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2009年9月21日 (月)

国立近代美術館へ~ゴーギャン展と戦争画の行方

国立近代美術館へ(1)ゴーギャン展

 ゴーギャン展の会期の終わりも迫り、お彼岸も近いので実家の仏壇にお花でも供えようと東京に出た。一人住まいの義姉とも久しぶりだった 。

 地下鉄の竹橋の改札口を出ると、臨時チケット売り場がたたまれているところだった。週日だが、午前中はかなり混雑したのだろう。8月に訪ねたコペンハーゲンの新カールスベルグ美術館で、かなりの点数を持っているゴーギャンを見はぐっている。日本でも見られるかもしれない、という気持ちもあった。コペンハーゲンにはゴーギャンの妻の実家があって、一家で寄食していた時期もあった縁らしい。しかし、今回のゴーギャン展は、名古屋ボストン美術館開館10周年記念と銘打った美術展と主催などは異にするものの、ほぼ同様の構成らしく、出品はボストン美術館所蔵のものが多い。日本初公開の大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」もそうだった。この大作を細部にわたって眺めるといろいろのことがわかるらしいが、私には、果実を採ろうとする女性、食もうとする女性が絵の中央に配され、さまざまな背景のもとにポーズをとる女性たちに寄り添うように描かれたいくつかの動物たちが人間たちをつないでいるかのような構図に惹かれた。この作品は、ゴーギャンが2度目のタヒチ生活で、経済的にも、身心の状況ともに窮地に追われ、自殺をする18982月直前の時期に描かれたとされる。しかし、題名のような、大仰なテーマを実感することはできなかった。ヒ素の量を誤り、一命を取り留めたが、タヒチのパペーテの病院への入退院を繰り返し、マルキーズ島で不遇のまま生涯を閉じるのは1903年、54歳であった。

 タヒチでの暮らしの「ノア・ノア」(マオリー語、かぐわしい、香気ある、の意味)と題した連作版画もじっくりとは見られなかったが、文明と対比して未開や野性に人間の根源を求めようとした作品20数点は、意外にも暗く、細やかであった。ゴーギャンの逞しさや鮮やかな色彩の量感など、期待していたものとは違っていた。思い出して、帰宅後、かつて読んだ岩波文庫『ノア・ノア~タヒチ紀行』(P.ゴーガン著 前川堅市訳 1990年 初版1932年)を引っ張り出して眺めた。絵の版画のタヒチの女性の視線はどれも憂いに満ちているように思えた。

 ゴーギャンは、有能な株仲買人として、妻と5人の子供を養いながら、ピサロを師として絵画を趣味にしていたが、1883年、35歳のとき画業に専念するにいたった。もっともこの間、ドガからもその手法を学んでいる。短期間のゴッホとの共同生活を経るも、生活は困窮を極めながら、「俗悪な社会を捨てて原始に帰ろうとする憧れ」(前著訳者解説)から、タヒチに向かったのが1891年、42歳のときであった。『ノア・ノア』はこのときの紀行文ということになる。縁者の遺産を得て、一度はパリに戻るも、再度のタヒチ行きとなった。かつてのタヒチでの妻に再会するもすぐに去られ、孤独な晩年を過ごしたことは前述した。

 私が買った絵ハガキは、結局「洗濯する女たち、アルル」(1988年)と「二人のブルターニュ女のいる風景(1889年)というフランス時代の2枚と大作「我々は・・・」の生き物たちだけを拾って再構成した1枚であった。

国立近代美術館へ(2)戦争画の行方

 ゴーギャン展のチケットに含まれている常設展「近代日本の美術」(所蔵品ギャラリー)も見て回った。ここは、年間数回の作品入れ替えをしながら、会期ごとに幾つかの小特集も組まれるという。

 私の関心は、これまでもブログで言及したことのある国立近代美術館で所蔵する戦争記録画であった。敗戦後、GHQに接収された戦争記録画が返還運動などさまざまな曲折を経て、1970年「無期限貸与」という形で、153点が日本に戻った。以降、長らく公開されない時代が続いたが、2002年から近代日本美術史の流れの中で「戦時と〈戦後〉の美術」のコーナーで順次公開されることになった(『コレクションのあゆみ19522002』)ことは聞いていたので、その常設展示を見たいと思っていた。

