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2009年9月27日 (日)

何年ぶりの神戸だろうか~「追悼展 短歌と書 醍醐志万子の書」へ

       山の手界隈散策 

924日から始まる醍醐志万子の追悼書展のオープニングにぜひと思い、前泊は、北野町の公共の宿、六甲荘を予約した。何年ぶりの神戸だろう。大震災後に一度は来ているはずだ。新神戸駅から異人館街への矢印のある、ゆるい坂を進む。北側はしばらく斜面が続くが、左手には大きなホテル、介護付き有料老人ホームやマンションが並ぶ。十字路を南に折れる「不動坂」を下ると宿があった。久しぶりの新幹線と蒸し暑さにやや体調を崩し、ともかく一休みをして三宮へと出る。駅前の大通りと北野坂の交差路、ベネトンのショーウインドーはすでに冬仕度、高架線をくぐって「そごう」に入った。どっとかいた汗に驚き、一枚余分の肌着と新ルル錠を買う。連休前日の夕方、「さんちか」の人通りはかなりのものだった。街歩きの元気は失せて、デパ地下の惣菜と五目おこわとを宿に持ち込み夕食とした。ややわびしい気もするが、部屋はコンパクトながら清潔感があって気に入った。

 翌朝のバイキングの朝食もシンプルだが品数もあって、客は若い外国人グループが多い。体調はなんとか回復したので、10時のチェックアウトまで散歩に出てみることにした。宿の前を登った史跡三本松とある交叉路を北に上がると水色の洋館が目に入る。現在は結婚式場になっているらしい。人がすれ違うのがやっとなくらいの石だたみの路地を左に進むと小さな北野町東公園に出て、その横には石段の急坂が見える。さらに進むと円形の北野町広場に出た。向かいには、北野天満神社と風見鶏の館(旧トーマス邸、1909年築)が並ぶ。ともかく神社への階段を登ってみると境内からは、港までの街が一望でき、風見鶏の館が見下ろせる。12世紀平清盛が京都の北野天満宮を模して建てたので、一帯の地を「北野」と呼ぶようになったという。広場に接して建つ萌黄に館(旧シャープ邸)の横の坂道をくだってぶつかったのが北野通りで、連休も明け、車の往来が激しい。ここにも英国館、ベンの家、旧パナマ領事館など軒を連ね、入館料をとって見学させる館もあるし、カフェやレストランになっている建物もある。その多くには「伝統的建造物」という緑色のプレートが掲げられていた。まだ、時間があるので、北野遊歩道に上がってみる。地元の人の散策や犬との散歩の人によく出会う、なかなか快適な道で、新神戸ロープウェーの発着所を通るが、始発は930分という。本当は布引ハーブ園までも行ってみたかった。せめて、王子動物園方面へ足を伸ばし、神戸文学館にも行ってみたいと、バス停で時刻表をみていると、半分酔っている男性が、巨人優勝のスポーツ紙を持ってブツブツ話しかけてくる。やはり時間的に無理とわかって昨日と同じ道を宿に引き返すのだった。

 追悼展のオープンは午後1時、会場の県民会館まで20分ほどだというので、思い切って歩くことにした。宿のすぐ下は電子専門学校の校舎が散在しているらしく、ちょうど登校時間帯だった。各校舎の入り口といわず、10m置きぐらいに職員が立って、学生たちに「おはようございます、おはようございます」と叫んでいる光景に出会った。小学生ではあるまいし、登校時に何か住民とのトラブルでもあったのだろうか、たんなる生活指導なのだろうか、ちょっと異様な雰囲気だったのだが、千葉県のわが町でも小学校、中学校の校門付近では同じような光景が繰り返されていることは確かだ。

県庁を目指して、異人館通りとも呼ばれる山本通りをひたすら歩いた。昨日から界隈を歩いていて、ようやく気付くのだが、マンションの1階やシャレた構えの店舗が空っぽというのが目につき始めた。なかには、緑の「伝統的建造物」のプレートを付し、管理会社の看板を掲げている異人館もあった。トアロードを下ると、右側に人だかりがして、「北野工房のまち」とある。手仕事の店が何軒か入っているらしい。外観はそれほど手の込んだ洋館でもないと振り返ると、古びた門柱には「神戸市立北野小学校」の札が下げられていた。

       追悼展へ~書と短歌と

次の四つ角を渡って斜めの道に入ると、県民会館はすぐだった。10時前というのにすでに会場には和田青篁先生と書の会の方々が準備を終えられ、早くも来場者と歓談されていた。会場を回わり、行き届いた心遣いに身内としては感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。志万子の自詠の短歌を書いた作品が中心の19点、書の会の方々が、このたびの追悼展のため志万子の短歌を書作品としてくださった10点で構成されている。会場の中央には、生前の歌集8冊と刊行されたばかりの第九歌集が展示され、壁には年譜パネルと写真が添えられていた。「私と同い年です」と年譜に見入る方、「短歌というから短冊や色紙のイメージだったが、力強いですね」という方などともお話ができた。関西在住の短歌の知人に久しぶりにお会いできたり、初めて会う方もいらしたりした。当日924日の『神戸新聞』朝刊で、大きく紹介してくださっていたお陰だろうか、来場者が途切れることがなかった。

