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2009年6月29日 (月)

インターネット「歌壇」はどうなるか(3)~最盛期に何が起きていたのか~荻原裕幸の果たした役割  

「電脳短歌イエローページ」は、一九九八年二月二七日に、SSプロジェクト(加藤治郎、穂村弘、荻原裕幸)の企画構成により、荻原裕幸を管理人(二〇〇〇年一〇月、玲はる名・ひぐらしひなつ参加)としてスタートした。荻原は、その頃のことを、「短歌に関連するホームページを紹介するためのホームページ」ということで調べ始めた当初は数十件だったが、二年後には二五〇件を超えるリンク集になった、と語る(「新しいスタイルとして」『歌壇』二〇〇〇年八月。現在、リストに掲載されているサイトは六五〇件を超えるが、現在、すでに閉鎖しているもの、更新の形跡がないものも含まれていることになる。リンク集自体も二〇〇五年二月以降の更新がストップしているらしい)。

また、荻原は掲示板「電脳短歌BBS」の管理人として、自由に情報交換ができる「場」を提供した。彼は、その後の数年間、まさに「ネット歌壇」の仕掛け人として精力的な活動をすることになる。上記「イエローページ」と同じ一九九八年に始めたメーリングリスト「ラエティティア」は二年後、加藤、穂村、東直子、小林久美子とともに「@ラエティティア」というメールマガジンを創刊するまでになる(二〇〇〇年六月二九日付一号~二〇〇二年三月一一日付一三号号外。以降未確認)。荻原個人のホームページ「デジタル・ビスケット」を立ち上げるのも二〇〇〇年四月である(管理人ひぐらしひなつ)。メールマガジンはいわば同人誌の電子版、ホームページは個人誌の電子版とでもいえるのだろうか。紙も、印刷費・発送費も要らず、同時に多数の読者に発信でき、双方向の情報交換も可能なメディアを望んだ若い人々に、荻原は「管理人」などとして指導的な役割を果たした功績は、高く評価されるべきだと思う。当時、彼自身が関わったサイト一覧を自ら公表しているが、彼個人のサイトとして「デジタル・ビスケット」など三件、SSプロジェクト関連として「電脳短歌イエローページ」など一一件、荻原のプロデュースサイトとして「梨の実歌会BBS(掲示板)」(五十嵐きよみ)、「電脳日記・夢見る頃を過ぎても」(藤原龍一郎)、「その日暮らし。」(ひぐらしひなつ)、「たった今覚えたものを掲示板」(玲はる名)など一〇件を掲げている(二〇〇二年一月一日現在)。

一九六二年生まれの荻原裕幸の短歌の出発は、十代における短歌総合誌や週刊誌の塚本邦雄選歌欄であり、一九八六年には塚本創刊『玲瓏』に参加している。八七年短歌研究新人賞を受賞、歌集も八八年『青年霊歌』、九〇年『甘藍派宣言』、九二年『ありまじろん』、九四年『世紀末くん!』と矢継ぎ早に刊行した。自身のホームページの年譜によれば、一九九三年から九九年にはコピーライターとしてプロダクションの社員になっているが、その間も評論執筆、各種の短歌イベントの企画・参加が目白押しとなり、一九九八年には、前述のように、「電脳短歌イエローページ」、「電脳短歌BBS」、メーリングリスト「ラエティティア」の開設・運営にかかわり、インターネット歌壇の基本的かつ総括的な仕組み作りに貢献している。

「梨の実通信」を根拠地にインターネット歌会「梨の実歌会」を立ち上げた五十嵐きよみは、早くより、インターネットと短歌を語るには荻原の仕事に触れずには済まされないことを強調、高く評価する(「ネット短歌を批評せよ!」『ちゃばしら@WEB』二〇〇三年二月。「インターネットにおける荻原裕幸の仕事」『歌壇』二〇〇三年八月)。

振り返ってみれば、インターネット「歌壇」は、一九九八年以降、世紀を跨いでの数年間が最盛期だったような気がする。リアルタイムで付き合っていない私などが言うのもためらわれるが、現在は、いわば、嵐が過ぎ去った後、インターネットを利用する歌詠みのスタンスが、かなり定着し、明確になってきたのではないかと思う。その明確さが何であるのか、その方向性については後述したい。

