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2009年7月30日 (木)

NHKスペシャル「ジャパンデビュー第1回~アジアの“一等国”」をめぐって(3)

表題のNHKの番組に登場した、日本語の巧みな証言者たちの日本語教育は、どのような植民地統治政策、教育制度の中で、どのように実施されていたのだろうか。あえて単純化をめざし、つぎのように考えた。次の3つの視点から、それらが連動しあって、推移するさまを見るとどうなるだろう。横断的に、ときには時系列で概観してみたいと思った。1990年代は、日本の旧植民地研究はそれまでの研究の成果が形となって、出版がされ始めた時期でもあった。私には、駒込武『植民地帝国日本の文化統合』(1996年)『岩波講座近代日本と植民地』全8巻(岩波書店 199293年)などはとてもありがたかった。なかでも前者は、丸山真男のナショナリズム観、ベネディクト・アンダーソンの国民国家論など、それまでの私の断片的な生半可な理解を、分かりやすく整理をしているように思えたからである。さらに、同書では②の視点を「国家統合」、③の視点を「文化統合」という言葉でくくり、③のかなめとしての学校教育をとらえようとしていた。研究者により用語の定義もことなるが、②を法制度的次元、③を文化的次元と置き換えることもできる。さらに②においては平等化と差別化を縦軸にその両極に内地延長主義と植民地主義が位置づけられる、と理解した。 

①本国の政治体制と台湾総督が軍人であったか、文官であったか                                                       

②政治・経済の制度はどうであったか 

③教育・文化とくに日本語教育の制度及び実態はどうであったか 

 

結論を急ぐようだが、上記NHK番組に登場する日本語教育を受けた人たちの証言を聞き、取材や編集が偏向していると抗議をする人たちの言い分を聞いていると、植民地支配・統治国の側の当事者が、②③の結果として残された「成果」のみを強調しているように思える。断片的に一部の人たちが、インフラや教育環境の整備の恩恵を受けたからといって、すべての植民地政策自体が肯定されることにはならないはずである。とくに、③によって日本語を身につけ、「皇民」として暮らすことを余儀なくされた人々がいたことは、年表を作成する過程でいやでも身にしみた。

年表には挙げなかったが、原住民の少年が死に直面しながら「君が代」歌い続けたという美談がマスメディアを通じて喧伝されたことも何度かある。また、『台湾日誌』(台湾総督府編)によれば、1940年代に入ると、嘉義市役所では台湾語では受付を拒否した(19401019日)、高雄市市営バス内では台湾語を禁止した(1941128日)、「国語新聞」を「皇民(みたみ)新聞」に改題した(1942211日)、歌会始には台湾から1522首の詠進があった(1943129日)、といったような記事も頻出し、1914年から続く日本語コンクール「国語演習会」や国語普及功労者表彰の記事などが目を引く。植民地における統治政策の曲折とともに、日本による過酷なまでの日本語強制の痕跡をたどることになった。

さらに、1945年日本敗戦後、中国内戦状態の中、10月、国民政府軍台湾に上陸、19462月日本語書籍の取締り始まり、同年10月からは新聞雑誌での日本語が廃止になる。1947228日反政府暴動への武力制圧が続き、約3万人の犠牲者を出す。このときの戒厳令が1987年まで続く。1952年日華平和条約結ぶも1972年日中国交正常化に伴い、台湾国民政府とは国交断絶。1988年親日派とされる李登輝が台湾人として初めて総統に就任、柔軟外交を宣言する。

台湾と日本の関係は決して単純に割り切れるものではなく、複雑かつ微妙な関係は今日まで続いているといっていいだろう。今回のNHK番組への偏向批判は、歴史的事実に反する、あまりにもエキセントリックな反応にしか思えない。そして、そうした批判の中心に政府与党の議員が何人も名前を連ねている事実こそ、国民は理性を持って受け止める必要があるだろう。

台湾(日本語教育)年表         

『台湾台年表』『台湾日誌』『近代日本総合年表』『現代史資料・台湾ⅠⅡ』などより作成(内野光子)

総督 

政治・経済関係

教育・文化・日本語教育関係

1895510

 樺山資紀

 桂太郎

 乃木希典

児玉源太郎

98226~) 

(後藤新平民政局長、後長官)

1895417 日清講和条約により台湾領有

96331  六三法公布

 (総督による命令権限、3年の時限立法、1906年まで)

9758 台湾住民去就決定

(抗日事件続発)

98831 保甲条例(ゲリラ対策としての連座制)制定

98115 匪徒刑罰令制定

(死刑2998人)

99622台湾樟脳専売規則公布

1902614台湾糖業奨励規則制定

1895716 芝山巌学堂で日本語教育開始

961・1 日本人学務部員6名殺害事件

96331 直轄諸学校官制(国語学校発足)

967   国語伝習所発足

985 『台湾日日新報』創刊

98728 台湾公学校令(台湾人814歳就学可、修身、国語(日本語)、読書(漢文)。      

99331 師範学校官制公布(台湾人教員養成)

 

1906411

佐久間左馬太

安東貞美

明石元二郎

1904210 日露戦争開戦

06064 三一法(六三法を受け)公布、11年、16年にも延長

08420台湾縦貫鉄道開通

106 拓殖局官制公布(内閣総理大臣に直属、植民地事項統理)

108 韓国併合

127 明治天皇死去

1310苗栗事件(羅福星ら)

157西来庵事件(余清芳ら)など抗日運動続く

147 第1次世界大戦開戦

189 原内閣成立

193 朝鮮三・一独立運動

195 中国五・四抗日運動

190131903『台湾教科用書・国民読本』全12巻刊(カタカナ表記、一部台湾語対訳付き)

026 この頃より駐在所において日本語など教える蕃童教育所の嚆矢。083 駐在所における蕃童教育標準制定(1929年に全島172か所)

043 新公学校規則公布(読書作文習字が「国語科」に、週10時間、「漢文」5時間)

102 「臨時台湾旧慣調査報告」全8冊始まる~111

14418 蕃人公学校規則公布(192950か所)

