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2009年8月31日 (月)

最近号に執筆したものです

①「この一首、わたしの作歌ポイント」   『梧葉』21号(4月号)
②「大正15年生・醍醐志万子・照葉の森」 『短歌現代』5月号〈特集・戦中派歌人・下〉
③「時代の〈空気を読む〉ことの危うさ」   『短歌研究』6月号〈特集・現在を読むこと〉
④「少しくいまを」(五首)           『短歌新聞』8月号
⑤「師と師の思い出・小島清」        『ポトナム』8月号〈1000号記念〉
⑥「戦後六四年、〈歌会始〉の現実」          同上
⑦「礫」(一五首・エッセイ) 〈昭和45年白楊賞受賞者詠草〉 同上

 ②は本ブログの記事「歌人・醍醐志万子をたどる」(2009年3月15日)を1頁にまとめ、
 ⑤は「小島清(1905~1979)戦中・戦後を〈節を曲げざる〉歌人」(1009年3月15日~  
   4月22日)を2頁に短縮してまとめたものです。
 ⑥は本ブログの記事「節度を失くした歌人たち」(2008年7月2日)と
   「戦後62年、たかが〈歌会始〉されど〈歌会始〉の現実」(2008年8月23日)をもとに
   に書き直したものですが、ここにあらためて掲載することにしました。

 機会がありましたらご覧ください。

 

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インターネット「歌壇」はどうなるか(4)最盛期に何が起きていたのか~サイトの噴出

 

「題詠マラソン」時代の主催者の五十嵐きよみとマラソン参加者(投稿者たち、二〇〇三年一六二人、二〇〇四年三七五人、二〇〇五年五六三人)たちの交信記録を読むと、実にいきいきとした雰囲気で、作歌を楽しんでいる様子が伺える。学生サークルの女子マネージャーと部員たちの信頼関係をみるようでもあり、二〇〇五年、五十嵐が体調を崩して、次年度の休止が伝えられるとねぎらいや励ましのことばが行き交う。そして、荻原裕幸は、要所要所に登場して管理人として、歌人として、このサイトを支えていた様子がわかる。五十嵐・荻原の編集でアンソロジー『短歌、wwwを走る。題詠マラソン2003』)も公刊されている。荻原は、こうしたイベントが盛況となったいくつかの理由をあげている。もともと短歌というものが、「座」や「場」を軸とするジャンルであった、執筆に対価を求めない、発表に費用がかかる、総合誌・結社誌等には歌人の序列があった、短歌メディアの伝達力(発行部数)が小さかった、現代短歌が内的なテーマより外的な問題への関心が高まっていた、と分析する。メールマガジン『月刊短歌通信ちゃばしら』(二〇〇〇年五月~、公式サイト「ちゃばしら@web」二〇〇二年一一月~)を運営する井口一夫は、これらの短歌・歌壇の事情が要因となって個人単位のサイトが激増したことを指摘し、さらに、従来の短歌メディアである総合誌や結社誌の停滞感と表裏をなしていると述べる。(「[]の時代―荻原裕幸の考察を追って」『歌壇』二〇〇五年一月)。

最も早い時期の歌人「個人のホームページ」は誰のものだったのか。加藤治郎の自筆年譜では「一九九六年三月:個人のホームページ[WAKA]を開設。インターネット時代の幕開け」とある(『現代短歌雁』四八号二〇〇〇年一二月)。この後続く主な個人のサイトについては個別に触れたいと思う。

結社においては、『塔』短歌会の一九九六年四月が最初らしい(松村正直編「塔年表」『塔』二〇〇四年四月五〇周年記念号)。結社内グループ・支部のサイトを含め二〇件近くある。現在では、発行人の身内の出版社青磁社のHPとの連携も密接である。

続いて、『短歌人』は、一九九七年三月に開設、当初より生沼義郎が管理(後、村田馨も加わる)。生沼の「祭都」はじめ、前出の藤原龍一郎ほか天野慶、天野翔、黒田英雄、小池光、関節夫、西王燦、吉浦玲子、吉岡生夫、佐藤りえ、松木秀ら、世代を超えて自らのサイトを持つ会員が多数いて、二〇〇七年三月現在、三三件に上る。

