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2010年1月29日 (金)

『坂の上の雲』を見ました(3)幾つかの疑問~小説とドラマと~日清戦争の原因をめぐって

2.歴史小説と史実の関係

今回のNHKのドラマ化は、司馬の歴史小説を原作とするもので、フィクションなのだから、歴史に忠実かどうかあまり目くじら立てることもない、という人も多い。しかし、原作者自身が、この小説についてつぎのように語っていることは見逃せない。

①「この作品は、小説であるかどうか、じつに疑わしい。ひとつは事実に拘束されることが百パーセント近いからであり、いまひとつは、この作品の書き手―私のことだ―はどうにも小説にならない主題をえらんでしまっている。」(「あとがき四」『坂の上の雲』(単行本第41971年、文庫本第8巻収録 文芸春秋)

②「『坂の上の雲』という作品は、ぼう大な事実関係の累積のなかで書かねばならないため、ずいぶん疲れた。本来からいえば、事実というのは、作家にとってその真実に到達ための刺激剤であるにすぎないのであるが、しかし『坂の上の雲』にかぎってはそうではなく、事実関係に誤りがあってはどうにもならず、それだけに、ときに泥沼に足を取られてしまったような苦しみを覚えた。」(「首山堡と落合」『司馬遼太郎全集28巻月報』1973年、文庫本第8巻収録 文芸春秋)

文献・資料探索や新資料発見の苦労を自慢話のように記す著作や論文もうんざりだが、上記の司馬の述懐はどう読むべきか。官修の戦史がアテにならないことは何度か述べている司馬なので、典拠や参考文献の記載こそしないが、『坂の上の雲』は「事実」に即して書いたことを公言していることになる。とすれば、読者の多くはその記述を大方事実として読み進めるであろう。その記述に、その当時すでに史料的な裏付けをもって証明できる大きな間違いがあるとしたら・・・。そして、その後の研究で明らかになったことがあるとしたら・・・。

3.日清戦争~小説・ドラマの検証

日本近代史の専門家たちは、たとえば、日清戦争についてのつぎのような小説での記述①②③を指摘した上で、これらを質している(中塚明『司馬遼太郎の歴史観』高文研 20098月。中村政則『<坂の上の雲>と司馬史観』岩波書店200911月)。さらに、ドラマの第1部での該当部分とを検証してみよう。ドラマにおいては、日清開戦の理由が明確に語られる場面というのは、どの辺だったろうか。

小説

①そろそろ、戦争の原因にふれねばならない。原因は朝鮮にある。といっても、韓国や韓国人に罪があるのではなく、罪があるとすれば、朝鮮半島という地理的存在にある。(第248p)

②この戦争は清国や朝鮮を領有しようとしておこしたものではなく、多分に受け身であった。(第249p)

③韓国自身、どうにもならない。李王朝はすでに五百年もつづいており、その秩序は老化しきっているため、韓国自身の意思と力で自らの運命をきりひらく能力は皆無といってよかった。(第250p)

④参謀本部の活動はときに政治の埒外に出ることもありうると考えており、ありうるどことか、現実ではむしろつねにはみ出し、前へ前へと出て国家をひきずろうとしていた。この明治二十年代の川上(操六)の考えかたは、その後太平洋終了までの国家と陸軍参謀本部の関係を性格づけてしまったといっていい。――日清戦争はやむにやまれぬ防衛戦争ではなく、あきらかに侵略戦争であり、日本においては早くから準備されていた。と後世いわれたが、この痛烈な後世の批評をときの首相である伊藤博文がきけばびっくり仰天するであろう。伊藤はそういう考えかたはまったくなかった。が、参謀次長川上操六にあっては、あきらかに後世の批判どおりであるといっていい。(第25455p)

⑤川上は外相陸奥宗光と内々で十分なうちあわせをとげていた。短期に大勝をおさめるしごとは川上が担当し、しおをみてさっさと講和へともってゆくしごとは陸奥が担当する。この戦争は、このふたりがやったといっていいだろう。(第26162p)

⑥韓国に対する大鳥(圭介)の要求はただふたつである。「清国への従属関係を断つこと。さらには日本軍の力によって清国軍を駆逐してもらいたいという要請を日本に出すこと」であった。(第26263p)

⑦(英国汽船)高陞号の船内は騒然としており清国兵は船長以下をおどし、下船させなかった。東郷はこの間の交渉に二時間半もかけたあげく、マストに危険をしらせる赤旗をかかげ、そのあと、撃沈の命令をくだした。浪速は水雷を発射し、ついで砲撃した。高陞号はしずんだ。船長以下船員はことごとく救助されたが、清国兵はほとんど溺死した。(第265p)