141220板垣退助来台台湾同化会結成

152 公立中学校官制公布(男子中等普通教育開始)

191 台湾教育令公布(高等普通学校、女子高等普通学校、実務専門学校設置)

19191029

 田健治郎

 内田嘉吉

伊沢多喜男

上山萬之進

川村竹治

石塚英蔵

太田政弘

南弘

中川健蔵

19820台湾総督府官制改正

 (文官総督を認める)

23・1・30 蒋●水ら台湾議会

期成同盟結成

23412~皇太子裕仁台湾行啓

2391  関東大震災

301027 霧社事件

31425  第2霧社事件

31・9・18 満州事変

3112   理蕃政策大綱制定

35617台湾始政40周年

19211017 台湾文化協会結成(林献堂ら)

2226 改正台湾教育令公布(日本人との共学、「国語常用スル者」は小学校、「国語常用シナイ者」は公学校、差別助長)

224 台北高等学校開校(台湾初の高等教育機関)

265 公立中学校で軍事教練開始

28317 台北帝国大学開校

301 台湾ラジオ「国語普及に夕(後、時間)」開始

323 台湾総督府『台日大辞典』刊[

367 高砂族国語講習所規定準則により駐在所に成人向け国語講習所併設(1943272か所)

193692

小林●造

長谷川清

安藤利吉

193611台湾拓殖会社設立 

3777日中戦争始まる

40・4 改姓名の奨励始まる

41128太平洋戦争はじまる

43512海軍特別志願兵制度実施決定(志願316097名)

 4310陸軍特別志願兵制度

43923 閣議により台湾徴兵制実施決定

45・8・30重慶で毛沢東・蒋介石会談、46・5国民軍南京へ

45・10・17国民軍台湾上陸開始、

10・ 25安藤総督参加、中国戦区台湾省受降典礼 

193741 新聞雑誌の中国語(漢文欄)廃止、国語常用家庭制度開始

4141国民学校令公布(小学校、公学校、蕃人公学校⇒国民学校)

41419皇民奉公会発足

43410日本文学報国会台湾支部設立

 国語講習所整理統一要綱、1944年皇民練成所と改称

4382 台湾公立学校官制公布(職員待遇改善)

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2009年7月26日 (日)

「CIAと緒方竹虎」(20世紀メディア研究所第51回特別研究会)は驚きの連続でした

  上記研究会(2009725日午後2時~5時、 早稲田大学)の案内が送信されてきたときから、今回はぜひ参加したいと思った。

 プログラム ――――――

1.序論:情報公開、OSSからCIAへ      山本武利(早大)

2.総論:CIAファイルの中での緒方ファイル  加藤哲郎(一橋大)    

3.各論:

①緒方竹虎とCIAとの接触―新聞・インテリジェンス経験者として 

                                                                                      山本

CIAアレン・ダレスの52年末訪日とその帰結       加藤

③緒方竹虎のCIA関係急接近―コードネーム、ポカポンの55年」誕生を

  読み解く                  吉田則昭(立教大)

④急死直前のCIAの緒方関係評価報告           山本

――――――――――――――――

会場にあふれる熱気

 司会も務める吉田則昭さんは、10年以上前、私が社会人入学した折、指導教授の門奈直樹ゼミの博士課程にいらした若い「先輩」だった。久しぶりにお話できるかも知れないという期待もあった。研究会の前日、朝日新聞(724日)に「日本版CIA構想 緒方竹虎50年代 米・公文書」という記事が出た。あすの研究会の予告を兼ねた記事と思いきやいっさいその記述がないばかりか、「1950年代、内閣官房長官などを務めた緒方竹虎氏が、米中央情報局(CIA)の関係者と頻繁に接触していたことが、米国公文書館で公開されたCIAの秘密文書で明らかになった。・・・」と始まる内容であった。「オガタタケトラ」は子供だった私には、朝日新聞出身の保守党にしては清潔感のある政治家のように映っていた。太平洋戦争末期の小磯、東久邇内閣で情報局総裁を務めたことはずっと後で知ったことだ。

 会場のドアを開けると、思いもかけない盛況で、受付の机が部屋の隅に追いやられ、空席もない。受付の椅子に座っていた女性に勧められるままに座って汗を拭う。資料も足りないらしい。すでに山本報告は始まっていて、CIA成立経過と今回20071月のアメリカ国立公文書館・CIAのナチス・日本の戦犯情報公開法による公開個人ファイル調査の経緯を話されていた。山本先生はGHQによる日本占領期検閲関係資料のプランゲ文庫の整備・研究の第1人者で、数年前、目録整備完成記念のシンポジウム(於国立国会図書館)での話を聞いたことがある。物静かながら、占領期の日本研究の基盤を築いた方だ。

「暗号解読」でわかってくること(総論・各論②)

 次の加藤先生は、時々のぞくホームページでは、精力的な活動の一端が見えていたが、想像通りの元気さで、これまで公開された公文書の日本人個人ファイル(第1次788人中4人、今回約1100人中29人)の中で「緒方ファイル」の突出した量に着目、文書の解読、解明を進めてきたという。冒頭、「きのうの朝日の記事は、当会は一切関知していないし、驚いている。緒方と縁の深い朝日が牽制をしたのかもしれない」という主旨のことを発言され、「今日の参加者には新聞関係者が多く、暗号解読を専門とする方々もいる」とのことで、否がおうにも期待は高まるのだった。もっとも、文書ファイルには人によって当たり外れがあって、たとえば昭和天皇HIROH ITOのファイルにはたいした情報しかなかった?らしい。文書には、空欄(伏字)や暗号が多いものの、緒方ファイル、正力松太郎ファイルなど文書点数が多いファイルを読み進める中で、PO =日本、POGO=日本政府、 POCAPON =緒方竹虎、PODAM=正力松太郎、KUBARK=CIA ODOYOKE=アメリカ政府、などと徐々に解読してきたという。