前田透急逝により、一九八四年四月、『詩歌』の若手中山明、井辻朱美、林あまりらによって創刊された『かばん』は、ことし二五周年を迎える。一九八八年に穂村弘が参加、ネット歌壇に格別の貢献をしたと思える「歌人集団かばんの会」の「かばんWEB」開設年月が私には不明ながら、会員サイト一九件。開設者には飯田有子、高柳蕗子、東直子、雪舟えま、などの名前があがっている。

歴史の長い『心の花』のHPには二〇〇一年一月からの記事があり、掲示板管理人ともども大野道夫が担当しているという。『水甕』のHPは開設年月の明示がないが、二〇〇一年以降のニュースや文章が収録されている。時評や春日真木子の「野方ノート」などが遡って収録され、資料的には有用であろう。

一九二三年、地域結社誌として創刊された『短歌』(中部短歌歌会)は昨年すでに一〇〇〇号を超えたが、一九九六年、『塔』についでHPを開設している。春日井建逝去後、編集発行を継承している大塚寅彦個人のHPが一九九六年四月に開設なので、管理人は彼だったのだろうか。現在の中部短歌会HPは読みやすく、会の歩み・同人紹介・春日井建顕彰とともに年に一・二回開催のサイバー歌会や次代ホープの情報もある(『ポトナム』一〇〇〇号大塚氏寄稿参照、ご教示多謝)。

戦後に出発した結社誌のホームページについて検索してみると、『コスモス』(連絡先宮里信輝)には、古い記事として、二〇〇三年三月の創刊五〇周年記念の集合写真が収録され、さかのぼって二年前から最新号までの目次と特別作品欄やエッセイ欄の一部が収録され、読むことができる。『歩道』(二〇〇三年一月開設)は、結社の歴史や案内、結社賞受賞記録はじめ、佐藤佐太郎の秀歌・主要歌論が読むことができ、著書・歌碑・資料室情報が得られる。主要な現役・物故者歌人の作品も読めるようになっていて、かなり情報量が多い。ともにパソコン上は厄介とされる「縦書」を原則として、短歌表記の伝統に忠実であろうとしており、『歩道』は教育的要素が色濃いサイトになっている。

『未来』のHPのスタートはいつだったのだろうか。大島史洋が記す「未来の歴史」には、HPの開設・更新履歴には触れられていない。バックナンバーの目次だけの収録は一九九六年六月にさかのぼる。編集人が近藤芳美から岡井隆になった時代を経て、編集・発行人ともに岡井になったのが二〇〇一年二月だったが、岡井の名で二〇〇六年一〇月の日付でホームページ冒頭での挨拶があるが、リニューアルでもあったのだろうか。『地中海』のHP(浜田昭則管理、二〇〇三年一月開設)は、古くは、見本誌的に一九九八年から二〇〇三年の一二月号のみの目次と主要記事が収録されている。また、二〇〇二・三年以降の作品抄、今月の二人、巻頭二〇首、地中海の歌人、歌壇月旦なども収録、資料的にも充実したHPといえそうである。『アララギ』の解散を受けて、一九九八年創刊の『短歌21世紀』が翌年には若い会員を対象に「ウイング21」を新設し、注目され、HP上にも反映している。『新アララギ』も選者の一人石井登喜夫が開設したHPを当時のスタイルのまま継続している。各月の若手会員の作品を冒頭で紹介、宮地伸一の「歌言葉考言学抄」の連載、掲示板での批評・添削などにより育成面にも力を入れているのがわかる。『かりん』のHPは、現在見あたらないし、『りとむ』のように更新がやや滞っている結社もある。所帯が比較的大きい『まひる野』、歴史のある『潮音』『ポトナム』など、HP自体を持っていないのはややさびしい。

大野道夫の二〇〇五年の調査によれば、ホームページを持っている結社は八・四%であった(六七八結社を対象とし、二九六結社から回答を得たアンケート調査。「短歌結社・俳句結社の社会学」『短歌・俳句の社会学』ぱる書房 二〇〇八年)。二〇〇五年の調査ながら、その後増えたとしても、見当たらないサイトもあるので、数としてはあまり変更がないのではないか。無回答の結社を含めれば、決して多い数ではない。結社誌の編集発行の継続も難事業であるが、HPの立ち上げ・更新は、まだ管理者の個人的な努力に頼ることも多く、継続が難しいことを物語っていよう。

