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2009年10月30日 (金)

インターネット「歌壇」はどうなるか(5)既成短歌メディアの動向

 いま届いた『短歌往来』八月号にも「ネット社会の新人たち」の特集が組まれていた。平成に入ってからの二〇年間の角川『短歌年鑑』の目次を眺めてみた。恒例の「回顧と展望」(作品展望はのぞく)の執筆者はほとんど固定化している。さらに、いわゆるライトヴァース世代を経て、インターネット世代の担い手とされる執筆者も固定しているのがわかった。一九九五年一二月発行「平成八年度版」が穂村弘の最初の登場であった。しばらくブランク後、二〇〇一年度(〇四年、〇八年度を除く)からは、穂村、加藤、穂村、穂村、加藤という感じの執筆ぶりである。他の執筆者にも「インターネットと短歌」に触れる執筆者はいるのだが、上記のデータは、既成の短歌総合誌が彼らに発言の場をいつ与え出したのか、を探る一例にすぎない。二〇〇九年度版では、穂村が座談会(岡井隆・馬場あき子・高野公彦)に参加、加藤治郎が「時評への回復」を執筆している。

月刊『短歌』においては、穂村が「特集・近頃の現代短歌を考える」(一九九二年八月)などへの参加、一九九八年九月「<わがまま>について」(特集・文語と比べる口語を生かす)を執筆し、坂井修一は「マルチメデイアと短歌」(一九九五年一〇月)を寄稿している。二〇〇二年二月には穂村と情報通信の研究者でもある坂井・鵜飼康東による座談会「インターネットは短歌を変えるか―新しい時代の歌のあり方は?」が登場し、インターネットの可能性を強調している。

 また『短歌研究』では、一九九二年二月「歌人のための『コンピュータ学』」を執筆した穂村が「短歌レトリックへの招待」(一九九三年一一月)などへ執筆、先にみたように電子会議室やリンク集が定着する世紀末を経て、『短歌研究』は、坂井修一・加藤治郎・穂村弘編集による『うたう』(『短歌研究』臨時増刊号 二〇〇一年一月)を刊行した。メール投稿、選者との双方向通信を取り入れた「うたう☆クラブ」を翌二〇〇一年五月から本誌に定着させ、現在も続いている。「インターネット短歌」の既成短歌メディアの受容が決定的になった象徴的な出来事だったと思う。「うたう☆クラブ」のコーチは、現在、月替わりで加藤治郎・小島ゆかり・栗木京子・穂村弘が務め、メールで応募してきた作品の選歌と改作指導を行い、その改作過程のやり取りを誌上で公開するのが特徴である。投稿に付されている年齢からみると、もちろん若い投稿者が多いが、四〇~七〇代も見受けられる。従来からの「短歌研究詠草」欄への投稿者の数や年齢層の傾向とは違いを見せる。また、一九九九年から二〇〇〇年にかけては、「座談会・個人的体感の世代」の連載があり、加藤治郎・坂井修一をホストに若い世代のゲストを迎えて、短歌のインターネットへの傾斜にも目配りがみえる。

さらに、『歌壇』にも、インターネット関連特集や記事が多くなる。一九九九年五月「若者うたの現在」、同年一二月、荻原裕幸と穂村との対談「口語短歌の現在、未来」が組まれ、二〇〇〇年一月からの連載「サイクルエッセイ・コミュニケーション・歌人同士」では、坂井修一・加藤治郎・穂村弘・荻原裕幸が月替わりで登場する。必ずしもインターネットにかかわるエッセイだけではないのだが、これも、既成メディアのインターネット「歌壇」への配慮がうかがえる。また、二〇〇〇年一一月には、「アンケート・短歌界をゆるがした重大事件」を特集、三一人に五大事件を順番にあげさせている。正岡子規の短歌革新、与謝野晶子の出現、第二芸術論、前衛短歌運動、俵万智現象、アララギ解散などが定番であるなか、佐藤通雅が「パソコン歌会の出現」、真野少が「インターネットの出現」をあげているのを記憶に留めておきたい。

 二〇〇〇年には、穂村弘が『短歌という爆弾―今すぐ歌人になりたいあなたのために』(三月 小学館)東直子・澤田康彦との共著で『短歌はプロに訊け!』(四月 本の雑誌社)を出版し、いずれも一般の取次ルートにのる出版社であり、若ものの短歌入門書として売上げを伸ばした年でもあった。

