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2009年4月27日 (月)

インターネット「歌壇」はどうなるか(2)

インターネット受容の行方2
      つい、この十年間のことであっても、同時代に進行していた事柄であっても、自分がことさら関心を寄せてこなかったことについて知るのは難しい。まして、その評価はなおさらのことである。まとまった記述の歴史書もまだない。ただ、最近、断片的ではあるが、これまであまり論評の対象とされなかった、踏み込むことが避けられていた、インターネット上の「歌壇」のいわば仕掛け人だった歌人やその作品、そこに育った歌人や作品について語り出した文章が目につくようになった。インターネットと短歌という、いまの私の地続きの世界のことなのだから、先入観はなるべく持たないように、と思う。さしずめ手探りの、もはや手遅れの「熟年のためのインターネット短歌案内」になるかもしれない。
 手探りのなか、インターネットと短歌にかかわる出来事として、最近印象に残った次の三件は、一つの時代の象徴にも思えた。

①前掲二〇〇三年創刊の『短歌ヴァーサス』が二〇〇七年一〇月に一一号をもって終刊したこと。
②二〇〇〇年一〇月に開設された藤原龍一郎による「電脳日記・夢見る頃を過ぎても」が二〇〇七年九月末日に終了したこと。
③二〇〇五年の歌葉新人賞(選考委員荻原裕幸・加藤治郎・穂村弘)を受賞、『ひとさらい』を刊行した笹井宏之が二六歳の若さで、二〇〇九年一月に亡くなったこと
①『短歌ヴァーサス』は、短歌の世界にインターネット導入に先駆的、精力的な活動を続けてきた、荻原裕幸が責任編集を務める雑誌であり、発行は、それまで短歌とはあまり縁がなかった、名古屋で地道にどちらかと言えば「硬い」書籍の刊行で頑張ってきた風媒社であった。私の旧著『短歌と天皇制』『現代短歌と天皇制』の出版で世話になった出版社でもある。『短歌ヴァーサス』の編集部には、拙著刊行の折に出会った若い編集者も加わっていた。そんな関係もあって、注目していた雑誌ではあったが、正直、あまり熱心な読者にはなれなかった。風媒社社主の稲垣喜代志氏の年賀状などには「若い人に任せている」という主旨のことが何度か書き添えられていた。
②『短歌人』同人の藤原が荻原裕幸を管理人として、発信し続けたサイトで、藤原の仕事柄、歌壇関係に限らない、放送・文芸全般にわたる知見を基盤にした日記だった。とくにその分野を超えての書評やイベントの記録は私もときどき覗いていた。また、掲示板「抒情が目にしみる」と合わせた形で、既存の歌壇と新しいインターネット歌壇の橋渡し的な役割を果たしてきたように思う。サイトの終了を知った枡野浩一は、上記掲示板に「当時、〈歌人〉の知り合いがいませんでした。ここは、インターネット短歌活動のスタート地点でした。そのことを忘れません・・」と感謝の言葉を書き込んでいる。
③笹井は、二〇〇七年、「未来」に入会、加藤治郎に師事しているが、それに先立って、二〇〇五年には、SSプロジェクト(荻原裕幸・加藤治郎・穂村弘)によるオンデマンド歌集出版サイト「歌葉(うたのは)」の新人賞を「数えてゆけば会えます」(三〇首)で受賞し、その副賞で『ひとさらい』(二〇〇八年一月)を出版した。『短歌年鑑平成二一年版』の「今年の秀歌集10冊を決める」の座談会出席者の一人、穂村弘の強力な推薦で、ベストテン入りする。笹井は、自らのブログで、少年期からの病歴も公表しているが、風邪をこじらせて急逝した。ベストテン入りを手放しで喜んでいた直前の文章は切ない。

・ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす 

・拾ったら手紙のようで開いたらあなたのようでもう見られません

 これらの三つの出来事に何らかの形で共通するキーパーソンは、前掲「SSプロジェクト」の荻原であり、加藤であり、穂村であった。ここに至るまでの過程をたどってみたい。インターネットと短歌との出会いをいつ頃とみるか。冒頭に掲げた年表「現代短歌クロニクル」の起点は一九八四年であるが、これは、担い手が少しずつ重なるライトヴァース、ニューウェーブを視野に入れてのことで、インターネットと短歌との接点は、一九九〇年前半ではなかったか。
ネット歌会の起源を「詩のフォーラム」(一九八七年八月にスタート)の中の一つの「電子会議室」とみれば、一九九三年一二月に発足したらしい(小林信也「ネット歌会の功罪と未来」『歌壇』二〇〇五年四月)。まだニフティサーブの時代のパソコン通信上での歌会であった。それを受け継ぐ形で、短歌だけの会議室「和歌の部屋」の時代が一九九七年まで続く。
一方、マイクロソフトからウィンドウズ95が発売されたのが一九九五年一一月であったが、『かりん』同人で電子情報学専攻の坂井修一が「マルチメディアと短歌」(『短歌』一九九五年一〇月)「ようこそ短歌ホームページへ」(『短歌研究』一九九六年六月)などを発表、インターネット上の短歌の可能性を示した。一九九五年一月阪神淡路大震災の折、もっとも機動力を発揮したコミュニケーションの手段が携帯電話だったという時代でもあった。坂井らが中心になって歌人有志のメーリングリスト(登録による一斉送信が可能な仕組み)を開設、ASAHIネット歌会もこの頃発足している。


