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2009年12月26日 (土)

『カティンの森』『大理石の男』、ワイダの新旧二作品を見る

 『灰とダイヤモンド』のラストシーン

アンジェイ・ワイダ(1926~)作品との最初の出会いは、『灰とダイヤモンド』(1958年)のはずだ。日本公開から数十年後のテレビ放映ながら、反政府ゲリラの暗殺者の青年がもんどりうって倒れても、なお執拗に銃で撃たれるラストシーンの衝撃は忘れ難い。暗殺の「仕事」はこれが最後だと、恋人を振り切ってきたばかりの主人公の死であった。この作品は、19455月、ドイツ降伏前後のポーランドの数日間の出来事という設定だった。ソ連を後ろ盾にしたポーランド政府への抵抗映画に思えたのだが、制作された当時の共産党体制下のポーランドでは、ラストシーンの青年の死は、体制への抵抗の空しさと仕打ちを表現したものと評価されたという。

 『大理石の男』を追う、若い女性の執念

そして、この12月に入って、『大理石の男』(1977年)のテレビ放映を見ることができた。あらかじめ少しばかりネット検索はしたものの、どうもイメージがつかめなかった。当初、テンポが速く、過去と現在が入り混じっていて、ついていけない感じもあったが、見ているうちに思わず引き込まれた、2時間40分の大作であった。

ポーランドの映画大学の卒業制作では、テレビ局の機材とスタッフが利用できるらしい。1952年生まれという設定の女子学生は、博物館の金網で囲われた倉庫に放置された若い労働者の大理石像を見つけた。彼女は、その若い労働者がなぜ大理石像にまでなって讃えられ、そして、なぜいま埃をかぶって倉庫に横倒しになっているのかを、卒業制作のテーマにすることにした。博物館では撮影を断られ、大学の指導者はなぜか、そのテーマに難色を示す。テレビ局の古い記録フィルムやスタッフの話で、大理石像になった青年はビルクートといい、1950年代後半、コンビナート建設が盛んな時代に、8時間通してレンガを積み続ける優秀なレンガ工として有名になり、「労働英雄」として称賛されていたのだ。だが、彼を讃える肖像画も引きずり降ろされる記録フィルムも出てきた。現在、その彼の行方は杳として知れない。女子学生が取材に訪れた関係者は誰もが口を閉ざし、触れたがらない。そんな中、「あのヤケド事件」がカギではないかとの情報を得る。

その証言と再現によれば、ビルクートが仲間と一緒に各地の工事現場に招かれ、模範実技を披露する日々が続く。そんなある日、工事現場の労働者の観衆の前で、実演のさなか、一つのレンガが手渡された後、彼はその場に倒れ込む。高度に熱せられた1個のレンガが彼に手渡され、両手に酷いヤケドを負ったのだった。以降、レンガ工として再起できなくなってしまう。なぜそんなことが起きたのか。仲間のやっかみなのか、もっと組織的な事件だったのか、見ている方も不安になる。女子学生はかつての記録映画の監督で、いまをときめく人物への突撃取材で、さらに真相に近づくことになる。最も信頼していたレンガ工仲間の裏切りが示唆されたり、その仲間の弁護をしようとすれば遠ざけられたり、いろいろな曲折を経て、元の職場の組合幹部に迎えられようともする。ビルクート自身はひたすら真相を知りたいと思うが、その壁は厚い。家族とも遠ざけられた彼が、ようやく会えた妻に裏切られていたことを知る。そこまでのいきさつを知った女子学生は、さらに、彼の息子の消息を知り、働く造船所の前で待ち伏せし、聞かされたのは父ビルクートの死であった。彼女は、その息子を連れて、意気揚々とテレビ局に向かうのだった。何か明るい展開がありそうなラストシーンではあった。

女子学生の取材と周辺人物の証言の積み重ねで、徐々に真相が明らかになっていく。市民が時の政府や党の都合でいかに翻弄されていくのかを、丹念に解き明かしていく手法はさすがと思った。

テレビでは、放映前に、82歳になるワイダ監督への取材フィルムが流されていた。この映画の構想はすでに1963年には出来上がっていたが、なかなか映画制作の許可が下りなかったといい、13年後の1970年代後半、当時、ようやく許可した文化大臣は、この映画の件で辞任させられたという。

