何年ぶりの神戸だろうか~「追悼展 短歌と書 醍醐志万子の書」へ
山の手界隈散策
9月24日から始まる醍醐志万子の追悼書展のオープニングにぜひと思い、前泊は、北野町の公共の宿、六甲荘を予約した。何年ぶりの神戸だろう。大震災後に一度は来ているはずだ。新神戸駅から異人館街への矢印のある、ゆるい坂を進む。北側はしばらく斜面が続くが、左手には大きなホテル、介護付き有料老人ホームやマンションが並ぶ。十字路を南に折れる「不動坂」を下ると宿があった。久しぶりの新幹線と蒸し暑さにやや体調を崩し、ともかく一休みをして三宮へと出る。駅前の大通りと北野坂の交差路、ベネトンのショーウインドーはすでに冬仕度、高架線をくぐって「そごう」に入った。どっとかいた汗に驚き、一枚余分の肌着と新ルル錠を買う。連休前日の夕方、「さんちか」の人通りはかなりのものだった。街歩きの元気は失せて、デパ地下の惣菜と五目おこわとを宿に持ち込み夕食とした。ややわびしい気もするが、部屋はコンパクトながら清潔感があって気に入った。
翌朝のバイキングの朝食もシンプルだが品数もあって、客は若い外国人グループが多い。体調はなんとか回復したので、10時のチェックアウトまで散歩に出てみることにした。宿の前を登った史跡三本松とある交叉路を北に上がると水色の洋館が目に入る。現在は結婚式場になっているらしい。人がすれ違うのがやっとなくらいの石だたみの路地を左に進むと小さな北野町東公園に出て、その横には石段の急坂が見える。さらに進むと円形の北野町広場に出た。向かいには、北野天満神社と風見鶏の館(旧トーマス邸、1909年築)が並ぶ。ともかく神社への階段を登ってみると境内からは、港までの街が一望でき、風見鶏の館が見下ろせる。12世紀平清盛が京都の北野天満宮を模して建てたので、一帯の地を「北野」と呼ぶようになったという。広場に接して建つ萌黄に館(旧シャープ邸)の横の坂道をくだってぶつかったのが北野通りで、連休も明け、車の往来が激しい。ここにも英国館、ベンの家、旧パナマ領事館など軒を連ね、入館料をとって見学させる館もあるし、カフェやレストランになっている建物もある。その多くには「伝統的建造物」という緑色のプレートが掲げられていた。まだ、時間があるので、北野遊歩道に上がってみる。地元の人の散策や犬との散歩の人によく出会う、なかなか快適な道で、新神戸ロープウェーの発着所を通るが、始発は9時30分という。本当は布引ハーブ園までも行ってみたかった。せめて、王子動物園方面へ足を伸ばし、神戸文学館にも行ってみたいと、バス停で時刻表をみていると、半分酔っている男性が、巨人優勝のスポーツ紙を持ってブツブツ話しかけてくる。やはり時間的に無理とわかって昨日と同じ道を宿に引き返すのだった。
追悼展のオープンは午後1時、会場の県民会館まで20分ほどだというので、思い切って歩くことにした。宿のすぐ下は電子専門学校の校舎が散在しているらしく、ちょうど登校時間帯だった。各校舎の入り口といわず、10m置きぐらいに職員が立って、学生たちに「おはようございます、おはようございます」と叫んでいる光景に出会った。小学生ではあるまいし、登校時に何か住民とのトラブルでもあったのだろうか、たんなる生活指導なのだろうか、ちょっと異様な雰囲気だったのだが、千葉県のわが町でも小学校、中学校の校門付近では同じような光景が繰り返されていることは確かだ。
県庁を目指して、異人館通りとも呼ばれる山本通りをひたすら歩いた。昨日から界隈を歩いていて、ようやく気付くのだが、マンションの1階やシャレた構えの店舗が空っぽというのが目につき始めた。なかには、緑の「伝統的建造物」のプレートを付し、管理会社の看板を掲げている異人館もあった。トアロードを下ると、右側に人だかりがして、「北野工房のまち」とある。手仕事の店が何軒か入っているらしい。外観はそれほど手の込んだ洋館でもないと振り返ると、古びた門柱には「神戸市立北野小学校」の札が下げられていた。
追悼展へ~書と短歌と
次の四つ角を渡って斜めの道に入ると、県民会館はすぐだった。10時前というのにすでに会場には和田青篁先生と書の会の方々が準備を終えられ、早くも来場者と歓談されていた。会場を回わり、行き届いた心遣いに身内としては感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。志万子の自詠の短歌を書いた作品が中心の19点、書の会の方々が、このたびの追悼展のため志万子の短歌を書作品としてくださった10点で構成されている。会場の中央には、生前の歌集8冊と刊行されたばかりの第九歌集が展示され、壁には年譜パネルと写真が添えられていた。「私と同い年です」と年譜に見入る方、「短歌というから短冊や色紙のイメージだったが、力強いですね」という方などともお話ができた。関西在住の短歌の知人に久しぶりにお会いできたり、初めて会う方もいらしたりした。当日9月24日の『神戸新聞』朝刊で、大きく紹介してくださっていたお陰だろうか、来場者が途切れることがなかった。
和田先生とは初めてお目にかかった。お忙しそうなので一つだけと思って「先生は清原日出夫さんの短歌をよく書かれますが、どういうお知り合いですか」と不躾な質問をしてしまった。「そうですか、それではお茶でも」と喫茶室に誘ってくださった。とても率直に、気さくに、二十代での短歌と清原さんとの出会い、「塔」、「五〇番地」のことなど、なかなか込み入った話もしてくださった。2歳ほど年下になる清原さんとの友情は聞いていても羨ましいほどであった。作歌はされないが、「書く」ための短歌への純粋な気持ちと研究の厳しさが伝わってくる話だった。
あっという間の数時間、そろそろ新幹線の時間が迫り、会場を後にするのだった。 スレ違いで、明日からは連れ合いが神戸に向かう。
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