 CIAが緒方に接近してきた必然性を、加藤先生は、①日本版CIA内閣調査室拡充構想を持っていた②保守合同と日ソ交渉を含め、首相ポストが目前だった③緒方を「反ソ・反鳩山」と見立てて首相にしたかった、にあったとするが、緒方の19561月急死により結果的に挫折した、とする。ただ文書の上で、CIAが緒方に接触を繰り返していた事実は確かだが、たとえば暗号化されていたことなど緒方自身は知らず、自覚的に接触したかどうかは検証を要し、文書内容が交友関係、噂話、操作情報などが入り混じっているので、その扱い方には十分な注意が必要だとしている。緒方がCIAへの協力者だったというよりCIAの「ターゲット」になっていた、という表現の方が正確かもしれないと。

 しかし、たとえば、今回、195212月のクリスマスから年末にかけて、CIA(当時、副長官、ジョン・ダレスの実弟)アレン・ダレスが来日していて、マーフィー駐日大使、吉田茂首相、緒方副首相、村井順内閣調査室長、岡崎勝男外務大臣らとの会見報告書が発見された。その前後の報告文書の内容からも、その来日・会見の目的を明らかにしてゆく。これまでも、松本清張、吉原公一郎、春名幹男らが触れているように、ダレスの私的な旅のついでとか、(CIAの謀略が失敗におわったという)鹿地亘事件の善後策のため、あるいはアメリカの政権交代引き継ぎためとかの来日ではなく、この会見以降、新情報機関ないし日本版CIA構想が協議されたという事実がかなり明確になった、とする。

CIAの緒方への期待と失望(各論①・④)

 山本先生による各論①では、CIAは緒方の「新聞人としての朝日への影響力」、「インテリジェンス専門家としての志向」、吉田茂をつぐ次期首相候補としても期待を寄せたが、頭山満(緒方夫妻の仲人を務めた)、玄洋会、黒龍会など右翼的な背景も指摘されるのに加え、鳩山一郎を支持する読売新聞の正力松太郎の優位は不動であり、緒方が正力のTV権益独占への妨害したこと、緒方の新しい情報機関構想が戦前の情報局を想起させ、新聞界・世論が反対したことなどが重なり、その影響力を喪失していく様子を文書で追跡する。各論④では、1956128日の急死によりはからずも最晩年となるCIAの緒方関連の工作報告文書によって緒方の評価を探る。緒方の地位が喪失しても従来通りの関係を持続する意味を、CIAが望むなら、「将来的展開がどうであれ、この明らかに友情あふれる重要人物がCIAとの関係を友好的かつ援助的な関係として持続するだろう」という文書(1956111日)を紹介する。さらに124日の文書では、三木武吉の言として、首相としては緒方が最もふさわしいが、鳩山を継ぐのは岸信介・池田勇人、河野一郎三者の1955年末の会合で、岸とすることに決定した、と報告している。その文書には、緒方の金づくりがあまりにも紳士的すぎて、資金がない、との文面もある、と。また、CIAから緒方への資金提供があったか否かを示す文書は見出していないが、手土産として緒方が好きなウィスキーのスコッチやタバコが供されたことははっきりしているらしい。

コードネーム・POCAPON誕生を読み解く(各論③)

 吉田さんの報告によれば、緒方のコードネームが初めて登場するのは1955529日の文書からだという。敗戦後からの「緒方年表」が資料として配布されたので、他の報告の際にも役に立った。1955年は日本の政治史においても重要なターニングポイントであったことがわかる。緒方は1952年第25回総選挙で自由党から衆議院議員当選、第4次吉田内閣の官房長官(兼国務大臣)、第5次吉田内閣副総理(兼国務大臣)を務め、1954年末、自由党の分裂を経て、自由党総裁は吉田より緒方へ、鳩山内閣が成立する。1955年から緒方は保守合同を精力的に遊説して回る。11月自由民主党結成、総裁代行委員に就任。この時期のCIAとの連続的な「接触記録」には、次期首相人事の行方についてのやりとりも含まれている。また、それより数か月前の母校70周年記念祝典出席のための[福岡行きの同行記]報告文書の吉田さん訳も配布された。時間がなくて十分な説明が省かれたけれども、帰宅後読んでみると、興味深い内容が盛りだくさんであった。接触者は自分の身分について、緒方の三男四十郎の留学中の親友ということにしようという打ち合わせまでもしている。さらに、私が関心をもったのは、占領初期における占領軍による検閲について民生局のフーバー大佐と語っていることだった。

 かなり身勝手な参加記となってしまった。今朝の毎日新聞では、一面・二面で「彼を首相に、日本は米国の利害で動かせる・緒方竹虎を通じCIA政治工作・50年代米文書分析」という、かなり詳しい記事になっていた(726日)。しばらくあちこちで話題になるに違いない。

http://mainichi.jp/select/today/news/20090726k0000m00117000c.html

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2009年7月22日 (水)

NHKスペシャル「ジャパンデビュー第1回~アジアの“一等国”」をめぐって(1)

この記事の(1)(2)の掲載日時が逆となりましたが、順にお読みください。

1.いま、ふたたび『台湾万葉集』

718日夜、NHK20周年ベストコレクションシリーズの一つとして「素晴らしき地球の旅・台湾万葉集~命のかぎり詠みゆかむ」(1995430日放送、約90分、語り平田満、短歌朗読広瀬修子)が再放送された。あらたに今回、映画評論家佐藤忠男、元担当ディレクターを務めた玄真行のゲストが参加して、番組への感想などが語られた。

折しも、いま、NHKは、「台湾」をめぐり、重大な問題に直面している。 200945日(日)に放送されたNHKスペシャル「ジャパンデビュー第1回~アジアの“一等国”」をめぐり、日本の自虐史観に貫かれ、台湾の親日的な人々を傷つける「偏向」番組であると抗議を受け、訴訟を起こされている。番組は、日本の最初の植民地、台湾における統治政策の歴史をたどるもので、「台湾総督府文書」、統治時代を知る人々の証言、研究者への取材などで綴られたものであった。その詳細については、稿を改めて後述したい。いま、この時期に上記番組が再放送された意味は大きいと思う。私は、1995年放送当時は見逃し、今回初めてだったのである。

