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2009年5月22日 (金)

先崎の鷲神社まで歩く

      

私が手動の万歩計を失くしたのを知って、娘がデジタルな万歩計を贈ってくれた。少し歩数を伸ばさなければいけないと思っていた矢先、友人からウォーキングの誘いがかかった。週に23度、4000歩位から始め、今は8000歩位までになった。もともと、朝夕の犬の散歩に、夜のウォーキングと合わせて10000万歩達成はなかなか厳しかったので、15000歩をオーバーする日があるのはうれしい。犬の散歩はウォーキングに入らないよ、とは言われたりするけれど。友人と一緒のときは、近くのお寺、お稲荷様、昔の分校跡、隣の学区の小学校、家が建ち始めた新しい住宅街、造成工事が進む調整池までとか、目的地を決めて、とりとめのない話をしながら歩く。

きょうは、先崎の鷲神社、ということになった。先崎は「まっさき」と読む。この地に住まって20年、ミニコミ誌の「取材」?で行ったこともあるし、3年に一度の例祭に何人かの友人と出かけたこともある。

宮ノ台二丁目を通り抜けて、上小竹川の両側に広がる水田を目指して下ってゆくと、対岸には広い屋根の農家が何軒か見える。「子の橋」(1967年?)を渡れば、「先崎地蔵尊」につきあたり、大きな地蔵菩薩(1650年)が格子窓から見える。坐像のお地蔵さんは珍しく、佐倉市指定文化財にもなっているが、身辺には何やら詰まった袋類が積まれていて窮屈そうでもあった。毎月24日に行われる地蔵講に使うものでもあるのか。左に折れれば、すぐに鷲神社の参道である。立派な石段と鳥居(1673年)、その奥に見覚えのある大樹、ケヤキの太い幹が見えてきた。先崎村の鎮守は10世紀にさかのぼり、朱雀天皇の命を受け「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」が祭られたという。ケヤキは14世紀に焼失しかけたが、根元の幹はがらんどうながら、みごとに再生し、その樹齢を誇っている。右手の拝殿に続き、高い屋根に保護された本殿は、天保年間に再建されている。こじんまりした権現造りというのだろうか、四面の柱や壁、土台の木彫りは中国の故事を表すものなのか、素朴ながら手が込んでいるものだった。本殿の裏に回ると、建立の際の銘文があって、この付近に多い旧家の名字、蕨善兵衛、友野茂右ェ門、出山、立石、深山・・・と続く。境内の奥から先客の自転車を引いた男性が現われて、スタンプがそこにありますよ、と教えてくれた。

家からここまで約3000歩、鷲神社を下りて、田んぼに沿って炎天下を歩く。田植えは一部を残してほとんど終わっている。人も車も見かけないね、と話していたら、網や釣ざおを持った自転車の男の子が走り抜けて行く。続いて45人の男の子が追い抜いて行き、少し先の畔道を曲がって、小さな橋に集合しているようだった。手もとの地図によれば、「根崎橋」とある。私たちもあの橋を渡れば、さっきまで屋根が見えていた称念寺に行けるはずと、畦道に入った。すると大勢いたはずの男の子たちが消えていた。小さな橋を渡って、川を覗いても姿が見えない。橋の下か岸の草むらで、ザリガニでも捕っているのだろうか。とても懐かしい風景に出逢ったような、のどかな気分になった。農家の角を曲がるとすぐに「称念寺」前に出た。ここには大ムクロジの古木があるはず。立派な門の先に豪華そうな建物を見ると、何となく入りづらく、先を急げば、すぐに、娘も通った青菅小学校が見えてくる。校門前では、子供を肩にのせた若いお父さんに出会ったと思ったら、近くのマンションの知り合いであった。今でも私や友人がかかわっている土地区画整理組合事業による開発問題で、2年ほど前まで一緒に活動をしていた人だった。彼の住むマンションの目の前に立つはずだった高齢者施設の階数をめぐって組合の業務代行である開発業者との交渉に頑張っていた頃を思い出す。冬至期の日照時間をある程度確保して、その建物の階数は決着を見た。しかし、この時世で、高齢者施設建設計画は頓挫している様子なのだ。そんなことも思い出させる散歩だった。

 今日の鷲神社行きは、8200歩。夕方には犬の散歩が控えている。

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2009年5月20日 (水)