・一九九六年四月二六日(カウント開始日) 結社を超えた「短歌ホームページ」(管理人大谷雅彦)がスタート
・一九九六年四月 『塔』が結社としてはじめてホームページを開設(「年表」『塔』二〇〇四年四月)、一〇月にはネット上の歌会「e歌会」もスタート
・一九九七年三月 『短歌人』ホームページ開設
・一九九七年一〇月七日 「短歌フォーラム」開設、二〇〇五年三月一二日終了、二月二〇日「新・短歌フォーラム」に引継がれる
・一九九八年二月 加藤・荻原・穂村による「SSプロジェクト」により、短歌ウェブリンク集「電脳短歌イエローページ」及び掲示板が立ちあげられ、荻原裕幸を管理人とする。

  九〇年代後半に入ると、歌壇・結社横断的な短歌のサイトや結社のホームページが競うように新設されてゆく。一九九七年から一九九八年にかけては、坂井修一、加藤治郎、荻原裕幸、大谷雅彦、大塚寅彦、大辻隆弘、穂村弘、江戸雪、川野里子ら一一人のメーリングリスト「現代歌人会議」上での合評や歌合せなどの活動が記録としても残された。一九九七年といえば、一九〇八年創刊の『アララギ』が九〇年の歴史を閉じて廃刊、一九四九年創刊『女人短歌』が一九一号をもって終刊した年でもあった。さらに、世紀末と言うこともあって、一九九九年には、『岩波現代短歌辞典』、二〇〇〇年には『(三省堂)現代短歌大事典』が刊行され、戦後短歌が総括なされる時期とも重なった。
パソコンソフト、ウィンドウズ98の普及とあいまって、二〇〇〇年に入ると、メーリングリストからさらに、歌人個人が運営するホームページ上での作品・エッセイ・日記などの発表が活発になり、お互いがリンクし合い、さまざまなリンクリストも発表され、インターネットによる情報発信力は相乗的に、爆発的に激増し、やがてピークへと向かう。

            (『ポトナム』20094月号、5月号所収)

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無計画な都市“計画”~千葉県佐倉市の場合も

井野東開発、組合解散は3年延期

宮ノ台の緑を虫が食い荒らすように開発は進められてきた。私の住いに近い、雑木林だった高台では、周辺の地区計画では許されない、敷地40坪ほどの小さい戸建が建ち始めた。また、旧集落の鎮守の杜八社大神があった地域には、5分の1ほどの境内のみを残して盛り土・切り土の末の造成地には14階のマンションが完成した。323戸という巨大なマンションの外廊下の照明が灯されると、住宅街の真ん中に「なぜ」と思うような異様な光景が展開される。そして、南側に回ってみると明かりが灯っている部屋は20戸前後か。入居が思わしくないようだ。連休あたりに少しは増えるのだろうか。このご時世だもの、ムリもない。これらの街区を含む約48㌶は、地元の開発業者山万が業務代行となっている井野東土地区画整理組合によって開発が進められている。20027月認可された組合の事業計画によれば、当初、今年3月には都市計画道路も完成し、組合も解散の予定だった。しかし、1.5キロほどの都市計画道路もようやくその予定地はつながったものの、道路工事の方はまったくの手つかず。仮換地指定は済んだが、保留地の売却も難航か、解散・精算にはまだほど遠い状態である。ともかく、事業期間の見直しによって3年間の延長が、313日付で認可された。

繰り返す変更、ずさんな認可~

行政は市民の意見を聴いたのか

組合の認可以来、事業計画の変更は、今回で3回目になる。1回目の変更では、認可から1年もたたない20034月事業費約162億を90億に大幅な圧縮をした。土地の価格の下落は止まらず、保留地処分価格を105,875/㎡を55,206/㎡としたため、工事費を137億から75億に落とさねばならなくなった。

2回目の変更は、20054月井野長割遺跡(23,000㎡)が「国の史跡指定」になって、その保存のために道路・公園・調整池などの配置を変更しなければならなくなったからだ。

今回の3回目の変更は、事業期間の延長だけかと思ったら、なんと、佐倉市条例の3分の1条項をはずして、市は5,700万円を組合に助成金を交付したこと(本ブログ2006315日、616日、2008331日参照、不動産業者が3分の1以上所有している組合事業には助成しないという制限をなくした)、また佐倉市が約67千万円(33,200/㎡×20,400㎡)で井野長割遺跡を買上げていることも記されている。これら2件はすでに予算執行済みでもあるのだが、縦覧(市民への関係情報閲覧公開)の対象とされ、関係市民は意見を提出できるというものだ。

