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2009年11月29日 (日)

インターネット「歌壇」はどうなるか(6)大急ぎでまとめてみると

インターネットの効用で着目したのは、歌集のオンデマンド出版の可能性だった。オンデマンドとは、コンピュータへの原稿入力により編集が容易になる上、注文によって必要な部数の印刷・製本が可能になるシステムで、二〇〇一年に、前述のSSプロジェクトが出版企画の「歌葉(うたのは)」を立ち上げた。従来の自費出版歌集に比べて費用は半分といわれた。若い人の個性的な歌集も発売されたかに記憶している。その後どのくらい定着したのだろうか。歌壇では相変わらず、歌集専門の出版社からの自費出版が主流を占め、歌集の贈答が日常化している。出版に関する契約書が交わされることもないのは、歌人が寛容だからなのか、会社が零細で、社主の多くは詩歌にかかわっていたりするからか、歌集出版の旧弊が改まりそうにもない。冒頭部分で掲げた笹井宏之第一歌集『ひとさらい』(二〇〇八年)は、第四回「歌葉」新人賞(二〇〇五年)の副賞での出版で、「歌葉」は、現在三六冊の広告を出し、出版の注文も受付けているらしいが、最近の動向がわからない。「歌葉」新人賞も二〇〇六年を最後に中止らしい。

そういえば、二〇〇九年の「短歌研究新人賞」選考委員には加藤治郎、穂村弘が加わり、受賞者やすたけまりは「うたう☆クラブ」で穂村コーチの指導を受けたという。「現代短歌評論賞」受賞者山田航はブログ上で文章を書き始め、「かばん」に所属、「角川短歌賞」も同時に受賞した。昨年の角川短歌賞受賞の光森裕樹は「短歌ポータルtankaful」を開設、丹念な情報収集力も発揮している。

一方、荻原裕幸は、インターネット「歌壇」からは一歩退いた感じで、歌会や句会を楽しみ、後進の指導や読書に勤しむ様子を淡々とブログに綴り、「世俗」とは一線を画したようにも見える。また、前述のように『短歌ヴァーサス』の終刊、藤原龍一郎のブログ終結に続いて、二〇〇九年には、三月に風間祥「銀河最終便」、五月には奥村晃作「短歌ワールド」の休止・閉鎖などの動きがあった。これらの一連の動きは何を意味するのだろう。歌人によるインターネット上の発信が、一つの役目を終えたということなのだろうか。予告もなしに賑わっていたサイトが消えるのは、急にシャッターが下ろされる商店にも似て、一抹のさびしさを感じる。

なお、既成歌壇とは微妙な距離を保ちながら、また、結社内に在りながら自らの広報戦略により着々と地を固めている中堅、若手によるHPも散見する。彼らはこれからどんな軌跡をたどるのだろうか、興味深い。

インターネットが短歌自体と既成短歌メディアに変貌をもたらした。その現況を短歌作品に即し、歌人・結社・グループなどが立ち上げる個別のHPやブログを訪ね、交わされ続けているインターネット「歌壇」批判も踏まえながら、稿を改め解明できればと思う。

<注記>蓄積と更新状況により主として以下の「リンク集」を参考にさせていただいた。

①ちゃばしら@WEB短歌関連リンク集(二〇〇二年一一月~、二〇〇五年一〇月ごろ最終更新か

②電脳短歌イエローページ:SSプロジェクト管理、一九九八年二月二七日~二〇〇五年二月

③小林信也の短歌のページ:一九九六年七月一二日~、二〇〇九年一月現在閉鎖サイト明示

④『短歌21世紀』ホームページ:文学・大学関係など広範囲

⑤短歌ホームページ:大谷雅彦、一九九六年四月二五日~最終更新二〇〇九年一月五日

⑥短歌ポータルtankaful:光森裕樹、二〇〇六年開設置~書籍情報、各種短歌賞記録なども充実

⑦笹公人の短歌プロジェクトBlog笹短歌ドットコム(お隣ページ):二〇〇六年五月八日~。二〇〇五年四月開設笹公人の短歌blogのリニューアル

Map@Ogihara com.:荻原裕幸関連サイト更新中

                                (『ポトナム』2009年12月号所収)

