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2009年10月30日 (金)

神田の古本まつり、行ってきました

 今年は、50回目になるという。1029日、ちょうど東京での用事が午前中に済んだので、「九段下」での途中下車となった。数年前の青空市は、透明なビニールシートをすっぽりかぶった本棚、こちらも傘をさしての渉猟は、やや苦しかったが、きょうは暑いくらいの快晴、人出も多い。何がなんでもという目当てはなかったのだが、かつて図書館で利用していた『入江相政日記』全6巻が5000円だった。これからも少し使いたいので、地元の図書館への往復、コピーの手間を思って、買うことにした。5000円以上買えば宅急便が無料というので、帰りの荷物の心配なく気軽に数冊選ぶことができた。本の回廊に沿いながら、途中の店にも入りながら楽しい時間を過ごすことができた。行きそびれた、買いそびれた、あるいは近頃はめったに買うこともない美術展のカタログは、ほぼ1000円を出せば入手できる。東京の図書館勤めの若いころ、神保町には12か月に1回は寄り道していた気がする。欲しい画集がある店に何度か訪ねては、買わずに帰った思い出もある。新刊本が思いがけず安く手に入って得した気分になったこともある。どうしても確かめたかった図書館での欠本、雑誌の端本を見つけたこともあった。

 ちなみに、上記のほか購入したのは以下の通りだが、できれば期間中にもう一度などと考えている。

①詩と歌謡の作り方 佐藤惣之助 新潮社 1938年(500円)

②わが文学体験 窪田空穂 岩浪文庫 1999年(300円)

③カフカの恋人ミレナ M.ブーバー・ノイマン著 田中昌子訳 平凡社ライブラリー 1993年(900円)

④現代のエスプリ・天皇制 至文堂 1970年(500円)

⑤昭和史片鱗 横溝光暉 経済往来社 1974(?円)

⑥戦艦武蔵の最期 渡辺清 朝日選書 1982年(400円)

⑦戦争とテレビ ブルース・カミングス著 渡辺将人訳 みすず書房 2004年(1800円)

⑧芸術新潮・特集画家たちの「戦争」 19958月号(525円)

⑨別冊太陽・子どもの昭和史昭和十年~二十年 19868月 平凡社(840円)

 佐藤惣之助は、白樺派の影響を受けた詩人としてスタートしたが、いわゆる戦時歌謡の作詞家として名を馳せた。横溝光暉は、戦前の内務官僚で、情報局部長、県知事、京城日報社長などに就いている。

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インターネット「歌壇」はどうなるか(5)既成短歌メディアの動向

 いま届いた『短歌往来』八月号にも「ネット社会の新人たち」の特集が組まれていた。平成に入ってからの二〇年間の角川『短歌年鑑』の目次を眺めてみた。恒例の「回顧と展望」(作品展望はのぞく)の執筆者はほとんど固定化している。さらに、いわゆるライトヴァース世代を経て、インターネット世代の担い手とされる執筆者も固定しているのがわかった。一九九五年一二月発行「平成八年度版」が穂村弘の最初の登場であった。しばらくブランク後、二〇〇一年度(〇四年、〇八年度を除く)からは、穂村、加藤、穂村、穂村、加藤という感じの執筆ぶりである。他の執筆者にも「インターネットと短歌」に触れる執筆者はいるのだが、上記のデータは、既成の短歌総合誌が彼らに発言の場をいつ与え出したのか、を探る一例にすぎない。二〇〇九年度版では、穂村が座談会(岡井隆・馬場あき子・高野公彦)に参加、加藤治郎が「時評への回復」を執筆している。

月刊『短歌』においては、穂村が「特集・近頃の現代短歌を考える」(一九九二年八月)などへの参加、一九九八年九月「<わがまま>について」(特集・文語と比べる口語を生かす)を執筆し、坂井修一は「マルチメデイアと短歌」(一九九五年一〇月)を寄稿している。二〇〇二年二月には穂村と情報通信の研究者でもある坂井・鵜飼康東による座談会「インターネットは短歌を変えるか―新しい時代の歌のあり方は?」が登場し、インターネットの可能性を強調している。

 また『短歌研究』では、一九九二年二月「歌人のための『コンピュータ学』」を執筆した穂村が「短歌レトリックへの招待」(一九九三年一一月)などへ執筆、先にみたように電子会議室やリンク集が定着する世紀末を経て、『短歌研究』は、坂井修一・加藤治郎・穂村弘編集による『うたう』(『短歌研究』臨時増刊号 二〇〇一年一月)を刊行した。メール投稿、選者との双方向通信を取り入れた「うたう☆クラブ」を翌二〇〇一年五月から本誌に定着させ、現在も続いている。「インターネット短歌」の既成短歌メディアの受容が決定的になった象徴的な出来事だったと思う。「うたう☆クラブ」のコーチは、現在、月替わりで加藤治郎・小島ゆかり・栗木京子・穂村弘が務め、メールで応募してきた作品の選歌と改作指導を行い、その改作過程のやり取りを誌上で公開するのが特徴である。投稿に付されている年齢からみると、もちろん若い投稿者が多いが、四〇~七〇代も見受けられる。従来からの「短歌研究詠草」欄への投稿者の数や年齢層の傾向とは違いを見せる。また、一九九九年から二〇〇〇年にかけては、「座談会・個人的体感の世代」の連載があり、加藤治郎・坂井修一をホストに若い世代のゲストを迎えて、短歌のインターネットへの傾斜にも目配りがみえる。