和田先生とは初めてお目にかかった。お忙しそうなので一つだけと思って「先生は清原日出夫さんの短歌をよく書かれますが、どういうお知り合いですか」と不躾な質問をしてしまった。「そうですか、それではお茶でも」と喫茶室に誘ってくださった。とても率直に、気さくに、二十代での短歌と清原さんとの出会い、「塔」、「五〇番地」のことなど、なかなか込み入った話もしてくださった。2歳ほど年下になる清原さんとの友情は聞いていても羨ましいほどであった。作歌はされないが、「書く」ための短歌への純粋な気持ちと研究の厳しさが伝わってくる話だった。

あっという間の数時間、そろそろ新幹線の時間が迫り、会場を後にするのだった。 スレ違いで、明日からは連れ合いが神戸に向かう。

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2009年9月21日 (月)

国立近代美術館へ~ゴーギャン展と戦争画の行方

国立近代美術館へ(1)ゴーギャン展

 ゴーギャン展の会期の終わりも迫り、お彼岸も近いので実家の仏壇にお花でも供えようと東京に出た。一人住まいの義姉とも久しぶりだった 。

 地下鉄の竹橋の改札口を出ると、臨時チケット売り場がたたまれているところだった。週日だが、午前中はかなり混雑したのだろう。8月に訪ねたコペンハーゲンの新カールスベルグ美術館で、かなりの点数を持っているゴーギャンを見はぐっている。日本でも見られるかもしれない、という気持ちもあった。コペンハーゲンにはゴーギャンの妻の実家があって、一家で寄食していた時期もあった縁らしい。しかし、今回のゴーギャン展は、名古屋ボストン美術館開館10周年記念と銘打った美術展と主催などは異にするものの、ほぼ同様の構成らしく、出品はボストン美術館所蔵のものが多い。日本初公開の大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」もそうだった。この大作を細部にわたって眺めるといろいろのことがわかるらしいが、私には、果実を採ろうとする女性、食もうとする女性が絵の中央に配され、さまざまな背景のもとにポーズをとる女性たちに寄り添うように描かれたいくつかの動物たちが人間たちをつないでいるかのような構図に惹かれた。この作品は、ゴーギャンが2度目のタヒチ生活で、経済的にも、身心の状況ともに窮地に追われ、自殺をする18982月直前の時期に描かれたとされる。しかし、題名のような、大仰なテーマを実感することはできなかった。ヒ素の量を誤り、一命を取り留めたが、タヒチのパペーテの病院への入退院を繰り返し、マルキーズ島で不遇のまま生涯を閉じるのは1903年、54歳であった。

 タヒチでの暮らしの「ノア・ノア」(マオリー語、かぐわしい、香気ある、の意味)と題した連作版画もじっくりとは見られなかったが、文明と対比して未開や野性に人間の根源を求めようとした作品20数点は、意外にも暗く、細やかであった。ゴーギャンの逞しさや鮮やかな色彩の量感など、期待していたものとは違っていた。思い出して、帰宅後、かつて読んだ岩波文庫『ノア・ノア~タヒチ紀行』(P.ゴーガン著 前川堅市訳 1990年 初版1932年)を引っ張り出して眺めた。絵の版画のタヒチの女性の視線はどれも憂いに満ちているように思えた。

 ゴーギャンは、有能な株仲買人として、妻と5人の子供を養いながら、ピサロを師として絵画を趣味にしていたが、1883年、35歳のとき画業に専念するにいたった。もっともこの間、ドガからもその手法を学んでいる。短期間のゴッホとの共同生活を経るも、生活は困窮を極めながら、「俗悪な社会を捨てて原始に帰ろうとする憧れ」(前著訳者解説)から、タヒチに向かったのが1891年、42歳のときであった。『ノア・ノア』はこのときの紀行文ということになる。縁者の遺産を得て、一度はパリに戻るも、再度のタヒチ行きとなった。かつてのタヒチでの妻に再会するもすぐに去られ、孤独な晩年を過ごしたことは前述した。

 私が買った絵ハガキは、結局「洗濯する女たち、アルル」(1988年)と「二人のブルターニュ女のいる風景(1889年)というフランス時代の2枚と大作「我々は・・・」の生き物たちだけを拾って再構成した1枚であった。

国立近代美術館へ(2)戦争画の行方

 ゴーギャン展のチケットに含まれている常設展「近代日本の美術」(所蔵品ギャラリー)も見て回った。ここは、年間数回の作品入れ替えをしながら、会期ごとに幾つかの小特集も組まれるという。

 私の関心は、これまでもブログで言及したことのある国立近代美術館で所蔵する戦争記録画であった。敗戦後、GHQに接収された戦争記録画が返還運動などさまざまな曲折を経て、1970年「無期限貸与」という形で、153点が日本に戻った。以降、長らく公開されない時代が続いたが、2002年から近代日本美術史の流れの中で「戦時と〈戦後〉の美術」のコーナーで順次公開されることになった(『コレクションのあゆみ19522002』)ことは聞いていたので、その常設展示を見たいと思っていた。