連載を終えて

今年の2月から『ポトナム』に連載してきました「インターネット歌壇はどうなるか」は、大急ぎでひとまず、終わりました。私にとりましては、やや情報過多の消化不良気味ではありますが、せっかくここまでたどり着いたので、今後もウォッチを続け、インターネット「歌壇」について書いてみたいと思っています。アクセスしてくださった方、他の紙面でご教示くださった方、ありがとうございました。

今晩から、NHKではじまるという「坂の上の雲」、NHKのこれでもかこれでもかという鳴り物入りの番組宣伝の一つなのでしょう、朝の「ありがとうノボさん・正岡子規の日本語改革」を見るともなく見ていると、『ホトトギス』での試みを「ネット時代の先駆け・・・」とのナレーションまで聞こえてきたのです。なんだかな、少々走り過ぎではないかなという感じでした。これからは、巷にも、歌壇にも、正岡子規評論家が増えるかも・・・。

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1年半かかって届いた、とんでもない「ねんきん特別便」の回答

昨年の5月に届いた「ねんきん特別便」、その直後の「ねんきん特別便専用ダイヤル」でのやり取りは、2008518日に本ブログでも記事とした。私は四つの職場をわたり、二つ共済組合に加入し、その後国民年金に加入している。共済組合の加入年月に間違いはなかったが、一つの共済組合の資格取得・喪失の「日付」がまったく事実と反していたので、社会保険庁にも共済組合にも電話したのだった。双方の言い分は異なったが、加入月数に変わりがなく、年金の計算には直接影響を及ぼさないことが分かった。それでも、なぜ、架空の日付が入るのか釈然としなかったので、「特別便」の照会書で、記録には正確な日付を記入するよう返信した。正直言って忘れていたのだが、この11月中旬に地域の社会保険事務所から書状が届いた。

開けてびっくり、私が資格取得・喪失の「日付」を修正してほしいと返信した、その共済組合に加入していた11年間について「被保険者加入期間については『被保険者記録照会回答票』のとおりです。なお、あなたからの申し出のあった事業所名称****に係る昭和*年*月*日~昭和*年*月*日までの期間は見当たりませんでした」と「日付」修正を要請した期間がそっくり抜けた「回答票」が同封されていた。現在すでに国民年金分とあわせて受給されている加入期間が「見当たらない?」って、いったいどういうことなのか。「日付」の修正を要請したばっかりに、その期間が加入期間より削除されるとは。

ようやく通じた地域の社会保険事務所への電話では、しばらく調べた後「当方のミスでした申しわけありません」と繰り返すばかり。どうしてこんなミスが発生したのか検証してください、同じようなミスを防ぐためにも検証してください、といえば、共済組合の情報が一元化されていないのが原因だというのだ。これはすでに1年半前にも聞いていた話。基礎年金番号で記録を一元化するのが今回の見直しの眼目ではなかったのか。さらにやり取りは続いた。

問:社会保険庁が自ら作成した、一年半前の記録票について、その中のある事業所在籍期間、資格取得・喪失の日付の修正どころか、その在籍期間が見当たらない、という回答はどうして出てきたのか?

答:厚生年金の期間のみを調べた結果で回答したと思う。

問:かつての回答した記録から一定期間の大幅削除をする以上、なぜチェックしないのか?

  共済組合に問い合わせてもよいし、私は、お宅の社会保険事務所の窓口で国民年金受給手続きをしているから、その時の書類なり、年金受給記録を見てもらえば、たちどころに解決することではないか?

答:担当者がよく解らないまま作業したのではないか。

問:解る人間がチェックしないのか?

答:チェックからたまたま漏れた。

問:たまたまというが、チェックから漏れたのは、能力の問題か、人員の問題か?

答:人員の問題である。

問:チェックのためのマニュアルはないのか。

答:共済組合の記録確認や照会はマニュアル以前の問題なのでマニュアルには入っていない。

問:同じ社会保険事務所の隣の窓口の年金受給記録となぜ一元化しないのか、なぜそのデータを活用しないのか。

答:被保険者記録と年金受給記録とは別のボックスのデータであって、それをいまどのように調整するかを進めている。

問:一年半かけて何をやってきたのか。

答:あなたが昨年の5月に社会保険庁へ提出された照会の返信は、今年の2月になって当社会保険事務所に届いた。その頃は、電話照会に追われて手がつけられなかった。遅くなった上に、間違えたのは申しわけなかった。