さらに、『歌壇』にも、インターネット関連特集や記事が多くなる。一九九九年五月「若者うたの現在」、同年一二月、荻原裕幸と穂村との対談「口語短歌の現在、未来」が組まれ、二〇〇〇年一月からの連載「サイクルエッセイ・コミュニケーション・歌人同士」では、坂井修一・加藤治郎・穂村弘・荻原裕幸が月替わりで登場する。必ずしもインターネットにかかわるエッセイだけではないのだが、これも、既成メディアのインターネット「歌壇」への配慮がうかがえる。また、二〇〇〇年一一月には、「アンケート・短歌界をゆるがした重大事件」を特集、三一人に五大事件を順番にあげさせている。正岡子規の短歌革新、与謝野晶子の出現、第二芸術論、前衛短歌運動、俵万智現象、アララギ解散などが定番であるなか、佐藤通雅が「パソコン歌会の出現」、真野少が「インターネットの出現」をあげているのを記憶に留めておきたい。

 二〇〇〇年には、穂村弘が『短歌という爆弾―今すぐ歌人になりたいあなたのために』(三月 小学館)東直子・澤田康彦との共著で『短歌はプロに訊け!』(四月 本の雑誌社)を出版し、いずれも一般の取次ルートにのる出版社であり、若ものの短歌入門書として売上げを伸ばした年でもあった。

なお、既成の短歌メディアのなかで、特に重要な役割を果たすことになったのがラジオ、テレビであったも忘れてはならないだろう。さらに情報の送受信のツールとして、パソコンのみならずケータイ(電話)が利用されるようになったことに着目したい。

インターネットが短歌や歌壇に与えた影響の一つは、穂村や枡野の著書が商業ベースに乗り、文庫化などを果たしている事実である。インターネット「歌壇」での活動を背景に、または足がかりにして、歌人たちが短歌メディアを超えた種々のメデイアに登場した。ネット「歌壇」にかぎらず、いわゆる著名歌人たちも、とくにテレビやラジオへの、他のメディアへの露出などの相乗効果によって、特定の限られた歌人たちが、その商品価値を高めることになった。来嶋靖生も「各雑誌は歌人を商品にしすぎるのではないか」と(短歌)総合雑誌の「志」を問うている(「混沌の行方」『短歌現代』二〇〇九年九月)。

歌人の肩書でメディアでの活躍が目覚ましかった枡野浩一は、一九九五年の角川短歌賞において応募作「フリーライターをやめる50の方法」で選考委員の最高得票を得ながら受賞を逃したことを「売り」にメディアに登場した。一九九七年、コミック誌に「マスノ短歌教」連載開始、第一歌集『てのりくじら』(一九九七年 実業乃日本社)も話題になる。二〇〇〇年五月九日からNHK総合「スタジオパークからこんにちは・枡野浩一の短歌」に出演、以降、同番組のコーナー「かんたん短歌塾」として好評を博した(以降、番組情報は主にNHKアーカイブの保存番組検索による)。枡野が案内役をつとめた「ETV2001・電脳短歌の世界へようこそ」(NHK教育二〇〇一年一月一七日)は再々放送され、反響は大きかったものと思われる。以後も「課外授業ようこそ先輩」、「<かんたん短歌>はムズカシイ?」(NHK総合)ほか、「新・真夜中の王国」「週刊ブックレビュー」、「真剣・10代しゃべり場」(いずれもNHK)などへ出演、マルチタレントとしての足跡を残した。この間、歌集『ますの。』(実業乃日本社 一九九九年)と「ますの短歌教」をまとめた『かんたん短歌の作り方』(筑摩書房 二〇〇〇年一一月)を刊行し、若者たちの短歌入門書としてベストセラーになった。これらの著作をきっかけに加藤千恵、佐藤真由美、天野慶らを育てたと枡野は自らのブログに記す。二〇〇三年五月、荻原裕幸を編集長とする『短歌ヴァーサス』(風媒社)の創刊号は「枡野浩一の短歌ワールド」という特集であった。

また、既成歌壇とネット「歌壇」との間のメッセンジャーだった加藤治郎は、一九九六年夏、短歌の世界においてインターネットがコミュニケーションの場として機能することによって「主宰者を頂点とした結社のピラミッド構造は揺らぐだろう。リンクした歌人同士は対等になるだろう。情報の、そして精神的な結びつきは、結社の会員より」深くなり、雑誌を出す意味は薄れていき、歌人は一人の作家として自立するだろう、と予言をしていた(『短歌四季』)。また、結社の効用として「師弟関係」と「教育的強制力」をあげ、前者とインターネットによる歌人の自立性とは矛盾を擁し、インターネット上では後者を補完できることも示唆していた(「歌のコミュニテイー」『歌壇』二〇〇〇年二月)。さらに、大辻隆弘が指摘するように、加藤のインターネット観は微妙に変化する(「重力への希求」『短歌四季』二〇〇三年八月)。あるシンポジウムで加藤は「ネットは現代短歌の世界への入り口。いろいろな楽しみ方もあっていいし、そこから本格的な活動を考えるなら結社という選択もありでは」と発言している(『中日新聞』二〇〇三年六月一八日)。二〇〇三年加藤自身『未来』の選者になり、被選歌者によるサイト「彗星集」が始まり、二〇〇五年「毎日歌壇」選者、二〇〇九年四月「NHK短歌」講師に就任するに至った。この間、いわば「結社内結社」をすら是認するようになっていた(インタビュー「〈うたう世代〉以後の現代短歌」『短歌ヴァーサス』三号 二〇〇四年四月)。

