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2009年7月 1日 (水)

「戦争画の相貌」花岡萬舟連作展へ

  1時間半近くかけて東京へ出るとなると、一つの用事では「もったいない」が先に立つ。今回の展覧会は、車中で見た東京メトロの「沿線たより」のイベント欄で知った。早稲田大学会津八一記念博物館「花岡満州連作」とあって、やや意味不明のまま、「戦争画の相貌」の命名に惹かれ、会場に向かった。大学勤めが長かった私には、学生街とキャンパスの賑わいや喧騒は、やはり懐かしい。会場のポスターで「満州」は画家の(花岡)「萬舟」の誤植とわかった。

 「花岡萬舟」は初めて聞く名前だった。また、この画家の57点の戦争画は、2006年に広島の実業家、住野重樹氏(住野工業、1906年創業、戦前は主にこはぜの製造、原爆により灰儘に帰すが、戦後は自動車部品プレス溶接など)により、この博物館に寄贈されたものだった。寄贈者先代の入手経緯は不明ながら、会社の倉庫や寄託先の美術館収蔵庫で保管されていたものの痛みが著しく、早速修復にとりかかり、今回、修復が済んだ27点が展示されることになったという。制作年や題が不詳のものが多い。

 順路の冒頭の「世界の黎明」(制作年不明)は「天の岩戸」がまさに開かれ、一条の光が差し込んだ場面を描き、「霜月に散る若桜」(1942年頃)は楠木正行の四条畷の戦いのシーンを描いていた。何となく見たことがあるような「歴史画」であって、「戦争画」かしらと思って進むと、「無錫入ル中島今(朝吾)部隊」(1937年頃)、「南京攻略」(1938年頃)などが並ぶ。前者は、集落にはいる部隊の先頭を行く兵士、中央には馬上の上官、左手には物資を荷台にのせた馬車の隊列を背後から描き、前方には黒煙が上がっている。手前には多くの轍の跡、左右の民家には小さな日の丸が掲げられている。後者は、左手、砲兵陣地のはるか先に広がる南京市街地から幾すじかの黒煙が上がり、その手前には、土塁に銃を構えた兵士たちが点々と並ぶ、「南京陥落」目前の戦闘図である。陣地の日の丸の横で双眼鏡を持つのが第16師団長中島今朝吾陸軍中将とされる。修復と言っても補色はしなかったというから、四隅や縁の絵の具がはがれたままの作品も多く見受けられた。どの絵でも、その前に立ち、真っ先に飛び込んでくるのが「白地に赤い」日の丸であった。またさらに進むと、絵の中央に白茶けた部分があって、一瞬、損傷部分かと思ったが、絵は、戦場の兵士の休息時間を描くなかで、たなびくような白煙にかこまれたスペースに書き込まれていたものは、いわば兵士たちの故郷ののどかな秋の収穫風景であり、その中央には乳母車に付き添って子守りをする少年もいる。そういえば、兵士のあるものは、長い巻紙様の書状を読んでいるし、煙草の煙をはいている。一枚の絵に二つのシーンを描く手法は、よく見かける。花岡の絵のように、わかりやすさもあるが、やや安易にも思えた。同じような手法は「忠魂永へに闘ふ」にも用いられ、戦友の遺骸を火葬する場面を描いている中、その煙の中に、なお銃を構えて敵陣に突撃する、小さな兵士の姿を描いているのである。表現が適切かどうかわからないが、安っぽい紙芝居を見ているような気がした。しかし、私は、「漢口デルタ地帯」「重慶拠点」「露営の夢」と題された作品や行軍、上陸、輸送、突撃の場面などおける兵士の装備、積荷、警備状況などの詳細な描き込みなどが記録資料的にも貴重に思えたし、その視線が常に兵士の後方にあることに、関心を寄せるのだった。