これまでも、井野東開発については、都市計画法に基づく縦覧や意見提出、公述の機会があった。20008月の佐倉市の都市計画変更―市街化区域区分(線引き)見直し素案の公開以来、私も、これらの縦覧・公述、意見提出などに何回となく付き合ってきた。そのつど、味わう徒労感にさいなまれながら、少しでも暮らしやすい住環境を守りたいという思いが先にたち、諦めたくはなかったからだ。しかし、市民の素朴な疑問や意見に耳を傾けず、形だけの役に立たない縦覧制度や公述制度がまかり通っている。たとえば、都市計画道路予定地の買収金(公共施設管理者負担金)、助成金、遺跡買い上げ価格の算出基準なんて実にずさんで、事業者の言いなりのこともある、ということを知ってしまった(本ブログ2006228日、37日、313日参照)。私たちの税金が適切に使われるためにも、引き続き目は離せない。さらに、妙なタレントの県知事就任、あの視線が怪しい知事に住民の気持ちはわかるはずもなく、ユーウツな日は続く。

なお、本ブログの「都市計画」関係の記事を時系列で列記した。土地区画整理組合・業務代行・公管金・自治会費などのキーワードでのアクセス件数はコンスタントに多い。試行錯誤の実践記録でもあるので、読者の方のご意見も伺いたい。当ブログの編集は未熟で読みにくいながら、「都市計画」で検索すれば、お読みいただけると思う。

<都市計画関係記事リスト>

・土地区画整理事業における住民参加―行政と業務代行のはざまで1・2(2006226日・28日)

・道路用地費11億円はどのように決まったか―公共施設管理者負担金の怪」1・2・3(200637日・10日・13日)

・助成金は土地区画整理事業の延命装置か―佐倉市井野東土地区画整理組合の場合(2006315日)

・区画整理組合による開発は企業主導と行政の後押し―<佐倉市都市計画見直し>説明会に参加して(2006425日)

・区画整理組合への助成金はやはり業者への後押しだった―6月佐倉市議会の傍聴でわかったこと(2006617日) 

・佐倉市井野東・井野南開発はどうなるのか―千葉県都市計画見直し素案に対する公聴会に住民10人公述に立つ(2006824日)

・堂本知事、千葉県都市計画公聴会って何ですか(2006925日)

・佐倉市都市計画審議会、やっぱりおかしい―行政・議長の露骨な賛成誘導と議長の条例違反明らか(20061119日)

・ディベロッパーに取り込まれる研究者たち(200714日)

・「ディベロッパーに取り込まれる研究者たち」へのコメントについて(20071月8日)

・ディベロッパーに取り込まれるメデイア(2007321日)

・「佐倉市マンション紛争あっせん条例」ってこんなもの?(200784日)

・「自治会費からの寄付・募金は無効」の判決を読んで~自治会費への上乗せ徴収・自治会強制加入はやっぱりおかしい(2007831日)

・道路は誰のために~佐倉市はなぜ車両通行止めを拒むのか(20071124日)

・「考える街。ユーカリが丘」って、ディベロッパーは何を考えているの?1・2(2008331日、64日)

・住宅街の真ん中に24時間営業のスーパーができる、大店法は何を守るのか(200896日)

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2009年4月23日 (木)

またまた、怪しいNHK「(天皇・皇后成婚50周年即位20周年)記念コンサート

主催者団体名が消えた!?                                                                                       

当ブログで「やっぱり、怪しい、NHK『天皇・皇后成婚50周年即位20周年記念コンサート』」についてレポートしたのが、42日であった。公共放送を担うべきNHKが 特定の新聞社との共催で、このようなイベントをすることが不偏不党、公正中立に反するのではないか。しかも、他の共催団体は、協賛欄を設けていたのが、NHKのイベント・インフォメーション(310日付)には、その協賛欄がすっぽり抜けていたことは、前記事にも書いた。私がこのサイトのコピーをプリントしたのが328日で、下記のようになる。

**************************

天皇・皇后両陛下は今年、ご成婚50周年、そしてご即位20周年をお迎えになられます。記念コンサート実行委員会ではこれを記念して、国内外で活躍する音楽家が集まり、クラシック音楽にご造詣の深い両陛下をお祝いするコンサートを開催します。     

                                2009310

日時

平成21428日(火) 開場:午後530

開演:午後7時(終演予定 午後9時)

会場

NHK

ホール(東京都渋谷区神南2-2-1

主催

記念コンサート実行委員会

(日本クラッシック音楽事業協会、産経新聞社、NHK、NHK交響楽団)

後援

日本経済団体連合会、日本商工会議所、経済同友会

協力

日本オーケストラ連盟、日本演奏連盟       

                                   (後略)

******************************

ところが、422日、必要があってもう一度、このNHKオンラインから検索したところ、なんと下段のように、「実行委員会」の記述のみで、共催団体の名前が消えていた。招待券応募の締め切りが43日であったから欄外に「募集終了」の注記があるのみで、3月10日以降、とくに更新の明記もないまま、ここだけが削除されていた。他の共催団体のサイトを見ても、当然のことながら、共催団体名は当初のまま残されている。いったいどういうことなのだろう。『週刊金曜日』や私のブログも含め複数の記事が、産経新聞社との共催の不透明さを指摘したからだろうか。それにしても、何と姑息なことをするのだろう。

主催

記念コンサート実行委員会

                                                                                                                         