(『ポトナム』200910月号、11月号所収)

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2009年10月29日 (木)

TBS「噂の現場」を見ましたか~再び佐倉市へ、志津霊園問題

    

日曜(1025日)の午後、久しぶりに「噂の東京マガジン」はなにをやっているかな、とテレビをつけてみたら、いきなり「きょうは、匿名で投書頂きました、佐倉市の都市計画道路が・・・」との声がまず飛び込んできた。佐倉市の市政史上の最大の汚点でもある「15億円が消えた志津霊園問題」がきょうの「噂の現場」らしい。ちょうどそのとき、近所の友人から「いま、6チャンネルつけてみて」との電話が入った。 番組では、15年前にも同じ「噂の現場」で志津霊園問題をレポートしたことを伝え、当時のVTRが流れた。レポーターの笑福亭笑瓶37歳が登場、他のコメンテーターもみな若い。「私はこんなに変わってしまったが、15年前とまったく変わらず、いまだに開通していない都市計画道路がある」と、笑瓶のきょうのレポートが始まる。

                                                                                                                                     

「志津霊園問題」って

 

志津霊園問題といっても、佐倉の人でも以外と知らない。以下は、私が市役所内の志津霊園対策室の資料や議会資料で少しおさらいをしてみた内容である。私の理解でのまとめとしてお読みいただきたい。1987年、水道道路の延長として、296号線のバイパス的な都市計画道路(上下2車線9m、両側歩道7mの幅16m、1日1万台の車両通行を想定)の約317mの事業認可がなされた。その道路予定地には志津霊園の一画、本昌寺の墓地があったので、その移転が急務となった。佐倉市は、本昌寺・墓地使用者らと直接交渉をせずに、檀家総代、石材店、市職員らによる志津霊園墓地移転対策協力会に墓地移転にかかわる事業を全面委任し、198890年、8回に分けて、153200万円を補償費として支払っていた。ところが、墓地の移転事業はいっこうに進まず、317mの内の122mがいつまでたってもつながらず、行き止まりになってしまった。佐倉市が協力会の会長・副会長職の檀家総代と石材店を告発したのが1994年だった。この間、市民の監査請求、市議会に幾度となく設置された特別委員会の調査、佐倉市の協力会会長・副会長を相手とした刑事告発の不起訴処分、住民による提訴の却下と続いた。その後も佐倉市と石材店石の宴(株)不動、芦沢建設、代替地地権者の間の訴訟などが入り乱れたが、その過程で協力会に渡った15億余の行方が調べられと、実際に移転事業に使われて形跡がなく使途不明のままであった。佐倉市が損害回復を目的とした民事訴訟ではいずれも勝訴しているが、結果的に取り戻せた額は、千数百万の単位でしかなかったらしい。大口では、本昌寺との基本合意による返還金1.5億円、協力会からの返還金25億円以外は取り戻せていない、とみてよい。市の調査では、領収書のある、支払先が判明した額は何に使ったかわからなくとも、使途不明金とは言わないらしい。たしかに代替地買収費として3.1億円は使用されているかもしれないが、その額は妥当なのか。また、現地の写真を見る限り、2.4億円かけて造成したとも思えない荒れ地であったし、石材店への墓石移転工事費4億円は依然として不明である。

 

こんなことになったのは誰の責任?

 

番組では、志津霊園対策室の取材は断られ、文書でしかやり取りしないようなことをいわれ、取材拒否をされていた。もっぱら市政資料室で調べたらしい。石材店を訪ねると、もうその名の会社はなく、かかわった元社長は出張中とのこと。また、「支払われた金で墓石等を買ったというが、現物がどこにもなかったんですよ」と渡貫博孝前市長はのんきなことを自宅の庭で語っていた。蕨現市長への取材では、市庁舎前で「これからお通夜に行く」と逃げる市長をスタッフが追えば「今、最終の詰めの段階だから、1~2か月は見守ってほしい」と去っていく様子が映し出されていた。 都市計画道路の行き止まりで、周辺道路への車の迂回は、住民にとっては危険極まりなく、地元自治会の人たちは、過去は過去として早く開通してほしいと話していた。佐倉市が協力会自体を訴えられなかったのは、協力会のメンバーに市の職員が複数入っていたからだろう、しかし、職員がいながら、ほとんど使途不明のまま15億円余のお金が8回にもわたって支払われた杜撰さ、怠慢の責任はだれが取るのか、がコメンテーターたちにも大きな疑問として残ったようだった。

 

責任をとったというけれど

 

番組では、触れられていなかったが、協力会に15億円余が渡った時期は198890年で、菊間健夫前々市長の時代だった。2年前にすでに亡くなっている。1975年来5期目にあたる1994年当時、市長・助役は自ら減給処分とし、他の理由もあって引責辞任しているという。その後、関係した職員15名に対しては減給・戒告・訓告処分がなされている。また、渡貫前市長になってまもない、1996年「勝田台・長熊線基金」条例により、志津霊園問題関係の返還金・回収金・寄付金をプールし、関連の支払いもこの基金からするようになった。これは笑ってしまうのだけれど、19977、関係の元職員、現職員94名から1880万円を集めて寄付をしている。これで、市役所の責任は一件落着ということにしたかったのだろうか。適当な軽い処分、職員一人の退職金にも満たない雀の涙の寄付金で、職務の怠慢、不作為を帳消しにするつもりなのかもしれないが、納税者の市民はとうてい納得できないだろう。国や県にしても同様のことは、いやというほど味わされているではないか。行政の無責任体制については私たちも真剣に監視し、仕組みを変えていかねばならないだろう。

 

「最終の詰め」というが、もう13億円余を積み上げる!