インターネット「歌壇」が活況を呈し、最盛期と思われる時期に、何がなされていたのか、荻原裕幸の仕事を中心に眺めてみよう。 前述の五十嵐きよみのまとめによれば、大別して二つの仕事に分けられるとする。すなわち、一つは、メーリングリスト、リンク集、グループや個人の掲示板の企画・運営などによるネット空間の構築と拡大であり、一つは、メールマガジンの発行、オンデマンド出版「歌葉」での歌集企画編集、新人賞の選考など作品制作・発表にかかる仕事である。

前者のメーリングリスト「ラエティティア」は登録制ではあるが、一九九八年一月開設後約二年で一二六人に及び、一日約二〇通の配信があり、延べ一五〇〇〇通を超えたといい、その「元気」さと情報の過剰ぶりを少し得意げに、あわせて将来像を描けない不安も、荻原は率直に自らのホームページで語っているのが興味深い(「ラエティティアについて」『デジタル・ビスケット』)。リンク集は、いまでこそ多くのサイトに登載され、短歌関係のリンク集といっても多種多様に及ぶ。当時は、特定のホームページを探すためにも、自分のホームページを認知してもらうのにも役立ち、先駆的な役割を果たしていたという。さらに、荻原が関わった掲示板やサイト立ち上げなどの管理人としての仕事の数は、私の想像を絶するものであった。そしてその熱意とスキルの恩恵に浴した歌人は数知れないのではないかと思う。前述の「電脳日記・夢見る頃を過ぎても」(二〇〇〇年一〇月一日~二〇〇七年九月三〇日)と掲示板「短歌発言スペース・抒情が目にしみる」(二〇〇〇年七月二〇日~)を持つ藤原龍一郎は、スタート当時のことをつぎのように語っている。一九九九年、いわば自家製のインターネット掲示板を立ち上げ、発信を楽しんでいたが、荻原から「SSプロジェクトの活動の一環として共催的なHPをいくつか作りたい。こちらで機能の多い掲示板と日記のページを用意するので」と持ちかけられたという(藤原龍一郎「私と短歌とインターネット」『路上』一〇二号二〇〇五年一〇月)。藤原は、また、インターネットの「時間的自在性、公開性、蓄積性」といった特性を発揮するものとして「題詠マラソン」をあげる。

その「題詠マラソン」実践の先駆けとなったのは、五十嵐きよみによるインターネット歌会「梨の実歌会」(二〇〇〇年七月~)であった。参加者が主催者に詠草を送信、無記名で掲示板に発表、選歌を主催者に送信、選歌集計、記名で意見交換、作者発表という手順をとり、二か月に一回、参加者三〇~四〇人程度という(五十嵐きよみ「インターネット歌会の現在」『歌壇』二〇〇三年二月)。いわゆる結社内の歌会を模していた。

また「題詠マラソン」(二〇〇三年~二〇〇五年で休止)と呼ばれるものは、一〇か月をかけてあらかじめ与えられた一〇〇の題に従い、自分のペースで一〇〇首を投稿してゆく仕組みである。ちなみに、マラソン参加者(投稿者)は、二〇〇三年一六二人、二〇〇四年三七五人、二〇〇五年五六三人に及んだという。二〇〇六年からは形を変えた「題詠一〇〇首blog」として続行している。

(『ポトナム』20096月号・7月号所収)

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2009年6月24日 (水)