このコンサートが、特定の新聞社との共催であることを示した個所を 途中から削除したり、いわばイベントのスポンサーとも解釈できる「協賛:各社」との記述を最初から削除したり、共催団体と共通のコンサート概要に、NHKだけが手を加えている事実は、何を意味するのだろうか。『週刊金曜日』の記事も指摘するように、NHK内部でもかなり「ヤバイ」橋を渡っているという認識があることを示しているのではないか。番組内容もこんな風な「配慮」が働き、改ざんして放送するのだろうか。少し恐ろしくもなる。

ところで、NHKのサイトで、現在、産経新聞社とのかかわりを示しているのは、招待券応募の「あて先」として「産経新聞社内<記念コンサート実行委員会>事務局」となっている記述だけであった。ちなみに、この事務局に問い合わせたところ、応募者は9300件を超え、招待者は10002000人に決まったという。NHKホールは4000人以上収容というから、後の2000人以上は共催・後援・協力・協賛団体が「適宜」分けるのであろう。

なお、天皇・皇后自身のコンサートへの参加は23日現在「未定」ということだ。さらに、共催団体のどのサイトにも放送予定のことは記述されていないが、事務局によれば、次の通りであった。当初放送予定はなかったが、これも放送法上の「付帯事業」に無理やり当てはめて、批判をかわそうとしたにすぎない。受信料を財政基盤とする公共放送のイベントとしてふさわしいのか、法令違反はないのか、私の疑問は依然として解けない。

2009516日(土)午前1125分から午後1時 NHKBSハイビジョン  

                     

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2009年4月22日 (水)

小島清(1905~1979)~戦中・戦後を「節をまげざる」歌人(4)

4.『対篁居』(19711979年)

 

   年齢でいえば小島清66歳から亡くなる74歳までの歌集で、遺歌集であった。1972年には、八幡町長谷の新しく開発された男山団地に転居し、自ら「対篁居」と名づけて暮らした、その様子は、次のような作品となった。


1)ふたり住む処を得むと目ざし来し丘しらしらと段づくりせり
2)落ちあひて一つ流れとなりしよりうねりのままに保つ芦むら
3)書斎にときめし部屋より前方の大竹藪に日のおつる見つ

 京都での出版の仕事も軌道に乗り、結社を超えての歌人からの信頼も厚く、多くの歌集出版を手掛けている。


4)いくたびか職をかへしを思ひをり如何なる時も本を買ひにき
5)旧蔵の馬酔木は二三の欠本ありき倶伎羅の歌を新しく読む
6)対篁居と名付けし部屋に昼間より籠りて雑誌の整理をはじむ
7)紙不足の日ごと続けばずるずると先細りゆくか老の生業
8)戦後のしばしを歌にきおひにき厳しきときは皆あはれにて
9)テキストの出版やめむと決めしよりいくらか心落着きはじむ
10)今にして古き町すじを日毎来てつひの仕事の安けくあれよ

 しかし、「夕べには海を昏めて雪降るか暫く神戸をみることもなく」「盆地なす町に二十余年すみつきて暑のみは今もさいなむごとし」などに見るように、神戸への憧憬も消えることはなかった。このころ、神戸の中学校のクラス会に顔を出し、教え子のポトナム同人遠藤秀子の計らいもあったのであろう、神戸山手女専のクラス会にもしばしば参加し、短期間ではあったが同僚であった島尾敏雄らとも旧交を温めている。

 

11)高原美忠先生を囲みわれらをりああ八十歳を越えまししかな
12)この丘に海見しことを思ひをり大正三年神戸に住みて
13)生き残りわれらみづから労れと鯛のかぶと煮刺身を前に

 振り返ってみれば、小島清の絶唱ともいえる「くづはをとめ」一連には、さまざまな解釈がなされているが、没後30年のいま、静かにま向かいたいと思う。

14)さやさやと朝ふく風に芦むらの夏へいりゆく道のしづけさ
15)ふた流れの川の一つになりてより芦むら高し中洲たもちて
16)花を手に何かなしむや女童のひとみ明るし芦間いで来て
17)葬送の列を追ひゆく女童ら素足なり清き池のほとりを
18)池にそひて歩むは死者かいにしへの跡をとどむる樟葉の森へ

 そして、最晩年にあっては、次のような作品におだやかな満ち足りた気持ちとぬぐいきれない生への残照を見るのであった。
19)歌の上に節をまげざるわれのため今周辺によき友らあり
20)深谷へゆく人影を浮きたたせ夕照る紅葉のきらきらしさよ
21)桜一樹の花ひらかむ頃か退院も二月三月ああ四月のなかば

420日の30回目の命日には間に合わなかったけれども、少し遅れて、この小島清作品鑑賞をひとまず終わることにしたい。この30年間、時代は、歌びとは、どう変わったのだろうか。小島先生、どうか見守ってください、と思わず声をかけたい思いに駆られるのであった。(了)

 

 

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2009年4月21日 (火)

NHK「この人にトキメキっ! 安野光雅」~さえぎられた発言

       

  417日「生活ほっとモーニング」で、偶然に安野さんに出会った。熱烈なファンということでもなく、娘が小さかった時の絵本やその後も欲しくなって買った本を数冊持っている程度である。あの優しい水彩画の原点ともいえる、郷里津和野の風景、幼少時の思い出などが語られた。

