サクマ式ドロップス工場の思い出~池袋第5小学校のクラス会へ
先週末、このところ毎年開いている小学校のクラス会に数年ぶりに参加した。5・6年担任の乙黒久先生は、池袋三越の画廊で毎年個展を開いていらした。この春の個展にも伺ったが、三越の閉店に伴い、30年間続いた個展もしばらく休まれるという。
幹事の熱心な探索に、58名中かなりの消息がわかってきた。この日は、19人が出席、私の隣席は、池袋西口一帯で手広く不動産業を展開しているOクンだった。西口一帯が大きく様変わりしたのは、昭和50年代の区画整理の頃からだろうか。私が生家を離れたのが1972年、平和通りの2丁目側への道路拡張工事はまだ始まっていなかった。Oクンの家は2丁目の地主さんの一人で、その家にも近かったサクマ式ドロップス工場の話になった。昭和20年代の小学校時代、工場近辺に漂うドロップの甘い香りは、実に魅力的であった。紙芝居のおじさんの景品はイモアメだったし、アイスキャンデーはサッカリンの時代だった。Oクンの話によれば、「サクマ式」の「式」が付くのと付かないのがあるということだったので、後で調べてみると、不覚にも、ネット上では結構盛り上がっている話だった。
池袋に今でも本社があるのは、佐久間製菓のサクマ式ドロップスで、明治40年代創業のドロップ工場は、太平洋戦争下、砂糖の払底で廃業した。敗戦後まもなく元の番頭さん(?)が操業を再開したといい、元社長親族も恵比寿で操業を開始し、もめたらしい。その後、池袋の方は佐久間製菓として「サクマ式ドロップス」(赤缶)を継承、恵比寿の方はサクマ製菓を継承、商品名は「サクマドロップ」(青缶)とすることに落着して今日に及んでいるらしい。映画「火垂るの墓」のラストシーンのドロップの缶は戦前の「サクマ式ドロップス」だったのだろう。
ドロップ工場の斜め前にあった「やよいパン」のパンは「やわらかいだけであまりおいしくなかったね」といえば、「あそこは学校給食のパンを一時手広く納入していたけど、やめたのはいつだったかな」と借地人でもあった経営者のその後の消息は知らないそうだ。
その近くの原医院の先生には、私の亡母が退院した後の最期をみとってもらっている。「あそこは跡取りが医者にならなくてね」ということだった。また、1971年、心筋梗塞で倒れた父が一日だけ入院して亡くなった1丁目の長汐病院は、今では高齢者専門のような病院になっているということだ。長汐さんは、町の開業医として信頼も厚く、長汐夫人は穏やかな方で亡母とはずいぶん親しかった。家にテレビがなかった頃、母と二人で、今の天皇の結婚パレード中継を長汐さんのお宅で見せてもらったという懐かしい思い出もある。
親兄弟がすでにない私が、そんなこんなの話ができるのは小学校のクラス会ならではであろう。この日の会場のメトロポリタンホテルも、国鉄官舎の跡地で、隣接して鉄道学校もあった。東京芸術劇場は豊島師範の跡地だった。もう少し目白寄りになると記憶も曖昧になる。
2次会は、Oクン経営の居酒屋であった。その近くの地上にあった「純喫茶フラミンゴ」が先ごろから空き店舗になっていたので聞いてみると、昨年の夏に閉店したという。数年前、母校の池袋第5小学校は統合でその校名はなくなり、池袋小学校になってしまった。「談話室滝沢」が閉店、「芳林堂書店」も閉店、「20世紀も遠くなりにけり」の思いしきりであった。
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コメント
みけなし様 コメントありがとうございました。乙黒先生はお元気で白日会展などでご活躍です。昨年の池袋第5小学校クラス会には私も参加いたしました。幹事様より、また、クラス会のお知らせが来るかもしれません。母校の名前が消えるのは寂しいですね。私たちよりひと回り若い池5の乙黒先生クラスのI様とは、先生のご紹介で、いま個人的に「なつかしい池袋」の話題で盛り上がっているところです。そして様々なご縁に驚いたりしております。
すてきなブログ「みけなし日記」を拝見したしました。どれからも訪問させていただきます。先生にもお知らせしようかと思っているところです。
投稿: 内野 | 2014年9月 2日 (火) 09時54分
5年前のブログですが乙黒久で検索したらヒットしたのでコメントさせてもらいました。
まだ先生元気ですかねぇ・・・
私は西巣鴨小学校で担任でした。
絵を描く隣でいろいろ話をしてもらった記憶があります。
私の通った大塚中学校も名前が変わってしまいました。学校の名前がなくなるのも、ちょっと寂しいですよね。
投稿: みけなし | 2014年8月30日 (土) 08時18分