こんな緊張感のある映画製作過程が、映画の中で<大理石の男>のドキュメンタリー制作に挑む女子学生にもそのまま投影されている作品になっていた。

『カティンの森』をどう伝えるか

映画評論家の友人、菅沼正子さんの推奨作品、アンジェイ・ワイダの最新作『カティンの森』(2007年)が岩波ホールで公開されている。本ブログのマイリスト登載の地域ミニコミ誌『すてきなあなたへ』58号には、菅沼さんの映画評があるので、そちらもご覧いただきたい。クリスマスも近いある日、岩波ホールへと出かけた。週日ながらほぼ満席で、やはりシルバー組が多い。

<カティンの森>とは何があったのか。「カティン」といわれて、私は正直なところ、ソ連のフルシチョフ時代、大統領が「カティンでのポーランド将校らの大量虐殺はソ連の手でなされたことを認めた」という報道がされたのを思い起こすくらいであった。すでに、多くの新聞の映画欄に登場しているので、ここでは簡単に紹介しておきたい。

1939年、ドイツとソ連がポーランド不可侵条約を結んだ直後、91日ドイツ軍が、917日ソ連軍もポーランドに侵攻する。クラクフからポーランド東部まで、将校である夫を追ってきた妻アンナと娘。ブク川の橋は、ドイツ軍に追われ、身一つで逃げてきた人々であふれる。橋の反対側からはソ連軍に追われてきたという人々。「クラクフ第8槍騎兵隊はどこか」と尋ねるアンナ、途中の教会は野戦病院となり、近くの駅から、ソ連軍の捕虜となったポーランド将校たちが列車に乗せられようとしていた。夫、アンジェイの姿を見出したアンナ、一瞬の逢瀬に、脱出を勧めるアンナ、軍への誓いを説くアンジェイ、ふたりはソ連軍兵士に引き裂かれ、アンジェイらを乗せた軍用列車は去ってゆく。一方、アンジェイの父、クラクフ大学教授のヤンは、大学に一堂に集められた同僚たちと共に「反独宣伝の拠点だった大学閉鎖」を告げられ、突然収容所送りのトラックに乗せられるのだった。ここから、アンナとヤン夫人の夫の帰りを待つ「闘い」が始まるのだ。

アンジェイは収容所での過酷な暮らしの中で、不安を抱きながらも手帳に記録を残す。これによって、家族らに真実の一端が知らされることになるのだ。ふたりの妻の話を核に、夫や兄がカティンの森の犠牲者となった、大将夫人ルジャと娘、アンナの兄の妻と息子、中尉の妹たちも、受け入れがたい事実の真相を探ろうとするなか、ドイツ軍とソ連軍に翻弄されつつも様々な抵抗をこころみる勇気とプライドが胸を打つ。

そして、行方不明になった15000人ともいわれるポーランドの将校たちは、当初ソ連軍によりドイツ軍に虐殺されたと宣伝され、ドイツ軍はソ連軍による虐殺だと断定する。長い間、ポーランドにおいてすらタブーとされていたカティンでの虐殺は、1940年当時、ソ連領だったカティンで、スターリンの命令によるソ連軍の手になる大量虐殺であったことが明らかとなり、フルシチョフはそれを認めて謝罪している。

父親をカティンで虐殺されたアンジェイ・ワイダは、今回の映画で、ソ連軍による虐殺の実態を執拗なまでに再現し、その残酷さと虚しさを訴えている。ラストに近い、そのシーンは何分ほど続いただろうか。目をそらしてはいけないのだというメッセージは重い。

数あるワイダの作品の中から私が見ている、わずか3作品に触れたが、これらに共通しているのは、戦争や暴力が生み出す狂信の愚かさ、残酷さと虚しさではないかと思う。そこには愛の絆も強調されるが、同時に見逃してはならないことは、体制や時代、状況にあわせて生き延びたり、いい思いをしたりしている人々への視線ではなかったか。必ずそういう人物を複数登場させて、声高に責めることはしないが、見る者の喚起を促し、考えさせる点が優れていると思う。『大理石の男』の映画監督やコンビナート建造現場の監督となっている主人公が信頼していた同僚、『カティンの森』の、市長夫人となった大将一家の家政婦、アンジェイの親友イジェ(苦悩の末、自殺するのだが)などであった。

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