『それいゆ』(1946~1960年)『ひまわり』(1947~1952年)『ジュニアそれいゆ』(1954~1960年)という自ら編集・発行する雑誌に、美しく、心豊かな若い女性のライフスタイルを確立すべく様々な情報を発信し続けた。いわゆる「高嶺の花」ではない、実用的な記事が多いのも特徴だろうか。ファッションも、ヘアメイクも、くずれをみせないポリシーが漂い、逆に、現代にも通用しそうである。
働き盛りに、突然
1959年、40代の若さで病に倒れ、長い療養生活を余儀なくされ、その後1970年『女の部屋』を創刊するが再び心臓病に倒れ、1年で廃刊となる。以降、女性のライフスタイルも多様化し、文化の様相も激動を迎えるが、淳一の残した仕事は、イラスト、漫画、ファッションはじめ、女性雑誌の在りようにも継承されているものが多いのではないか。私が、一つ興味深かったのは、人形作家としてのスタートにおいても、男たち、それもアナキーな、どこか不良ぽい?しかも格好いい男たちを主題にしていることだ。1970年以降、千葉県館山での晩年においても、変わらず、そうした男たちを人形としていることを今回の展示で知ったのである。
「図録」に一言
今回も、何かのかたちでレポートをしたいと思っていたので、その資料にと出口で「図録」(1400円)を購入して帰った。見本をよく見ればよかったのだが、それは、今回の展示会のカタログではなかった。展示会の会期や場所も示されていないし、展示目録が付されるでもなく、会場のパネルにあった「年表」も収録されていなかった。収録は、表紙を入れても60点ほどの絵や人形の写真で、最後尾に「収録作品一覧」と略歴、肖像写真があるのみであった。「花」「色」「信じる」「思いやり」「小鳥」「音楽」「詩」「愛する心」「人形」の題のもとに、それにまつわる中原淳一が書き残した言葉が抄録されている。「主要代表作品集」と呼ぶべきものであって、展覧会のカタログではないので、なにか騙されたような気がしないでもない。反転印刷ミスの一枚がある欠陥商品でもあったのだ。一方、グッズの売り場は大々的で、そのコマーシャリズムにはやや違和感を覚えるほどだった。遺族がしっかりと親の業績を残し、顕彰することは必要なことではあるが、主催のNHKサービスセンターが、展示会全般どのようにかかわったのかが明確ではない。
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