 「近代日本の美術」は、Ⅰ明治大正の美術からV現代美術1970年代以降、までという時代区分により、日本の近代の美術の流れがわかるような展示である。戦争記録画は「Ⅲ戦時と〈戦後〉の美術」の部屋の壁面の一部を利用して、今期は、以下の3点が展示され、解説などはない。以下の経歴などは、国立近代美術館の上記「無期限貸与」153点のリストおよび栃木県立美術館、小金井市立はけの森美術館(旧中村研一記念美術館)のホームページの記事などに拠った。

①清水登之「工兵隊架橋作業」(1944年)*戦時特別文展陸軍省特別出品

②藤田嗣治「血戦ガダルカナル(1944年)*陸軍美術展

③中村研一「北九州上空野辺軍曹機の体当たりB29二機撃墜す」(1945年)

*戦争記録図展

① 清水は1887年栃木県生まれ、陸軍士官学校受験に失敗、単身渡米、働きながら絵を学び、高い評価を得、結婚のため一時帰国、米国からパリなどに滞在を経て、1927年帰国、二科展に出品をつづけ、1930年には独立美術協会の創立に参加した。1932年から従軍作家として戦地に赴くようになる。今回の展示作品は、川に胸まで浸って過酷な架橋工事に携わる、兵士の群像をフォービズムに近い手法で描いた力作であって、戦意高揚のメッセージというよりは労働賛歌のプロレタリア作家の作品にすら見えた。国立近代美術館の戦争記録画としてはもう1点「汪主席と中国参戦」を所蔵している。栃木県立美術館所蔵の「戦蹟」(1937年)、「難民群」(1941年)などをネット上で見ると展示作品と手法上の共通点も多いのではないか。敗戦直前に息子の戦死を知り、194512月に失意のうちに死去するのだった。

② GHQの接収事業に、藤田は積極的にかかわり、返還作品153点中には14点が入っている。今回の展示作品は、ガダルカナルの兵士たちの最期を描いている大作である。藤田については、本ブログにも書いたことがあるので、ここでは省略する。

③ 中村(18951967年)は福岡県生まれ、東京美術学校で岡田三郎助に師事した。返還作品153点の中に9 点見出すことができる。今期展示の作品は、写真をもとにでもしているような、空中の炎の中からB292機がまっさかさまに落ちてくる様子が描かれている作品だった。

なぜ、こうした作品をありのままに提示し、少なくも返還された作品を公開することをしなかったのか。画家本人、遺族、美術館(行政)側が拒否したり、躊躇したりしてきたのだろうか。返還後の非公開の長い空白の時代は何を意味するのだろう。国策に添って描いたことが画家の良心から許せないのか、戦争責任を問われることを恐れているのか。作品が技術的に未熟であったからなのか。これまでも、この153点を一堂に展示することは一度もなかったし、これからもない、というのが、美術館側の方針であることを館の担当者から聞いた。さらに、

①遺族の意向

②公開すると不愉快に思う人たちがいる以上、国際的な問題にもなりかねない

③展示スペースが限られるので、全面公開のつもりはない、

というのだ。たしかにこのような理由が存在することもあろう。その「不都合」を超えて公開することによるメリット、歴史へ真摯な姿勢、反省を明確にすることの意義は大きいのではないか。さらに、館の担当者は、著名な作品や名品はこれまで順次公開してきているので、ほぼ公開し終えたような趣旨のことも言っていた。絵画作品がデジタルで見られる時代にもなった。工夫次第で、②③の理由は克服できるのではないか。名品か否かはだれが何を基準に判断するのか。国立美術館の(所蔵)作品は国民の共有財産でもある。全面公開の日を待ちたい。

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2009年9月15日 (火)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<3>オスロ国立美術館

<1><2>は、日程的には逆の掲載の形となってしまった。資料の小包も届いたので、最初の目的地オスロから始めたい。

 

オスロ、桟橋通りへ

私には初めてのSAS便(コペンハーゲン行)だったが、成田の離陸がだいぶ遅れた。9時間余の機内は、エコノミー・エクストラの席を、思いがけずビジネスに変更してくれるということでだいぶ得をした気分だった。当初は寒くて毛布を首からかぶっていたがひっきりなしのドリンクなどのサービスを受け、どうやらうとうとしたようであった。コペンハーゲン空港へと近づくと、海上に風車が連なり弧を描いていた。空港は、降りるとチョコレート色の木目の床板に迎えられ、そのシックなセンスをさすがと思ったものだ。それにしても、オスロ行きの出発ゲイトまで、免税店が並ぶ通路の長さは格別で、不安になるほどであった。1時間ほどで、最初の目的地オスロに到着、ここは、オーク色の床板で、これも森の国ノルウェーにふさわしく落ち着いた雰囲気、空港エキスプレスでオスロ中央駅に到着、当初、沿線の落書が少ない街かなと思いきや、やはり市内に近づくと目立ち始めるのだった。ホテルは中央駅前といってもよい。ロビーで目に入った催し物の受付けがあって、“Mr.Gay Europe 2009 23.august 2009”と、ポスターにはあり、さすが「ホクオウ!」と感心する。私たちの宿泊とすれ違いの日程ではある。 部屋に囲まれた中庭全体がレストランになっていて、どの階の廊下からも見下ろせて、並ぶバイキングのご馳走には食欲をそそられる。

