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2009年4月 8日 (水)

小島清(1905~1979)~戦中・戦後を「節をまげざる」歌人(3)

 3.『青冥集』(19451971年)

   194565日の空襲で神戸の家を焼け出された小島清は、疎開先の大和高田から神戸に通勤することになる。その勤務先は、19434月から勤めていた大阪瓦統制株式会社との関係なのだろう、1946年からは兵庫県粘土瓦株式会社(総務課長)となり、1949年春まで勤めていたようである。焦土の町に復興に必要欠くべからず瓦という建材にかかわる仕事に励んでいたことがわかる。

 

1)蚊柱のたちゐる庭にひととせのわれのくらしの悔しさを思ふ
2)野の鳥のひそみ啼きつぐ路にしてわれかなしまむこの薄明を
3)年月を住みし神戸に勤めをもちてよそびとのごとく通ふ日日
4)焼けやけし街と思へど宵はやく闇市あたり灯のつきはじむ
5)空深き神戸にわが家の焼けあとあり再びは見ずかかる焦土に 

 

 この間、1946年に神戸新聞社が公募した「戦災者奮起の歌」に入選し、須藤五郎作曲により33日には神戸ガスビルにて発表会が開催されている。さらに、この年、「筒井おどり」「復興生田音頭」の作詞もしている。なお、「戦災者復興の歌」の作曲の須藤五郎(18971988年)は、たしか共産党の国会議員ではなかったかくらいの認識だったが、稀有な経歴の持ち主であることを今回知った。三重県鳥羽の旧家に生まれ、1923年東京音楽学校を卒業、声学が専門だったらしいが、同年12月、宝塚歌劇団に作曲者として就職した。以後、毎年、年間を通して数本の演目―喜歌劇・歌劇・舞踊・お伽歌劇などのジャンルでの作曲を担当し、1946年まで続く。敗戦時の8月宝塚公演は、小林一三構成・須藤五郎作曲の神代錦らによる舞踊「新大津絵(中途で盆灯籠に改題)」となっている(「宝塚作品集19142003年」)。戦後は、宝塚歌劇団の春日野八千代、天津乙女を労働組合副委員長とし、自ら委員長となる。1948年日本共産党に入党、1950年には参議院議員に当選し、政治家の道を歩む。うたごえ運動や労演運動、新日本婦人の会にもかかわる。戦時下には国民歌謡「希望の乙女」(大木敦夫作詞)、「あとひと息だ」(堀口大学作詞、「戦意昂揚・軍人援護強化大音楽会」1943103日、日比谷公会堂)なども作曲し、音楽による「報国」にも関与している(櫻本富雄『歌と戦争』アテネ書房 2005年、など)。戦後の転換ぶりは何であったのかは糾明課題であろう。参議院議員時代、核実験に対する路線変更の党議に反して国会対策委員長を免じられたこともあったという。
 戻って、敗戦直後の小島清は、19474月より阪口保の紹介で新設の神戸山手女子専門学校の国文科で非常勤講師を務め、同校が女子短期大学に移行する1950年まで続けた。この間、小島は、短歌の教え子だった島尾ミホの依頼により、夫、島尾敏雄にも同学校の非常勤講師の職を紹介したという。島尾は、その後、父、島尾四郎の縁故で神戸外事専門学校(神戸外国語大学の前身)に就職するのである(島尾敏雄「敗戦直後の神戸の町なかで」。寺内邦夫『島尾紀―島尾敏雄文学の一背景』和泉書院 2007年。遠藤秀子「島尾敏雄夫妻と小島清」『塩』320082月)。
 1947年には、京都の黒谷に転居、以降、住まいは変えるが、京都を離れることはなく、12)のようにも歌うのだった。1949年には業界紙(「京都商店新聞」)の編集や出版の仕事の傍ら、『ポトナム』内外の短歌指導や京都歌壇での活動が多忙となる。

 

6)黒谷の寺の一間に夜おそく燈をちかづけて物かきつづく
7)新刊の幾冊かを書棚に返しつつうらぶれしおもひは今日のみならず

8)心をゆさぶり過ぎし歳月の塵労の中にも噴泉ありき
9)停電の町の一角をすぎくれば月明疎水は蒼じろき水
10)この町は戦をしらぬ町にして夜空はなやぎ遠あかりしつ

 