2.なぜ、『台湾万葉集』か

『台湾万葉集』は、私が台湾への関心を持ち始めるきっかけにもなった歌集であった。

もう15年以上も前のことになるが、1895年~1945年、50年間の日本統治下の台湾で日本語教育を受けた人々が、短歌を詠み続けていて、編著者の孤蓬万里氏が『台湾万葉集』(1993年)というアンソロジーをまとめ、出版した。それが大岡信「折々のうた」(『朝日新聞』19935月)に連続して何首か紹介され、一躍注目を浴びたことがあった。岩波書店や集英社からの関連出版が相次いだ。歌集の編著者、孤蓬万里氏(本名呉建堂、19261998年、以下敬称略)と歌集は1996年度の菊池寛賞を受賞する。1993年初頭、私などにも、台北の呉建堂という方から突然『台湾万葉集』が届いて驚いたものであった。太平洋戦争が終わって50年経た後も、母国語を奪われ、植民地教育の一環として日本語教育を受けた人々が日本語で短歌を作っていること自体をなかなか理解できなかった。大岡信は「大変素朴で日本の歌壇や歌人が忘れているようなナイーブな短歌を引き継いでいるのが日本語人である台湾の方の短歌ではないか」と紹介していた。以来、私は、日本語で短歌を読み続ける台湾の人たちは、どのような教育を受けたのだろうか、どのような言語生活を送ってきたのか、ということが頭から離れず、台湾の歴史をひも解くことになった。そんな折、1994815日の「815日を語る歌人の集い(第4回)」で、ひとまず「植民地における短歌とは―『台湾万葉集』を手掛かりに」という報告をする機会があった(『八月十五日その時私は19911995』短歌新聞社 19968月、所収)。

・すめらぎと曾て崇めし老人の葬儀のテレビにまぶたしめらす「自序」『台湾万葉集』

・萬葉の流れこの地に留めむと生命のかぎり短歌詠みゆかむ  同上

 と歌った呉建堂は、1首目の自註において「日本の戦後は一段落がついた。(中略)大陸寄りになつた日本に見捨てられ、大陸同胞にも見放された台湾島民には、戦後は未だ終つて居ない」と嘆く。1968年より「台北歌壇」という短歌結社を起こし、雑誌や年間歌集を発行し続け、アンソロジー『花をこぼして』(1981年)『台湾万葉集中巻』(1988年)に続く上記『台湾万葉集(下巻)』をもって3部作を完成させたのだった。一方、19961月、歌会始陪聴者として招かれ、次のような短歌も詠んでいる。

・宮中の歌会始に招かれて日本皇室の重さを想ふ『孤蓬万里半世紀』(集英社1997年)

・国おもひ背の君想ふ皇后の御歌に深く心打たるる 同上

この歌会始の直後、病に倒れ、1998年に他界する。晩年、医師としても多忙のなか、私の便りやぶしつけな質問にも、多くは簡易封筒であるいは薄い便せんに、丁寧にびっしりと書かれた説明やときには叱責を何度かいただいた。また最晩年には、弟の呉建民氏からの書状をいただくなど、短歌への熱情とその人柄の誠実さは忘れがたいものとなった。その手紙でも、自らの天皇・皇室観に及ぶことが多く、私のそれとは隔たりがあったのは確かだったのだが。

3.番組のあらまし

 番組は、『台湾万葉集』に短歌を寄せた何人かの、自らの民族の言語を奪われながら、日本語を、短歌を愛している人々を訪ね、その日本語習得過程を、自分史を、家族史を丹念に聞き出し、彼らにとって、「日本、日本人、日本語、短歌とは」を探りながら、日本と台湾の歴史に重ね合わせるという方法を採っていた。我が家のテレビでは録画が取れず、メモによるが、( )内は、『台湾万葉集』『台湾万葉集続編』(集英社 1995年)などで補った。登場した156人の方々の中から数人の方のコメントの一部を紹介しておきたい。短歌作品はいずれも番組の中で朗読されたものである。

傅彩澄:(1921年生まれ。新聞記者から製薬会社員など経る。1984年~コスモス会員)日本語と中国語の間にあって、日本に対してはウラミ・ツラミとあこがれが半々のような気持だった。台湾人の小学校にあたる公学校では台湾語は禁止で、日本語をもっぱら暗唱させられた。

・悲しかり化外の民の如き身を異国の短歌に憑かれて詠むは

・ハナ、ハタと始めて習ひし日本語の今もなつかしは公学校は

・靴穿きて学校に行く日本人を跣足のわれら羨しみ見たりき

黄得龍(1927年生まれ。師範学校中退後、立法商学院卒業後中学校教員定年まで勤務。1990年代より朝日歌壇ほか入選多数回、「新日本歌人」会員)師範学校時代、一所懸命日本人になろうとしているのに、「皇民化教育」と称してことあるごとにビンタをくらわす日本人に憤りを感じ、「あきらめ」もした。短歌は日本から受けた心の傷を癒してくれるのではないかと思っている。

・白墨の粉を吸ひ吸ひ四十年白髪になれど肺異常なし

・何でまた異国の歌を詠むのかと自問自答し辞書をひもとく

巫永福(1913年、台中の山岳地帯の霧社生まれ。中学校より日本に移り、明治大学在学中台湾芸術研究会結成『フォルモサ』創刊、卒業帰台後、新聞記者時代には『台湾文学』創刊、特高警察の監視下にあった。戦後は実業界に転じた)

・霧社桜今年も咲けり無念呑み花岡一郎、二郎は逝けど

 1930年、原住民の高砂族が日本の圧政に堪えかねて霧社の小学校の運動会で蜂起したいわゆる「霧社事件」で、高砂族で日本語教育を受け、改姓した花岡兄弟は地元の警官となっていたが、事件の責任を取らされ自殺している。作者は弟の二郎とは小学校同級であった。番組では、二郎の未亡人花岡初子が登場し、当時の模様を日本語で語りながら、息子や孫たちは北京語を話し、自分は原住民の言葉タイヤル語か日本語しか話せず、疎外感を味わっている家族だんらん風景が映し出される。それでも初子が原住民の言葉を孫に教えている懸命な姿を映す場面もあった。