目の前のショッピングモールのオスロシティをひと回りした後、夕食の店を探すことになった。雨も降り出し、折畳み傘では肩が濡れるほどで、見つけた目当ての「ガムレ・ラドフス」は、予約がないのでと断られた。店の名でもわかるように、17世紀に建てられた旧市庁舎を利用して18世紀に開店したという。黄色い壁のこの地ではどこにもありそうな建物に思えた。海岸への路地は水たまりが多く歩きにくいのだが、雨に煙るアーケル・ブリッゲはまだ観光客で賑わっていた。大聖堂に面するカール・ヨハンス通りに戻って1階は居酒屋のように賑わう店の地下で夕食を済ます。花や光る輪を持った外国の女性たちが通りかかる人に寄っては声をかけている。何となくあやしげではあるが、人通りは絶えそうにもない。ホテルに着いたのは、11時すぎだった。

 

オスロ大学から国立美術館へ

オスロで丸一日使えるのは今日だけである。連れ合いが20年近く使っていた旅行鞄のとっ手が切れた。カバン屋を探すはめになるが、意外と近くに専門店があったので、ひとまわり小ぶりのサイズを求め、ホテルに引き返す。

朝のカール・ヨハンス通りを王宮に向かうが、急な坂をのぼり切らねばならない。その坂道はまるで駐車場で、車は斜面に這いつくばるように並んでいた。朝から若者の往来が多いと思ったら、右手はオスロ大学だった。左手が国民劇場で、イプセンの銅像があるのだが、やや戯画化された立像ではあった。王宮の三角広場の砂は昨夜の雨に流れ出している。王宮自体は黄色の質素なたたずまいながら、要所要所、衛兵が見守るなかを一回りする。朝の10時、衛兵の交代がはじまった。若い衛兵がかわいらしい、と思う年になってしまったのか。裏手の庭園の木々は雨上がりに映え、木の間からは街の往来が見下ろせる。今度はオスロ大学の裏手を下ると国立美術館である。その手前が歴史博物館らしいが、美術館に直行する。

 

館内は撮影が一切禁止の上、手荷物の大きさもチェックされる。案内書を頼りに、展示室への階段を上る。左手正面の衝撃的な大作は、雪に覆われた街のあるドアの間から突き出されたひとかたまりのパンに多くの女たちと子どもたちが手を伸ばして群がっている、という絵だ。英訳で“The Fight for Survival”と題されたクローグ(Cristian Krohg1852 ~1925)の作品である。私には初めて聞く名前だった。が、15~41室までまんべんなく鑑賞するには時間がないだろう。せっかくなのでノルウェー画家たちを優先してみることにするが、どうしても気になるのが、ムンクはともかく、さきのクローグであり、数少ない女性のHarriet Backer(1845~1932)であり、「ノルウェー絵画の父」とされるダール(J.C.Dahl1788 ~1857)の風景画であった。以下、画家についての説明は、後述のベルゲン美術館で入手した解説シート(英語版)に拠ることがほとんどだが、おぼつかない部分も多い。

 

ダールは、ベルゲン生まれだが、コペンハーゲンで本格的な教育を受けた最初のノルウェー画家で、数年後にはドレスデン・アカデミーに移って、1820年には教授になり、多くのノルウェーの画家たちを育てている。彼の描くノルウェーの風景画は、17世紀後半のオランダのRuisdael やその影響を受けたEverdingenから多くを学んでいて、自然の中にみるヒューマンな特徴は典型的なロマンティックな傾向を示しているという。フィヨルドに点在する村々の自然や暮らしが描かれている作品が多かった。

クローグの作品は多くの展示室に点在していたが、部屋に入ると、真っ先に目に入ってくる特徴的な作品が多い。作品に描かれる人々は、社会の底辺で働く人々であり、多くの肖像画にもその人の暮らしや生い立ちを十分に描き込んだ、動きのあるものが多かった。

彼は、オスロ大学で法律を学んだあと、1870年代、おもにドイツで絵画教育を受け、1880年代前半パリで活動した。写実主義画家としての活動とともに作家やジャーナリストとしても活躍したという。妻オーダ(Oda Krohg1860~1935)も画家で、彼の作品にもしばしば登場する。朱色のブラウスと同色の帽子をつけて腰に両手をあてた、自信に満ちあふれた妻の笑顔を正面から描いているKrohgの絵(1888)は、当時の二人の関係を象徴的に語っているかのようだ。とはいうものの、クローグは、当時、美術界で悪評高かったムンクを幾度となく擁護した師であったのだが、ムンクは師の妻オーダとの三角関係に悩んでいた時期もあったというのだ(『ムンク オスロムンク博物館(日本語版)』19983948p)。