1945年、敗戦直前に召集された軍隊での辛い体験とともに、現代の飽食の時代への痛烈な批判の言葉も明快であった。「百年に一度の不況」と言いながら、なぜテレビが朝から晩まで料理番組やグルメ番組をやっているのか。そして、正確には再現できないが、安野さんは、おだやかな話しぶりながら、明らかに怒っているようにみえた。こうした不況に至らしめたものは何であったのか、一部の人たちが儲けるだけ儲けていたからではないか・・・、と話が展開しそうになったとき、男性の聞き手がそれを遮って、女性の聞き手が、4年前、肺がんを患った話へと切り替えた。とても不自然な遮り方だった。このインタビューシリーズは、よく再構成して再放送されているのを見たことがある。年度替わりなどはとくに多い。再放送のとき、ばさりと削除されなければよいが。

安野さんは、病気のことでもなかなか含蓄のある話をしていた。「がんになったにもかかわらず」とか「闘病しながらも」という「まくらことば」が嫌いだという。「宣告」「告知」という大げさことばも気にくわない。なぜなら、病気、それがたとえ「がん」であっても、長い人生のプロセスであるはずなのだから・・・、それを受け入れる姿勢が大事なのではないか、と。最近、とみに「闘病」や「介護」をまるで売り物にしているような、当事者やメディアが顕著なのを苦々しく思っていた矢先だったので、心に沁みた。

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2009年4月 8日 (水)

小島清(1905~1979)~戦中・戦後を「節をまげざる」歌人(3)

 3.『青冥集』(19451971年)

   194565日の空襲で神戸の家を焼け出された小島清は、疎開先の大和高田から神戸に通勤することになる。その勤務先は、19434月から勤めていた大阪瓦統制株式会社との関係なのだろう、1946年からは兵庫県粘土瓦株式会社(総務課長)となり、1949年春まで勤めていたようである。焦土の町に復興に必要欠くべからず瓦という建材にかかわる仕事に励んでいたことがわかる。

 

1)蚊柱のたちゐる庭にひととせのわれのくらしの悔しさを思ふ
2)野の鳥のひそみ啼きつぐ路にしてわれかなしまむこの薄明を
3)年月を住みし神戸に勤めをもちてよそびとのごとく通ふ日日
4)焼けやけし街と思へど宵はやく闇市あたり灯のつきはじむ
5)空深き神戸にわが家の焼けあとあり再びは見ずかかる焦土に 

 

 この間、1946年に神戸新聞社が公募した「戦災者奮起の歌」に入選し、須藤五郎作曲により33日には神戸ガスビルにて発表会が開催されている。さらに、この年、「筒井おどり」「復興生田音頭」の作詞もしている。なお、「戦災者復興の歌」の作曲の須藤五郎(18971988年)は、たしか共産党の国会議員ではなかったかくらいの認識だったが、稀有な経歴の持ち主であることを今回知った。三重県鳥羽の旧家に生まれ、1923年東京音楽学校を卒業、声学が専門だったらしいが、同年12月、宝塚歌劇団に作曲者として就職した。以後、毎年、年間を通して数本の演目―喜歌劇・歌劇・舞踊・お伽歌劇などのジャンルでの作曲を担当し、1946年まで続く。敗戦時の8月宝塚公演は、小林一三構成・須藤五郎作曲の神代錦らによる舞踊「新大津絵(中途で盆灯籠に改題)」となっている(「宝塚作品集19142003年」)。戦後は、宝塚歌劇団の春日野八千代、天津乙女を労働組合副委員長とし、自ら委員長となる。1948年日本共産党に入党、1950年には参議院議員に当選し、政治家の道を歩む。うたごえ運動や労演運動、新日本婦人の会にもかかわる。戦時下には国民歌謡「希望の乙女」(大木敦夫作詞)、「あとひと息だ」(堀口大学作詞、「戦意昂揚・軍人援護強化大音楽会」1943103日、日比谷公会堂)なども作曲し、音楽による「報国」にも関与している(櫻本富雄『歌と戦争』アテネ書房 2005年、など)。戦後の転換ぶりは何であったのかは糾明課題であろう。参議院議員時代、核実験に対する路線変更の党議に反して国会対策委員長を免じられたこともあったという。
 戻って、敗戦直後の小島清は、19474月より阪口保の紹介で新設の神戸山手女子専門学校の国文科で非常勤講師を務め、同校が女子短期大学に移行する1950年まで続けた。この間、小島は、短歌の教え子だった島尾ミホの依頼により、夫、島尾敏雄にも同学校の非常勤講師の職を紹介したという。島尾は、その後、父、島尾四郎の縁故で神戸外事専門学校(神戸外国語大学の前身)に就職するのである(島尾敏雄「敗戦直後の神戸の町なかで」。寺内邦夫『島尾紀―島尾敏雄文学の一背景』和泉書院 2007年。遠藤秀子「島尾敏雄夫妻と小島清」『塩』320082月)。
 1947年には、京都の黒谷に転居、以降、住まいは変えるが、京都を離れることはなく、12)のようにも歌うのだった。1949年には業界紙(「京都商店新聞」)の編集や出版の仕事の傍ら、『ポトナム』内外の短歌指導や京都歌壇での活動が多忙となる。