蕭翔文(1928年生まれ。小学校時代から懸賞文などに応募入選。1943年日本映画「阿片戦争」を見て、日本人になって中国から英国を追い出すためにも、特別幹部候補生にならねばと志願、日本で訓練を受け、19453月特攻基地知覧で援護任務に就いた。短歌は常に死と直面す日々にあって始めた。戦後、師範学校卒業後は中学・高校で地理を教えた。退職後も若者に短歌を教え、中国語で短歌を詠むことをも試みている)

・愚かにも大東亜共栄圏の夢信じ祖国救ふと「特幹」志願す

・椰子の蔭円座を組みて生徒らと今昔語る兵たりし吾は

 番組の後半は、蕭翔文に焦点を合わせ、戦後の台湾の歴史にも言及しながら、なぜ短歌を詠むのかという台湾の人たちの気持ちを解明していく。戦後は蒋介石率いる中国国民軍による「白色テロ」の恐怖に直面、蕭も捕えられ入獄したとき、中断していた短歌を再び作るようになったのはなぜかを自問する。明日の命がわからないような極限の気持ちになったとき、文章では表現できず、短歌に託すことが多い、と。

番組は、学齢時に不幸な形で出会った日本語・短歌だが、その後のさまざまな境遇の中で、短歌を詠むことによって、怒りや悲しみを乗り越えてきたことが語られることが多かった。かつての日本が植民地政策の一環としての公教育において、母国語を奪って日本語を強制した事実自体、強制されたことによる精神的・文化的苦痛や傷痕について、各人の紹介の中で断片的に言及されるのだが、制度的な強制力や時代による推移が分かりにくい。

 たとえば、放送でも出てきた「ハタ、ハナ」の教科書、国語普及の歌、国語の家などの制度上の位置づけと実態、「万葉集」はどの学年でどんなふうに教えられたのだろうか、教師の側の裁量があったのだろうか、などを番組としても日本語教育の方針と実態を系統的に展開するコーナーがあったら、よかったと思った。

 少なくとも明治以降、1895年からの日本統治下の台湾における政策の変遷、太平洋戦争後の日本と台湾との関係において、1947228事件への日本の対応、1972年の日中国交正常化が台湾にもたらしたものなど100年以上にわたる関係をトータルに見ていくことも重要なのではないか。日本人自身が植民地でしてきたことへの反省なくして、「短歌」という形で日本語への親しみを持続しているという一点で、台湾の人たちの親日性を、有頂天になって受け入れてしまっていないか。当時そんなことを考えていたと思う。

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NHKスペシャル「ジャパンデビュー第1回~アジアの“一等国”」をめぐって(2)

1.番組をめぐる動向

200945日(日)に放送された上記テレビ番組は、日本の最初の植民地、台湾における統治政策の歴史をたどるもので、「台湾総督府文書」、統治時代を知る人々の証言、研究者への取材などで綴られたものであった。とくに、台北第1中学校卒業者などの証言内容が、反日的なもので、統治政策のマイナス面のみが強調され、日本の統治によるインフラ整備などを評価しない上、親日的な台湾の人々を傷つける恣意的な編集や内容になっているという「偏向」を指摘し、NHKへの抗議や訴訟、署名運動が展開されている。

 これらの運動は、個々のNHK視聴者の声が盛り上がってという経緯ではなく、「日本李登輝友の会」「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」「桜チャンネル」などが中心となって進められているようである。NHKは、放送に登場した証言者から直接の抗議を受けていないこと、放送内容・コメントも資料に基づいたものであることなどを回答している。一方、各地の市民団体が共同で立ち上げた「開かれたNHKをめざす全国連絡会」は、NHKに対して、外部の圧力には毅然とした態度で対処するよう要請している。

2.どんな番組だったのか   

番組を見た当時、よく調査されているとは思ったが、私は、1895年から1945年までの50年間の日本による統治時代を、植民地台湾および総督の位置づけの変化、統治政策―産業・政治・軍事・教育・文化政策の推移から、通史的に概観する場面がなく、断片的、各論的な構成で進行したので、やや戸惑った。「資料」「証言」「研究者の分析」という手法の中で、視聴者には分かりやすい「証言」が多用され、前面に押し出された印象が強かった。また、海外の研究者によるコメントは、よりグローバルな番組企画の姿勢を見せたかったのかもしれないが、日本の研究者のコメントも聞きたかったのでやや残念にも思った。台湾統治政策における近年の後藤新平再評価への姿勢、同化政策における天皇制の役割、日本の研究者の見解の対立点などへの言及も欲しかったが、時間的に無理だったのだろうか。

3.ドキュメンタリーの手法          

歴史もののドキュメンタリー一般に共通することだが、資料や研究者による検証ばかりでは、番組の構成として硬いものになりがちだ。しかし、イメージ映像や再現(ドラマ)がやたらと挿入されると、私などはまず興味は半減し、安っぽく思えてしまうのだ。体験者の「証言」を取り入れることは、たしかに、わかりやすさ、親しみやすさの点で魅力的ではあるが、生身の人間の発言は、時期(時代)、場所、相手など環境により流動的である上、番組ではさらに制作者の編集がなされることは加味されなければならない。発言のみが決定的な「証言」となりにくいことは、私たちは、様々な場面で経験することである。それでもテレビは「証言者」の発言内容と同時に環境、声調、表情までをも伝達してくれるので、視聴者は、トータルな情報として受取ることができる一方、断片的な「証言」に多くを依存することのリスクも承知しておくことが必要になるかと思う。

