NHKスペシャル「ジャパンデビュー第1回~アジアの“一等国”」をめぐって(1)
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1.いま、ふたたび『台湾万葉集』
7月18日夜、NHKの20周年ベストコレクションシリーズの一つとして「素晴らしき地球の旅・台湾万葉集~命のかぎり詠みゆかむ」(1995年4月30日放送、約90分、語り平田満、短歌朗読広瀬修子)が再放送された。あらたに今回、映画評論家佐藤忠男、元担当ディレクターを務めた玄真行のゲストが参加して、番組への感想などが語られた。
折しも、いま、NHKは、「台湾」をめぐり、重大な問題に直面している。 2009年4月5日(日)に放送されたNHKスペシャル「ジャパンデビュー第1回~アジアの“一等国”」をめぐり、日本の自虐史観に貫かれ、台湾の親日的な人々を傷つける「偏向」番組であると抗議を受け、訴訟を起こされている。番組は、日本の最初の植民地、台湾における統治政策の歴史をたどるもので、「台湾総督府文書」、統治時代を知る人々の証言、研究者への取材などで綴られたものであった。その詳細については、稿を改めて後述したい。いま、この時期に上記番組が再放送された意味は大きいと思う。私は、1995年放送当時は見逃し、今回初めてだったのである。
2.なぜ、『台湾万葉集』か
『台湾万葉集』は、私が台湾への関心を持ち始めるきっかけにもなった歌集であった。
もう15年以上も前のことになるが、1895年~1945年、50年間の日本統治下の台湾で日本語教育を受けた人々が、短歌を詠み続けていて、編著者の孤蓬万里氏が『台湾万葉集』(1993年)というアンソロジーをまとめ、出版した。それが大岡信「折々のうた」(『朝日新聞』1993年5月)に連続して何首か紹介され、一躍注目を浴びたことがあった。岩波書店や集英社からの関連出版が相次いだ。歌集の編著者、孤蓬万里氏(本名呉建堂、1926~1998年、以下敬称略)と歌集は1996年度の菊池寛賞を受賞する。1993年初頭、私などにも、台北の呉建堂という方から突然『台湾万葉集』が届いて驚いたものであった。太平洋戦争が終わって50年経た後も、母国語を奪われ、植民地教育の一環として日本語教育を受けた人々が日本語で短歌を作っていること自体をなかなか理解できなかった。大岡信は「大変素朴で日本の歌壇や歌人が忘れているようなナイーブな短歌を引き継いでいるのが日本語人である台湾の方の短歌ではないか」と紹介していた。以来、私は、日本語で短歌を読み続ける台湾の人たちは、どのような教育を受けたのだろうか、どのような言語生活を送ってきたのか、ということが頭から離れず、台湾の歴史をひも解くことになった。そんな折、1994年8月15日の「8月15日を語る歌人の集い(第4回)」で、ひとまず「植民地における短歌とは―『台湾万葉集』を手掛かりに」という報告をする機会があった(『八月十五日その時私は1991~1995』短歌新聞社 1996年8月、所収)。
・すめらぎと曾て崇めし老人の葬儀のテレビにまぶたしめらす「自序」『台湾万葉集』
・萬葉の流れこの地に留めむと生命のかぎり短歌詠みゆかむ 同上
と歌った呉建堂は、1首目の自註において「日本の戦後は一段落がついた。(中略)大陸寄りになつた日本に見捨てられ、大陸同胞にも見放された台湾島民には、戦後は未だ終つて居ない」と嘆く。1968年より「台北歌壇」という短歌結社を起こし、雑誌や年間歌集を発行し続け、アンソロジー『花をこぼして』(1981年)『台湾万葉集中巻』(1988年)に続く上記『台湾万葉集(下巻)』をもって3部作を完成させたのだった。一方、1996年1月、歌会始陪聴者として招かれ、次のような短歌も詠んでいる。
・宮中の歌会始に招かれて日本皇室の重さを想ふ『孤蓬万里半世紀』(集英社1997年)
・国おもひ背の君想ふ皇后の御歌に深く心打たるる 同上
この歌会始の直後、病に倒れ、1998年に他界する。晩年、医師としても多忙のなか、私の便りやぶしつけな質問にも、多くは簡易封筒であるいは薄い便せんに、丁寧にびっしりと書かれた説明やときには叱責を何度かいただいた。また最晩年には、弟の呉建民氏からの書状をいただくなど、短歌への熱情とその人柄の誠実さは忘れがたいものとなった。その手紙でも、自らの天皇・皇室観に及ぶことが多く、私のそれとは隔たりがあったのは確かだったのだが。
3.番組のあらまし
番組は、『台湾万葉集』に短歌を寄せた何人かの、自らの民族の言語を奪われながら、日本語を、短歌を愛している人々を訪ね、その日本語習得過程を、自分史を、家族史を丹念に聞き出し、彼らにとって、「日本、日本人、日本語、短歌とは」を探りながら、日本と台湾の歴史に重ね合わせるという方法を採っていた。我が家のテレビでは録画が取れず、メモによるが、( )内は、『台湾万葉集』『台湾万葉集続編』(集英社 1995年)などで補った。登場した15・6人の方々の中から数人の方のコメントの一部を紹介しておきたい。短歌作品はいずれも番組の中で朗読されたものである。
傅彩澄:(1921年生まれ。新聞記者から製薬会社員など経る。1984年~コスモス会員)日本語と中国語の間にあって、日本に対してはウラミ・ツラミとあこがれが半々のような気持だった。台湾人の小学校にあたる公学校では台湾語は禁止で、日本語をもっぱら暗唱させられた。