 もう、質問の意欲も失い、訂正の書類と、今後のためにも今回のミスの原因を精査した上での回答文書を、総務課長に依頼した。

  今回のやり取りでわかったのは、社会保険庁と出先の社会保険事務所のなかでも同じ年金記録を共有しているのかが明確ではなかったこと。同じ社会保険事務所の中でも、受給申請手続きに基づく受給記録と関係ないところで年金記録点検作業が実施されていること。まさに縦割りで、その一元化が難しいのは、従来の役所のシステムそのままで、同じような作業を、それぞれお金と人員をかけて並行して実施しているのではないか。見直しと称して多大なムダが横行しているのではないか、という気がした。同種、同様の事業を「横串で刺して」の仕分けがここでも必要だと痛感した。

  事情に詳しい方、教えてください。

 

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2009年11月14日 (土)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<9>ノルウェーの女たち、総選挙に垣間見る

ノルウェー旅行中の8月下旬、ベルゲンで出遭った街頭演説会が気になっていた。ちょうどホテルの前の広場で、多くの聴衆を集め、力強く語っていた女性政治家は誰だったのか。914日がノルウェーの総選挙だったことは後で知った。最近、ノルウェーのオフィシャルサイトで、この国政選挙のレポートを見つけた。書き手は、かつて東京都議会議員をされていたノルウェーに詳しい三井マリ子さん。国会議員の約4割を女性が占めるようになったノルウェーの政治に、ジェンダーの研究者として切り込んでいるレポートだった。選挙制度、国と地方の関係など、日本とは随分と違い、とても興味深いものがあった。また、JANJANニュースにも同様の記事がある。関心のある方は、是非これらのサイトをご覧になってください。

私たちがベルゲンで見た演説中の政治家は、その風貌から、今回の選挙で労働党、中央党とともに連立政権を組むことになった左派社会党党首のクリスティン・ハルヴォシェンだったらしい。

選挙結果が判明した914日の深夜、記者会見に臨む七大党首が並んだ写真が出ている。最大与党の労働党は男性だが、左派社会党と中央党はともに女性党首だ。大きな伸びを見せた野党の進歩党と保守党の党首も女性で、7人中4人が女性である。スウェーデン、デンマーク、フィンランドのように保守中道が政権奪取するのではないかとの予想に反して、連立による社会民主政権が続投になり、連立が2期連続というのはまれなことらしい。投票率75.4%、169議席のなか連立与党で86議席(労働党64、左派社会党11、中央党11)というぎりぎりの過半数であった。169議席の中、女性66人(39%)、3688人の立候補者の中、女性が1557人(42%)であった。労働党に次いで41議席を獲得した進歩党の女性党首シーブ・ヤンセンは、イギリスのサッチャーを尊敬するといい、減税・移民排斥・民営化を主張して、TV討論をリード、次期首相候補と目されていたという。今回の選挙の争点の一つに男女賃金格差(男性100に対して女性85)があった。ちなみに日本での比は10066なのだ。女性の男女社会進出が最も進んだ国、福祉が進んでいる国として際立っているが、福祉の民営化が問題になっていることも知った。

ノルウェーの選挙は比例代表制、19県選挙区で支持する政党を選ぶ。選挙権も被選挙権も18歳で与えられる。ちなみに女性の参政権が認められたのは1913年とかなり早い。今回の選挙には23の政党が名乗りを上げた。政党や政治団体は、各県の選挙管理委員会に立候補者リストと党規約を届け、既成政党は、全国で5000票、当該選挙区で500票以上獲得しているのが条件で、新規の場合は当該選挙区の住民500名の署名を付すればよい。さらに各政党は、投票日の約半年前の3月末日までに各選挙区の定数以上の立候補者リストを提出しなければならない。ただ、候補者リスト登載には本人の承諾は不要で、むしろ断わってはならないらしいのだ。当然ながら、現実には、事前の合意がなされているというのだが、立候補者数が多いのもそれで頷ける。選挙運動の期間の定めやその方法にも制限はないという。

20099月国政選挙 政党別得票率及び女性議員数・割合

政党

得票率

女性議員数(総数)

女性比率

労働党

35.4

3264)    

50.0

左派社会党

6.2

  311

27.3

中央党

6.2

 711

63.6

保守党

17.2

 930

30.0

キリスト教民主党

5.6

 410

40.0

自由党

3.9

22

100

進歩党

22.9%       

 941

22.0

赤色選挙同盟

 1.3

合計

66169) 

39.1

(三井レポートの表と記事から作成)

