江戸川堤を「紫烟草舎」へ~白秋と江口章子のたどった道
・華やかにさびしき秋や千町田のほなみがすゑを群雀立つ
北原白秋の住んでいた家「紫烟草舎」が、国府台の里見公園に移築されているらしい。一度訪ねてみたかった。ひと昔以上も前のこと、京成の「国府台」には何度か下車したことがある。松戸街道を挟んで、学園町でもある国府台だが、和洋女子大学と千葉商科大学の図書館には仕事で来たこともある。今回は、国立国際医療センター国府台病院に数回通うことになり、最初の日、この街道の車の往来の激しさに気分が悪くなるほどだった。その後は、さして回り道ではない江戸川堤を歩くことにした。京成電車の鉄橋を背に、しばらくは木陰一つない土手の道が続き、バイク禁止の遊歩道となる緑地の崖下では、ゆったりとした川の風景を楽しむことができた。入江の波消しブロックの上には、パラソルを広げる釣り人が点々としている日もあり、突然現れた水上スキーとボートが残すエンジンの音に驚く日もあった。
その日は消化器科の検査結果も異常なしということで、帰りに、病院から街道を渡って川岸に出る道の右手に広がる里見公園に入った。だいぶ奥が深いらしい。入ってすぐの、噴水と花壇からなる洋風庭園の辺りは、陸軍衛戍病院時代の病棟があったという。「国府台」といえば、軍隊で精神を病んだ兵士たちが療養していたというイメージが強い。国立の総合病院となって久しいが、昨年、国立国際医療センター国府台病院への組織替えがあったという。
紫烟草舎は、花壇の左手奥、公園管理事務所の並びにあった。何の変哲もない木造平屋建てで、いまは庭に面する部屋も木の雨戸がめぐらされ、間取りも定かではない(桜の季節には開放されるらしい)。玄関の間に、水回りと表の二部屋くらいだろうか。持ち主から市川市に寄贈され、移築したのが1969年。玄関脇に案内板と庭側に、冒頭の一首の歌碑があり、傍にはつぎのような長男北原隆太郎による解説があった。
「(前略)大正五年晩秋、紫烟草舎畔の〈夕照〉のもとに現成した妙景である。体露金風万物とは一体である。父、白秋はこの観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し赤貧に耐え、以降数年間の精進ののち、詩文『雀の生活』その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を大正十年八月刊行歌集『雀の卵』で実現した。その「葛飾閑吟集」中の一首で手蹟は昭和十二年十二月刊の限定百部出版「雀百首」巻頭の父の自筆である」
北原白秋のこの時代の前後をたどってみよう。1912年(明治45年)、松下俊子との恋愛で、姦通罪で訴えられるという事件が落着して、翌年結婚する。その年「君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ」に代表される、青春歌集『桐の花』を刊行(1913年)、1914年、故郷柳川の実家が破産して家族たちを呼び寄せたが俊子との折り合いが悪く、俊子の療養生活を経て離別、その間の作品は第2歌集『雲母集』(1915年)、第3歌集『雀の卵』(1922年)冒頭部分に収められている。
・かき抱けば本望安堵の笑ひごゑ立てて目つぶるわが妻なれば(『雲母集』)
・薔薇の木に薔薇の花咲くあなかしこ何の不思議もないけれどなも(同上)
・今さらに別れするより苦しくも牢獄に二人恋ひしまされり『雀の卵』
・貧しさに妻を帰して朝顔の垣根結ひ居り竹と縄もて(同上)
1915年、弟鉄雄と出版社ARSを起こすが家計は安定しなかった。1916年に、青鞜社に入っていた江口章子(1887~1946年、大分県立高等女学校卒業後、結婚、離婚後、平塚らいてうを頼って上京)を知り、同棲、結婚する。千葉県の市川真間の亀井院に仮住まいの後、江戸川対岸の小岩に転居、「紫烟草舎」と称した。白秋31歳、章子28歳。以下『雀の卵』の「葛飾閑吟集」から拾ってみる。
・葛飾の真間の継橋夏近し二人わたれり継橋を
・昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗の藪を出でて消えたり
・破障子ひたせる池も秋づけば目に見えて涼し稗草のかげ
・下肥の舟曳く子らがうしろでも朝間はすずし白蓮の花
・ただ一つ庭には白しすべすべと嘗めつくしける犬の飯皿
・今さらにいふ事は無し妻とゐて夕さりくれば燈をとぼすまで
池に浸す障子、下肥の舟など私の疎開先の体験とかすかにつながる田園風景ではあるが、現在の川沿いの高層マンション群、整備された河川敷、水上スキーからは想像もつかない。紫烟草舎での白秋・章子の暮らしの中で「煙烟の花」1、2号を出すが、1917年東京に転居、1918年小田原に移り、白秋は、鈴木三重吉の『赤い鳥』に参加、童謡に新境地をひらく。1920年、章子との別離について語る白秋自身作品は見当たらないが、白秋の家族たちとの折り合いが悪かったことは、第三者作成の年譜などには見られる。1921年には、佐藤菊子と結婚、子をもうけ、私的生活はようやく安定期に入るのだった。その後の白秋の文学的活動についてはここでは触れないが、多数の童謡集がまとめられ、1923年短歌雑誌『日光』、1926年詩誌『近代風景』を創刊、1929年にはあアルス社から『白秋全集』の刊行が開始される。この頃より、内外地への旅行が続き、浪漫精神の復興をめざして短歌雑誌『多磨』を創刊する。腎臓病は進むが、他の多くの文学者と同様、国家主義的な活動に傾き、1941年芸術院会員となり、1942年死去する。
一方、江口章子は、白秋との別離後、男性遍歴、放浪もするが、この間、詩文集『女人山居』(1930年)、詩集『追分の心』(1934年)を刊行する。1931年精神を病み、1937年には脳溢血で倒れ、障害が残る。晩年は脳軟化症を患い、京都の施設から故郷香々地町に戻り、一人闘病の末、死去する。一族の墓には章子の名は見当たらないというが、インターネット検索によれば、香々地町作成「江口章子」が発行され、香々地小学校校区のサイトには彼女の事績を紹介、顕彰されている。
女の生き方が、「自己責任」に拠るとは言えなかった過酷な時代の、とくに文学に目覚めた江口章子の一生を、白秋に出会った以降の半生を、ジェンダーの視点から見直してみるとどうなるのだろう。そこには、ほぼ同時代の、彫刻家ロダンに出会い、別離後のカミユ・クローデルの長い半生と精神病院での壮絶な末期を重ねあわせてしまうのだ。かつて瀬戸内晴美の「ここ過ぎて―北原白秋の三人の妻」も読んだような気がするのだが、いまは手元になく、復刻歌集の年譜や辞典類に拠った。西本秋夫の白秋研究も読み直さねばならないだろう。
章子の故郷、大分県香々地町の長崎鼻に1978年建立された歌碑には、次の一首が刻まれている。
・ふるさとの香々地にかへり泣かむものか生まれし砂に顔はあてつつ
| 固定リンク
コメント