 

Backerの作品は、もっぱらインテリアをモチーフとするものがほとんどで、教会内の情景であっても、農家の室内を描いたものであっても、そこに描かれた何の変哲もない家具やドアたちが不思議に存在感をもって迫ってくるような印象なのだ。ハンマースホイの室内画とはちがって、暮らしや人間の息遣いが伝わってくるといってもいいのだろうか。

 

ムンクは、24室にまとめられて、19点が展示されていた。別室にも何点か見受けられた。いまでは国民的にも、世界的にも人気の高い画家となったが、曲折があったらしい。後のムンク美術館で触れたい。

 

ヨーロッパの著名な画家たち、ルノアール、マネ、モネ、ドガ、セザンヌはじめ、マチス、ピカソ、ゴッホ、ゴーガンなどは、広い37室にまとめられての展示であった。一点、一点をもう少し丁寧に見られる時間があったらなあ、と思うことしきりであった。

コバルトブルーの壁に囲まれたカフェ、遅い昼食となったが、一服もつかの間、つぎには、ムンク美術館が控えている。

 

上:ホテルのレストラン、ここで朝食をとる

下:カール・ヨハンス通り、クローグ像の裏に回ると絵筆立てもある

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2009年9月12日 (土)

定額給付金と佐倉街歩き

現金給付がそんなに難しいか

久しぶりに天気がよかったので、のびのびになっていた定額給付金を市役所に取りに行くことにした。これまでには曲折がある。バラまきの何物でしかない、腹だたしい給付金ながら、受け取らないというわけにはいかず、口座振り込みではなく、直接受け取ることにした。給付通知を受けた際、問い合わせた窓口、商工観光課?!は「どうしても口座振り込みができない場合のみしか現金では渡せない、渡せても非常に遅れる」と繰り返していたが、「口座振り込みにはしたくない」と、その旨返信した。無駄な抵抗?!とは知っても、個人情報がいつどこで漏えいするか信頼のならない時代でもある。8月下旬、給付可能の通知がきていた。そのうち市役所に行くついでがあるだろうと放置していたら、明日期間が切れるがいつ取りに来るのか、との電話問い合わせがあった。通知書にはなるほど小さな字で1週間ほどの給付期間が示されていた。1年間も放置すれば別だが、期間があるなど考えてもいなかった。一両日中には出向けないというと、9月中には来てほしいので、前日には必ず連絡をせよとのこと、なんと大げさなこと、と思う。

市役所行きも、車のない我が家では天気に左右される。思い立ったので、朝一番に連絡、午前中のついでで、午後受け取りに行くことにした。近くのスーパー開業の件で何度か足を運んだ商工観光課に出向くと、特設窓口は別棟の1階の由、これも通知書に小さな字で書いてあった。窓口は、しっかりした衝立を背に長い机といすが並べられている。もちろん無人なので、衝立の後ろに回ると、数人の職員がくつろいでいた。給付金受け取りの旨を告げると、誰かが「窓口おねがいします」と叫んでいて、ようやく係員が出てきた。相変わらずの勤務姿勢だな、と思う。

ほんとは、受け取った後、川村美術館に出かけたかったのだが、1時間に1本の送迎バスには間に合わないので、2月の「アド街」(2009214日放送)、つい最近「ちい散歩」(818日)にも登場した「一里塚」に寄ってみようと思った。知り合いのYさんたちが「歴史遺産を次世代に」のコンセプトで立ち上げたNPO法人による運営の施設だ。場所がはっきりしないので、窓口には「佐倉さんさく」のリーフレットも置いてあることだし、商工観光課ならばと気軽に尋ねてみると首をかしげている。この際、学習してもらおうと、「アド街やちい散歩でも紹介されてましたよ」とオバさんぶりを発揮、しばらくの間、その係員が電話で問い合わせるのを衝立の外で聞いていた。いかにも勉強不足ではないか。

佐倉の古い街並み、郷愁を誘うのだが

市役所を出て、海隣坂とは反対側に行くと、右にヤマニ味噌があり、進んで左にピーナッツの大津屋がある。店じまいをした和菓子屋もあり、コンビニの跡とわかる店舗には自動洗濯機が並んでいた。信号を右に曲ると麻賀多神社、車で通ったことはあるが、お参りするのは初めてだ。佐倉の総鎮守で、境内には、戌辰の役での藩士2名の慰霊碑、日露戦争出征者慰霊の「忠君の碑」、戌辰の役から日清戦争出征者慰霊の「義烈の碑」という3基の碑が目立つ。本殿は、天保年間1843年堀田正睦により造営されている。なお、階段のわきには「香取秀真おいたちの地」の碑もみられた。真新しいトイレの裏に何やら気配がと思ったら、なんと猫のエサの器がいくつも置いてあって、どれにもエサは残っており、そこから2匹が逃げて行くところだった。階段を降りた、道路の向かい側に「佐倉養生所跡」とあり、日本では長崎についで、慶応年間に開院された西洋式病院(佐藤尚中による)の跡という。雑草に邪魔されて碑面の文字も読みにくい。

