NHKスペシャル「ジャパンデビュー第1回~アジアの“一等国”」をめぐって(3)
表題のNHKの番組に登場した、日本語の巧みな証言者たちの日本語教育は、どのような植民地統治政策、教育制度の中で、どのように実施されていたのだろうか。あえて単純化をめざし、つぎのように考えた。次の3つの視点から、それらが連動しあって、推移するさまを見るとどうなるだろう。横断的に、ときには時系列で概観してみたいと思った。1990年代は、日本の旧植民地研究はそれまでの研究の成果が形となって、出版がされ始めた時期でもあった。私には、駒込武『植民地帝国日本の文化統合』(1996年)『岩波講座近代日本と植民地』全8巻(岩波書店 1992~93年)などはとてもありがたかった。なかでも前者は、丸山真男のナショナリズム観、ベネディクト・アンダーソンの国民国家論など、それまでの私の断片的な生半可な理解を、分かりやすく整理をしているように思えたからである。さらに、同書では②の視点を「国家統合」、③の視点を「文化統合」という言葉でくくり、③のかなめとしての学校教育をとらえようとしていた。研究者により用語の定義もことなるが、②を法制度的次元、③を文化的次元と置き換えることもできる。さらに②においては平等化と差別化を縦軸にその両極に内地延長主義と植民地主義が位置づけられる、と理解した。
①本国の政治体制と台湾総督が軍人であったか、文官であったか ②政治・経済の制度はどうであったか ③教育・文化とくに日本語教育の制度及び実態はどうであったか 結論を急ぐようだが、上記NHK番組に登場する日本語教育を受けた人たちの証言を聞き、取材や編集が偏向していると抗議をする人たちの言い分を聞いていると、植民地支配・統治国の側の当事者が、②③の結果として残された「成果」のみを強調しているように思える。断片的に一部の人たちが、インフラや教育環境の整備の恩恵を受けたからといって、すべての植民地政策自体が肯定されることにはならないはずである。とくに、③によって日本語を身につけ、「皇民」として暮らすことを余儀なくされた人々がいたことは、年表を作成する過程でいやでも身にしみた。 年表には挙げなかったが、原住民の少年が死に直面しながら「君が代」歌い続けたという美談がマスメディアを通じて喧伝されたことも何度かある。また、『台湾日誌』(台湾総督府編)によれば、1940年代に入ると、嘉義市役所では台湾語では受付を拒否した(1940年10月19日)、高雄市市営バス内では台湾語を禁止した(1941年1月28日)、「国語新聞」を「皇民(みたみ)新聞」に改題した(1942年2月11日)、歌会始には台湾から1522首の詠進があった(1943年1月29日)、といったような記事も頻出し、1914年から続く日本語コンクール「国語演習会」や国語普及功労者表彰の記事などが目を引く。植民地における統治政策の曲折とともに、日本による過酷なまでの日本語強制の痕跡をたどることになった。 さらに、1945年日本敗戦後、中国内戦状態の中、10月、国民政府軍台湾に上陸、1946年2月日本語書籍の取締り始まり、同年10月からは新聞雑誌での日本語が廃止になる。1947年2月28日反政府暴動への武力制圧が続き、約3万人の犠牲者を出す。このときの戒厳令が1987年まで続く。1952年日華平和条約結ぶも1972年日中国交正常化に伴い、台湾国民政府とは国交断絶。1988年親日派とされる李登輝が台湾人として初めて総統に就任、柔軟外交を宣言する。 台湾と日本の関係は決して単純に割り切れるものではなく、複雑かつ微妙な関係は今日まで続いているといっていいだろう。今回のNHK番組への偏向批判は、歴史的事実に反する、あまりにもエキセントリックな反応にしか思えない。そして、そうした批判の中心に政府与党の議員が何人も名前を連ねている事実こそ、国民は理性を持って受け止める必要があるだろう。 台湾(日本語教育)年表 『台湾台年表』『台湾日誌』『近代日本総合年表』『現代史資料・台湾ⅠⅡ』などより作成(内野光子)