 

渡貫市長時代の2003年、本昌寺との基本合意では、振り出しに戻って墓地使用者の委任状を集めさせることから始めているらしい。また、蕨現市長になって、20081月、本昌寺に①以降、市が負担できる移転補償費と代替地造成費あわせて約13800万円を上限とすること ②寺から市へのこれまでの要求を撤回すること、などを申し入れ、寺も同意し、これを受けての「最終の詰め」ということらしい。来年度、このやりなおし事業に着手しても56年はかかるという。

 

たった120mの道路建設のために、15億と13億が費やされ、戻った額があったとても、訴訟費用、志津霊園問題対策室の人件費などを加算したら、どれほどの額になるのだろうか。それと、完成までの年月は、確実に四半世紀は超える。確かに相手が悪かったこともあるだろう。しかし、このロスの責任は、繰り返すようだが、協力会に職員を送りながら、佐倉市は、チェックもなしに15億円余を渡し続けたことにあることは明白なのだ。

                                                                                           

補記:2009年12月21日の佐倉市議会において、市長提案のほぼ原案通り、賛成多数で可決した。詳しくは本ブログ2009年12月24日「志津霊園問題、疑問だらけの決着―ほんとうにこれでよいのか」をご覧ください。

 

 

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2009年10月19日 (月)

佐倉市補正予算の否決、その後―地方へのバラマキをどう受け止めるのか

                                                                                                                        

930日、佐倉市議会には、麻生政権のバラマキの一つだった「地域活性化・経済危機対策臨時交付金(09529日成立、総額1兆円)」の41600万円(予定)を主たる財源とする補正予算が提出された。40項目中の市議会議長公用車購入費692万円、ふるさと広場駐車場用地購入費7260万円、佐倉くさぶえの丘整備費5539万円などの必要性をめぐって紛糾の上、178000万円規模の補正予算自体が市長擁護派の賛成しか得られず否決された。議長車、駐車場用地購入など不要不急な事業まで計上され、そのムダ遣いや優先順位について指摘する新聞の投書や報道がなされていた。

1014日の臨時市議会でその補正予算が執行部より再提案されるというので、近所の友人と傍聴に出かけた。他に3人いらした。930日には20人以上の傍聴人がいたということなので、その割には少ないな、という感じだ。傍聴席に陣取ったものの市議会では開会宣言と会期(1日のみ)などの了承後、数分で会場を移して「全員協議会」に移行するという。

新たな手続きで全員協議会を傍聴するのだが、「全員協議会」の位置づけが今一つ分からない。議会規則などによれば、人事や臨時議会の折に開かれるらしく、大きな会議室にロの字型に議員が着席、その議長と相対する側に何十人という執行部、市長はじめ部長・課長らがずらりとすわり、壇上というものがない。傍聴人は入り口近くの壁際、数人の議員の背後に並ぶ格好だ。

なるほどこの方が、議員の顔(背中)も、執行部の顔もよく見える。はじめの数十分は、財政課長による分厚い補正予算書を繰っての説明だった。私たちは、後で回収されるというその書類の頁を繰るのに忙しいばかりで、メモも取れない。どのくらいの意味があるのかな、と思っていると、ある議員から、今の説明は既に聞いているので、今回の変更点と理由を述べるだけでよい、との意見が出たが、これから申し上げます、と続行。議会にはよくあるパターンで、どうでもよい説明や答弁で時間を稼ぎ、質疑時間を短くする魂胆かと思いたくもなるほどだ。ようやく終わって、今回の提出案で何が変わったかといえば、投書にあった議長車購入費と坪単価が極端に市価を上回っていたという 駐車場用地購入費が削除されただけのものであった。削除の理由も「前回の市議会での議論を踏まえ」と曖昧だし、ほかの項目でも反対意見はあったのだから明確な理由とはならず、「この辺で手を打ってほしい」という感じだ。議員からは、2項目削除だけというのでは十分精査した結果とは思われない、削除分はどうするのか、返還するのか、他の項目で充当しないのか、項目の差し替え・入れ替えは今からでもできるはずだ、といった意見が出された。市の執行部は、2項目削除のほかは変更せず、成行きを見たいと固執した。しかし、ある議員の確認によれば県庁も内閣府も新政権下でのこの予算の締め切りは確定していないので変更は可能という。議長職権で県庁・内閣府に電話をして確認せよということになり休憩に入ったら、1時間に及んだ。電話だけなら数分で済むというのに。変更できることは確認したが、その先どうするか、会期を延ばして審議せよとか、全員協議会再開後、またすぐ休憩に入ってしまった。1時から始まった会議は4時になっていた。私はもうこれ以上傍聴する時間もないので、ここで退室。

結局再開後、議決が終わったのは午後7時頃だったらしい。結果、次回臨時市議会までに、削除分については他の事業を精査して有効な使い方を提案するという条件を付して、賛成多数で可決した。前回反対に回った保守の最大会派と公明党とあらたに共産党・新社会党が賛成したという。