少し戻って、市立美術館の屋根を右に見て進むと、左手に千葉銀行、中井せともの店、右手に蔵六餅本舗木村屋(銀座木村屋総本店からののれん分けで1882年創業)、三谷屋呉服店(1884年建造)と続き、目当てはスーパーのぐちやの先の「佐倉一里塚」である。美術館は、その案内を見ると、川崎銀行の支店をエントランスに見立てて改造し1994年にオープンしたとある。川崎銀行は1937年、当時の佐倉町に売却、役場として使用し、1954年市制以降も市役所として使われた。1971年市役所は新庁舎に移転、以後、公民館、市立図書館、新町資料館と変遷し、美術館になったのである(佐倉市教育委員会『佐倉細見』)。

佐倉一里塚を覗くと、ちょうどYさんが奥にいらして、案内してくださった。「まだ、庭の手入れまで手が回らないのです」と。深さ25mある井戸では、近くで何げなく話していても声がこだまする。土蔵もあり、さらに奥の庭も広い。「間口6間で200坪ですから細長いです。10月の秋祭りには、あずまやを3つほど設けて、夜も店を開きますから、ぜひまた」とも。歴史案内人として活動していたYさんたちが、もともと呉服屋さんだった家を譲り受け、2008年お休み処としてオープン、佐倉の歴史伝承の拠点の一つとして活動している。この途中でNPOの立ち上げに踏み切ったらしい。「このあいだは、蕨市長がお忍びで訪ねてきてくれて、この街筋の電柱の地中化計画の話もしていきました」と語るYさんだった。  

市立美術館を背に京成佐倉駅に下る道は、何度か通っている道だ。この通りにも、シロタ写真館、佐倉煎餅、小川園(お茶)、藤川本店(酒)、赤松種苗店など古い店が続く。そして、駅に着いて振り返ってみると、なんと「まき書房」にシャッターが下りているではないか。川村美術館行きバスの待ち時間によく利用していた書店だ。「貸店舗」の張り紙が見える。いったい閉業はいつのことだったのか。出版も書店も、新聞も雑誌も、この情報社会での行く末が危惧されて久しい。町の本屋が消えてゆく現実をまた一つ目の当たりにしたのである。

ようやく手にした定額給付金、どこにカンパするかは、まだ思案中である。

          

                           

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2009年9月 2日 (水)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<2>コペンハーゲン自由博物館

(2)自由博物館へ(コペンハーゲン)

この季節9時頃までは日が暮れない北欧だが、5時には閉館するということで、チャーチル公園をめざして、連れ合いは小走りに先を行く。だいぶ疲れが出てきた私は歩くよりしかたなく従いて行く。4時半前には入館、ここも入場・撮影フリーなので、英語の案内リーフレットをもらって、まわりはじめる。博物館はロの字型の1フロアで、194049日ナチスドイツ軍の侵攻から解放までを次の4つのコーナーに分けていた。

1.194041 Adaptation to avoid Nazification

2.194243Resistance and sabotage

3.194344German terror tactics

4.194445The Liberation, 5th  May 1945

レジスタンスとしての工場や鉄道のサボタージュが各地でなされた様子が写真や印刷物で展示される。非合法新聞の印刷所や秘密地下放送局の一部が当時使用されていた機器で再現され、謄写版の印刷機なども置いてあった。一瞬目をそらしたくなるような写真や実写フィルムも多いが、ナチスのテロの残酷さは、冷静な姿勢で次代に引き継ぐべきものなのだ。書類やポスター、武器や制服など多くのものたちに歴史を語らせるのが、まさに博物館なのだろう。閉館時間ギリギリまで粘ったが、見残しも多い。戦争被害の記録すらままならぬ日本だが、レジスタンスの顕彰が国の手でなされていることに感銘を受ける。自由博物館を出た後、ゲフィオンの泉(第1次世界大戦戦没船員追悼)まで歩くのにようやくで、人魚姫の像も近いらしいが、もうどうでもよくなって、タクシーでホテルに帰った。

なお、これは帰国後、ネットで知ったのだが、昨2008年、デンマークで「Flammen & Citronen(誰がため)」という、ナチス占領下のデンマークのレジスタンス運動を描いた映画が製作され、大ヒットしたという。今年の12月には日本で公開の予定である。ぜひ見に行かねばなるまい。デンマーク映画といえば、「バべットの晩餐会」(アイザック・デイネーセン原作、ガブリエル・アクセル監督、1987年)*を数年前テレビで見たのだが、あの抑制された映像詩のような風景描写のなかで展開される物語の意外性に惹かれたのだったが。

*ユトランド半島の片田舎の牧師の家の姉妹とそこに身を寄せたフランス人女性バベットと村人たちの物語だ。19世紀後半、パリコンミューンで家族を失っている彼女は過去を語らないが、信仰の厚い老姉妹の亡父の生誕百年追悼のため、晩餐会の準備を買って出る。彼女はフランスの宝くじが当たったからと、本格的な食材を取り寄せ、心を尽くして料理し、集う村びとたちに振舞う。さまざまな思惑のあった村人たちも、そのひと皿ひと皿を味わう至福の時を過ごしながら次第に心和んでいく過程が克明に描かれる。厨房にひとり手際よく立ち働く主人公のゆったりした時間が思い出される。彼女は、かつてパリの有名なカフェのシェフであったことも明かされてゆく。