恋人までの距離(ディスタンス)」~古い映画をテレビでみるのも

ウィーンが舞台との予告を読んで見る気になった(200969日)。映画の邦題の「距離」にはカナがふってある。原題は「BEFORE SUNRISE」(1995年)とそっけない。
ブタペストからパリに向かう列車、隣席のドイツ人夫婦の喧嘩に嫌気がさして、パリに戻るソルボンヌ大学の学生(ジュリー・デルビー)が移動した席の向かいは、アメリカ人青年ジェシー(イーサン・ホーク)だった。会話が始まり意気投合した二人は、食堂車でも話は弾み、青年の提案で、ウィーンに途中下車して翌朝まで街中を歩いてでも一緒に過ごそう、ということになる。夕暮れの環状道路リンクを走るトラムの最後部座席、ドナウ川での事故や自殺で亡くなった人たちの小さな墓地、プラター公園の観覧車、シュテファン寺院と、いかにもウィーンらしい場所と状況の中で、二人は、自らの生い立ちや家族、人生観、恋愛観から死生観までを語り合うなか次第に惹かれあう。あてもなく街の路地裏を歩きに歩き、二人だけの会話で進行するのだが、その自在な演技とドキュメンタリタッチの街のたたずまいに引き込まれてゆく。さらに、ドナウ河畔の詩人やカフェの占い師との暗示的なやり取り、レコードを探しながら、ゲームをしながら、ワインを飲みながらも会話は続く。私がとても気に入ったのは、二人がカフェで向き合って、お互いが今の顛末を友人に電話で報告をするという設定で、それぞれの気持ちの虚実が語られる場面だった。公園の広場で朝を迎え、いよいよ駅での別れのシーンはやはり切なかった。半年後に再会が約束されて、なぜかホッとするのだったが・・・。

映画は1990年代のウィーンの街だったが、私が旅に出たのは今世紀に入ってからだ。わずかな海外旅行体験ながら、ウィーンには3回出かけている。今回の映画や「第三の男」に登場した観覧車は遠くから眺めただけだったし、「第三の男」のラストシーンの中央墓地にもまだ行っていない。もしチャンスがあったら、新しいホイリゲも開拓したいし、見逃した絵画にも出会いたい。小さな教会のコンサートもいい。

ちなみに、2004年には、続編「BEFORE  SUNNSET」が、同じリチャード・リンクレイター監督と二人のキャストで制作された。9年の歳月が流れ、二人は偶然パリで再会するらしい。見たいような、見たくないような・・・。

 

映画館はめったに行かなくなったし、いっときほどテレビで映画を見ることもなくなった。ビデオを借りる習慣もない。学生時代は年間200本以上見ていたような気がする。もっとも2本立て、3本立てというのも珍しくなかった時代である。1960年、安保闘争のさなか、シナリオ研究所というところに半年ほど通ったこともある。シナリオライターの話は色々だったが、登川直樹の名画鑑賞は楽しみだった。「カサブランカ」「会議は踊る」「舞踏家の手帖」などの「古典」を毎週ここで見た。志賀信夫の「講義」は無理に難しくしたような内容だったし、寺山修司には、妙に反発して質問したこともあったなあ。

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2009年6月 4日 (木)

ラベンダーとバラの向こう側で

ラベンダーと市政と

 ご近所の友人が車を出してくれて、4人での「お花見」となった。

 そろそろ見ごろらしいとの情報が入った、先崎(まっさき)のラベンダーランド。ここは、現在の蕨佐倉市長が就任前から自分の畑にラベンダーを植え始め、いまは結構な広さになって、去年からラベンダーまつりが開かれるようになったところだ。蕨氏は早くより自宅に隣接してゴルフ練習場や霊園を経営する元銀行員で、先々代は志津村の村長さんだったという旧家らしい。民間の手法を市政にもという触れ込みで当選した市長だが、現実にはあまり変わり映えのしない役所の姿勢にがっかりしている。開発・環境問題で何度か交渉した体験からしても、こんな課長がと思う人ほど出世しているような気がする昨今の市役所人事ではある。それにしても、ラベンダーの陰に市長の顔がちらつくのは困ったものだ。

 ラベンダー畑の管理者の話によると、「濃紫早咲」が見ごろだそうで、花穂の下方部分の濃い紫が出そろい、先端に薄紫の花が開き始めた今がよいという。6月半ばのラベンダーまつりには屋台も出るし、ラベンダーグッズや鉢も売るからと勧められる。他に「グロッソ」という名札を付けた畑もあり、花期は6月下旬~7月下旬、やや丈のある青々とした葉が茂っていた。うっすらと花穂の気配を見せる「おかむらさき」というのもある。

以下は、帰宅後、ネットから仕入れた情報である。「濃紫早咲」は、香りが淡いので、切り花やドライフラワー、リース材に適しているそうだ。「おかむらさき」は富良野のラベンダーの主力らしい。「グロッソ」は、交配種のラバンジンの一種で1972年、フランスのグロッソ氏が作出したとのことだ。数年前、南仏のアビニヨンで土産に買ったポプリを、改めて確かめてみると、”LAVANDIN DE PROVANCE” というシールが貼ってあるではないか。オイルの収穫量も多い品種とのことで、ポプリは玄関の靴箱の上で、いまだにかなりの香りを放っている。