可決された38項目を眺めてみると、18項目に、学校はじめ、各公共施設での地デジ対応機器の整備・購入費などが含まれていた。地デジ対応自体が、私には、なぜこの時期に一斉に実施ということへの疑問があり、不要不急の余分のことに思える。もっと大事な命にかかわる予算を本予算に組み込んでほしいくらいなのだ。消防署の耐震補強工事、排水路改修、グランド改修、新型インフルエンザ対策用資材、幼稚園の空調設備、保育園の改修・防犯カメラ、というのもあるが本当に市民生活に密着した、緊急を要するものなのかは文字面だけではわかりにくいのが正直なところだ。どの項目にも多大の人件費が伴う。

高額な項目には、小学校のデジタルテレビ・電子黒板・教務用パソコン購入などに6579万円、くさぶえの丘の整備費5539万円などがあるのだが、ウーン、どうなんだろうと考えてしまう。くさぶえの丘に関しては、この春に訪ねた折も、本ブログで書いたことなのだが、事業内容をみると疑問も残る。「バラ園の電線地中化、休憩施設の整備、ばら資料館の改装、地上デジタル放送設備工事等」となっている。くさぶえの丘全体の指定管理者は山万グループになっている。400円の入園料の割には施設が整備されていない。たしかに休憩施設は自動販売機だけであった。目玉のバラ園もマニアはいざ知らず、楽しめるという雰囲気ではなかった。ここの管理はさらにNPO法人バラ文化研究所に投げられている。今回の予算で資料館を土足で出入りできるようにし、電柱を地中化するという。どれほどの意味があるのかなあ。昼間のみ1時間に1本という循環バス、400円の入場料についても、またこうした野外施設の利用に市民がどれほど魅力を感じているのかなどについて再検討をした後でも遅くはないのではないか。所詮バラマキのつかみどり競争みたいな様相ではある。

さらに、執行部側に並んだ管理職の面々、この10数年来、イベントの実行委員、審議会委員としてずいぶんと対立もした担当者たち、自治会役員としてけんか腰の交渉をした担当者たち、開発にかかわる情報公開制度で何度か顔を合わせた担当者たち、みなさん出世されているようだった。なんと、となりの部屋でおびただしい数の職員が待機しているのにも驚いた。そんな暇があったら他の仕事をしてよ、と言いたいくらいだった。佐倉市2007年度統計によれば、普通会計決算のみで職員982人、平均給与年額686万(月額57万)というし、別に800人以上の臨時職員がいるというのだ。虚しさばかりがよぎる議会傍聴の半日だった。

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2009年10月10日 (土)

NHKでなぜこんなことが~女性天気予報士のカレンダー発売って?!

 1010日、今朝の「東京新聞」に、NHK女性天気予報士の来年のカレンダーが発売になるという記事があった。NHKもとうとうこんなことまでするようになったんだ。記事を読んでみると2007年から発売しているという。NHKの「天気予報に親しんでもらおう」という趣旨のコメントもついていた。

 NHKの天気予報は、どちらかというとよく見るほうかもしれない。野外からの中継であったり、いろんなフリップを入れ替え引き替え、相当ムリをしている民放の番組よりスタジオからの落ち着いた予報を望んでいたからだ。しかし、いつのころから、とくに夜7時のニュース最後のコーナーで、女性予報士の服装がファッションショーの様相を呈したり、他のコーナーで男性予報士が真赤なジャケットを着て現れたりするようになった。電子黒板かどうか知らないけれど、雨や雪、波だの、雲だの動く仕掛けを駆使して?予報を伝えるようになった。分かりやすさを狙ったのかもしれないが、手品を見ているわけではないし、第一、目まぐるしい。聞き取りやすい発声で、静止した画面でじっくりと予報を伝達するのが本分ではないのか。 天候の左右される仕事や家事の段取りを決めるため、あるいは旅行や出張先の天気も気になり、今の天候や少し先の推移が知りたいのが大方の目的だろう。各地の予報や1週間の予報などはむしろ静止画面を長くしてほしいくらいなのである。

 民放の女子アナウンサー人気の過熱化、タレント化と天気予報士のカレンダー発売との根っこは同じような気がしている。天気予報を身近にというならば、中身や方法で勝負してほしい。なぜ「女性」だけなの?素朴な疑問が去らない。

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2009年10月 8日 (木)

サクマ式ドロップス工場の思い出~池袋第5小学校のクラス会へ

 先週末、このところ毎年開いている小学校のクラス会に数年ぶりに参加した。5・6年担任の乙黒久先生は、池袋三越の画廊で毎年個展を開いていらした。この春の個展にも伺ったが、三越の閉店に伴い、30年間続いた個展もしばらく休まれるという。

 幹事の熱心な探索に、58名中かなりの消息がわかってきた。この日は、19人が出席、私の隣席は、池袋西口一帯で手広く不動産業を展開しているOクンだった。西口一帯が大きく様変わりしたのは、昭和50年代の区画整理の頃からだろうか。私が生家を離れたのが1972年、平和通りの2丁目側への道路拡張工事はまだ始まっていなかった。Oクンの家は2丁目の地主さんの一人で、その家にも近かったサクマ式ドロップス工場の話になった。昭和20年代の小学校時代、工場近辺に漂うドロップの甘い香りは、実に魅力的であった。紙芝居のおじさんの景品はイモアメだったし、アイスキャンデーはサッカリンの時代だった。Oクンの話によれば、「サクマ式」の「式」が付くのと付かないのがあるということだったので、後で調べてみると、不覚にも、ネット上では結構盛り上がっている話だった。