なお、私が気になったのは、政治と王室の関係だった。1905年、ノルウェーはスウェーデンから独立、デンマーク出身のホーコン7世が国王となった。20055月には国交樹立100周年で日本から天皇夫妻が訪問している。国王と王室は政治的実権を持たず、象徴的な存在で、国民に親しまれているという。一方、国王は週1回の閣議に参加するというのだ。また、王室の開放的なことは、2001年皇太子が長い恋愛期間を経て、シングルマザーと結婚したというニュースで私たちにも伝えられている。1991年即位した現国王ハーラル5世がオスロのデパート経営者の娘と結婚したのが1968年だったという。なお、1990年の憲法改正で女子の王位継承も可能になった。日本の皇室との違いや共通点、今後の天皇制を考える上でも参考になりそうだ。

 

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2009年11月 6日 (金)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<8> グリーグの家へ

郵便局が見つからない

 今朝のベルゲンは風が強く、公園の落ち葉は舞い、通学・通勤の人々は足早に歩いている。フロムで若干買い込んだ土産や旅の前半の荷物を送り返しておこうと、朝一番で宿にも近い郵便局に出かけた。ところが、地図で示されているあたりを何度回ってみても見当たらず、女子学生に尋ねたところ、従いてきて、との言葉に追いかけると、ビルの小さな入り口を示して、入れという。彼女はすでに先を急いで去って行った。ともかくそこは、どの店もまだ、開店準備に忙しい小規模のショッピングモールだった。エスカレーター脇の案内板にはたしかに郵便局〒のマークがあった。2階に上がってみれば、あったあった、9時オープンという。送料込みの日本行きのダンボール箱を買って、ホテルに戻った。ようやく、発送のひと仕事?を終えて、きょうは何が何でもグリーグの家を目指す。

歩けども、歩けども

案内書によれば、20233050系のバスであればよいという。下車駅Hopsbroenへは20分足らずで着いた。降りる客もなく、運転手のいう道を歩き出す。時々車や自転車とは遭うものの、歩いている人はいない。何の変哲もない田舎道をひたすら歩くが、“グリーグ”の文字はどこにもない。停まっていたトラックの運転手に、ガレージに車を入れる女性に、疾走する自転車を留めてまで尋ねてみるが、方向としては間違ってはいないらしい。途中、大きな立体交差のロータリーも見える。20分以上歩いたところで、ようやくGrieg Museumの看板があって、並木道をしばらく行ったところに人影と建物が見え、ほっとするのだった。1995年オープンの博物館にはいろいろな工夫もしてあって、外国人の私たちにも親しみやすい。私の好きな?年表の壁の前で、写真に収まる。グリーグの住まいには、ゆかりの家具や食器や写真などが展示されていた。

グリーグ(18431907年)は、ライプツィヒ音楽院では伝統的な作曲家はもちろん新しい作曲家についても学んだが、ノルウェーらしさを目指し、コペンハーゲンでは多くの作曲家やアンデルセンにも出会い、生涯の伴侶ニーナにもめぐりあう。後、クリスチャニア(現在のオスロ)に居を移し、ピアノ教師の傍ら数々の名曲を残す。「ペール・ギュント」はじめ、イプセンとの仕事も代表的な作品となっている。1885年、ニーナとともにベルゲンから約8キロのこの地に新居を構え、トロルハウゲン(妖精の丘)と名付けたという。晩年もチャイコフスキー、ブラームス、リスト、サンサーンスら、多くの作曲家と交流を深め、バルトーク、ラヴェル、ドビッシーなどには大きな影響を与えたという。

博物館には、イプセンの肖像画も描いているE.Wereckioldの作品やダール、クロ-グの絵も飾られていたので、学生らしい案内ボランティアに、画家たちとの交流について質問すると、「あなた方はアーティストか」と逆に尋ねられてしまう。湖の方に下っていくと、途中にコンサートホールがあり、その先に作曲小屋があった。若い女性から遠慮がちに写真を撮ってくれますかとデジカメを渡される。それならばと私たちも撮ってもらい、尋ねたところアメリカからとのことだった。カフェでの食事の間、ずいぶんと迷っていたようだが、連れ合いは昼のコンサートを聴いていきたいといい、博物館入館とコンサートチケットとのセットに交換してくる。それぞれリンゴケーキとワッフルとお茶で軽く済まし、先ほどのホールに入って、階段状の客席から見ると、舞台の奥の窓には、湖水と山が一枚の絵のようにおさまり、グランドピアノのシルエットが素晴らしかった。30人ほどの聴衆のなかには、作曲小屋で出会った女性もいた。今日のピアニストはRune Alverさんでやさしい声のおしゃべりも心地よく?癒しのひとときではあった。