つぎに、ネット「歌壇」の状況に呼応し、徐々に推進力にもなり、さらには、ネット「歌壇」の取り込み先にもなってゆく、短歌メディアの動向について触れておきたい。ネット「歌壇」が、短歌の質的向上に役立つツールかを見極めていきたい。(『ポトナム』20098月号、9月号所収)

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2009年8月14日 (金)

マイリスト「すてきなあなたへ」に56~57号を登載しました

手違いで56号のアップが遅れました。57号とあわせてご覧ください。

(56号 2009年2月4日発行)
目次
自転車で行くロマンティック街道
井野東開発、組合解散は3年先?―景気が悪いときの公的資金だのみ、なんだかなあ
菅沼正子の映画招待席 28 チェ「28歳の革命」「39歳の別れの手紙」~チェ・ゲバラという 人間の内面にせまる
「山川●治展」~佐倉市立美術館、2月7日から開催
ご近所のホームページ・ブログヘどうぞ

(57号 2009年8月10日発行)
目次
町の名前、こんな風に決まるんだ~「ユーカリが丘」って、どこまで?!
菅沼正子の映画招待席 29 「縞模様のパジャマの少年」~純粋な少年の心が戦争の狂気をあぶりだす
10人に直撃!近くにスーパーができました
第2回ラベンダーまつりへ

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2009年8月13日 (木)

江戸川堤を「紫烟草舎」へ~白秋と江口章子のたどった道

・華やかにさびしき秋や千町田のほなみがすゑを群雀立つ

北原白秋の住んでいた家「紫烟草舎」が、国府台の里見公園に移築されているらしい。一度訪ねてみたかった。ひと昔以上も前のこと、京成の「国府台」には何度か下車したことがある。松戸街道を挟んで、学園町でもある国府台だが、和洋女子大学と千葉商科大学の図書館には仕事で来たこともある。今回は、国立国際医療センター国府台病院に数回通うことになり、最初の日、この街道の車の往来の激しさに気分が悪くなるほどだった。その後は、さして回り道ではない江戸川堤を歩くことにした。京成電車の鉄橋を背に、しばらくは木陰一つない土手の道が続き、バイク禁止の遊歩道となる緑地の崖下では、ゆったりとした川の風景を楽しむことができた。入江の波消しブロックの上には、パラソルを広げる釣り人が点々としている日もあり、突然現れた水上スキーとボートが残すエンジンの音に驚く日もあった。

その日は消化器科の検査結果も異常なしということで、帰りに、病院から街道を渡って川岸に出る道の右手に広がる里見公園に入った。だいぶ奥が深いらしい。入ってすぐの、噴水と花壇からなる洋風庭園の辺りは、陸軍衛戍病院時代の病棟があったという。「国府台」といえば、軍隊で精神を病んだ兵士たちが療養していたというイメージが強い。国立の総合病院となって久しいが、昨年、国立国際医療センター国府台病院への組織替えがあったという。

紫烟草舎は、花壇の左手奥、公園管理事務所の並びにあった。何の変哲もない木造平屋建てで、いまは庭に面する部屋も木の雨戸がめぐらされ、間取りも定かではない(桜の季節には開放されるらしい)。玄関の間に、水回りと表の二部屋くらいだろうか。持ち主から市川市に寄贈され、移築したのが1969年。玄関脇に案内板と庭側に、冒頭の一首の歌碑があり、傍にはつぎのような長男北原隆太郎による解説があった。

「(前略)大正五年晩秋、紫烟草舎畔の〈夕照〉のもとに現成した妙景である。体露金風万物とは一体である。父、白秋はこの観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し赤貧に耐え、以降数年間の精進ののち、詩文『雀の生活』その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を大正十年八月刊行歌集『雀の卵』で実現した。その「葛飾閑吟集」中の一首で手蹟は昭和十二年十二月刊の限定百部出版「雀百首」巻頭の父の自筆である」

北原白秋のこの時代の前後をたどってみよう。1912年(明治45年)、松下俊子との恋愛で、姦通罪で訴えられるという事件が落着して、翌年結婚する。その年「君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ」に代表される、青春歌集『桐の花』を刊行(1913年)、1914年、故郷柳川の実家が破産して家族たちを呼び寄せたが俊子との折り合いが悪く、俊子の療養生活を経て離別、その間の作品は第2歌集『雲母集』(1915年)、第3歌集『雀の卵』(1922年)冒頭部分に収められている。