4.「台湾のマス・メディアの形成と天皇制」を読み直しながら

 前述のように『台湾万葉集』がきっかけになり、私は、台湾の日本統治時代のことを本格的に勉強したくて、30年来の仕事を離れ、大学院に進学することにした。これまでのテーマであった「短歌と天皇制」と「メディア」への関心から、この時代における台湾の研究を始めることになった。その過程で『台湾万葉集』の水脈もたどれるかもしれない。1998年に提出した修士論文「日本統治下の台湾におけるマス・メディアの形成と天皇制」の一部は、今回のNHK番組とかかわる部分もありそうである。もう一度読み直すことを思い立った。今から思えば、内容も盛りだくさんだったし、方法論も行き届かないところが多いが、章立ては以下の通りで、第Ⅰ部第4章あたりを中心に、今回の番組と照合しながら、進めたい。なお、第Ⅲ部は、その簡略版を日本統治下における台湾のラジオ・映画の動向と天皇制」として、『立教大学社会学研究科論集』第5号(19983月)に収録している。(続く)

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はじめに:主題と動機/先行研究/構成

第Ⅰ部 日本統治下の台湾におけるマス・メディアの形成

  第1章 日清戦争前後における日本の情報環境

2章 日清戦争はどのように報道されたか            

3章 台湾における新聞の出現と統合

4章 台湾統治政策の推移と日本語教育の歴史

第Ⅱ部 一国二制度から内地延長主義への移行過程における天皇制とメディア 

1章 台湾における”天皇”の浸透

2章 三一法~特別統治時代のメディアの動向            

3章 1923年皇太子行啓とマス・メディア          

第Ⅲ部 台湾統治政策転換期におけるマス・メディア―放送・映画を中心に            

1章 台湾におけるラジオ放送

2章 日本統治下における映画の動向

おわりに:結語/今後の課題

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2009年7月13日 (月)

「今、読み直す戦後短歌1」(7月12日、青学会館)に行ってきました

 このイベントをシンポジウムと名付けてよいものか。プログラムは、以下の通りであった。参加予定者名簿によれば280人に近い盛況ぶりであった。歌壇のイベント事情には疎いながら、圧倒的に女性が多く、20代~40代の参加者、とくに若い男性もちらほら見えていたのでやや驚きもした。

 ミニ講演:(約2時間)
   
戦後の表現の模索―森岡貞香を中心に(花山多佳子)
   
私の歌、公の歌―柳原白蓮と戦争(秋山佐和子)
   
歌うことの意味―生方たつゑに触れて(今井恵子)
   
5人の女性歌人たち―S27年「短歌研究」作品から(西村美佐子)
   
空間変化としての戦後―斎藤茂吉と葛原妙子(川野里子)
 
「敗戦後」という出発―斎藤史、森岡貞香を中心に(佐伯裕子)

合同討議:(約1時間)

質疑応答:(約30分)

報告者の6人全員が、先に出版した『女性短歌評論年表19452001』(森岡貞香監修砂子屋書房 200812月)の執筆者たちであったが、案内にも当日の挨拶でも、この書物については一切触れられていなかった。私としては何となく落ち着きが悪かったのだが、それはともかく、報告は、自由研究の趣で、ひとり20分づつ、壇上では誰もが自在に楽しそうであった。しかし、聞き手からいえば、年号表示一つにしても、元号・西暦が混在していて、明治・大正の年表示で、今の若い人に通じるのかと不安でもあった。かつて私は、篠弘の現代短歌史のテキストにおける年表記の混在を指摘したことがある(篠弘『現代短歌史の争点―対論形式による』参照)。また、「戦後」「終戦後」「敗戦後」という表現が無頓着に入り乱れるのが気になった。報告者は、いろいろな場所で話し慣れている歌人たちと思うが、今回の報告で、私には今井さんと川野さんの話は聞きやすかった。が、続く「合同討議」の中でも、さかんに飛び交う「文体」という言葉には閉口した。自明のこととして交わされていた「短歌における文体」とは何なのだろう。他の言葉に置き換えるとどうなるのだろう。会場からの質問にもあったが、「戦後とは」「戦後短歌とは」の各人の認識がバラバラなままの合同討議は井戸端会議風であり、それよりは、早く会場との質疑に移した方が、議論が深まったのではないかと思った。

 各人の報告についていえば、白蓮の再評価、たつゑの評価の行方については興味深いが、会場からは彼女らを「知らなかった」などの発言があったりして、共通認識の難しさを感じた。1934年ポトナム入会の貞香の戦時下、1945年以前の短歌作品を切ってしまう大胆さ、「私の歌、公の歌」などと仕分けること自体の無意味さ、1929年の茂吉作品と1969年の妙子作品を比較し、後者に「空間変化としての戦後」を見る強引さなどが気がかりでもあり、今後の私自身の課題にもなりそうだ。

 なお、上記『女性短歌評論年表19452001』への私の感想を、以下、質疑の時間に申し添えた。

[このような資料的な価値のある書物が完成するまでには苦労も多く、こうした仕事に敬意を表し、私も大いに活用させていただくつもりだ。ただ、このような資料は、それ自体の価値とともに、その成果を後の人に伝えていくという仕事も担うことになる。そこで、自分たちに何ができて、何ができなかったかを明確にしておくことが必要ではないか。たとえば、女性評論文献の採録基準はどうだったのか。文献探索にしても何を調べ、何が調べられなかったのか。採録対象雑誌は網羅的に閲覧が可能だったのか、欠号はなかったのか、2次資料に拠ったのか、採録担当責任者はだれだったのか、などを記録にとどめ、継承することが、次代の資料検索や研究に貢献することになるに違いないからである。]

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2009年7月 6日 (月)

町の名前、こんな風に決まるんだ~「ユーカリが丘」って、どこまで?!