インターネット「歌壇」はどうなるか<番外編>~何かが大きく変わりつつあるのか

 私が、今年2月から短歌結社雑誌『ポトナム』に「インターネット『歌壇』はどうなるか」を連載しはじめて数か月が経つ。毎月1頁なので、このブログには2か月分まとめて掲載し、すでに2回になる。私がネット「歌壇」に関心を持ち始めたのはこの1・2年で、いまもネット「歌壇」の実態を探るべく?奮闘中である。文献はもちろんだが、インターネット上で主題や人名、ブログやホームページ名での検索やアクセスを続けている。そんな中で、また少し気になることに出遭って、戸惑っている。

 私がインターネットにかかわってから、たびたびアクセスしていた「銀河最終便・風間祥WEB短歌日記」は、 私の上記の連載記事「インターネット『歌壇』はどうなるか(1)」を「内野光子さんのブログでインターネットと短歌に関しての考察が始まるらしい。何回か続くようだ」(200935日)と紹介をしてくださった。それ以降、その紹介を通して、私のブログへのアクセス件数が増加していた328日、「銀河最終便」は、つぎのような短歌を載せたまま更新がされなくなってしまった。「公開浮遊状態」というのは、更新をしないというメッセージだったのだろうか。

・しばらくは公開浮遊状態の飛行船浮くこの濁り空

・人には人の空には空の修羅があり黄の嵐吹く季節となりぬ

 季節の風物の写真を添え自身の短歌、既成歌壇への鋭い批判、ネット歌壇・若い歌人たちへの応援メッセージ、とくに経済に強く、社会問題にも歯に衣着せぬ発言が多いので、訪ねるのが楽しみでもあったのだ。再開を待つコメントもあったが、私も期待したい。

 また、「奥村晃作短歌ワールド」に見せる、奥村さんの精力的な活動を反映していた活動報告は、ときにはここまでも書くの、と反発したくなることもある内容であった。しばらく、訪問を怠っていた間、この4月にサイト閉鎖の予告があった後、5月になって突如すべてのデータが削除されていたのだ。「ogihara.com荻原裕幸活動報告」(2009423日)には、つぎのような記事が見られた。

 「奥村晃作さんがサイトを閉鎖するという。自身の活動から歌壇のことまで、主に日記のスタイルで、膨大な量の情報を発信してきたサイトだけに、残念であり、淋しくもある。短歌という一つのジャンルに限って見たとき、ネットには、それを見ることによって作歌活動を継続する刺激となるようなコンテンツがまだまだ少ない。奥村さんのサイトはその種のコンテンツを抱えたものだった。読者として感謝のきもちを表するとともに、これまでのデータが何らかの形で維持されることを望みたい」

 そういえば、奥村さんは、すでに数年前につぎのような発言をされていた(「ホームページと私」『路上』102200510月)。短歌結社とジャーナリズム及び投稿歌壇などで構成される従来からの「既成歌壇」、カルチャー短歌教室という短歌の場、そして「ネット歌壇」、という三つの短歌の場に自らもかかわってきたが、これからの歌人は、この三つの場にかかわってこそ将来を担う歌人になるはずであると。さらに「加齢に拠るものか、別の理由によるものなのか、最近はネット歌壇の動向に興味が薄れつつある」として、日々更新する個人誌「奥村晃作短歌ワールド」における、日記、作歌、受増歌集の紹介などに限っても時間は足りず、古典など読むゆとりがないことを嘆いていた。

 それにしても、仕事の帰りに寄り道するような気分で、このサイトに立ち寄る歌人は多かったのだろうか。このサイトのアクセスのカウントを始めたのが2000215日とあり、1200件、月6000件に及ぶと記していた(上記「ホームページと私」)。開設以来の訪問者といい、このサイトの記事に異議を唱えることが多かった「ベレシート・結社ひとり」においても「私には世間に開かれた数少ない歌壇の窓のように思えた」「軌道修正できない真面目さは、何事もあらかじめ軌道が設定されている現代社会では無軌道と同じで・・・」と、やはり閉鎖を惜しみ、再開を期待していた(200958日)。

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2009年5月 7日 (木)

ディベロッパーの責任~宣伝がすぎると

 地元のディベロッパーとは、友好的でありたいものだ。20年以上この街に暮らしてきてつくづく思う。しかし、最近出遭った二つの出来事がさらに業者への不信感を深めてしまった。

音もなくあらわれる電気バス

 424日、近くのモノレールの駅に接して24時間営業のスーパーが出店開業した。開店後数時間は入店に行列ができるほどの賑わいだったそうだ。落ち着いた後の買い物客の動向が今後の営業方針を左右するのだろう。

