« 小島清(1905~1979)~戦中・戦後を「節をまげざる」歌人(2) | トップページ | 「美しく生きる 中原淳一展 愛する心」へ »

2009年3月23日 (月)

「山川惣治展」行ってきました

 

昨年、弥生美術館へは出かけそこなったので「生誕100年・山川惣治展―少年王者・少年ケニヤのいた昭和」(佐倉市立美術館、200927日~322日)を見に行ってきた。ちょうど、その日の朝のテレビ番組で、『少年サンデー』『少年マガジン』が創刊50年になるという特集が組まれていた。美術館への通り道の郵便局に寄って、切手を買おうしたら、その創刊50年記念切手が発売されたばかりであった。マンガ、劇画が時代を画する前、山川惣治の昭和前期、戦中・戦後の活躍は目覚ましいものだったらしい。展示会は、次のような章立てをとっていた。

1.漫画家を志して(大正末から昭和初期)

2.「紙芝居」から「絵物語」へ(昭和6年から昭和20年)

3.「少年王者」「少年ケニヤ」の誕生(昭和20年代)

4.絵物語衰退の予兆(昭和30年代)

5.絵物語の落日(昭和40年代)

6.再起をかけた挑戦(昭和50年代)

7.終焉の地・佐倉(昭和60年代から没年まで)

紙芝居「少年王者」と「イモあめ」と

 私の直接の山川惣治体験といえば、池袋の焼跡のバラックに疎開先から呼び戻された後、街頭紙芝居のオジサンが街を回り始めたころだったろうか。母ものと冒険もの(「少年王者」もその一つだったのか)の2本立ての紙芝居が楽しみで、拍子木の音に5円玉?を握りしめて家を飛び出したり、外の遊びを投げ出したりして、オジサンの自転車が停まる銭湯の横の路地へと駆け込んだ。硬貨を渡すと、オジサンは、短い割りばしで紙芝居の木枠の下の引き出しから手際よく親指ほどのイモあめを絡めてくれる。私もすぐには舐めてはしまわず、こねて、こねて白くしてから大事に食したものだった。登場人物の声色も擬音もすべてオジサン一人がこなしていたのが、「ソコノニアラワレタルワァ~、ドッドッドーン」と太鼓が使われるようになったのはいつごろだったろうか。私が、近所の友達と回し読みするのはもっぱら学年別雑誌(小学館)や少女雑誌だったから、雑誌で山川を読んだ記憶があまりない。
 
紙芝居「少年王者」は、1946年全優社から発表され、好評を博し、ラジオ放送もされ、集英社の「おもしろブックシリーズ」として単行本にもなった。1949年には「少年王者」を柱とした月刊誌『おもしろブック』が創刊される。展示会カタログによれば、195110月から195510月まで「少年ケニヤ」を連載した「産業経済新聞」(産経新聞前身)は、その人気で、発行部数5万を120万部にまで伸ばしたという。さらに山川は、1954年の所得番付、画家の部で第1位(実収入771万円)になったというのだ。
 
私の体験は昭和20年代前半に重なる。最近、私より若い友人と山川惣治の話になったとき、彼女は、その産経新聞の「少年王者」が毎日楽しみで、新聞切り抜きまでしていたそうだ。そして、息子さんは、1980年代に復刻された角川文庫で山川を愛読しているので、家のどこかに本はまだ残っているかもしれないということだった。

晩年の山川惣治は

 そして、私がつぎに山川惣治に出会うのは、いまの住まいに転居して、しばらく経ってのことであった。今回の展示会の年譜によれば、1992年の初秋であり、何とその年の12月に他界されているので、最晩年にお会いしたことになる。と言っても、すぐ近くのマンション1階の小料理屋が閉店して、がらんどうになったスペースで、「山川惣治・高橋真琴チャリティー絵画展」が開催されていたのである。
 二
人は佐倉市ゆかりの画家であったのだ。山川は、すぐ隣の丁目に住んでいることを知った。点数はそんなには多くなかったが、まぎれもない、二人の原画を身近にたっぷりと見ることができた感激は忘れがたい。お二人が会場にいらっしゃる中、2回ほどのぞいていた。小品の販売もあったような気がする。山川さんは、人物やペットの絵を描いてくださるとのこと、時間などは個別にご相談ください、というコーナーもあって、私は本気で描いてもらおうと思ったりしたが、何となく気遅れがして果たさずじまいだった。その後、亡くなったことは知ったが、絵画展のあったすぐ後のこととは知らずにいた。つい最近まで、「山川惣治」という表札があった旧居ではあったが、現在は表札もない無人のお宅になってしまっている。
 
一方の高橋さんは、お住まいに隣接して画廊をお持ちで、あの瞳に星が輝くような少女マンガの世界を築いた功績は大きい。その画廊で、私も思わず、小さな絵を購入している。高橋さんは、地域で、PTAや青少年育成会の仕事をされていて、市の何かのイベントでお会いしたりし、展覧会のお知らせをいただいていた時期もあった。
 そんなことを思い出しながら、今回の第7章の展示を見ていたのだが、山川がこの地に転居したのは、私たちより1年早いくらいで、亡くなるまでのほんの数年間のようで、家族たちとゆったりした時間を過ごされたという。しかし、私などが知る由もない戦前、戦後の絶頂期を経た後の思いもかけない展開、まさに昭和を生き抜いた山川惣治の波乱に満ちた生涯は、衝撃的でもあった。