 194811月、鈴江幸太郎と京都を訪ねた斎藤茂吉と会った時のことを何首か残している。「あらたま」を筆写していた当時であったから、感激は一入だったらしい。小島の友情、友人を大事にする心情もあふれていよう。

 

11)「あらたま」を新しき古典とはいはばいへ読みかへしゐて心和ぎくる
12)憲吉の墓参をすませたまひたる光のごときその友情や

 

1950年代も後半に入ると、京都歌壇での各種歌会、講演、選者としての活動、歌人を案内するなど、各地への旅行の機会も多くなる。1956年、師の小泉苳三の死に遭う。師の出版という仕事への志を継いだ形で1958年初音書房を営むことになる。国文学関係のテキストや教材の出版が主であったが、1960年代になると営業政策的にも、歌集の出版が大方を占めるようになり、1970年代は飛躍的に点数が伸びている。ポトナムはもちろん、高嶺、林泉など多くの結社の歌人の歌集を引き受け、その良心的な編集は定評があった。『青冥集』後半に入ると、1960年代の社会情勢を背景に、自らの青年時代を重ねて次のように歌った。

 

13)汗たりて籠る真昼をたたよひて原爆ゆるすまじの歌ごゑきこゆ
14)学生ら整然と交叉路に坐りをりBG声ありジンとくるわね
15)ムッソリーニ全盛のころを禄食みきいくらか左傾のわが青年期
16)若き日のアナキズムに土ふかく埋没されて微動だになし

 

神戸へ仕事で出かけることも多かったのだろう。次のような作品も残す。

 

17)岸壁に一本のクレーン高高し業休む日の大き鈎みゆ
18)新聞の選歌を終へて倦怠す遠くに海あり響をつたふ 
19)藤の実のはじく季にきて立ちつくす日ざしうすらぐ総領事館の址


旅の歌も多く、(
20)などは好んで色紙に書かれていた作品であった。


20
)荷をつけて峡くだりくる馬もなし飛騨にかかりて深き曇り日
21)山はらにわれら来たりてかなしむは冬永かりし葬のその日
22)足摺へ発つ朝を雨の墓地に来て世をはばかりし君の名をよむ

 

なお、小島清の出自にも関わる、次の二首を含む「叔父の忌」(19651月)が気になり、23)の「碧海の解剖の書」とは何かを調べてみる。著者名「小島碧海」で国立国会図書館の目録を調べてみると、小嶋碧海画『人体解剖図』(理学研究会1928年)が出てきた。さらにインターネット上の「慶應義塾大学医学部解剖学教室史」には、つぎのような記述があった。教室の創始者岡嶋敬治教授の著書『解剖学』(1933年)が収録する<解剖図譜>は「日本人体を材料としたもので、小嶋碧海画伯の筆になるものであり、独逸文と和文を併記した記述とともに独創的な内容として解剖学の名著と評価され、我が国の医学生の教科書として大きな役割を果たした」と記され、(24)の背景も明らかになった。なお「碧海」は雅号で、小島清の父清吉(~1954年)の出身である愛知県碧海郡(野田村大字依佐美)の「碧海」からとったものであろう。


23)ドイツにて名のありし叔父碧海の解剖の書を戦火に焼きぬ
24)歌詠みの医者の一人がわれにいふ碧海画伯の書をつね恃みきと
25)アナキスト仲間と遊びし少年のわれを目もて抱きしは叔父

 『青冥集』は、次の一首で締めくくられている。小島清自身も絵こそ描かないが、美術への造詣が深かったことは何首かの作品からもわかる。須藤五郎といい、島尾敏雄、小島碧海といい、ややわき道にそれもしたが、小島短歌の背景、人間関係に分け入ることで、さらにその鑑賞が深まったようにも思うし、知る過程が楽しめるものでもあった。

26)美術館い出づれば日ざししづまれり秋づくといふ声をうしろに 

 (続く)

 

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