歌人、醍醐志万子をたどる
最近、醍醐志万子について書く機会があった。字数の制限があって思うように例歌などを引用できなかったので、ここでは、やや気ままに書きとどめておこう と思う。
醍醐志万子は一九二六年(大正十五年)生まれであったから、昭和の年号とともに年を重ねた。この世代にしては、残された写真はかなり多いように思った。東京、池袋の商家に育った、同い年だった私の長兄の幼少・少年期の写真はすこぶる少なかったのだ。
志万子の女学校時代のアルバムにある「浜谷農繁託児所昭和十三年五月二十八日~六月三日」と読める一枚には、二〇人ほどの乳幼児と世話役の住職家族、五人のセーラー服の女学生が並ぶ。少女たちは、緊張の面持ちながらにおやかさをも漂わせ、その左端に醍醐志万子も立つ。背後に貼られた「国民精神総動員 曹洞宗」「勝って兜の緒を締めよ 陸軍省」、日の丸と青年の横顔を背景にした「国民精神総動員」の三枚のポスターは何よりも時代をもの語っている。前年一九三七年八月には「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、一九三八年四月一日に「国家総動員法」が公布されていた。
志万子は、一九四二年兵庫県篠山高等女学校卒業、一九四五年東洋ベアリング武庫川工場に挺身隊として勤務、敗戦を迎える。この頃から、本格的な作歌を始め、小島清に師事、一九四九年、現在の『ポトナム』に入会、作歌の拠点とした。一九四九年、短い結婚生活を経て、家業を手伝う傍ら「書」の研鑽も積む、戦後の生活が始まる。
初期より父の死まで
・二〇代の大方を軍に従ひし夫病めば何に向けむ怒りぞこれは(『花文』)
・共に死なむと言はばあるひは真実となるかもしれぬ病み臥すわれら(同)
・別れたる夫より長く生きむこと当然としてわが月日あり(同)
第一歌集『花文』(一九五八年)の底流にある形を変えた相聞と次のような述志が一体となって、この集の特色をなしている。
・生業をつぐべくわれのをんなにて火のなき窯に身をもたせゐつ(『花文』)
・再軍備に傾く拍手ラジオよりひびき手の甲に汗ぬぐひをり(『花文』)
また、一九四九年九月創刊の『女人短歌』には、八号から参加、「一〇号記念号作品(三〇首)」(一九五一年一二月)に応募、葛原妙子と醍醐志万子の二人が入賞している。
・おびただしき蛾のむくろあり一本の蝋のひかりの立ちゆらぐ中(葛原)
・夕べの火燃ゆるを得たり爐の前にわれは一つの古椅子を据う(葛原)
・燃えのぼる火に汗たりてわがゐたり動揺の日は過ぎて短く(醍醐)
・蝋の火に蚊を焼きをりて昨日より空想にむごき結果きたる(醍醐)
(『花信』収録は「蝋の火に蚊を焼きをりて昨日よりの空想にむごき結末きたる」となっている)
次の号で宮田益子が、「包容性の厚い素直な詠風」が安らぎを、抵抗を感じさせない表現が内容を深め、「理知からくる直観の高度な燃焼」うかがわせる、との評を寄せている。葛原の「自己への抵抗」「不屈さ」、醍醐志万子の「没我」「柔軟性」に着目している点も興味深い。
一九六五年、自宅にて書道塾を開き、第二歌集『木草』(一九六七年)を刊行、父の急逝後は『花信』(一九七七年)を刊行する。
・物乏しくて勤め帰りを花買ひき日本がたたかひに敗るる以前(『花信』)
・泣くほどのこともなかりし一日のをはりを何の嗚咽こみあぐ(『木草』)
・傘のなか塩と黄薔薇をかかへたり塩はしづかにびんに充ちゐる(同)
小島清の死から晩年
小島清の死に直面して『霜天の星』(一九八一年)を編む。頴田島一二郎の死後、第六歌集『玄圃梨』(一九九三年)にたどり着く。決して失ってはならないものを自らの身に手繰り寄せる懸命さが顕著となる。
・焼跡のけぶる大阪駅前に千代紙買へるを誰か信じよ(『霜天の星』)
・還暦の三浦環の歌ひたる「冬の旅」よりいくさ激しき(霜天の星)
・たたかひに国敗れたる冬に見しぎしぎしの葉の猛きくれなゐ(『玄圃梨』)
母親を看取りながら『伐折羅』(一九九八年)を成し、亡くした後に『田庭』(二〇〇五年)を編む。
・かわきたる涙のあとのつめたさをいかにか告げん若き日の過ぐ(『伐折羅』)
・満にして九十四歳となりし母髪切りていよよ媼さびつつ(同)
・椅子に机に伝ひてあるく母にしてかかる役目を持てる家具たち(同)
・寂しくはなきかと問へる寂しとはいかなることかと応ふ(『田庭』)
・死のきはの母につづきて犬の死を思ひてかなし目覚めゆきつつ(同)
二〇〇八年九月に他界した醍醐志万子は、私にとっては、学生時代に入会した『ポトナム』の大先輩であり、私も参加した『風景』(一九八二~二〇〇五年)の編集発行人であった。八〇年を過ごした生家では、一九九八年、母親を看取った。県道拡張のため区画整理に遭い、千葉県に転居したのが、二〇〇六年秋だった。翌年「人の負ひ目やすやす衝ける幼子を幼子ゆゑわれはゆるさず(『木草』)」が「折々のうた」(二〇〇七年三月一〇日)に掲載されたとき、大岡信の「幼子がそんなにやすやす大人の〈負ひ目〉を衝けるものだろうか」というコメントに異議を唱えたのも志万子の個性であったろうか(『塩』三号二〇〇八年二月)。
自ら編集発行人となっていた『風景』一一五号をもって終刊とした後は、身近な、気の合った仲間四人との『塩』の編集と発行は、喜びでもあり、励みでもあったのではないか。
・戦前も戦中戦後もわがうちを通り過ぎ行く一つくくりに(『短歌現代』二〇〇六年六月)
・その時代に生まれ合わせて詠いたる戦意高揚歌はた戦場の図(『塩』一号二〇〇七年六月)
・机の下に椅子を納めてふり返るそこには一人のわれさえ居らず(『塩』二号二〇〇七年一〇月)
一周忌には、第九歌集『照葉の森』(遠藤秀子解説・短歌新聞社)の出版、「歌と書・醍醐志万子追悼展」(青心会・榛の会主催、兵庫県民会館)開催が予定されている。
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コメント
良いですね。(花文)で心に残った歌
しづかなる夕べとなりて行く時に百合の花弁のこの反りやうは
足うらよりつたひ来る冷えよ湯の中に白き食器の音なく割るる
投稿: 月氏 | 2021年1月17日 (日) 10時45分