 「近代日本の美術」は、Ⅰ明治大正の美術からV現代美術1970年代以降、までという時代区分により、日本の近代の美術の流れがわかるような展示である。戦争記録画は「Ⅲ戦時と〈戦後〉の美術」の部屋の壁面の一部を利用して、今期は、以下の3点が展示され、解説などはない。以下の経歴などは、国立近代美術館の上記「無期限貸与」153点のリストおよび栃木県立美術館、小金井市立はけの森美術館(旧中村研一記念美術館)のホームページの記事などに拠った。

①清水登之「工兵隊架橋作業」(1944年)*戦時特別文展陸軍省特別出品

②藤田嗣治「血戦ガダルカナル(1944年)*陸軍美術展

③中村研一「北九州上空野辺軍曹機の体当たりB29二機撃墜す」(1945年)

*戦争記録図展

① 清水は1887年栃木県生まれ、陸軍士官学校受験に失敗、単身渡米、働きながら絵を学び、高い評価を得、結婚のため一時帰国、米国からパリなどに滞在を経て、1927年帰国、二科展に出品をつづけ、1930年には独立美術協会の創立に参加した。1932年から従軍作家として戦地に赴くようになる。今回の展示作品は、川に胸まで浸って過酷な架橋工事に携わる、兵士の群像をフォービズムに近い手法で描いた力作であって、戦意高揚のメッセージというよりは労働賛歌のプロレタリア作家の作品にすら見えた。国立近代美術館の戦争記録画としてはもう1点「汪主席と中国参戦」を所蔵している。栃木県立美術館所蔵の「戦蹟」(1937年)、「難民群」(1941年)などをネット上で見ると展示作品と手法上の共通点も多いのではないか。敗戦直前に息子の戦死を知り、194512月に失意のうちに死去するのだった。

② GHQの接収事業に、藤田は積極的にかかわり、返還作品153点中には14点が入っている。今回の展示作品は、ガダルカナルの兵士たちの最期を描いている大作である。藤田については、本ブログにも書いたことがあるので、ここでは省略する。

③ 中村(18951967年)は福岡県生まれ、東京美術学校で岡田三郎助に師事した。返還作品153点の中に9 点見出すことができる。今期展示の作品は、写真をもとにでもしているような、空中の炎の中からB292機がまっさかさまに落ちてくる様子が描かれている作品だった。

なぜ、こうした作品をありのままに提示し、少なくも返還された作品を公開することをしなかったのか。画家本人、遺族、美術館(行政)側が拒否したり、躊躇したりしてきたのだろうか。返還後の非公開の長い空白の時代は何を意味するのだろう。国策に添って描いたことが画家の良心から許せないのか、戦争責任を問われることを恐れているのか。作品が技術的に未熟であったからなのか。これまでも、この153点を一堂に展示することは一度もなかったし、これからもない、というのが、美術館側の方針であることを館の担当者から聞いた。さらに、

①遺族の意向

②公開すると不愉快に思う人たちがいる以上、国際的な問題にもなりかねない

③展示スペースが限られるので、全面公開のつもりはない、

というのだ。たしかにこのような理由が存在することもあろう。その「不都合」を超えて公開することによるメリット、歴史へ真摯な姿勢、反省を明確にすることの意義は大きいのではないか。さらに、館の担当者は、著名な作品や名品はこれまで順次公開してきているので、ほぼ公開し終えたような趣旨のことも言っていた。絵画作品がデジタルで見られる時代にもなった。工夫次第で、②③の理由は克服できるのではないか。名品か否かはだれが何を基準に判断するのか。国立美術館の(所蔵)作品は国民の共有財産でもある。全面公開の日を待ちたい。

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コメント

アメリカから「無期限貸与」された作戦記録画の全面公開がひつようというご意見に賛成です。公開し、アジアの人々に観てもらって、戦争と美術について考える機会があってほしいと切に思います。

投稿: 飯野 | 2009年9月24日 (木) 09時38分

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