帰りは、余裕のウォーキング気分で、バス停まで苦にならなかった。

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 ベルゲン大学とスーパー総菜売り場

夕方の5時過ぎにはホテルに帰り、夕食まではと散歩に出た。ホテルの横の大通りを上ると国民劇場にぶつかる。気ままに歩いているといつの間にかベルゲン大学のキャンパスに入ったらしい。街との境などないかのようだ。ヨハネス教会と向かい合っているベルゲン(文化歴史)博物館はもう閉館、ここではベルゲン鉄道開通100年記念展が開催中ではあったが、もう明日はベルゲンを発つ。

ベルゲン最後の夜は、気楽にビールと惣菜を持ち込み、ホテルで済まそうということになった。なにしろ、レストランではその支払い額の25%が消費税なのだ。近くのスーパーは大変な混雑ではあった。欲しいものをかごに入れてゆくのだが、スモークサーモンと白身のお寿司、すり身の揚げ物、マスカット、プラムにビールとミネラルウオーター・・・と、ややわびしい品選びではあった。それでも、食品は14%、ビールは25%の消費税を払ったことになる。ともども、満足の末、ひと眠り、荷物整理はまた後回しになってしまった。

明日は、最後の宿泊地コペンハーゲンへ飛ぶ。

(順序が逆になりましたが、続きをお読みの方は、<1><2>にお戻りいただければ幸いです)

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2009年11月 5日 (木)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<7> フィヨルドヘ

ベルゲン鉄道からフロム鉄道へ

西向きのホテルの部屋から見たベルゲンの日没は9時、街のざわめきは深夜に及んだが、朝は意外と早いのに驚く。私たちは、大きな荷物はホテルに預けて、ベルゲン中央駅に早めに向かう。日本の旅行社で用意したフィヨルド周遊券のバリデ-ションという点検の手続きを経なければならない。結構行列ができていたが、このオフィスのパンフレットで、ベルゲン鉄道が今年11月で開通100年になると知った。記念の絵ハガキも何枚かゲットして、840分ミュルダルに向かう。約2時間、列車は、Daleダーレ、 Bolstadoyriボルスターオイリ、 Evangerエヴァンゲルとフィヨルドの谷や湖水に迫ったり離れたりしながら進む。どの駅も似たようなオレンジ色の小さな駅舎、ヴォスVossから乗り込む観光客も多く、以後は各駅停車となり、長いトンネル(Gravhals)を抜けるとミュルダルだった。雪渓が残る峰々を見上げながら、数分の待ち合わせでフロム鉄道に乗り換えた。深緑の斜面が窓に迫り、眼下の湖水に安らげば、突然岩山が現れ、遠い連山には雪が光る、といった沿線の展望はめまぐるしい。赤い実をびっしりつけた木はなんというのだろう。しばらくして、列車は突然停まって、乗客が降り始めるではないか。背の高い車掌が降りた客を誘導しているので、私たちも木製のホームを進んでゆくと、そこには思いがけず、目の前にすごい水量の滝がしぶきを上げていた。展望台の先まで進むとしぶきはもう雨のようで、床はびしょぬれで滑りそうでもあった。何段にもなった瀑布の右手にはかつての水力発電所の建物が見え、その先の崖の上では、薄物をまとった女性が踊っているような・・・、観光のために仕組んだことらしいが、これは少しやり過ぎでは?車掌の合図で乗客たちは再び列車に乗り込んだ。滝の段差は94mの由。あっという間の50分でフロムに到着した。幾筋かの細い滝を擁した山を背景に赤や朱の家が点在する集落こそ、フロム鉄道の終着駅。人口400人、年間の観光客3万人という村でもある。早めのチェックインをしたのは、正面のガラス張りの窓が目立つホテル・フレットハイムだった。波止場には大きな客船が停泊、すぐにフィヨルド観光に出かける人たちもいる。ホテルで一休みした後、昼食をと辺りをめぐり、結局バイキング方式のレストランに入った。あったかい紅茶がありがたかった。ホテルの夕食での日本人客は私たちのほか、やはり熟年のご夫婦だった。白ワインがほどよくまわった私の夜は早かった。