スーパーの家主でもある地元のディベロッパー山万は、かねてよりスーパーへの集客アクセスの一つとして、電気バス運行の計画をほのめかしていた。スーパーの開店日が決まり、どんなルートでいつから走行するのか、さっぱり情報が入らず、地元でも心配していた。そんな折、突然のプレス発表があったらしく、全国紙の地方版や地元紙で、「ユーカリが丘電気バス導入」の記事が次々に載った。記事によれば、電気バスは排気ガスもなく、騒音もなく、環境にやさしく、住民の高齢化に対応する。424日から1か月間の実験運行ということで、その間は無料ということだった。

それにしてもどこを走るのか、停留所は決まったのかなど私たち住民は不安もあったが少しばかりの期待もあった。数日後、電気バスのルートと時刻表のチラシがポスティングされていた。そして、その直後、我が家の生垣の下の縁石に黄色のガムテープが貼ってあるのを発見。犬の散歩の折、ご近所を回ってみると、あちらの角にも、公園の角にもあちこち色違いのテープが貼ってあるではないか。ともかく市役所の交通防災課に電話を入れると、現地確認にあらわれた職員は、同じような通報が何か所からかあって調べたところ、電気バスルートの目印であることがわかったという。地元に説明がないばかりか、住民の家の縁石にことわりもなく目印を貼ってゆくなんて。縁石がいくら市有であったとしても断りのない目印はおかしいし、6mの生活道路に了解もなくバスを走らせるなんて・・・。いいことづくめのプレス発表優先、住民無視もはなはだしい。自治会にも説明はなかったという。事前の地元への説明は何かと面倒なことにもなるので、抜き打ち的にチラシを全戸配布してしまおう、というつもりだったのか。あとで、山万の責任者に尋ねると、実験運行の実施が製作会社や大学と共同であったため調整が遅れて行き届かなかった、住民にはなるべくチラシを手渡して了解いただいた、自治会連合会会長には了解いただいている、という返答であった。面談した住民の多くは喜んでくださっているのにと不満が返ってきた。ここには、少なくとも住民に周知の上、了解を得ようとする姿勢が感じられない。音の小さい電気バスの危険性や住民の安全安心への配慮に欠けていたのではないか。オルゴールを鳴らすはずの電気バスは、まだ、音もなく住宅地の角からぬっと姿をあらわすのだ。

スーパーのオープンに合わせて、地元の政治家、役人、商工関係者、福祉や自治会関係者、それにメディアなどを招待して大々的に開催した電気バスの出発式、それを報道する新聞、テレビ局・・・。これには後日談があって、実験運行の5日目428日には、電気バス2台のうちの1台が故障し、一日8回の運行は4回の運休で半減し、復旧しそうにもない。

モノレールの駅名変更中止

京成のユーカリが丘駅からニュータウンを15分ほどで1周する新交通システム・モノレールは、車を持たない私は週に1・2度利用する。昨年の今頃、山万の鉄道部は開通25周年を記念して、新駅名を公募すると盛んに宣伝していた。車内放送、チラシはもとより新聞やミニコミ誌でも伝えられた。このモノレールの駅名は、ユーカリが丘、地区センター、公園、女子大、中学校、井野の6つあり、鉄道マニアの間では、とくに「公園」「女子大」「中学校」などの駅名のユニークさ、そっけなさ、不思議さが結構話題になっていたらしい。ザックとカメラを背負ったマニアがモノレールの車体や駅をカメラに収めているのをよく見かけてもいた。マニアでなくとも、新しい駅名って、どうなるのだろうと若干の関心もあったが、いっこうに変わる風でもないし、不思議に思っていた。山万のホームページでは、「応募が多かったのでしばらくお待ちください」みたいなお知らせを読んだことがある。ところが、応募した知り合いによると、今年の4月になって「変更しない方がよいとする意見が多かったので変更はしないことになった」というお知らせが届いたという。詳しい事情はわからないが、いったいあの物々しい新駅名公募の宣伝は何だったの?たんなる話題作り? それにしても無責任というか、人騒がせなことだった。

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2009年5月 6日 (水)