池袋に今でも本社があるのは、佐久間製菓のサクマ式ドロップスで、明治40年代創業のドロップ工場は、太平洋戦争下、砂糖の払底で廃業した。敗戦後まもなく元の番頭さん(?)が操業を再開したといい、元社長親族も恵比寿で操業を開始し、もめたらしい。その後、池袋の方は佐久間製菓として「サクマ式ドロップス」(赤缶)を継承、恵比寿の方はサクマ製菓を継承、商品名は「サクマドロップ」(青缶)とすることに落着して今日に及んでいるらしい。映画「火垂るの墓」のラストシーンのドロップの缶は戦前の「サクマ式ドロップス」だったのだろう。 

ドロップ工場の斜め前にあった「やよいパン」のパンは「やわらかいだけであまりおいしくなかったね」といえば、「あそこは学校給食のパンを一時手広く納入していたけど、やめたのはいつだったかな」と借地人でもあった経営者のその後の消息は知らないそうだ。

その近くの原医院の先生には、私の亡母が退院した後の最期をみとってもらっている。「あそこは跡取りが医者にならなくてね」ということだった。また、1971年、心筋梗塞で倒れた父が一日だけ入院して亡くなった1丁目の長汐病院は、今では高齢者専門のような病院になっているということだ。長汐さんは、町の開業医として信頼も厚く、長汐夫人は穏やかな方で亡母とはずいぶん親しかった。家にテレビがなかった頃、母と二人で、今の天皇の結婚パレード中継を長汐さんのお宅で見せてもらったという懐かしい思い出もある。

親兄弟がすでにない私が、そんなこんなの話ができるのは小学校のクラス会ならではであろう。この日の会場のメトロポリタンホテルも、国鉄官舎の跡地で、隣接して鉄道学校もあった。東京芸術劇場は豊島師範の跡地だった。もう少し目白寄りになると記憶も曖昧になる。

2次会は、Oクン経営の居酒屋であった。その近くの地上にあった「純喫茶フラミンゴ」が先ごろから空き店舗になっていたので聞いてみると、昨年の夏に閉店したという。数年前、母校の池袋第5小学校は統合でその校名はなくなり、池袋小学校になってしまった。「談話室滝沢」が閉店、「芳林堂書店」も閉店、「20世紀も遠くなりにけり」の思いしきりであった。

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2009年10月 6日 (火)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<5>ノルウェー抵抗博物館

ノルウェー抵抗運動博物館へ

ムンク美術館からホテル近くに戻ったが、アーケル・ブリッゲの夕食には早い。まだ、まだ、日差しも残るなか、カール・ヨハン通りを横切って、アーケシュフース(Akershus)城へ向かった。昨夜雨の中で見上げた城壁の上へと登っていることになる。ノルウェー抵抗運動博物館があるはず。もっとも閉館時刻は過ぎていた。ドイツナチス軍に占領された時のレジスタンス運動に関する資料が展示してあるはずである。城内へと入る手前には、立派な厩舎があって、何頭かの馬が放たれていた。残る城壁に沿って登ると、博物館はあった。銃眼を持つ城壁にしっかりと囲まれた感じで、一つの門をくぐるとそこからは、オスロフィヨルドの港が一望できる。こんな観光地に抵抗運動博物館があるなんて、と思う一方、ナチスの残した傷跡も抵抗もノルウェー国民には深く刻まれているのだろう。中を見られず残念なことだった。昨夜雨の中、その前を行き来した市庁舎とオスロ平和センターが並ぶ。大きな客船や観光船がゆったりと出入りする。私たちがしきりにカメラのシャッターを押していると、地元のカップルの「撮ってあげましょう」との申し出にややテレながら並ぶのだった。連れ合いとの二人の写真というのは貴重なのだ。城壁のてっぺんの緩やかな坂を下ると、市庁舎前の広場に出る。まだ明るい夕方の8時近くだ。今日の抵抗運動博物館も、歴史博物館も入館はかなわなかったのが心残りではあった。明日はベルゲンに飛ぶ。

(ノルウェー抵抗運動博物館)

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美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<4>ムンク美術館

オスロ、ムンク美術館へ  

 オスロの国立美術館で、もうムンクは堪能したような気分ではあったが、ここまで来て、省くわけにはいかない。ホテル近くに戻り、地下鉄で二駅目テイエン下車、細い道を3・4分だろうか。広い芝生の原っぱを前にしたカフェがまず目に入る。 エントランスがガラス張りで明るく、開放的な印象であった。美術館の創設は、1944年死去したムンクの遺言により大量の作品群がオスロ市に遺贈されたことに端を発し、長い年月がかかって1963年にオープンしている。しかし、絵画盗難のニュースは一度ならず私たちにも届いた。なかでも有名な「叫び」(1893年)と「マドンナ」(1893~94年)が盗まれたと聞いて驚いたものである(2004年8月)。ただちに、セキュリティを徹底する大改修がなされる一方、懸命な捜査の結果、2年後には盗難の上記2作品も戻ったという。
 ムンクは、1863年生まれの長男だが、父親は軍医だった。母親は5人の子を残し結核で亡くなる。ムンク5歳の時だった。その9年後には、長姉も結核で他界する。この二つの死はムンクの生涯に、画業に、大きな影響を与えた。当初、父の勧めで工業高等学校に進んだが、1980年には画家になる決意で、工芸学校にかわり、さらに、クローグの指導を受けたり、クリスティニア・ボヘミアに参加したりしながら、1889年、オスロで個展を開いく。これを機にパリで学ぶ機会も得て、ヨーロッパを転々とする暮らしも始まり、その多忙さから神経症にかかるが、母や姉の病や死を繰り返し描いた。この間、女性との出会いも実らないまま、制作と静養の日々が続き、ヨーロッパ各地で開かれる美術展では多くの栄誉が与えられ、1916年には、オスロ郊外エーケリに居を定めている。1940年、ノルウェーがドイツ、ナチス軍に侵攻されると、彼は、ドイツ人やナチスとの接触を拒否して抵抗したとされる。1944年1月肺炎により死去する。

