美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<4>ムンク美術館
オスロ、ムンク美術館へ
オスロの国立美術館で、もうムンクは堪能したような気分ではあったが、ここまで来て、省くわけにはいかない。ホテル近くに戻り、地下鉄で二駅目テイエン下車、細い道を3・4分だろうか。広い芝生の原っぱを前にしたカフェがまず目に入る。 エントランスがガラス張りで明るく、開放的な印象であった。美術館の創設は、1944年死去したムンクの遺言により大量の作品群がオスロ市に遺贈されたことに端を発し、長い年月がかかって1963年にオープンしている。しかし、絵画盗難のニュースは一度ならず私たちにも届いた。なかでも有名な「叫び」(1893年)と「マドンナ」(1893~94年)が盗まれたと聞いて驚いたものである(2004年8月)。ただちに、セキュリティを徹底する大改修がなされる一方、懸命な捜査の結果、2年後には盗難の上記2作品も戻ったという。
ムンクは、1863年生まれの長男だが、父親は軍医だった。母親は5人の子を残し結核で亡くなる。ムンク5歳の時だった。その9年後には、長姉も結核で他界する。この二つの死はムンクの生涯に、画業に、大きな影響を与えた。当初、父の勧めで工業高等学校に進んだが、1980年には画家になる決意で、工芸学校にかわり、さらに、クローグの指導を受けたり、クリスティニア・ボヘミアに参加したりしながら、1889年、オスロで個展を開いく。これを機にパリで学ぶ機会も得て、ヨーロッパを転々とする暮らしも始まり、その多忙さから神経症にかかるが、母や姉の病や死を繰り返し描いた。この間、女性との出会いも実らないまま、制作と静養の日々が続き、ヨーロッパ各地で開かれる美術展では多くの栄誉が与えられ、1916年には、オスロ郊外エーケリに居を定めている。1940年、ノルウェーがドイツ、ナチス軍に侵攻されると、彼は、ドイツ人やナチスとの接触を拒否して抵抗したとされる。1944年1月肺炎により死去する。
ムンクの中でも好きな絵は
ムンクの絵で、実に特徴的なのは、人物像の「目」ではないかと思うようになった。とくに初期の1890年代までに描かれた、病、死、そして愛をテーマにした作品の人物の目には影があり、暗く哀愁に満ち、時には病的でもある。しかし、生涯に何枚も描かれている自画像の目は、いつでも、どれでも、私が見た晩年のほんの1・2枚を除いては、明確であって、鋭いように思えた。表情はもちろん背景や着衣にも意思やメッセージが明白にあらわれ、どれも自分に「正直」でとても魅力的に思えた。けっして衰えていない創作への意欲が感じられるからだ。
①女の仮面の下の自画像(1891~92年)
②筆 をもった自画像(1904年)
③ワインボトルのある自画像(1906年)
④ベルゲンの自画像(1916年)
⑤眠れない夜/混乱の自画像(1919)
⑥画家とモデル/寝室1(1919~21年)
⑦自画像・夜の徘徊人(1923~24年)
⑧窓辺の自画像(1940年ころ)
⑨時計とベッドの間の自画像(1940~42年)
不覚にも自画像の絵葉書をすべて買ってはいないし、記憶とカタログなどにしか頼らざるを得ないのだが、たまたまカメラに収めた作品や手元にある絵葉書、栞から②⑤を選らんでみた。また、「妖精の森へ向かう子供たち」(1903年)、「橋に立つ少女たち」(1927年ころ)「橋に立つ婦人たち」(1935年ころ)など、ドイツの若手画家たちの影響を受けたというカラフルな作品にも心惹かれるものがあった。「叫び」ばかりが目立って取り上げられることにはどこか違和感が伴う。苦しい孤独との戦いの軌跡でもある自画像、晩年の色使いに私は着目したいと思った。
ノルウェーのムンクの旅はこれでおしまいではなかった。
②筆を持った自画像(マグネット付き栞)
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