NHK、皇室への姿勢~二つの番組から

新年度からのNHKの番組構成がまだ頭に入らない。NHKスペシャル「象徴天皇 素顔の記録」(410日午後730分~)・NHKスペシャル「天皇と憲法」(シリーズJAPANデビュー第2回、53日午後9時~)の2本を見た。録画はとったもののまだ見直してはいない。リアルタイムでの放送を見た限りの感想を簡単に記しておきたい。

「象徴天皇 素顔の記録」

天皇皇后の結婚50周年を念頭において、これまであまり踏み込まなかったプライベートな映像を交えて夫婦の歩みをたどり、その「素顔」に迫ろうとしていたことがわかる。特殊な体験をしながらもおだやかに老境を迎えようとしている夫妻のプライベートな暮らしはたしかに視聴者の興味をそそるかもしれない。しかし、この番組は、それにとどまらず、天皇(夫妻)が個人的な信条や配慮からなされたとする、さまざまな発言や行動を、象徴天皇制のもとで位置づけ、その積極性を高く評価しようとしているように思われた。

しかし、そもそも生身の人間が憲法上の象徴天皇制を具現しようというところに、制度上の無理があると考えられる。政治とはかかわらない「国事行為」のみの任務が背負わされる中で、天皇(夫妻)が個人的に、誠実に、賢明に、行き届いた配慮のもとになされたとしても、その発言や行動は、個人的なものではありえず、国家が負うべき戦争責任やときの政府の福祉政策や災害対策などの至らない部分を補完する役目を果たすことになり、本来の政治のあるべき姿を求める国民の批判の目をそらす結果をももたらすことにはならないか。沖縄への慰霊の旅、阪神淡路大震災地、福祉施設への視察など思い当たることも多い。

いま、大事なことは、天皇(夫妻)の個人的な信条や心情とかかわりないところでの役割、それを利用している人々が存在するという危機を認識することではないか。日本が、憲法上、天皇制を抱えてしまった以上、皇室が存在するのは仕方がないという前提に立てば、皇室の方々には、なるべく質素ながら、自由に暮らすることができる仕組みを作り、見守るしかないのではないか、という思いである。

「天皇と憲法」

 見終わってみると、これが日本国憲法の施行された日を記念する番組?という疑問が去らない。「明治憲法と天皇」と題した方がいいような内容であった。大日本帝国憲法の制定過程に時間をかけていた。日本国憲法は、確かに、手続き的には大日本帝国憲法を改正して成立したものなので、日本国憲法制定前史として、日本近代史において明治憲法と天皇という制度がたどってきた道を知ることは重要ではある。しかし、今回の内容が明治憲法であったのはいささかアテが外れた。

 明治憲法制定当時の「万世一系」の文言をめぐる論議、大正期における政党の対立、天皇機関説をめぐる学界の論争、天皇の統帥権をめぐっての軍部の台頭などに焦点があてられていた。その焦点の当て方も、御厨貴、立花隆、山室信一という研究者や評論家の解説に依る部分が多く、研究室やキャンパス、議事堂内外などを背景に、その発言自体が権威主義的な、何か重々しい雰囲気で語られるのだった。天皇をめぐる二項対立的な図式的な論争として捉えることが多く、伊藤博文・井上毅とロエスエル、山形有朋と犬養毅、美濃部達吉・上杉慎吉らの対立を際立たせ、人物評伝的な歴史として受け取られがちな構成であった。戦局や政治家、学者、軍人たちの攻防の歴史ではなく、明治憲法下の各時代における国民の生活実態や運動、そこから発せられるメッセージ、植民地政策にも光を当てる視線が必要ではなかったか。山室は、天皇を「利用する」人々や勢力のあることを何度か強調していたが、具体的に言及してほしかった。今後のシリーズで丹念にたどってほしいテーマはたくさんある。今後の行方を見守りたい。

 JAPANデビューの第1回「アジアの一等国」での日本統治下の台湾の捉え方をめぐって、「日本李登輝友の会」などからのNHKへの抗議運動が活発化している。きちっとした歴史認識を踏まえ、日本の歴史教育の間隙や歪みを埋めるべく、メディアの役割を果してほしい。私が仕事を退いた後、学んだ先で提出した論文が「日本統治下の台湾におけるマス・メディアの形成と天皇制」であった。この番組についてもいずれ検証したいと思っている。NHKも民放のマネをして、お笑い芸人やタレント学者を起用するのだけはやめてほしい。面白おかしく盛り上げたり、音楽やナレーションで妙に情緒的に傾いたりすることなく、問題提起と判断材料を的確に伝達してほしいのだ。

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