  

町名の変更はどのようになされるのか

井野東土地区画整理組合の事業期間が3年間延長になったのは、前号でもお知らせした。今回の開発地区の、宮ノ台5丁目と4丁目に挟まれた第2工区は、私の散歩コースでもある。知り合いに出会って、「ここは宮ノ台6丁目にでもなるのかしらね」などと話していたものだった。昨年末には、「西ユーカリが丘○○街区」の看板を立てた1戸建ての工事が始まり、その内、販売センターもできたと思ったら、間取りなどの建築概要の看板のトップに、いつの間にか「ユーカリが丘ビューガーデン」と書き換えられていた。建築済みの家には、契約済・申込・商談中などの張り紙が貼られた家がちらほらあらわれている。商売とはいえ、隣接の北公園も正式には「ユーカリが丘北公園」だが、住民はもっぱら「北公園」だ。今どきの住宅購入者は、町の名前などには騙されはしない、その現地の住環境をシビアに検討しているに違いない。
 近所の友人から、井野東の町名が審議されているらしい、と聞いた。佐倉市のホームページをみると、129日「住居表示審議会」で議題になっていた。この審議会の諮問を受けた後、市長が決定して市議会に報告する、という手順をとるそうだ。
 
引き続きの416日の審議会も気になるものの、所用で傍聴できなかった。つい最近、その会議要録が公表されたので、審議会2回分を合わせて読むと見えてきたことがある。結論的にいえば、第123工区は、何回目かの投票で「西ユーカリが丘」に決まった。マンションやマックスバリュが建っている第4工区はすったもんだの末、「北ユーカリが丘」案を抑えて「宮ノ台」に決定した。今後は、丁目や学区割りについて審議が続けられるという。

事務局が用意した5つの案の不透明性

1月の審議会では、議題「井野東地区町名変更について」について、事務局はすでに次の5つの案を用意していた。

第1・第2・第3工区

第4工区

西ユーカリが丘

北ユーカリが丘            

宮ノ台7丁目/ユーカリが丘8丁目

宮ノ台6丁目

ユーカリが丘8丁目/9丁目

北ユーカリが丘

井野長割1丁目/2丁目

ユーカリが丘8丁目

西ユーカリが丘

宮ノ台(6丁目)

会議では、①の組合案の位置づけが問題になっていた。市の事務局は、組合が実施した地権者160人へのアンケート調査の集計結果(回収率72%)なので参考にしてほしいといい、同様のアンケートを周辺住民全体に実施してはという意見に対しては、関心のない住民の無責任な回答が出かねないと答えている。委員からは、昔の地名を大事にすべきだとする意見も出ていた。                  

 私は歴史的な地名を大切にするとともに、少なくとも開発実績を踏まえながら、意見の協議・調整するのが審議会の仕事だと考え、その際に周辺住民や自治会が発言できるチャンスは当然あるべきだと思っている。
 
組合案は、「ユーカリが丘」の知名度とブランド力?を強引に引出した感があり、他の案も「ユーカリが丘」にひきずられて、どこか不自然な組合せ案に思える。事務局提案の選択肢が恣意的にも思える。開発実績・町名定着度からいえば②案あたりが妥当かとも思う。昔からの字(あざ)名を重視すれば一部④案なのだが、井野本村を挟んだ第4工区がなぜ「ユーカリが丘」なのかが分かりにくい。現在、第4工区にぽつんと残された八社大神だが、社を囲む里山一帯の小字名は「宮ノ台」で、現在の「宮ノ台」もそれに由来すると、郷土史の勉強会で聞いたことがある。委員からも出ていたが、ユーカリの木は燃えやすいとのことだったが、私は、風に弱く、折れやすいとも聞き、げんに近くの中学校や公園のユーカリの木は数年前切られている。

地名研究が専門の委員からは、昔からの地名を大事にするという佐倉市の方針はご破算になったのか、ユーカリが丘は地名としてちょっと違和感がある、と。また、志津北部地区在住の臨時委員からは、ユーカリの木がたくさん植えられているわけでもないのに、ユーカリが丘と名付けたのは開発業者の営業のためではないか、経緯も知りたいが、井野13丁目という案もある、などの疑問が出されていた。

性急な、強引な採決の中で

これらの5つの案について、委員は書面で意見を提出していた。4月審議会の冒頭で集計結果が事務局から発表された。多い順に、前回の①案「西ユーカリが丘・北ユーカリが丘」、「ユーカリが丘・宮ノ台」、「井野長割または井野を含んだ町名」、その他3名と発表。さらに、事務局から、前回の5つの案を本日、委員の無記名投票で行い、1位が過半数に達しない場合は、上位2位で決選投票とするという提案があった。なお、それに先だって、採決方法について「挙手」か「投票」かについての議論の末、多数決で「投票」を採用した。投票結果は、第1回が①案7票、②案3票、④案3票、⑤案4票、白紙1票。どの案も過半数が取れず、第2回・第3回の投票でも、①案6票、⑤案8票、白紙3票は動かなかった。議長は白紙投票者の退席まで提案し、決着を急ぐ。さらに①⑤案共通の第123工区の「西ユーカリが丘」案は68票とカウントし、18人出席委員の過半数にあたるので決定とした。残る第4工区を「宮ノ台」か「北ユーカリが丘」の決選とし、挙手の9対7で「宮ノ台」に決まった。

民主主義への道のりはまだまだ遠い。

結果もさることながら、私は組合案に固執した委員名とその理由が知りたい。公的な審議会の採決にあたって、なぜ挙手や記名投票がなされないのか。挙手を忌避する理由が、傍聴人がいると地元代表委員の本音が出にくいというものだった。しかし、委員を引き受けた以上は、自らの名前で発言し、採決に参加するのは当然の責任と義務ではないのか。これは、私がかつて公募委員として参加した情報公開(現在は「個人情報保護審議会」と合併している)審議会で、会議録で個々の委員の発言に名前が明記されなかったので、記名を提案したが否決されたこと、審議会のボスのような長期にわたる学識経験者委員と事務局がなれ合いのような場面が多々あったことなどを思い出す。住居表示審議会は、従来複数の担当職員が審議会メンバーになっていたことが、今回の条例改正で改められた。それでも実質的な役人主導は拭いがたいが、形式的にも出題者が回答作成にかかわっていたようなものではなかったか。

補記①2009年12月21日の佐倉市市議会において、この町名変更は原案通り可決された。 ② 2011年6月4日より、井野東土地区画整理事業の換地に伴い、第1~3工区は「西ユーカリが丘1丁目から5丁目」、第4工区は「宮ノ台6丁目」に町名と地番が変更された。

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2009年7月 1日 (水)