(3)開館前の新カールスベルグ美術館へ

827日朝、ホテルから近い市庁舎前広場を経て、チボリ公園に沿って新カールスベルグ美術館まで歩いてみる。一方通行の自転車専用道路には自転車出勤の人たちが列をなして走ってくる。その数とスピードが半端ではない。それに、男女ともその走行ファッションが様々で、ヘルメットも全員着用というわけではないらしい。前の小さな籠に造花をあしらったり、大きな二人用の乳母車や荷車をつけたりしている自転車も多い。日本の3人乗り自転車より安全のようにも思える。公園も美術館もまだ開く前なので、記念にと写真に収めてはおく。新カールスベルグ美術館は、例のビール、カールスベルグ社創始者カール・ヤコブソンのコレクションが収められている。ゴーギャンの作品がかなり多いというが、たしか、いま竹橋の近代美術館で開催されているゴーギャン展に何点か「出張」しているかもしれない。現在はピカソの特別展が開かれているようだった。運河にかかるラング橋まで来ると河沿いの兵器博物館、ブラックダイヤモンドと呼ばれている河側に傾斜して建てられた 王立図書館新館が見える。その背後の尖塔はクリスチャンスボー城で、国会議事堂や最高裁判所が入っているらしい。市庁舎前広場に戻って、角のアンデルセン像に敬意を表し、写真に収める。

きょうは、旅の最後の日、いちばんの盛り場、ストロイエに出ることになった。デパートのイルムとロイヤル・コペンハーゲンはのぞいてみよう。途中のガンメル広場の屋台、聖霊教会前の人の往来、ホイブロ広場のカフェはすでに賑わいはじめ、開店間際のロイヤル・コペンハーゲンでは、何人かの日本人に会う。どれもかなりの価格で買う気にもならなかった。3階の特価コーナーにも心動いたが、2階の値下げ品など見ているうちに、連れ合いは普段使いのコーヒーカップと湯のみの別送を依頼した。とにかく旅の思い出の品として、少しばかりの「贅沢?」かな。というのも、世界的に高級食器の需要が下降線だという記事を読んだことがある。日本でも中国製の「百均」で十分用が足りるようになったし、食器の需要自体が減少、結婚式の引き出物はカタログから選ぶ方式が多くなったかららしい。

午後345分、コペンハーゲン空港を発つとまもなく海上には白い風車が弧をなして並んでいた。耳も痛くならず、夕食後うとうとしたと思ったら、3時間ほど経っており、窓を開けると雲の彼方に日が没する瞬間であった。少しばかり気の昂ぶる旅の終わりとなった。

(ランゲ橋から王立図書館を望む)
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2009年9月 1日 (火)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<1>テンマーク国立美術館

 海外旅行をする以上、その土地の事物や自然を楽しみながら、できるだけ多くの人々に出会い、その暮らしぶりを知りたいのだが、残念ながら語学力が及ばない。せめて観察力を研ぎ澄ましたいのだが、私が自分を取り戻し、ほっとするのは、多く美術館や博物館であった。

 

 今回は、オスロ、ベルゲン、フロムからフィヨルドを経て、ヴォス、ベルゲン、コペンハーゲンという行程である。欲張らないつもりながら、途中から荷物も多くなって、ベルゲンからは、現地で入手した資料なども郵便小包で日本へ送ってしまったので、まだ届いていない。10日前後はかかるという。順序は逆になるが、コペンハーゲンの美術館から書き起こすことにした。

 

(1)デンマーク国立美術館へ 

826日(水)、ノルウェーのベルゲンから隣国デンマークへの入国はコペンハーゲン空港であった。着いた日の午後と翌日の午後1時過ぎまでしか使えない束の間の滞在である。オスロ~ベルゲン間と同じSAS便ながら、軽食も出ず、ドリンクもすべて有料という。1時間余りのことだからそれもいいかもしれない。ホテル最寄りの駅名からメトロを選び、ここも自動販売機近くの案内人の助けでようやくカードで切符を入手、車内で路線図を眺めてみても、そんな駅名がない。途方に暮れていると乗客の1人が、私たちの差しだすホテルの名を見て、ノアポート駅で乗り換えよ、という。地上にでたものの、どのバス停からどの路線に乗り換えるか分からず、尋ねた1人は40番のバスに乗れともいうのだが、あきらめてタクシーとなった。着いたコング・フェデリックホテルは、チェックイン後、古い肖像画などがあちこちに掲げられたロビーを経て、奥まったエレベータの前に立ってアップボタン押すがいっこうに扉が開かない。Hereのボタンが点灯するものの、一見部屋のドアのような木製の扉は開かない。少しばかり触れた取っ手が手前に開くではないか。エレベータは停まっていたのだ。階数を押せば蛇腹の戸が閉まる仕掛けで、着いた階では内側の蛇腹が開いた後、木製の扉を手で押し開かなければならない。なるほどこれが「格式?」というものなのかな、と感心する。