 

6)黒谷の寺の一間に夜おそく燈をちかづけて物かきつづく
7)新刊の幾冊かを書棚に返しつつうらぶれしおもひは今日のみならず

8)心をゆさぶり過ぎし歳月の塵労の中にも噴泉ありき
9)停電の町の一角をすぎくれば月明疎水は蒼じろき水
10)この町は戦をしらぬ町にして夜空はなやぎ遠あかりしつ

 

 194811月、鈴江幸太郎と京都を訪ねた斎藤茂吉と会った時のことを何首か残している。「あらたま」を筆写していた当時であったから、感激は一入だったらしい。小島の友情、友人を大事にする心情もあふれていよう。

 

11)「あらたま」を新しき古典とはいはばいへ読みかへしゐて心和ぎくる
12)憲吉の墓参をすませたまひたる光のごときその友情や

 

1950年代も後半に入ると、京都歌壇での各種歌会、講演、選者としての活動、歌人を案内するなど、各地への旅行の機会も多くなる。1956年、師の小泉苳三の死に遭う。師の出版という仕事への志を継いだ形で1958年初音書房を営むことになる。国文学関係のテキストや教材の出版が主であったが、1960年代になると営業政策的にも、歌集の出版が大方を占めるようになり、1970年代は飛躍的に点数が伸びている。ポトナムはもちろん、高嶺、林泉など多くの結社の歌人の歌集を引き受け、その良心的な編集は定評があった。『青冥集』後半に入ると、1960年代の社会情勢を背景に、自らの青年時代を重ねて次のように歌った。

 

13)汗たりて籠る真昼をたたよひて原爆ゆるすまじの歌ごゑきこゆ
14)学生ら整然と交叉路に坐りをりBG声ありジンとくるわね
15)ムッソリーニ全盛のころを禄食みきいくらか左傾のわが青年期
16)若き日のアナキズムに土ふかく埋没されて微動だになし

 

神戸へ仕事で出かけることも多かったのだろう。次のような作品も残す。

 

17)岸壁に一本のクレーン高高し業休む日の大き鈎みゆ
18)新聞の選歌を終へて倦怠す遠くに海あり響をつたふ 
19)藤の実のはじく季にきて立ちつくす日ざしうすらぐ総領事館の址


旅の歌も多く、(
20)などは好んで色紙に書かれていた作品であった。


20
)荷をつけて峡くだりくる馬もなし飛騨にかかりて深き曇り日
21)山はらにわれら来たりてかなしむは冬永かりし葬のその日
22)足摺へ発つ朝を雨の墓地に来て世をはばかりし君の名をよむ

 

なお、小島清の出自にも関わる、次の二首を含む「叔父の忌」(19651月)が気になり、23)の「碧海の解剖の書」とは何かを調べてみる。著者名「小島碧海」で国立国会図書館の目録を調べてみると、小嶋碧海画『人体解剖図』(理学研究会1928年)が出てきた。さらにインターネット上の「慶應義塾大学医学部解剖学教室史」には、つぎのような記述があった。教室の創始者岡嶋敬治教授の著書『解剖学』(1933年)が収録する<解剖図譜>は「日本人体を材料としたもので、小嶋碧海画伯の筆になるものであり、独逸文と和文を併記した記述とともに独創的な内容として解剖学の名著と評価され、我が国の医学生の教科書として大きな役割を果たした」と記され、(24)の背景も明らかになった。なお「碧海」は雅号で、小島清の父清吉(~1954年)の出身である愛知県碧海郡(野田村大字依佐美)の「碧海」からとったものであろう。


23)ドイツにて名のありし叔父碧海の解剖の書を戦火に焼きぬ
24)歌詠みの医者の一人がわれにいふ碧海画伯の書をつね恃みきと
25)アナキスト仲間と遊びし少年のわれを目もて抱きしは叔父

 『青冥集』は、次の一首で締めくくられている。小島清自身も絵こそ描かないが、美術への造詣が深かったことは何首かの作品からもわかる。須藤五郎といい、島尾敏雄、小島碧海といい、ややわき道にそれもしたが、小島短歌の背景、人間関係に分け入ることで、さらにその鑑賞が深まったようにも思うし、知る過程が楽しめるものでもあった。

26)美術館い出づれば日ざししづまれり秋づくといふ声をうしろに 

 (続く)

 

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2009年4月 3日 (金)