「戦争画の相貌」花岡萬舟連作展へ

  1時間半近くかけて東京へ出るとなると、一つの用事では「もったいない」が先に立つ。今回の展覧会は、車中で見た東京メトロの「沿線たより」のイベント欄で知った。早稲田大学会津八一記念博物館「花岡満州連作」とあって、やや意味不明のまま、「戦争画の相貌」の命名に惹かれ、会場に向かった。大学勤めが長かった私には、学生街とキャンパスの賑わいや喧騒は、やはり懐かしい。会場のポスターで「満州」は画家の(花岡)「萬舟」の誤植とわかった。

 「花岡萬舟」は初めて聞く名前だった。また、この画家の57点の戦争画は、2006年に広島の実業家、住野重樹氏(住野工業、1906年創業、戦前は主にこはぜの製造、原爆により灰儘に帰すが、戦後は自動車部品プレス溶接など)により、この博物館に寄贈されたものだった。寄贈者先代の入手経緯は不明ながら、会社の倉庫や寄託先の美術館収蔵庫で保管されていたものの痛みが著しく、早速修復にとりかかり、今回、修復が済んだ27点が展示されることになったという。制作年や題が不詳のものが多い。

 順路の冒頭の「世界の黎明」(制作年不明)は「天の岩戸」がまさに開かれ、一条の光が差し込んだ場面を描き、「霜月に散る若桜」(1942年頃)は楠木正行の四条畷の戦いのシーンを描いていた。何となく見たことがあるような「歴史画」であって、「戦争画」かしらと思って進むと、「無錫入ル中島今(朝吾)部隊」(1937年頃)、「南京攻略」(1938年頃)などが並ぶ。前者は、集落にはいる部隊の先頭を行く兵士、中央には馬上の上官、左手には物資を荷台にのせた馬車の隊列を背後から描き、前方には黒煙が上がっている。手前には多くの轍の跡、左右の民家には小さな日の丸が掲げられている。後者は、左手、砲兵陣地のはるか先に広がる南京市街地から幾すじかの黒煙が上がり、その手前には、土塁に銃を構えた兵士たちが点々と並ぶ、「南京陥落」目前の戦闘図である。陣地の日の丸の横で双眼鏡を持つのが第16師団長中島今朝吾陸軍中将とされる。修復と言っても補色はしなかったというから、四隅や縁の絵の具がはがれたままの作品も多く見受けられた。どの絵でも、その前に立ち、真っ先に飛び込んでくるのが「白地に赤い」日の丸であった。またさらに進むと、絵の中央に白茶けた部分があって、一瞬、損傷部分かと思ったが、絵は、戦場の兵士の休息時間を描くなかで、たなびくような白煙にかこまれたスペースに書き込まれていたものは、いわば兵士たちの故郷ののどかな秋の収穫風景であり、その中央には乳母車に付き添って子守りをする少年もいる。そういえば、兵士のあるものは、長い巻紙様の書状を読んでいるし、煙草の煙をはいている。一枚の絵に二つのシーンを描く手法は、よく見かける。花岡の絵のように、わかりやすさもあるが、やや安易にも思えた。同じような手法は「忠魂永へに闘ふ」にも用いられ、戦友の遺骸を火葬する場面を描いている中、その煙の中に、なお銃を構えて敵陣に突撃する、小さな兵士の姿を描いているのである。表現が適切かどうかわからないが、安っぽい紙芝居を見ているような気がした。しかし、私は、「漢口デルタ地帯」「重慶拠点」「露営の夢」と題された作品や行軍、上陸、輸送、突撃の場面などおける兵士の装備、積荷、警備状況などの詳細な描き込みなどが記録資料的にも貴重に思えたし、その視線が常に兵士の後方にあることに、関心を寄せるのだった。

カタログによれば(喜多孝臣)、画家、花岡については生没年も不明で、著作権継承者を探索中だという。本名田中亀一、新聞記事などにより1901年、浅草生まれと推定され、京都の山元春挙に日本画を学び、1920年代後半、朝鮮総督山梨半造の知遇を得た後、軍部との縁が深く、1937年上海事変における爆弾三勇士も描いた。中国での活動が長く、「陳張波」を名乗って情報収集をしていた時期もあったという。日本の美術界で、その名が知られたのは1940年開催の「聖戦報国展」であった。軍部や宮家とのつながりとその絵の大衆性が知るところとなり、1941年忠愛美術院(中島今朝吾陸軍中将総裁)を設立、忠心愛国の戦争画を中心に展覧会を開催、傷痍軍人による作品も募集、後、傷痍軍人たちの更生の一環として絵画の指導も行った。中野鷺宮の住居がその活動の拠点にもなったが、この地を離れた後は、隣人たちの話によれば広島の原爆で亡くなったということだ。広島の住野家との縁でもあったのだろうか。ちなみに、この鷺宮のアトリエ付き旧居には、後、経済学者向坂逸郎が住み、向坂夫人の没後は法政大学に寄贈されていたが、これも近く取り壊しの予定だという。

1937年日中戦争開始後、陸海軍省報道部は中央画壇の錚々たる画家たちを戦地へ、従軍画家として派遣した。1939年の第1回聖戦美術展を皮切りに、19454月に至るまで、軍、新聞社、画家(団体)などの連携で、幾多の美術展が全国巡回して開催され、国民の戦意高揚の一端を担った。花岡の活動は、これらの動きとは異なる軌跡をたどりながらも、同様の役割を果たしたことになるだろう。

戦時下に描かれ、展示された多数の戦争画の一部が、敗戦後GHQの手により収集され、紆余曲折の後、東京国立近代美術館に無期限貸与の形で日本に返却されたのだが、その全面的な展示はいまだ果たされていない。このブログでも、藤田嗣治展のところで触れているが、たとえば、戦時下作品や敗戦直後のGHQへの協力などの行動を封じ込めようとする、あるいは救済しようとする勢力があることを残念に思う。

今回の展示では、花岡萬舟という画家の存在を明らかにし、残された作品を公開するためには多くの人々の善意、硬い意志と努力がはらわれたことに敬意を表したいと思う。

 

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