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2009年10月29日 (木)

TBS「噂の現場」を見ましたか~再び佐倉市へ、志津霊園問題

    

日曜(1025日)の午後、久しぶりに「噂の東京マガジン」はなにをやっているかな、とテレビをつけてみたら、いきなり「きょうは、匿名で投書頂きました、佐倉市の都市計画道路が・・・」との声がまず飛び込んできた。佐倉市の市政史上の最大の汚点でもある「15億円が消えた志津霊園問題」がきょうの「噂の現場」らしい。ちょうどそのとき、近所の友人から「いま、6チャンネルつけてみて」との電話が入った。 番組では、15年前にも同じ「噂の現場」で志津霊園問題をレポートしたことを伝え、当時のVTRが流れた。レポーターの笑福亭笑瓶37歳が登場、他のコメンテーターもみな若い。「私はこんなに変わってしまったが、15年前とまったく変わらず、いまだに開通していない都市計画道路がある」と、笑瓶のきょうのレポートが始まる。

                                                                                                                                     

「志津霊園問題」って

 

志津霊園問題といっても、佐倉の人でも以外と知らない。以下は、私が市役所内の志津霊園対策室の資料や議会資料で少しおさらいをしてみた内容である。私の理解でのまとめとしてお読みいただきたい。1987年、水道道路の延長として、296号線のバイパス的な都市計画道路(上下2車線9m、両側歩道7mの幅16m、1日1万台の車両通行を想定)の約317mの事業認可がなされた。その道路予定地には志津霊園の一画、本昌寺の墓地があったので、その移転が急務となった。佐倉市は、本昌寺・墓地使用者らと直接交渉をせずに、檀家総代、石材店、市職員らによる志津霊園墓地移転対策協力会に墓地移転にかかわる事業を全面委任し、198890年、8回に分けて、153200万円を補償費として支払っていた。ところが、墓地の移転事業はいっこうに進まず、317mの内の122mがいつまでたってもつながらず、行き止まりになってしまった。佐倉市が協力会の会長・副会長職の檀家総代と石材店を告発したのが1994年だった。この間、市民の監査請求、市議会に幾度となく設置された特別委員会の調査、佐倉市の協力会会長・副会長を相手とした刑事告発の不起訴処分、住民による提訴の却下と続いた。その後も佐倉市と石材店石の宴(株)不動、芦沢建設、代替地地権者の間の訴訟などが入り乱れたが、その過程で協力会に渡った15億余の行方が調べられと、実際に移転事業に使われて形跡がなく使途不明のままであった。佐倉市が損害回復を目的とした民事訴訟ではいずれも勝訴しているが、結果的に取り戻せた額は、千数百万の単位でしかなかったらしい。大口では、本昌寺との基本合意による返還金1.5億円、協力会からの返還金25億円以外は取り戻せていない、とみてよい。市の調査では、領収書のある、支払先が判明した額は何に使ったかわからなくとも、使途不明金とは言わないらしい。たしかに代替地買収費として3.1億円は使用されているかもしれないが、その額は妥当なのか。また、現地の写真を見る限り、2.4億円かけて造成したとも思えない荒れ地であったし、石材店への墓石移転工事費4億円は依然として不明である。

 

こんなことになったのは誰の責任?

 

番組では、志津霊園対策室の取材は断られ、文書でしかやり取りしないようなことをいわれ、取材拒否をされていた。もっぱら市政資料室で調べたらしい。石材店を訪ねると、もうその名の会社はなく、かかわった元社長は出張中とのこと。また、「支払われた金で墓石等を買ったというが、現物がどこにもなかったんですよ」と渡貫博孝前市長はのんきなことを自宅の庭で語っていた。蕨現市長への取材では、市庁舎前で「これからお通夜に行く」と逃げる市長をスタッフが追えば「今、最終の詰めの段階だから、1~2か月は見守ってほしい」と去っていく様子が映し出されていた。 都市計画道路の行き止まりで、周辺道路への車の迂回は、住民にとっては危険極まりなく、地元自治会の人たちは、過去は過去として早く開通してほしいと話していた。佐倉市が協力会自体を訴えられなかったのは、協力会のメンバーに市の職員が複数入っていたからだろう、しかし、職員がいながら、ほとんど使途不明のまま15億円余のお金が8回にもわたって支払われた杜撰さ、怠慢の責任はだれが取るのか、がコメンテーターたちにも大きな疑問として残ったようだった。

 

責任をとったというけれど

 

番組では、触れられていなかったが、協力会に15億円余が渡った時期は198890年で、菊間健夫前々市長の時代だった。2年前にすでに亡くなっている。1975年来5期目にあたる1994年当時、市長・助役は自ら減給処分とし、他の理由もあって引責辞任しているという。その後、関係した職員15名に対しては減給・戒告・訓告処分がなされている。また、渡貫前市長になってまもない、1996年「勝田台・長熊線基金」条例により、志津霊園問題関係の返還金・回収金・寄付金をプールし、関連の支払いもこの基金からするようになった。これは笑ってしまうのだけれど、19977、関係の元職員、現職員94名から1880万円を集めて寄付をしている。これで、市役所の責任は一件落着ということにしたかったのだろうか。適当な軽い処分、職員一人の退職金にも満たない雀の涙の寄付金で、職務の怠慢、不作為を帳消しにするつもりなのかもしれないが、納税者の市民はとうてい納得できないだろう。国や県にしても同様のことは、いやというほど味わされているではないか。行政の無責任体制については私たちも真剣に監視し、仕組みを変えていかねばならないだろう。

 

「最終の詰め」というが、もう13億円余を積み上げる!

 

渡貫市長時代の2003年、本昌寺との基本合意では、振り出しに戻って墓地使用者の委任状を集めさせることから始めているらしい。また、蕨現市長になって、20081月、本昌寺に①以降、市が負担できる移転補償費と代替地造成費あわせて約13800万円を上限とすること ②寺から市へのこれまでの要求を撤回すること、などを申し入れ、寺も同意し、これを受けての「最終の詰め」ということらしい。来年度、このやりなおし事業に着手しても56年はかかるという。

 

たった120mの道路建設のために、15億と13億が費やされ、戻った額があったとても、訴訟費用、志津霊園問題対策室の人件費などを加算したら、どれほどの額になるのだろうか。それと、完成までの年月は、確実に四半世紀は超える。確かに相手が悪かったこともあるだろう。しかし、このロスの責任は、繰り返すようだが、協力会に職員を送りながら、佐倉市は、チェックもなしに15億円余を渡し続けたことにあることは明白なのだ。

                                                                                           

補記:2009年12月21日の佐倉市議会において、市長提案のほぼ原案通り、賛成多数で可決した。詳しくは本ブログ2009年12月24日「志津霊園問題、疑問だらけの決着―ほんとうにこれでよいのか」をご覧ください。

 

 

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