そしてフィヨルドへ      

周遊券の日程では、午後にフロムを発つ予定であったが、これ以上留まることもないね、と朝一番の遊覧船に乗ることにした。セーターは着込んだものの、薄い上着でもなお寒い。乗船前にお土産屋さんをひとめぐり、どうも気になったのが鉄道博物館であったが、もちろんまだ開館していないので、窓から覗いて鉄道100年の歴史に思いを馳せた。

争うようにして乗船した連れ合いは、甲板の先に席を取って手招きしているではないか。フィヨルドの谷の空気はめっぽう冷たい。留守をするので声をかけた隣家の奥さんが、2年前の北欧旅行の体験から厚手の上着は持って行った方がいいですよ、の言葉を思い出す。いっそう船室に入りたいくらいだったが、熱い缶コーヒーで陣取っていた。連れ合いは席のあたたまる間もなく、撮影に忙しい。地図で見るとノルウェーの西海岸からは一番長いソグネフィヨルドの、一番奥まったアウルランフィヨルドからナーロイフィヨルドへと船は進んでいる。迫る斜面、絶壁の岩、重なる山々を背景に、湖水のような静かな水面を滑るように船は進む。左右には、時折、頂き付近からのジグザグの滝、直接に水面に落下する滝、急斜面から岸にかけて家が点在する集落が見えたりする。集落の真ん中に教会と墓地が見てとれるところもあれば、船着き場付近に数軒の家しか見えないこともある。道路がない集落、夏季しか人が住まない農場もあり、村びとたちの営みを思うと気が遠くなりそうな世界だった。1時間余のクルーズを終えて降りたグドヴァンゲンではようやく日が射してきてホッとする。

 グドヴァンゲンは、フィヨルド観光船の寄港地、今はバスでナーロイ渓谷沿いにスタールヘイムに向かう出発点である。1140分発、乗客は156人、急こう配のジグザグを登り切ったところでバスは停まり、乗客らは、赤茶色の建物になだれ込む。ホテルの売店を突っ切ったところの展望台に案内される。眼下の渓谷と集落、ま向かいの山並みを堪能させてもらったサプライズだった。案内書によれば、これも観光客へのお決まりのサービスらしい。ドイツや北欧の王族たちに愛されたリゾート地だったという。

思いがけずヴォスの展望台にて

再び国道13号線をひた走り、オッペンハイム湖や幾つかの湖水を左右に、草原やスキー場らしい斜面が続く。正面の峰々の尾根には雪渓が光る。フロムを早く発った分、ヴォスで数時間過ごせそうだ。ロッカーに荷物を預け、まず昼食をと思うが、店がない。ホテルという気にもなれず、結局駅構内のカフェで済ますことになった。駅のホームの端にある陸橋には、ケーブルカーの矢印がある。階段も手すりもすっかりさびているわびしい橋を渡ると、傾斜地に点在する住宅、どの家も色とりどりの花を咲かせ、庭には、大きなパラソルを逆さにしたような放射線状の物干しに洗濯物がいっぱいであった。斜面の上の家々のメールボックスは、坂の上り口にまとめて設置されているから、郵便物はここまでしか配達しないのだろう。眼下には、線路と国道と雄大な山並みと湖水が見下ろせる。ケーブルの駅にはそれでも人はいた。56人も乗ればいっぱいのケーブルカーは無人運転で急傾斜に差し掛かると、大きく揺れておそろしい。山頂駅に着けば係員がドアを開けてくれて、なぜかホッとする。発着所付近には羊が放牧されているが、足元の大きな糞には要注意ながら、目の前に展けたパノラマには息をのむ。先ほど訪ねた教会が小さく見える。駅の周辺にわずかに続くヴォスの家並み、湖畔からゆったりした草原には何の競技場だろうか、土色のグラウンドが幾つも点在しているのがわかる。展望台でぼんやりしていると、何本かのケーブルカーをやり過ごしようやく下山、それでも、ひと電車早くベルゲンに帰れそうである。

(フィヨルド遊覧船から)

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(ヴォス、ケーブル山頂駅展望台から)

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2009年11月 2日 (月)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<6> ベルゲン美術館