 

バラ園とその管理者

 少しばかり道に迷いながら、「草ぶえの丘」に到着。今朝(61日号)の「さくら広報」の1面を飾ったばかりのバラ園である。さまざまな品種のバラが、国別、品種別、色別に植栽され、アーチやパーゴラ、随所に格子が組まれているのがわかる。日本の「バラの父」鈴木省一コーナーもある。しかし、バラ愛好家でもない素人の私には、バラ園全体が散漫で、いまひとつインパクトがないのはどうしたわけだろう。「草ぶえの丘」全体の管理運営は、指定管理者制度により、佐倉市から地元の開発業者山万グループに移行した。さかのぼれば、すでに3年前から山万グループに移行、今年度、更新してさらに5年間の指定管理者となった。このバラ園は開園4年目という。バラ園の運営がNPOバラ文化研究所らしいのだが、山万グループとの関係はどういうことになるのだろう。「草ぶえの丘」は、バラ園はじめ、農園、ミニ鉄道、アスレチック、キャンプ・研修施設などアウトドア関係施設を擁するが、どんな風に盛りたてて行くのか、見守りたいところではある。行政改革の一環として始まった指定管理者制度であるが、効率的で安定した管理運営をすることによって市民へのサービスを向上させるのが、その目的だ。指定管理者の選定過程、モニタリング、財政・人事の透明性、情報公開などがきっちり確保されているのだろうか。ともすれば、行政からの丸投げ、責任転嫁、サービス切り捨てへの不安がつきまとう。入園料400円とアクセスの不便さが当面のネックになってはいないか。入園者はどのくらい増えたのだろうか。そんなことを考えさせられた「草ぶえの丘」であった。

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2009年6月 3日 (水)

家族旅行は七沢温泉へ

日向薬師から七沢へ~雨上がりの林道を行く

 久しぶりの家族旅行は言い出しっぺの娘にまかせた。ハイキングにしてはやや心配の天気であったが、小田急伊勢原駅北口に着いたころには薄日がさしてきた。改札口で入手した観光案内地図、あらかじめ読んでいた旅行案内書やネットでの検索記事などからも、いま一つはっきりしないながら、日向薬師行きのバスに乗り込み、約20分、歩くコースは現地で考えることにした。

 日向薬師は、終点のバス停からは、結構な階段をのぼって十数分、杉木立に囲まれた日向山霊山寺は八世紀初頭、行基が開いたとされ、日本の三大薬師の一つだそうだ。本殿は宝樹坊と呼ばれ、茅ぶき屋根で、来年20106月から大改修の予定だという。本尊などは開帳の日が決まっていて、他の重要文化財も宝物殿の見学者(300円)のみにしか拝めないらしい。境内には桜も多く、花の季節は格別だろうと思うが、樹齢800年という「幡掛けの二本杉」もみごとであった(かながわの名木100選。樹高約35m、樹囲約7m)。ちょうど店開きにかかった売店の人に七沢への道を尋ねると、この林道を行けば45分ほどで着くという。けさ七沢から歩いてきたという地元のお年寄りも「歩きやすい道だよ」と送り出してくれる。「クマに注意」の看板がやたらに目につくが、雨上がりの林道、薬師林道はまさに新緑のトンネルで、日も照らず快い。途中、鉄砲水の跡らしい個所やネットに覆われた崖が続き、深い谷底を覗くのが恐ろしいようなカーブもある。それにしても、週末というのにハイカーには出会わないねと話していると、ウォーキングの中年男性とジョギングの青年とがあらわれたが、あとは結局、車1台のみであった。

 七沢温泉の宿が見えてきて、2軒とも玄関の横や勝手口には年老いた犬がおとなしく控えていた。3軒目の今夜の宿「福元館」も年配のコリーが看板犬らしい。ともかく荷物だけ置きに立ち寄ると、「きょうは雨上がりだから山ヒル退治に塩をお持ちなさい」とひとつかみほどの塩を渡された。奥からは相当な音量の音楽が聞こえてきたので昼間からカラオケと思ったら、どうもスクエアダンスだったらしい。