・悲しかり化外の民の如き身を異国の短歌に憑かれて詠むは
・ハナ、ハタと始めて習ひし日本語の今もなつかしは公学校は
・靴穿きて学校に行く日本人を跣足のわれら羨しみ見たりき
黄得龍(1927年生まれ。師範学校中退後、立法商学院卒業後中学校教員定年まで勤務。1990年代より朝日歌壇ほか入選多数回、「新日本歌人」会員)師範学校時代、一所懸命日本人になろうとしているのに、「皇民化教育」と称してことあるごとにビンタをくらわす日本人に憤りを感じ、「あきらめ」もした。短歌は日本から受けた心の傷を癒してくれるのではないかと思っている。
・白墨の粉を吸ひ吸ひ四十年白髪になれど肺異常なし
・何でまた異国の歌を詠むのかと自問自答し辞書をひもとく
巫永福(1913年、台中の山岳地帯の霧社生まれ。中学校より日本に移り、明治大学在学中台湾芸術研究会結成『フォルモサ』創刊、卒業帰台後、新聞記者時代には『台湾文学』創刊、特高警察の監視下にあった。戦後は実業界に転じた)
・霧社桜今年も咲けり無念呑み花岡一郎、二郎は逝けど
1930年、原住民の高砂族が日本の圧政に堪えかねて霧社の小学校の運動会で蜂起したいわゆる「霧社事件」で、高砂族で日本語教育を受け、改姓した花岡兄弟は地元の警官となっていたが、事件の責任を取らされ自殺している。作者は弟の二郎とは小学校同級であった。番組では、二郎の未亡人花岡初子が登場し、当時の模様を日本語で語りながら、息子や孫たちは北京語を話し、自分は原住民の言葉タイヤル語か日本語しか話せず、疎外感を味わっている家族だんらん風景が映し出される。それでも初子が原住民の言葉を孫に教えている懸命な姿を映す場面もあった。
蕭翔文(1928年生まれ。小学校時代から懸賞文などに応募入選。1943年日本映画「阿片戦争」を見て、日本人になって中国から英国を追い出すためにも、特別幹部候補生にならねばと志願、日本で訓練を受け、1945年3月特攻基地知覧で援護任務に就いた。短歌は常に死と直面す日々にあって始めた。戦後、師範学校卒業後は中学・高校で地理を教えた。退職後も若者に短歌を教え、中国語で短歌を詠むことをも試みている)
・愚かにも大東亜共栄圏の夢信じ祖国救ふと「特幹」志願す
・椰子の蔭円座を組みて生徒らと今昔語る兵たりし吾は
番組の後半は、蕭翔文に焦点を合わせ、戦後の台湾の歴史にも言及しながら、なぜ短歌を詠むのかという台湾の人たちの気持ちを解明していく。戦後は蒋介石率いる中国国民軍による「白色テロ」の恐怖に直面、蕭も捕えられ入獄したとき、中断していた短歌を再び作るようになったのはなぜかを自問する。明日の命がわからないような極限の気持ちになったとき、文章では表現できず、短歌に託すことが多い、と。
番組は、学齢時に不幸な形で出会った日本語・短歌だが、その後のさまざまな境遇の中で、短歌を詠むことによって、怒りや悲しみを乗り越えてきたことが語られることが多かった。かつての日本が植民地政策の一環としての公教育において、母国語を奪って日本語を強制した事実自体、強制されたことによる精神的・文化的苦痛や傷痕について、各人の紹介の中で断片的に言及されるのだが、制度的な強制力や時代による推移が分かりにくい。
たとえば、放送でも出てきた「ハタ、ハナ」の教科書、国語普及の歌、国語の家などの制度上の位置づけと実態、「万葉集」はどの学年でどんなふうに教えられたのだろうか、教師の側の裁量があったのだろうか、などを番組としても日本語教育の方針と実態を系統的に展開するコーナーがあったら、よかったと思った。
少なくとも明治以降、1895年からの日本統治下の台湾における政策の変遷、太平洋戦争後の日本と台湾との関係において、1947年2・28事件への日本の対応、1972年の日中国交正常化が台湾にもたらしたものなど100年以上にわたる関係をトータルに見ていくことも重要なのではないか。日本人自身が植民地でしてきたことへの反省なくして、「短歌」という形で日本語への親しみを持続しているという一点で、台湾の人たちの親日性を、有頂天になって受け入れてしまっていないか。当時そんなことを考えていたと思う。
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コメント
内野様
いつも貴重なご意見を聴かせて頂いて、ありがとうございます。
この場所に書くところかどうか不案内ですが違っていればごめんなさい。
昨日(8/24)市立図書館で台湾短歌集があるか調べたら、幸か不幸かありましたので書庫から出してもらってみましたが、何故短歌なのか、民族蹂躙の歴史はなかったのか、パラパラとみても自分の一族の栄光と短歌をやっているのだという奇妙な自負心をみるばかりでした。
大岡信って昔の彼とえらく変わってしまっているなと
感じました、もうひとりあれは万葉馬鹿というのでしょうか、万葉集はほとんど知りませんが、あの記事はひどすぎる。
「短歌」今月号ですか、小池光特集で<莫大小、、、>という句を何かで見た記憶があったので開いてみたら、
高島裕という人が岡井とか三枝を擁護する記事があり、
図書館の本でなければ破り捨ててやろうかと思った次第です。 なにか希望の無い世界世の中です。
内野さんの評論に期待をしています。
今後ともご自愛ください。
では
投稿: 高橋純一 | 2009年8月25日 (火) 08時26分