美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<3>オスロ国立美術館
<1><2>は、日程的には逆の掲載の形となってしまった。資料の小包も届いたので、最初の目的地オスロから始めたい。
オスロ、桟橋通りへ
私には初めてのSAS便(コペンハーゲン行)だったが、成田の離陸がだいぶ遅れた。9時間余の機内は、エコノミー・エクストラの席を、思いがけずビジネスに変更してくれるということでだいぶ得をした気分だった。当初は寒くて毛布を首からかぶっていたがひっきりなしのドリンクなどのサービスを受け、どうやらうとうとしたようであった。コペンハーゲン空港へと近づくと、海上に風車が連なり弧を描いていた。空港は、降りるとチョコレート色の木目の床板に迎えられ、そのシックなセンスをさすがと思ったものだ。それにしても、オスロ行きの出発ゲイトまで、免税店が並ぶ通路の長さは格別で、不安になるほどであった。1時間ほどで、最初の目的地オスロに到着、ここは、オーク色の床板で、これも森の国ノルウェーにふさわしく落ち着いた雰囲気、空港エキスプレスでオスロ中央駅に到着、当初、沿線の落書が少ない街かなと思いきや、やはり市内に近づくと目立ち始めるのだった。ホテルは中央駅前といってもよい。ロビーで目に入った催し物の受付けがあって、“Mr.Gay Europe 2009 23.august 2009”と、ポスターにはあり、さすが「ホクオウ!」と感心する。私たちの宿泊とすれ違いの日程ではある。 部屋に囲まれた中庭全体がレストランになっていて、どの階の廊下からも見下ろせて、並ぶバイキングのご馳走には食欲をそそられる。
目の前のショッピングモールのオスロシティをひと回りした後、夕食の店を探すことになった。雨も降り出し、折畳み傘では肩が濡れるほどで、見つけた目当ての「ガムレ・ラドフス」は、予約がないのでと断られた。店の名でもわかるように、17世紀に建てられた旧市庁舎を利用して18世紀に開店したという。黄色い壁のこの地ではどこにもありそうな建物に思えた。海岸への路地は水たまりが多く歩きにくいのだが、雨に煙るアーケル・ブリッゲはまだ観光客で賑わっていた。大聖堂に面するカール・ヨハンス通りに戻って1階は居酒屋のように賑わう店の地下で夕食を済ます。花や光る輪を持った外国の女性たちが通りかかる人に寄っては声をかけている。何となくあやしげではあるが、人通りは絶えそうにもない。ホテルに着いたのは、11時すぎだった。
オスロ大学から国立美術館へ
オスロで丸一日使えるのは今日だけである。連れ合いが20年近く使っていた旅行鞄のとっ手が切れた。カバン屋を探すはめになるが、意外と近くに専門店があったので、ひとまわり小ぶりのサイズを求め、ホテルに引き返す。
朝のカール・ヨハンス通りを王宮に向かうが、急な坂をのぼり切らねばならない。その坂道はまるで駐車場で、車は斜面に這いつくばるように並んでいた。朝から若者の往来が多いと思ったら、右手はオスロ大学だった。左手が国民劇場で、イプセンの銅像があるのだが、やや戯画化された立像ではあった。王宮の三角広場の砂は昨夜の雨に流れ出している。王宮自体は黄色の質素なたたずまいながら、要所要所、衛兵が見守るなかを一回りする。朝の10時、衛兵の交代がはじまった。若い衛兵がかわいらしい、と思う年になってしまったのか。裏手の庭園の木々は雨上がりに映え、木の間からは街の往来が見下ろせる。今度はオスロ大学の裏手を下ると国立美術館である。その手前が歴史博物館らしいが、美術館に直行する。
館内は撮影が一切禁止の上、手荷物の大きさもチェックされる。案内書を頼りに、展示室への階段を上る。左手正面の衝撃的な大作は、雪に覆われた街のあるドアの間から突き出されたひとかたまりのパンに多くの女たちと子どもたちが手を伸ばして群がっている、という絵だ。英訳で“The Fight for Survival”と題されたクローグ(Cristian Krohg1852 ~1925)の作品である。私には初めて聞く名前だった。が、15~41室までまんべんなく鑑賞するには時間がないだろう。せっかくなのでノルウェー画家たちを優先してみることにするが、どうしても気になるのが、ムンクはともかく、さきのクローグであり、数少ない女性のHarriet Backer(1845~1932)であり、「ノルウェー絵画の父」とされるダール(J.C.Dahl1788 ~1857)の風景画であった。以下、画家についての説明は、後述のベルゲン美術館で入手した解説シート(英語版)に拠ることがほとんどだが、おぼつかない部分も多い。
ダールは、ベルゲン生まれだが、コペンハーゲンで本格的な教育を受けた最初のノルウェー画家で、数年後にはドレスデン・アカデミーに移って、1820年には教授になり、多くのノルウェーの画家たちを育てている。彼の描くノルウェーの風景画は、17世紀後半のオランダのRuisdael やその影響を受けたEverdingenから多くを学んでいて、自然の中にみるヒューマンな特徴は典型的なロマンティックな傾向を示しているという。フィヨルドに点在する村々の自然や暮らしが描かれている作品が多かった。
クローグの作品は多くの展示室に点在していたが、部屋に入ると、真っ先に目に入ってくる特徴的な作品が多い。作品に描かれる人々は、社会の底辺で働く人々であり、多くの肖像画にもその人の暮らしや生い立ちを十分に描き込んだ、動きのあるものが多かった。
彼は、オスロ大学で法律を学んだあと、1870年代、おもにドイツで絵画教育を受け、1880年代前半パリで活動した。写実主義画家としての活動とともに作家やジャーナリストとしても活躍したという。妻オーダ(Oda Krohg1860~1935)も画家で、彼の作品にもしばしば登場する。朱色のブラウスと同色の帽子をつけて腰に両手をあてた、自信に満ちあふれた妻の笑顔を正面から描いているKrohgの絵(1888)は、当時の二人の関係を象徴的に語っているかのようだ。とはいうものの、クローグは、当時、美術界で悪評高かったムンクを幾度となく擁護した師であったのだが、ムンクは師の妻オーダとの三角関係に悩んでいた時期もあったというのだ(『ムンク オスロムンク博物館(日本語版)』1998、39-48p)。
Backerの作品は、もっぱらインテリアをモチーフとするものがほとんどで、教会内の情景であっても、農家の室内を描いたものであっても、そこに描かれた何の変哲もない家具やドアたちが不思議に存在感をもって迫ってくるような印象なのだ。ハンマースホイの室内画とはちがって、暮らしや人間の息遣いが伝わってくるといってもいいのだろうか。
ムンクは、24室にまとめられて、19点が展示されていた。別室にも何点か見受けられた。いまでは国民的にも、世界的にも人気の高い画家となったが、曲折があったらしい。後のムンク美術館で触れたい。
ヨーロッパの著名な画家たち、ルノアール、マネ、モネ、ドガ、セザンヌはじめ、マチス、ピカソ、ゴッホ、ゴーガンなどは、広い37室にまとめられての展示であった。一点、一点をもう少し丁寧に見られる時間があったらなあ、と思うことしきりであった。
コバルトブルーの壁に囲まれたカフェ、遅い昼食となったが、一服もつかの間、つぎには、ムンク美術館が控えている。
上:ホテルのレストラン、ここで朝食をとる
下:カール・ヨハンス通り、クローグ像の裏に回ると絵筆立てもある
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