 ムンクの中でも好きな絵は

ムンクの絵で、実に特徴的なのは、人物像の「目」ではないかと思うようになった。とくに初期の1890年代までに描かれた、病、死、そして愛をテーマにした作品の人物の目には影があり、暗く哀愁に満ち、時には病的でもある。しかし、生涯に何枚も描かれている自画像の目は、いつでも、どれでも、私が見た晩年のほんの1・2枚を除いては、明確であって、鋭いように思えた。表情はもちろん背景や着衣にも意思やメッセージが明白にあらわれ、どれも自分に「正直」でとても魅力的に思えた。けっして衰えていない創作への意欲が感じられるからだ。

①女の仮面の下の自画像(1891~92年)
②筆 をもった自画像(1904年)
③ワインボトルのある自画像(1906年)
④ベルゲンの自画像(1916年)
⑤眠れない夜/混乱の自画像(1919)
⑥画家とモデル/寝室1(1919~21年)
⑦自画像・夜の徘徊人(1923~24年)
⑧窓辺の自画像(1940年ころ)
⑨時計とベッドの間の自画像(1940~42年)
  

 不覚にも自画像の絵葉書をすべて買ってはいないし、記憶とカタログなどにしか頼らざるを得ないのだが、たまたまカメラに収めた作品や手元にある絵葉書、栞から②⑤を選らんでみた。また、「妖精の森へ向かう子供たち」(1903年)、「橋に立つ少女たち」(1927年ころ)「橋に立つ婦人たち」(1935年ころ)など、ドイツの若手画家たちの影響を受けたというカラフルな作品にも心惹かれるものがあった。「叫び」ばかりが目立って取り上げられることにはどこか違和感が伴う。苦しい孤独との戦いの軌跡でもある自画像、晩年の色使いに私は着目したいと思った。

ノルウェーのムンクの旅はこれでおしまいではなかった。

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②筆を持った自画像(マグネット付き栞)

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2009年10月 4日 (日)

「佐倉市高額公用車の無駄遣い予算否決」から見えてくるもの

 929日朝一番、メル友から朝日新聞投書欄に「高額の議長専用車 無駄遣い」が掲載されていることを教えられた。投書された方は友人の友人ということだった。地方へのバラマキと悪名高かった「地域活性化・経済危機対策臨時交付金」(2009529日成立)を財源に佐倉市は市議会議長専用車を692万で買うことが9月の補正予算に組まれていて、緊縮財政の折、その無駄遣いを警告したものだった。930日の補正予算審議の市議会を傍聴したメル友からは、補正予算案自体が先送りになったとの知らせが入った。翌朝の毎日新聞には、「佐倉市議会補正予算案を否決事業の優先順位巡り紛糾」という記事があってひとまずほっとしたのである。その記事には蕨市長の「市民にとって緊急性がある大事な予算。内輪もめしている場合ではない」という趣旨の談話が付されていた。投書によれば、昨年も市長公用車が661万円の高額車に買い替えられたというから、市長の発言もあまり説得力がない。

ちなみに上記529日成立の国の第1次補正予算における「経済危機対策関係経費」は総額147000億円で、昨年来の麻生政権バラマキ政策の延長線上にあるものだ。さらにその内の「地方公共団体への配慮」と題して23800億円が計上され、さらにまるで帳尻合わせのような1兆円が、問題の「地域活性化・経済危機対策臨時交付金」となっている。なお、147000億の内、108000億、約4分の3が公債、借金で賄われるというものだった。

 この補正予算自体、鳩山政権による見直しが進むなか不透明であるが、佐倉市には、41600万円が交付されるという皮算用で、これを含む178000万円規模の補正予算案が提出された。41600万円の事業計画のなかに、議長公用車買い替え予算約700万円が入っていたというわけである。実にわかりやすい、無駄遣いの一端が垣間見える。この交付金は、原則1年で事業が完了し、次年度まで2年間で使い切れという制約があるというから、よほどしっかりした実績と基準でもって予算を投入しなければならないはずだが、思いつきのような半端な事業が多く、実施計画までこぎつけているものが40事業中6事業ともいわれている。佐倉市の補正予算自体は、近く臨時市議会で再提案されるという。先の否決は、麻生政権と連立を組んだ与党が市議会で反対するという自己矛盾に陥ったり、同じ保守党ながら反市長で結束した会派が反対にまわったりしたことが「内輪もめ」ということらしいが、市議会は中身のある議論をしてもらいたいものだ。

 大方の借金で、なぜバラマキなのか。厳正な見直しを望むとともに、それを受ける地方自治体の自覚ある、自律した予算の執行がされるよう、市民は監視を怠ってはならないだろう。

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2009年10月 1日 (木)