なお、既成の短歌メディアのなかで、特に重要な役割を果たすことになったのがラジオ、テレビであったも忘れてはならないだろう。さらに情報の送受信のツールとして、パソコンのみならずケータイ(電話)が利用されるようになったことに着目したい。

インターネットが短歌や歌壇に与えた影響の一つは、穂村や枡野の著書が商業ベースに乗り、文庫化などを果たしている事実である。インターネット「歌壇」での活動を背景に、または足がかりにして、歌人たちが短歌メディアを超えた種々のメデイアに登場した。ネット「歌壇」にかぎらず、いわゆる著名歌人たちも、とくにテレビやラジオへの、他のメディアへの露出などの相乗効果によって、特定の限られた歌人たちが、その商品価値を高めることになった。来嶋靖生も「各雑誌は歌人を商品にしすぎるのではないか」と(短歌)総合雑誌の「志」を問うている(「混沌の行方」『短歌現代』二〇〇九年九月)。

歌人の肩書でメディアでの活躍が目覚ましかった枡野浩一は、一九九五年の角川短歌賞において応募作「フリーライターをやめる50の方法」で選考委員の最高得票を得ながら受賞を逃したことを「売り」にメディアに登場した。一九九七年、コミック誌に「マスノ短歌教」連載開始、第一歌集『てのりくじら』(一九九七年 実業乃日本社)も話題になる。二〇〇〇年五月九日からNHK総合「スタジオパークからこんにちは・枡野浩一の短歌」に出演、以降、同番組のコーナー「かんたん短歌塾」として好評を博した(以降、番組情報は主にNHKアーカイブの保存番組検索による)。枡野が案内役をつとめた「ETV2001・電脳短歌の世界へようこそ」(NHK教育二〇〇一年一月一七日)は再々放送され、反響は大きかったものと思われる。以後も「課外授業ようこそ先輩」、「<かんたん短歌>はムズカシイ?」(NHK総合)ほか、「新・真夜中の王国」「週刊ブックレビュー」、「真剣・10代しゃべり場」(いずれもNHK)などへ出演、マルチタレントとしての足跡を残した。この間、歌集『ますの。』(実業乃日本社 一九九九年)と「ますの短歌教」をまとめた『かんたん短歌の作り方』(筑摩書房 二〇〇〇年一一月)を刊行し、若者たちの短歌入門書としてベストセラーになった。これらの著作をきっかけに加藤千恵、佐藤真由美、天野慶らを育てたと枡野は自らのブログに記す。二〇〇三年五月、荻原裕幸を編集長とする『短歌ヴァーサス』(風媒社)の創刊号は「枡野浩一の短歌ワールド」という特集であった。

また、既成歌壇とネット「歌壇」との間のメッセンジャーだった加藤治郎は、一九九六年夏、短歌の世界においてインターネットがコミュニケーションの場として機能することによって「主宰者を頂点とした結社のピラミッド構造は揺らぐだろう。リンクした歌人同士は対等になるだろう。情報の、そして精神的な結びつきは、結社の会員より」深くなり、雑誌を出す意味は薄れていき、歌人は一人の作家として自立するだろう、と予言をしていた(『短歌四季』)。また、結社の効用として「師弟関係」と「教育的強制力」をあげ、前者とインターネットによる歌人の自立性とは矛盾を擁し、インターネット上では後者を補完できることも示唆していた(「歌のコミュニテイー」『歌壇』二〇〇〇年二月)。さらに、大辻隆弘が指摘するように、加藤のインターネット観は微妙に変化する(「重力への希求」『短歌四季』二〇〇三年八月)。あるシンポジウムで加藤は「ネットは現代短歌の世界への入り口。いろいろな楽しみ方もあっていいし、そこから本格的な活動を考えるなら結社という選択もありでは」と発言している(『中日新聞』二〇〇三年六月一八日)。二〇〇三年加藤自身『未来』の選者になり、被選歌者によるサイト「彗星集」が始まり、二〇〇五年「毎日歌壇」選者、二〇〇九年四月「NHK短歌」講師に就任するに至った。この間、いわば「結社内結社」をすら是認するようになっていた(インタビュー「〈うたう世代〉以後の現代短歌」『短歌ヴァーサス』三号 二〇〇四年四月)。

(『ポトナム』200910月号、11月号所収)

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