総督 政治・経済関係 教育・文化・日本語教育関係 1895・5・10 樺山資紀 桂太郎 乃木希典 児玉源太郎 (98・2・26~) (後藤新平民政局長、後長官) 1895・4・17 日清講和条約により台湾領有 96・3・31 六三法公布 (総督による命令権限、3年の時限立法、1906年まで) 97・5・8 台湾住民去就決定 (抗日事件続発) 98・8・31 保甲条例(ゲリラ対策としての連座制)制定 98・11・5 匪徒刑罰令制定 (死刑2998人) 99・6・22台湾樟脳専売規則公布 1902・6・14台湾糖業奨励規則制定 1895・7・16 芝山巌学堂で日本語教育開始 96・1・1 日本人学務部員6名殺害事件 96・3・31 直轄諸学校官制(国語学校発足) 96・7 国語伝習所発足 98・5 『台湾日日新報』創刊 98・7・28 台湾公学校令(台湾人8~14歳就学可、修身、国語(日本語)、読書(漢文)。 99・3・31 師範学校官制公布(台湾人教員養成) 1906・4・11 佐久間左馬太 安東貞美 明石元二郎 1904・2・10 日露戦争開戦 06・06・4 三一法(六三法を受け)公布、11年、16年にも延長 08・4・20台湾縦貫鉄道開通 10・6 拓殖局官制公布(内閣総理大臣に直属、植民地事項統理) 10・8 韓国併合 12・7 明治天皇死去 13・10苗栗事件(羅福星ら) 15・7西来庵事件(余清芳ら)など抗日運動続く 14・7 第1次世界大戦開戦 18・9 原内閣成立 19・3 朝鮮三・一独立運動 19・5 中国五・四抗日運動 1901・3~1903『台湾教科用書・国民読本』全12巻刊(カタカナ表記、一部台湾語対訳付き) 02・6 この頃より駐在所において日本語など教える蕃童教育所の嚆矢。08・3 駐在所における蕃童教育標準制定(1929年に全島172か所) 04・3 新公学校規則公布(読書作文習字が「国語科」に、週10時間、「漢文」5時間) 10・2 「臨時台湾旧慣調査報告」全8冊始まる~11・1 14・4・18 蕃人公学校規則公布(1929年50か所) 14・12・20板垣退助来台台湾同化会結成 15・2 公立中学校官制公布(男子中等普通教育開始) 19・1 台湾教育令公布(高等普通学校、女子高等普通学校、実務専門学校設置) 1919・10・29 田健治郎 内田嘉吉 伊沢多喜男 上山萬之進 川村竹治 石塚英蔵 太田政弘 南弘 中川健蔵 19・8・20台湾総督府官制改正 (文官総督を認める) 23・1・30 蒋●水ら台湾議会 期成同盟結成 23・4・12~皇太子裕仁台湾行啓 23・9・1 関東大震災 30・10・27 霧社事件 31・4・25 第2霧社事件 31・9・18 満州事変 31・12 理蕃政策大綱制定 35・6・17台湾始政40周年 1921・10・17 台湾文化協会結成(林献堂ら) 22・2・6 改正台湾教育令公布(日本人との共学、「国語常用スル者」は小学校、「国語常用シナイ者」は公学校、差別助長) 22・4 台北高等学校開校(台湾初の高等教育機関) 26・5 公立中学校で軍事教練開始 28・3・17 台北帝国大学開校 30・1 台湾ラジオ「国語普及に夕(後、時間)」開始 32・3 台湾総督府『台日大辞典』刊[ 36・7 高砂族国語講習所規定準則により駐在所に成人向け国語講習所併設(1943年272か所) 1936・9・2 小林●造 長谷川清 安藤利吉 1936・11台湾拓殖会社設立 37・7・7日中戦争始まる 40・4 改姓名の奨励始まる 41・12・8太平洋戦争はじまる 43・5・12海軍特別志願兵制度実施決定(志願316、097名) 43・10陸軍特別志願兵制度 43・9・23 閣議により台湾徴兵制実施決定 45・8・30重慶で毛沢東・蒋介石会談、46・5国民軍南京へ 45・10・17国民軍台湾上陸開始、 10・ 25安藤総督参加、中国戦区台湾省受降典礼 1937・4・1 新聞雑誌の中国語(漢文欄)廃止、国語常用家庭制度開始 41・4・1国民学校令公布(小学校、公学校、蕃人公学校⇒国民学校) 41・4・19皇民奉公会発足 43・4・10日本文学報国会台湾支部設立 国語講習所整理統一要綱、1944年皇民練成所と改称 43・8・2 台湾公立学校官制公布(職員待遇改善)
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