先崎の鷲神社まで歩く
私が手動の万歩計を失くしたのを知って、娘がデジタルな万歩計を贈ってくれた。少し歩数を伸ばさなければいけないと思っていた矢先、友人からウォーキングの誘いがかかった。週に2・3度、4000歩位から始め、今は8000歩位までになった。もともと、朝夕の犬の散歩に、夜のウォーキングと合わせて10000万歩達成はなかなか厳しかったので、15000歩をオーバーする日があるのはうれしい。犬の散歩はウォーキングに入らないよ、とは言われたりするけれど。友人と一緒のときは、近くのお寺、お稲荷様、昔の分校跡、隣の学区の小学校、家が建ち始めた新しい住宅街、造成工事が進む調整池までとか、目的地を決めて、とりとめのない話をしながら歩く。
きょうは、先崎の鷲神社、ということになった。先崎は「まっさき」と読む。この地に住まって20年、ミニコミ誌の「取材」?で行ったこともあるし、3年に一度の例祭に何人かの友人と出かけたこともある。
宮ノ台二丁目を通り抜けて、上小竹川の両側に広がる水田を目指して下ってゆくと、対岸には広い屋根の農家が何軒か見える。「子の橋」(1967年?)を渡れば、「先崎地蔵尊」につきあたり、大きな地蔵菩薩(1650年)が格子窓から見える。坐像のお地蔵さんは珍しく、佐倉市指定文化財にもなっているが、身辺には何やら詰まった袋類が積まれていて窮屈そうでもあった。毎月24日に行われる地蔵講に使うものでもあるのか。左に折れれば、すぐに鷲神社の参道である。立派な石段と鳥居(1673年)、その奥に見覚えのある大樹、ケヤキの太い幹が見えてきた。先崎村の鎮守は10世紀にさかのぼり、朱雀天皇の命を受け「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」が祭られたという。ケヤキは14世紀に焼失しかけたが、根元の幹はがらんどうながら、みごとに再生し、その樹齢を誇っている。右手の拝殿に続き、高い屋根に保護された本殿は、天保年間に再建されている。こじんまりした権現造りというのだろうか、四面の柱や壁、土台の木彫りは中国の故事を表すものなのか、素朴ながら手が込んでいるものだった。本殿の裏に回ると、建立の際の銘文があって、この付近に多い旧家の名字、蕨善兵衛、友野茂右ェ門、出山、立石、深山・・・と続く。境内の奥から先客の自転車を引いた男性が現われて、スタンプがそこにありますよ、と教えてくれた。
家からここまで約3000歩、鷲神社を下りて、田んぼに沿って炎天下を歩く。田植えは一部を残してほとんど終わっている。人も車も見かけないね、と話していたら、網や釣ざおを持った自転車の男の子が走り抜けて行く。続いて4・5人の男の子が追い抜いて行き、少し先の畔道を曲がって、小さな橋に集合しているようだった。手もとの地図によれば、「根崎橋」とある。私たちもあの橋を渡れば、さっきまで屋根が見えていた称念寺に行けるはずと、畦道に入った。すると大勢いたはずの男の子たちが消えていた。小さな橋を渡って、川を覗いても姿が見えない。橋の下か岸の草むらで、ザリガニでも捕っているのだろうか。とても懐かしい風景に出逢ったような、のどかな気分になった。農家の角を曲がるとすぐに「称念寺」前に出た。ここには大ムクロジの古木があるはず。立派な門の先に豪華そうな建物を見ると、何となく入りづらく、先を急げば、すぐに、娘も通った青菅小学校が見えてくる。校門前では、子供を肩にのせた若いお父さんに出会ったと思ったら、近くのマンションの知り合いであった。今でも私や友人がかかわっている土地区画整理組合事業による開発問題で、2年ほど前まで一緒に活動をしていた人だった。彼の住むマンションの目の前に立つはずだった高齢者施設の階数をめぐって組合の業務代行である開発業者との交渉に頑張っていた頃を思い出す。冬至期の日照時間をある程度確保して、その建物の階数は決着を見た。しかし、この時世で、高齢者施設建設計画は頓挫している様子なのだ。そんなことも思い出させる散歩だった。
今日の鷲神社行きは、8200歩。夕方には犬の散歩が控えている。
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