天皇・皇后成婚50周年、天皇即位20周年で、何が行われようとしているのか

ざわつき始めたマス・メディア
  先に、N響を中心とする天皇の成婚・即位記念のクラシックコンサートをNHKが特定新聞社、民間団体との共催で開催することについて、公共放送として疑問が多いことは述べた。天皇・皇后が結婚して50年が経ち、4月10日が近づくに従って、テレビ各局の特別番組が多くなった。さかのぼっては、今年の正月辺りにも見たような気がする(『皇室アルバム新春スペシャル天皇陛下と皇后さまご成婚から半世紀~お子さま方の笑顔に包まれて』2009年1月3日だったか)。成婚50年を冠した便乗出版物も目立つようになった。テレビは、私も網羅的に見ているわけではないが、直近のテレビ番組で気づいたものを掲げておこう。ただ、「結婚50年」は、本来、天皇家のプレイベートな記念なので、基本的には内輪で祝うべき性格の行事のはずである。今日のような社会状況、とくに「平和」「災害」「福祉」に関心を寄せる天皇夫妻の思いを忖度するならば、いまのような時代状況の中で大げさに祝われることは望まないのではないか。②は、結婚当初から貫いている夫妻の「強い意志と覚悟」に焦点を当てた証言と映像で綴られていた。沖縄のひめゆりの塔前での火炎瓶事件の映像や写真はこれまであまり見かけなかったものだったという印象であった。③は、訪問先での案内役や戦争犠牲者の遺族が語るエピソードと皇室ジャーナリストの秘話による構成は、いつもながらのワンパターンになりがちであった。NHKはどういう番組にするつもりなのだろう。公共放送としての節度が問われよう。
①フジテレビ・2009年3月28日10時45分~11時40分「チャンネル∑天皇皇后ご成婚50年」(未見)
②TBS・2009年3月25日夜6時55分~「祝!両陛下金婚式スペシャル世紀のご成婚から50年」
③日本テレビ・2009年3月31日夜7時~8時54分「ご成婚50周年記念皇后美智子さまの七つの贈りもの両陛下の50周年祈りの旅」
④NHK特別番組2009年4月10日7時30分~8時43分「天皇皇后両陛下ご成婚50年」(予定)* 放送時番組名「NHKスペシャル・象徴天皇 素顔の記録」 
  これらの②③の番組でも、皇后の短歌が何か所かで紹介されていた。そのうち歌人たちも登場するのだろうか。

即位20年、「奉祝」とは何ですか 
  1999年11月12日、天皇在位10年を記念し、内閣が主催して「国民こぞってお祝いするため」「天皇陛下御在位十年記念式典」(午後2時~)を国立劇場で挙行した。また、「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」(午後3時~9時)を皇居前広場・皇居外苑にて開催した(政府広報による)。2009年は即位20年になるので、政府は式典を行うだろうが、その詳細はまだ明らかでない。
  10年前の「式典」では、上記「国民こぞって祝う」とうたったことに違和感を覚えた。「国民祭典」の方は、主催が天皇陛下御即位十年奉祝委員会(稲葉興作会長)、同奉祝国会議員連盟(森喜朗会長)であり、総理府ほかの省庁が後援している。第1部が祝賀パレードで、警視庁、東京消防庁、陸上・海上・航空自衛隊、在日米軍の音楽隊などと各府県の郷土芸能などによるパレードで、第2部が祝賀式典で、草野仁司会による大型スクリーンでの映写、祝賀メッセージ紹介後は、ステージに登壇という形で、著名タレント、アイドル、アスリートを動員した。YOSIKIは自分の曲をピアノ演奏したとして話題になった。「天皇・皇后陛下のお出まし」を経て、君が代独唱(藍川由美)・斉唱、「参加者の提灯がゆれ、国旗の小旗が打ち振られる中、万歳三唱」と「プログラム」には記された。私もテレビ中継で、一部をみたが、照明はあるものの闇の中をしずしずと天皇夫妻が現れた時は、異様な雰囲気だった。数日後の新聞で政治思想史専攻の原武史はこの祭典の「戦前の皇紀祝典との類似と象徴天皇の不在」を指摘していた(『朝日新聞(夕)』1999年11月16日)。
  また、その年の12月7日、立教大学の法学部学生有志による「シンポジウム・天皇制を考える」に私は報告者として参加していた。学生たちは、先の国民祭典を「誰しも好きな有名人は見たいものです。しかし、それが目当てに集まった若者たちがなぜか“国旗”を振り、“国歌”を歌い、“象徴”である天皇に向かって万歳三唱をしている・・・。私たちはそれぞれ〈なんか変じゃない?〉という、形のない雲のような疑問をいだきました。・・・」とナイーブな感覚で、シンポジウム開催の趣旨を語っている。報告者は、同大学法学部教授の五十嵐暁郎教授、高橋紘氏(共同通信社)で、場違いな私は、栗原彬教授急病のためのピンチヒッターだったというわけだ。前年まで社会人学生として、五十嵐先生や栗原先生の指導を受けていたこともあって声がかかったのかもしれない。栗原先生の「日常意識における天皇制」の代わりにはならなかったけれど、「歌会始と天皇制」についてレポートした記憶がある。 また、国民祭典の翌日の『日本経済新聞』において、編集委員柴崎信三は「昭和終焉から十年」を「バブル経済の崩壊と戦後システムの構造的破たんが重なり、雇用や治安、教育といった身近な生活の局面にも不具合や矛盾が噴出する、痛みの多い日々だった」と総括し、阪神淡路大震災、オウム事件、東海村臨界事故、企業のリストラ、倒産、自殺者最多の現実のただなか「社会の信頼の構造が揺らぐなかで、皇室がその社会的補完と癒しの機能を担う構図であった」と位置づけている。さらに、この10年で、先の状況は加速をし、最悪の状況を迎え、派遣切り、進む高令化に加え、年金・介護問題が深刻化している。2008年の自殺者は32,000人を超え、過去最悪の事態となっている。 そんななかで迎える即位20年、政府が大掛かりな祝賀をする場合ではないし、国民が祝賀を強制される筋合いもない。にもかかわらず、昨年、超党派の国会議員連盟で2009年11月12日を臨時休日とする法案が取りざたされていたが、今年3月2日には「天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟」(会長:森嘉朗元首相)は、11月12日臨時休日法案の早期成立、すでに昨夏発足している「天皇陛下御即位二十年奉祝委員会」(名誉会長:御手洗富士夫日本経団連会長)とともに政府主催の記念式典、皇居前広場での奉祝行事に取り組むことなどを確認している。共産党、社民党を除く120名の議員が参加、民主党は党としての態度は未定という(『産経新聞』2009年3月2日配信)。即位10周年記念国民祭典の愚かさを思い出してほしい。たとえば、オリンピック選手、野球選手、人気歌手、お笑い芸人までが動員されるであろう。そこに集まる市民も利用されていることに気づいてほしい。しかし、タレント知事が次々と誕生するところをみると、有権者、納税者としての自覚をふいと忘れる市民が多いのだろう。それをどこかでよろこんでいる人々がいることも忘れてはならない、とつくづく思う。