部屋で一息入れて、まず、国立美術館へ。タクシーを走らせたノーラ・ヴォルト通りをオルステッド公園に沿って歩きはじめる。二つ目の交差点を過ぎると左手が植物園、右手は宮殿を擁するローゼンボー公園だ。右手の門を入ろうとすると、銃剣を携えた衛視に制止され、写真も断られる。表札を見ればどうも皇宮警察らしく、宮殿への入り口を教えてくれる。代々の王が気に入って住まいにしていたという17世紀に建てられた離宮の庭園は広々としていて、巨樹があちこちに木陰をつくり、市民が憩う。四角に刈り整えられた並木を突っ切って出た交差点の前がコペンハーゲン大学のはずで、斜め向かいの国立美術館の前庭は工事中でクレーンが石のブロックを釣り上げていた。この美術館は、王室コレクションの一般公開の機運の中、19世紀末、エスター・アンレッグ公園の一画に建てられたという。入館は無料、入館証らしきものも渡されない。フラッシュなしの撮影も可ということだ。水曜日は夜の8時まで開館という。他にも出かけたいので、全室を見て回るのはムリだろう。旧館2階の半分ほどを占める2021世紀の部屋はあきらめて、1750年~1900年代の部屋(217229室)に絞って回ることにした。デンマークの絵画が時系列で展示してある部屋と風景・肖像などの主題で展示されている部屋とがあるらしく、画家の名前と部屋毎の説明カード(英語)を頼りに進む。

なじみのない名前が多い中、昨年、日本での展覧会で評判だった、ウィルヘルム・ハンマースホイ(18641916)の絵に出会うと何かほっとする。上野の西洋美術館での展覧会は行きそびれていたし、そのときのカタログも手にしていないが、雑誌やネット上で見覚えのある作品数点を見かけた。モノクロに近い裸婦、街角の建物をテーマにした絵もあり、イーゼルのある画家の部屋、開いた白いドアを背にした横向きの自画像、コーヒーカップを前にした妻の絵などの室内画は、独特の雰囲気を漂わせていて、思わず足を止めた。

また、農場に働く人々を描いた2枚の絵「種をまく老人」「草を刈る青年」(私が勝手につけた題なのだが)が印象的だった。リング(Laurits Andersen Ring18541933) の田園風景や家族へのあたたかなまなざしが伝わってくるようで引き込まれるのだった。その部屋のベンチには、Ringの特別展(2006年)のカタログが置いてあって、気に入ったのだが、重いので買うのはあきらめ、しばらく眺めていた。

主題別の部屋でも何度か見かけたエッカーズベルグ(Christoffe Wilhelm Eckerberg17831853)は、肖像画、風景画、室内画もあり、「デンマークの絵画の父」とも呼ばれているらしい。コプケ(Christen Kobke 181048 )も短い生涯ながら肖像も風景も室内画も手掛け、川の船着場の国旗のもとに佇む女性の後ろ姿、岸を離れている小舟を迎えるのか、見送るのか定かではないのだが、デンマークの赤地に白十字の旗が中央にはためいている絵は忘れがたい。宗教画、祭壇画のブロッホ(Carl Heinrich Bloch 18341890)となると、私には苦手な部類だ。227室では、中学生の一団が美術鑑賞に来ていて、学芸員が熱心に語りかけていた。引率の先生も傍らに立っているのだが、中学生たちは何とカラフルな服装で、自在な態度―ベンチに腰掛ける者、床で膝を抱える者あるいはもはや完全に肘枕でねそべっている者もいる―なのだろう。教材に選ばれていたのは、隣国ノルウェーの写実派、社会派画家とでも呼ぶのか、クローグ(Christian Krogh18521925)の鮭加工の家内工場に働く女性たちの絵だった。学芸員はしきりに質問を引き出すような話しぶりで、生徒たちに手をあげさせては発言させていた。ガッツポーズのように右手の人差し指をたてての挙手である。日本の子どもたちはこんな美術教育を受ける機会があるのだろうか。

中世の絵にも敬意を表するため新館へ連絡通路を渡って入った部屋は、天井の高い明るい部屋の壁いっぱいに3段も4段?もの展示で、見上げるまでもなく圧倒される。広いひと部屋を一巡して失礼し、新館地下のカフェ・リパブリックで遅い昼食をとることにした。新・旧館を行き来して美術館の全容がわかってきた。多方をガラスで囲まれたような新館は旧館の裏側に増築し、その間を吹き抜けにして連絡通路で結んでいる。そうだ、昨年、訪ねた上野の国際こども図書館の新・旧館も同様のコンセプトではなかったか。ロイヤル・コペンハーゲンの器でケーキとお茶をし、早々に次の目的地「自由博物館」へと歩き始めるのだった。

 

(デンマーク国立美術館、krohgの絵の前で)
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