絵の大好きな少年は

  1908年、福島県安積郡に生まれるが、すぐに一家で上京し、本所高等小学校をすぐに製版所に写真製版工として働き、夜学で好きな絵を学んだりした。23歳の時に兄と似顔絵や紙芝居の絵を描く仕事を始め、人気紙芝居「少年タイガー」などの制作者・貸元としての仕事を軌道にのせる。さらにキングレコード紙芝居「勇犬軍人号」や編集者からの勧めもあって『少年倶楽部』誌上紙芝居という形から「絵物語」というジャンルの先駆けともなる。アメリカ映画の「ターザン」や活劇の影響も色濃く、いま見ても、動物の絵の精密さやダイナミックなカットは臨場感あふれるものであった。日中戦争が激しくなると、紙芝居「愛馬進軍歌」「護れ軍艦旗」(1939年製作)「神兵の母」(1944年)や『少年倶楽部』掲載の作品は『愛国絵話集』として初めての単行本となし(1941年)、国策協力時代へとなだれ込む。1940年には共産主義の嫌疑で目白署に拘置されたこともあるという。

敗戦後から絶頂期へ、そして 
 敗戦直後、すでに昭和初期に手掛けていたものの貸元倒産でとん挫した紙芝居「少年王者」が発表され、人気を博し、前述のようにラジオ放送や月刊雑誌の形で連載、映画「少年ケニヤ」(1954年、南旺映画)、自伝的な「中野源治の冒険」(1955年、東映)も公開され、経済的にも絶頂期を迎え、今回の展示会でも築土八幡に新築した豪邸の前で愛車「インペリアル1957年」と映っている一枚があった(1961年)。1967年には自らタイガー書房を設立し、『ワイルド』を創刊した。山川は、当時読者の人気が高まってきたストーリー漫画、週刊劇画雑誌に対抗して、ひとコマ、ひとコマ、絵としての完成度が高いもの、美しいものを目標に、かつての人気作品や新作を提供したが、発行部数は伸びず、翌年には借金を抱え倒産してしまう。ときはまさに、高度経済成長期にあって、山川の勧善懲悪を理念にとした「困難に打ち勝つ強い少年」の世界は、過去のものとなってしまったようだ。1969年には、次男とともに横浜でレストラン「ドルフィン」経営にかかわる。1970年代になって劇画「指輪・骨の兵隊さん」などにも挑戦するが、むしろ、「少年王者」や「少年ケニヤ」などかつての読者をターゲットにした豪華復刻版などが刊行された。1982年、レストランが手形詐欺に遭って破産し、借金返済に追われる窮状に陥った。これを知った、角川書店の角川春樹が山川支援のため、「少年王者」「少年ケニヤ」「少年エース」を相次いで文庫本として出版、山川を主力作家とした月刊誌『冒険王』も創刊し、角川アニメ「少年ケニヤ」も制作された(1984年)。しかし、往年のブーム再来には至らなかった。
 この間、山川は雑誌『旅』の企画で、まだ一度も訪ねてはいない、ケニヤへの取材旅行を敢行した、1980年、75歳の時である。ボールペンと水彩による原画が数点展示されていた。そのうちの1枚は、動物を描いても精密画ではなく、巨大な裸木の梢にとまる鳥であり、前景の一頭のハイエナを配した静寂で、荒涼とした風景であった。また、19929月、横尾忠則が佐倉の展示会会場で注文をし、亡くなる12月、その月初めに見舞いの折に受け取った絵は、躍動感あふれるホワイトバッファローの油絵であった。

晩年も創作意欲の衰えなかった画家であったことを知って、なにか、ほっとする思いで会場を後にした。

|

« 小島清(1905~1979)~戦中・戦後を「節をまげざる」歌人(2) | トップページ | 「美しく生きる 中原淳一展 愛する心」へ »

コメント

真@tokyo様コメントをどうもありがとうございました。山川の熱烈な、持続的なファンというわけではないのですが、わずかな接点と思い出を書きました。ファンの方に読んでいただき恐縮しています。ご自身の旅行記のブログ、写真は本格的ですね。しばし楽しませていただきました。かつて日本の西洋館に関心があって訪ねたり、スケッチ集を購入したりしていた時代がありましたが、どんどん消えていくさまの喪失感はやり切れませんでした。海外にあっては、歴史や建築について、いつも旅行直前の「やっつけ」で基本的な知識に欠けますので、きちんとした写真や記録を残せないでいます。今後も貴ブログお寄りしたいと思います。

投稿: 内野 | 2015年3月27日 (金) 10時13分

内野様
偶然こちらにお寄りしました。
女性で少年王者の愛読者とは意外でした。
1940生まれの私は、3年生のころ少年王者が出るのが楽しみでした。当時は3,4か月毎に単行本として発行されていましたね。
その後は新規に発刊されたおもしろブックに引き継がれたので、この雑誌も取るようになりました。

猛獣の描写が素晴らしかったですね。
その後、中学生になって「アメンホテップ」「ライトニング・ジープ」「がんの特効薬」等の意味がわかり、紙芝居の製作者がよく知っているものだと生意気にも感心しました。

そんなわけで弥生美術館での展覧会には行ってきました。
今、周囲に少年のころの感動を語り合える人がいなくなったので、このサイトが非常にうれしく感じます。

またよろしくお願いします。

真@tokyo

投稿: 真@tokyo | 2015年3月26日 (木) 22時38分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 小島清(1905~1979)~戦中・戦後を「節をまげざる」歌人(2) | トップページ | 「美しく生きる 中原淳一展 愛する心」へ »