・かき抱けば本望安堵の笑ひごゑ立てて目つぶるわが妻なれば(『雲母集』)
 
・薔薇の木に薔薇の花咲くあなかしこ何の不思議もないけれどなも(同上)
 
・今さらに別れするより苦しくも牢獄に二人恋ひしまされり『雀の卵』
 
・貧しさに妻を帰して朝顔の垣根結ひ居り竹と縄もて(同上)

1915年、弟鉄雄と出版社ARSを起こすが家計は安定しなかった。1916年に、青鞜社に入っていた江口章子(18871946年、大分県立高等女学校卒業後、結婚、離婚後、平塚らいてうを頼って上京)を知り、同棲、結婚する。千葉県の市川真間の亀井院に仮住まいの後、江戸川対岸の小岩に転居、「紫烟草舎」と称した。白秋31歳、章子28歳。以下『雀の卵』の「葛飾閑吟集」から拾ってみる。

・葛飾の真間の継橋夏近し二人わたれり継橋を
 
・昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗の藪を出でて消えたり
 
・破障子ひたせる池も秋づけば目に見えて涼し稗草のかげ
 
・下肥の舟曳く子らがうしろでも朝間はすずし白蓮の花
 
・ただ一つ庭には白しすべすべと嘗めつくしける犬の飯皿
 
・今さらにいふ事は無し妻とゐて夕さりくれば燈をとぼすまで

池に浸す障子、下肥の舟など私の疎開先の体験とかすかにつながる田園風景ではあるが、現在の川沿いの高層マンション群、整備された河川敷、水上スキーからは想像もつかない。紫烟草舎での白秋・章子の暮らしの中で「煙烟の花」12号を出すが、1917年東京に転居、1918年小田原に移り、白秋は、鈴木三重吉の『赤い鳥』に参加、童謡に新境地をひらく。1920年、章子との別離について語る白秋自身作品は見当たらないが、白秋の家族たちとの折り合いが悪かったことは、第三者作成の年譜などには見られる。1921年には、佐藤菊子と結婚、子をもうけ、私的生活はようやく安定期に入るのだった。その後の白秋の文学的活動についてはここでは触れないが、多数の童謡集がまとめられ、1923年短歌雑誌『日光』、1926年詩誌『近代風景』を創刊、1929年にはあアルス社から『白秋全集』の刊行が開始される。この頃より、内外地への旅行が続き、浪漫精神の復興をめざして短歌雑誌『多磨』を創刊する。腎臓病は進むが、他の多くの文学者と同様、国家主義的な活動に傾き、1941年芸術院会員となり、1942年死去する。
 
一方、江口章子は、白秋との別離後、男性遍歴、放浪もするが、この間、詩文集『女人山居』(1930年)、詩集『追分の心』(1934年)を刊行する。1931年精神を病み、1937年には脳溢血で倒れ、障害が残る。晩年は脳軟化症を患い、京都の施設から故郷香々地町に戻り、一人闘病の末、死去する。一族の墓には章子の名は見当たらないというが、インターネット検索によれば、香々地町作成「江口章子」が発行され、香々地小学校校区のサイトには彼女の事績を紹介、顕彰されている。
 
女の生き方が、「自己責任」に拠るとは言えなかった過酷な時代の、とくに文学に目覚めた江口章子の一生を、白秋に出会った以降の半生を、ジェンダーの視点から見直してみるとどうなるのだろう。そこには、ほぼ同時代の、彫刻家ロダンに出会い、別離後のカミユ・クローデルの長い半生と精神病院での壮絶な末期を重ねあわせてしまうのだ。かつて瀬戸内晴美の「ここ過ぎて―北原白秋の三人の妻」も読んだような気がするのだが、いまは手元になく、復刻歌集の年譜や辞典類に拠った。西本秋夫の白秋研究も読み直さねばならないだろう。

章子の故郷、大分県香々地町の長崎鼻に1978年建立された歌碑には、次の一首が刻まれている。

・ふるさとの香々地にかへり泣かむものか生まれし砂に顔はあてつつ

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