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2009年4月 2日 (木)

やっぱり怪しい、NHK「天皇成婚50周年即位20周年記念コンサート」

天皇・皇后成婚50周年、即位20周年「記念コンサート」とは?

 NHKのホームページのイベント案内で「天皇・皇后両陛下ご成婚50周年ご即位20周年記念コンサート」(2009310日)というのを見つけた。428日、NHKホールで、N響を中心として、ソリスト・歌手・合唱団などが加わったクラシックコンサートを開催するという。入場無料で、観覧希望者は「記念コンサート実行委員会」事務局(産経新聞社内)に43日まで往復はがきで申し込め、というものだった。どうして「産経新聞社」なの?とちょっと妙な気がした。冒頭には、開催趣旨として次のように記されていた。

  「天皇・皇后両陛下は今年、ご成婚50周年、そしてご即位20周年をお迎えになられます。記念コンサート実行委員会ではこれを記念して、国内外で活躍する音楽家が集まり、クラシック音楽にご造詣の深い両陛下をお祝いするコンサートを開催します。」

 コンサート名には「祝」「祝賀」の文字は入っていないが、「祝賀記念コンサート」であることは明らかである。さらに、私はつぎの開催主体を見て驚いた。

主催:記念コンサート実行委員会(日本クラッシック音楽事業協会、産経新聞社、NHKNHK交響楽団)

後援:日本経済団体連合会、日本商工会議所、経済同友会

協力:日本オーケストラ連盟、日本演奏連盟

 公共放送のNHKが特定の新聞社1社と共催し、財界団体の後援によりイベントを開いてよいものだろうか、とまず疑問に思った。そして、『週刊金曜日』(2009327日)に「<天皇・皇后両陛下ご成婚50周年ご即位20周年記念コンサート>の怪 『産経』などと共催する奉祝<NHK>」(同誌取材班)は、関係者の証言や識者の意見として、次のような疑問を提起する。

①受信料による運営のNHKが民間会社と共催でイベントをやってよいか。

②受信料は使わない美術展などの共催の例はあるが、今回のコンサートは無料なので、NHKが一部負担する可能性は高い。

③放送予定が示されていない記念コンサートは、放送法による「放送及び付帯事業」にあたらない。

④祝賀イベントの主催で、天皇制や歴史について客観的に議論する姿勢が損なわれる。

 NHK「記念コンサート案内」から消えた一行

  『週刊金曜日』の指摘する①②④は、もっともだと思う。③についても、記事での指摘通り、当初なかった放送予定を後付けで放送する動きも無視できないだろう。

私は、つぎの点で、このコンサートの主催にNHKが参加することは、NHKの不遍不党、中立公正を大きく侵すものだと思っている。 私は、念のためと思って、産経新聞社のホームページの「イベント情報(日付不明)」と社団法人日本クラシック事業協会のホームページの「イベント案内(2009317日)」を見てみた。すると、この二つの共催団体の案内事項に記載されている「協賛:各社」の記述がNHKの「お知らせ」からはすっぽり4文字、一行が抜けていたのである。「協賛:各社」の意味も内容も不明ながら、NHKは、その一項目を故意に省略したものであろう。おそらく、多数の協賛会社がすでに決まっているか名乗りを待っている状況だと思う。コンサート当日、それがいろいろな形で観覧者に明示されるに違いない。財界団体後援のみならず特定のいくつかの会社が協賛するコンサートにNHKがかかわるのはおかしいという「後ろめたさ」が一行を抹殺したのだろうと思う。ますます怪しいではないか。

さらに、開催の趣旨として「クラシック音楽にご造詣の深い両陛下をお祝いする」という部分、なぜNHKが天皇・皇后の趣味に付き合わなければならないか、である。

 次に、受信料による負担がなかったとしても、NHKホールの賃料やN響への報酬は誰が負担するのかといった疑問も残る。

 NHK会長、経営委員長という二つのポストを福地、小丸という財界人が占めた時点で、NHKの公共放送としての在りようは、ますます怪しくなってしまったのではないか。

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