1035分発のオスロからベルゲンへのSAS便は、搭乗ゲイトが変更になり、離陸が大幅に遅れたにもかかわらず、ほぼ予定通りベルゲン空港に着く。小雨のなか、乗り込んだバスの運転手にはまずホテル名を告げた。降ろされた広場前では、人群れとマイクの声に驚いたが、演説をしているのは女性党首という雰囲気で、正面の大きな画面にも映し出されていた。これは後で知ったことだが国政選挙が間近いのだった。いったい誰だったのだろう。そういえば、日本の選挙はどうなっているのか。娘からのメールによれば、麻生首相がまた失言をしたらしい。それに、家の近くの京成の駅前にまで演説に行ったらしいよ、と。当選危うしの2代目議員が招んだのでは。

ホテル前のフェスト広場に接した大きな池の端に3棟のベルゲン美術館が続いている。やや遅い昼食は、迷わず美術館カフェに決めた。窓から望める池の水面を打つ雨脚はまた強くなってきた。テーブルのセッティングがユニークで、空いているテーブルには、フォークとスプーンが羽を広げたようにセットされ、グラスの鳥が今にも飛び立とうしているようであった。 

ベルゲン美術館は、大きな三つのコレクションから成り立っているらしい。一つは中世のヨーロッパ美術が中心のThe city art collectionであり、一つは、R.ステナーセン(Rorf Stenersen,18991978)コレクションで、ミロ、ピカソ、パウル・クレーから現代に至るまでのインターナショナルなフロアとダールを核にしたフロアなどに分かれて展示がなされている。タワーのある、この美術館は今回大急ぎでしか見られなかった。比較的時間をかけて私たちが見たのは、もう一つのコレクションで、実業家R.メイヤー(Rasmus Meyer18581916)963点にも及ぶコレクションの一部だった。美術館自体もこの地に建造し、1924年にオープンしている。ノルウェーの絵画の歴史がたどれるような展示であり、各部屋には解説のプリントがノルウェー語と英語版の2種が用意されているが、その場で読める量ではなく、部屋によっては英語版がなくなっていることもあった。1階は、1819世紀のインテリアや家具が展示されている部屋も多く、ダール、グード、エッカーズベルクらのノルウェーの風景や暮らしを描いた作品が続く。2階に上がった踊り場には、イプセンの大きな肖像画(1896 年、Evik Werenskiold)が掲げられていた。17室には、先にもふれたH.BackerとクローグC.krohgの作品が集められていた。ここには、オスロの美術館では撮影できなかったクローグの“The Fight for Survival”1890)の異なったバージョンだろうか、もう一度出会うことができた。また、ムンクの前半期の絵画や版画が2021室に集められていた。初期の作品、Girl sitting on a bed(Morning,1884)  Inger on the beach(Summer night,1889) Sick girl(1892)など家族の死や病をモチーフとするものが多い。1890年に入り、パリモネやゴッホの印象派に出会い、スーラーやゴーガンにも影響を受けたらしく、Spring day on Karl Johan (1891)などはまさに点描だし、セーヌ川をスーラー風に描いた作品を先のムンク美術館で見てもいる。さまざまな手法を取り入れてノルウェー絵画からの脱却を試みていた時代という。このころ、マドンナも幾度となく描かれ、Woman in three stages (1894)Four age in life(1902)では、3世代―青年期・熟年期・老年期の女性、4世代―さらに幼年期の少女を一枚の絵に描く手法がとられている。これらの絵がどんなメッセージを発信しているのか、私にはやや不明確ながら、ムンクとも親しかったイプセンは男性や家庭から解放された「新しい強い女性」を描いていた時代でもあった。1900年代に入ると、しばしば滞在していたオスロの南東にあたる海辺の村、オースカーストランドでは、カラフルな衣装をまとった少女たちが、また橋の上の少女たちが描かれ始める。神経症を病み、療養しながらの後半期の制作も多くこの時期までのモチーフに拠るのではないか。

ベルゲン美術館にもまだまだ見残した名画は多い。
 いつまでも昼下がりのような夕方は、ここは見逃せないと、ベルゲン港の北側に沿ったブリッゲン地区へと出かけた。中世のハンザ同盟の隆盛を今に伝える木造の家並みは、奥行きも深い。様々な店や工房がどこまでも続く趣が魅力的だった。とある店で、私にしてはかなり思い切った値の毛糸のマフラーを買ってしまったのだ。

明日は、ベルゲンを離れて、フィヨルド観光のためフロム一泊の小旅行となる。

(上)クローク:The fight for survival

(下)ムンク:Four age  in life

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