カタログによれば(喜多孝臣)、画家、花岡については生没年も不明で、著作権継承者を探索中だという。本名田中亀一、新聞記事などにより1901年、浅草生まれと推定され、京都の山元春挙に日本画を学び、1920年代後半、朝鮮総督山梨半造の知遇を得た後、軍部との縁が深く、1937年上海事変における爆弾三勇士も描いた。中国での活動が長く、「陳張波」を名乗って情報収集をしていた時期もあったという。日本の美術界で、その名が知られたのは1940年開催の「聖戦報国展」であった。軍部や宮家とのつながりとその絵の大衆性が知るところとなり、1941年忠愛美術院(中島今朝吾陸軍中将総裁)を設立、忠心愛国の戦争画を中心に展覧会を開催、傷痍軍人による作品も募集、後、傷痍軍人たちの更生の一環として絵画の指導も行った。中野鷺宮の住居がその活動の拠点にもなったが、この地を離れた後は、隣人たちの話によれば広島の原爆で亡くなったということだ。広島の住野家との縁でもあったのだろうか。ちなみに、この鷺宮のアトリエ付き旧居には、後、経済学者向坂逸郎が住み、向坂夫人の没後は法政大学に寄贈されていたが、これも近く取り壊しの予定だという。

1937年日中戦争開始後、陸海軍省報道部は中央画壇の錚々たる画家たちを戦地へ、従軍画家として派遣した。1939年の第1回聖戦美術展を皮切りに、19454月に至るまで、軍、新聞社、画家(団体)などの連携で、幾多の美術展が全国巡回して開催され、国民の戦意高揚の一端を担った。花岡の活動は、これらの動きとは異なる軌跡をたどりながらも、同様の役割を果たしたことになるだろう。

戦時下に描かれ、展示された多数の戦争画の一部が、敗戦後GHQの手により収集され、紆余曲折の後、東京国立近代美術館に無期限貸与の形で日本に返却されたのだが、その全面的な展示はいまだ果たされていない。このブログでも、藤田嗣治展のところで触れているが、たとえば、戦時下作品や敗戦直後のGHQへの協力などの行動を封じ込めようとする、あるいは救済しようとする勢力があることを残念に思う。

今回の展示では、花岡萬舟という画家の存在を明らかにし、残された作品を公開するためには多くの人々の善意、硬い意志と努力がはらわれたことに敬意を表したいと思う。

 

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コメント

内野様
花岡萬舟についてのブログ拝見いたしました。謎の多い画家・スパイだとは知っていましたが、彼の絵の展覧会が開催されると新聞で知ったときは正直驚きました。戦争画家なんて人気無いですからね。世の中に花岡萬舟についてブログを書かれる方がいらっしゃる事にもさらに驚きです。

投稿: iijijii | 2010年5月 9日 (日) 01時35分

はじめまして。戦争と美術に関して研究しております。
花岡萬舟展のことをブログに書きました。お目通しいただければうれしく存じます。
http://ameblo.jp/e-no4765/

投稿: 飯野 | 2009年7月17日 (金) 12時13分

 はじめまして。「花岡萬舟」で検索し、内野様のブログを読ませていただきました。
 東京へ出るとなると、一つの用事では「もったいない」・・・私もまったく同じで、複数の用事を作って出かけるようにしています。同じような方がおられるものだと、痛く感心しました。
 私は、某紙でこの展覧会のことを知り、連れ合いと出かけました。(その前後には、東中野ポレポレで映画鑑賞。神山征二郎監督の新作「鶴彬―こころの軌跡」と旧作の「三たびの海峡」)
 富士山が描かれている絵を見て、恥ずかしながら、富士山が戦意高揚のためのシンボルとして広く利用されていたということを初めて知りました。
 「嗚呼 満蒙開拓団」を観たりするなかで、「いい歳(還暦)をして、知らないことが多すぎるなぁ」と恥じ入っているところです。

投稿: kawasumi@ibaraki | 2009年7月11日 (土) 01時48分

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