放送を語る会20周年記念のつどい・NHK番組改変事件~何が残された問題か~

 石神井公園区民交流センターで開催のシンポジウムに参加した。150部用意した資料はなくなったそうで、会場は200人以上の熱気にあふれていた。

番組改変事件とは、2001130日放送の「ETV2001シリーズ戦争をどう裁くか」第2回「問われる戦時性暴力」が明らかな政治的介によって番組が改変された「事件」を示す。これまで私は、一視聴者として、この件については少なからず関心は持っていた。まず、あれは「事件」だったのかな、という疑問が頭をよぎった。どこからどこまでが事件だったのか。放送番組改変の実態・経過、NHKを被告とする最高裁判決までの裁判経過・報道・反応、番組デスクだった長井さんによる内部告発記者会見、本田記者による朝日新聞の政治介入報道、NHKの証言者への報復人事・退職、BPOによる意見書公表、視聴者団体の活動・・・。「事件」というと、いわば、一過性の特定の番組改変の実態・経過のみに収束してしまわないか、と思ったのである。私は、組織内にとどまっての長井さん、永田さんの発言には特別の敬意を表したい気持であった。退職という結果にはなったが、今もこうしてこのような集会に参加されていることには勇気づけられる。

1部「そのとき何が起こったのか~担当者に聞く」では、「問われる戦時性暴力」のプロデューサー永田浩三さんとデスク長井暁さんがそろって壇上に立つ。永田さんは法廷の証言で、上司を通じての政治家の介入を明らかにした。ことしの2月、3月相次いでNHKを退職された二人がこのような集会で同席するのは初めてとのことだという。聞き手は戸崎賢二(放送を語る会)さんで、番組改変の経過が、上司からの番組介入と現場との攻防がふたりの話と裁判記録などでなまなましく語られ、番組改変の過酷な状況が明らかになってゆく。

2部「〈番組改変事件〉から何を学ぶか」の討論には、永田さん・長井さんの二人にジャーナリストの原寿雄さんとバウネット・ジャパン代表の西野留美子さんが加わった。20017月にバウネットは「女性国際戦犯法廷」(いわゆる従軍慰安婦問題の責任を問う)の主宰者側として、NHKを訴えていた。NHKの番組担当者と西野さんという被告と原告側の人間が同席するのも今回が初めてであったという。

それぞれの立場で、「事件」を、そして判決をどう受け止めたか、一連の経過をどう受け止めたか、などを中心に語られた。終わってみると、「事件」に何を学んだか、政治介入を繰り返さないために、今後NHKは何をすべきなのか、職員は何をなすべきなのか、私たち視聴者は何をすべきなのか、行政に何を働き掛けるべきなのかなど、問題は山積みなので、こちらにもっと時間をかけて、多くの会場の参加者と具体的に議論してほしかった、と全体の時間配分を思うのだった。「質問は1分で」という司会者のことばに、手をあげるのを躊躇した人も多かっただろう。

西野氏さんが「組織ジャーナリズムの限界」という形でけっして収束させるのではなく、また、内部告発者を犠牲者とみたり、「英雄」とみなしたりするのではなく、扉を開いた人たちだったという評価をすべきで、これから始まる戦いを強調していたことに、私も共感する。短い時間の、会場の質問者との若干のやり取りの中で、放送現場に働く人々の縦割りでない、横の連帯の重要性が指摘された。まず、最初にその拠り所となるのが労働組合のはずであるが、今回、どのような機能を果たしたのかは、「報復人事」(当事者のお二人もこの言葉を使用された)を認めた恰好で、退職に追いやったことに端的に表れているように思えた。支援の形が目に見えず残念だった。

さらに、NHK自らの検証番組の必要性も議論された。同時に、現時点で、政治介入を公式に認めていないNHKが作成するわけがないのだから、いまは、これはどんな形でもいいのではないか。NHKが無理なら、当事者の一方でもよい、民放でも、視聴者団体でも、研究者でもよい、自主的に、政治介入の実態を様々な形で、広く国民に知らせることが先決であると思った。そして、いま、川口のNHKアーカイブ、横浜の放送ライブラリーで、シリーズの中で、問題の第2回「問われる戦時性暴力」の番組(放送済みの番組)すらも公開されていないこと自体、問題にするべきで、この一点でもいいからまず突破する必要があると思った。視聴者としても、公開しない理不尽を問い続けていきたい。

今回のシンポジウムも、NHKOB、放送研究者が多くかかわっていた。その個々人の善意や良心にかかわりなくNHKの事情に詳しかったり、また多かれ、少なかれ利害関係者であったりすることが、シンポの運営や議論の方向性に影響を与えていなかったか。

アンケートにも書いたのだが、この日のパネリストとして、当該番組の制作を実質的に請け負ったドキュメンタリー・ジャパンの関係者、途中でNHKから降ろされ、取材テープをNHKに引き取られた、たとえばディレクター坂上香さんの参加が得られれば、なお問題点が浮き彫りにされたかもしれない。永田さんも、ドキュメンタリー・ジャパンに迷惑をかけ、守り切れなかったことを何度も口にされていたので、その辺の経過も構造的に解明できたのではないか。

現在、NHK内部とくに現場の若い人たちが変わりつつあり、良質の番組が放映されていることも否定はしない。しかし、過剰な期待は問題のありかを歪めはしないか。毎日の放送の実態を目にすると、つくづく思う。スポーツネタや芸能に力が入ったニュース番組、民放から引っ越してきたような娯楽番組、物々しいけれど中身のないドラマの横行、視聴者参加の形骸化などになぜ歯止めがかからないのだろうか。

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