 今回の旅のお目当ての一つでもある、地ビールをのませてくれるイタリア料理「セルバジーナ」へと向かう。途中の立派なお屋敷には「黄金井」の表札、続いての黄金井酒造工場、黄金井クリニック、その隣が黄金井酒造直営「セルバジーナ」だった。だいぶ遅い昼食ではあるが、生地の薄いパリパリのピザと素朴な味のパスタは、ややコクがあるカラメル色のさがみビール「アルト」と相性がよかった。きょうは朝から動いていたので、ビールも回った。一同、意見も一致して、宿に帰っての昼寝となった。

大女将からの地酒「盛枡」の大杯

 温泉は、アルカリ質のヌルヌル系で、やや熱めながら肌にはやさしそうで、女性陣には好評である。夕食は、鹿肉の味噌焼、豆腐料理のほか、どこか懐かしい旅館の和食が並ぶ。途中、大女将からといって黄金井酒造の「盛枡」が朱塗りの大杯で届いた。夕食後も一同、普段の寝不足を補うように早めに床に就いたのだった。

小林多喜二が密かに執筆した宿

 「福元館」は、近年、小林多喜二が築地署での虐殺される2年前の1931年、密かに逗留していた宿として有名にもなった。まだ「蟹工船」ブームなどなかった2000年、地元の人によって、いまの大女将古根村喜代子さんの義姉初子さんから聞いた話としての証言が報告、報道されたのだった。70年もの間、身内だけの話として伝えられてきたらしい。多喜二は、福元館本館とは道を隔てた高台の離れに1カ月ほど滞在しているが、「オルグ」を執筆していた時期と重なるという。

 翌朝、その離れに案内してもらった。本館前の細い石段は見城(みじょう)山へのハイキングコースの入り口にもなっている。離れは、石段をのぼったところの小さな平屋で、縁側付きの6畳間が廊下を挟んで二つ並ぶ。多喜二が泊っていた頃の机、火鉢、行火などはそのままだという。衣紋掛けの丹前も多喜二が着たものだというが。玄関の小部屋には、近年の新聞記事や写真、小林多喜二全集などが広げてあった。

 本館に戻ると、フロントに大女将の喜代子さんがいらした。お話によれば、義姉初子さんが厚木の高等女学校に通っていた頃、ある先生から、宿賃は出すから大事な人を預かってほしい、という申し出を受けたという。多喜二は、なかなかの好青年で、離れから本館の温泉に通う以外は、執筆に専念していたという。70年もの間、公言しなかった宿の関係者、当時、石段下の往来の靴音を気にしていたという多喜二の心中を慮ると、歴史の過酷さに思いは至るのだった。

七沢森林公園、尾根のさんぽ道

 きょうは531日、宿を出ると、地元での大掃除が終わったらしく、ほうきやシャベルなどを担いだ人たちが三々五々、坂を下って行くところだった。「観音谷戸自治会倉庫」前では、車座でにぎやかな「反省会」が繰り広げられていた。実は、この日、私たちの住む町内の自治会でも恒例の側溝清掃だったのだが、金曜日に済まして、出て来ていたのである。雨に降られず、側溝清掃は無事済んだか、散歩とエサは知りあいにお願いしてきたものの、置いてきた犬はどうしているか、など里心がつくのだった。バス通りの七沢観光案内所の前を「森のかけ橋」を目当てに、森林公園へと向かう。

森林公園を南北に貫く道路を跨ぐアーチ型の高架の橋は、辺りの新緑に映えて、なかなかの風景で、スケッチするグループにも出会う。広場、展望台を経ての「尾根のさんぽ道」に入る。さんぽ道というものの、結構きついアップダウンがあって、かなり手ごわい。おまけに、娘は、足元を山ヒルに侵入され、宿から持って出た塩が役に立った。東西に長い公園の北側に位置する尾根道では、何組かのハイカーに出会ってほっとする。丸太の階段がないと滑りやすい急坂もある。北側にひらけた住宅街、その真ん中から運動会の歓声が立ちのぼってくる。このまま進めば「順礼峠」までたどり着くはずだったが、端折って、厚木市森林組合の事務所前で伊勢原行きのバスを待つ。万歩計の歩数は意外と進まなかったが、よい汗をかいた2日間であった。

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