小島清(1905~1979)~戦中・戦後を「節をまげざる」歌人(4)
4.『対篁居』(1971~1979年)
年齢でいえば小島清66歳から亡くなる74歳までの歌集で、遺歌集であった。1972年には、八幡町長谷の新しく開発された男山団地に転居し、自ら「対篁居」と名づけて暮らした、その様子は、次のような作品となった。
1)ふたり住む処を得むと目ざし来し丘しらしらと段づくりせり
2)落ちあひて一つ流れとなりしよりうねりのままに保つ芦むら
3)書斎にときめし部屋より前方の大竹藪に日のおつる見つ
京都での出版の仕事も軌道に乗り、結社を超えての歌人からの信頼も厚く、多くの歌集出版を手掛けている。
4)いくたびか職をかへしを思ひをり如何なる時も本を買ひにき
5)旧蔵の馬酔木は二三の欠本ありき倶伎羅の歌を新しく読む
6)対篁居と名付けし部屋に昼間より籠りて雑誌の整理をはじむ
7)紙不足の日ごと続けばずるずると先細りゆくか老の生業
8)戦後のしばしを歌にきおひにき厳しきときは皆あはれにて
9)テキストの出版やめむと決めしよりいくらか心落着きはじむ
10)今にして古き町すじを日毎来てつひの仕事の安けくあれよ
しかし、「夕べには海を昏めて雪降るか暫く神戸をみることもなく」「盆地なす町に二十余年すみつきて暑のみは今もさいなむごとし」などに見るように、神戸への憧憬も消えることはなかった。このころ、神戸の中学校のクラス会に顔を出し、教え子のポトナム同人遠藤秀子の計らいもあったのであろう、神戸山手女専のクラス会にもしばしば参加し、短期間ではあったが同僚であった島尾敏雄らとも旧交を温めている。
11)高原美忠先生を囲みわれらをりああ八十歳を越えまししかな
12)この丘に海見しことを思ひをり大正三年神戸に住みて
13)生き残りわれらみづから労れと鯛のかぶと煮刺身を前に
振り返ってみれば、小島清の絶唱ともいえる「くづはをとめ」一連には、さまざまな解釈がなされているが、没後30年のいま、静かにま向かいたいと思う。
14)さやさやと朝ふく風に芦むらの夏へいりゆく道のしづけさ
15)ふた流れの川の一つになりてより芦むら高し中洲たもちて
16)花を手に何かなしむや女童のひとみ明るし芦間いで来て
17)葬送の列を追ひゆく女童ら素足なり清き池のほとりを
18)池にそひて歩むは死者かいにしへの跡をとどむる樟葉の森へ
そして、最晩年にあっては、次のような作品におだやかな満ち足りた気持ちとぬぐいきれない生への残照を見るのであった。
19)歌の上に節をまげざるわれのため今周辺によき友らあり
20)深谷へゆく人影を浮きたたせ夕照る紅葉のきらきらしさよ
21)桜一樹の花ひらかむ頃か退院も二月三月ああ四月のなかば
4月20日の30回目の命日には間に合わなかったけれども、少し遅れて、この小島清作品鑑賞をひとまず終わることにしたい。この30年間、時代は、歌びとは、どう変わったのだろうか。小島先生、どうか見守ってください、と思わず声をかけたい思いに駆られるのであった。(了)
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