ドラマ

①明治27年春、朝鮮半島に大規模な農民の反乱が起きた。東学党の乱である。朝鮮政府が清国にたいして救援を要請した明治2761日の翌日、日本の閣議で出兵が決定したのを受けて、出兵自体に慎重な伊藤博文首相(加藤剛)に陸奥宗光外務大臣(大杉漣)、参謀次長川上操六(国村準)とが大量の出兵を決意させる場面。その説得に憲法上の天皇の統帥権を持ち出して、出兵・作戦の権限は首相に権限はなく、運用は参謀本部にあるとする。そこでのナレーションの主旨は次のようであった。
「当時、陸軍の至宝といわれた陸軍参謀次長川上操六。いっぽう、カミソリといわれた外務大臣陸奥宗光。この戦争は、このふたりが始めたといっていいだろう。」(第3回「国家鳴動」)

②明治27725日、東郷平八郎大佐(渡哲也)が艦長の「浪速」が、清国の兵と武器を積んだ英国汽船「高陞号」と遭遇、投錨を告げるが満載の清国兵たちが抵抗したので撃沈。清国への宣戦布告は81日であったが、ここでは、東郷の手続きと判断が国際法に照らして合法であることが強調されていた。(第4回「日清開戦」)

以上は、原作における日清戦争の開戦理由の記述と思われる個所、小説①~⑦であり、ドラマにおいては判定しにくいが、該当すると思われる場面①②である。原作における日清開戦への総論的な記述は①②③④であり、各論的と思われる⑤⑥⑦は、局面における日本のとった行動に対する司馬の評価がうかがえる。 

  専門家ではない私でも、司馬の原作における断定的口調の極論には「?」も多く、にわかに信じがたい。日清戦争といえば、明治27年(1894年)81日の宣戦布告から翌1895(明治27年)417日の下関条約調印まで指すが、布告以前の高陞号の撃墜からすでに始っていたといえる。しかし、その2日前の723日には、日本軍が朝鮮ソウルの王宮を占拠し、国王を捕え、清国軍攻撃を日本に公式要請させて、開戦の口実としたことは、近年の上記中塚の研究などにより検証されている。公的な戦史では、日本軍は、王宮における突発的な日朝の兵の衝突から国王を保護して「お慰め」した、ことになっているが、これにさえ、司馬はまったく触れていないし、ドラマでもいっさい触れてはいない。小説①の朝鮮の地理的条件や③の侮蔑的ともいえる朝鮮無能力論は、全編を貫く司馬の朝鮮観であるが、ドラマの会話やナレーションでは、さすがに差別的な表現は避けられていた。また、ドラマで強調されたのが、日清開戦で果たした陸奥と川上の役割だった。小説④⑤にも見られるが、ドラマでは、もっと端的に、この二人がはかって伊藤博文をだますような形で大量派兵へと踏み込んだように描かれていた。そこには小説よりさらに策略家としての二人に焦点をあてた運びとなっている。しかし、日清戦争自体が侵略主義的な戦争であったという、定着しつつある論(中村1778p)からは、ますますかけ離れた展開をするのだった。(続く)

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2010年1月26日 (火)

石原都政を考える~これからどうすればいいのか

「石原都政への対抗軸―新しい東京 福祉・環境都市を目指して」(新東京政策研究会主催 2010124日午後130分~ 明治大学11号館)というシンポジウムに出かけた。連れ合いが報告をするので、都民ではないながら、神奈川県に住む娘を誘い、昼食でも一緒にしてからということになった。この日は、明大校舎が英検会場になっているらしく、昼休みでもあり、大通りはかなりのにぎわいだった。リバティタワー付近は立派だが、とちのき通りに入ったところの11号館は、いかにも古い。娘は「場違いな気がする」と年輩男性の多い階段教室を見回す。主催である研究会は2008年に発足、その成果の一部を昨年末『世界』12月号での特集「東京都政も転換を!―<石原時代>の終焉」などに発表している。この日のプログラムの第1部の報告は特集の中にもあった。

<プログラム>

1部「新東京政策研究会からの報告」

共同提言「チェンジ・ザ・イシハラ」  進藤兵
  新銀行東京に清算以外の道はない    醍醐聰
  オリンピックと地域スポーツの架橋   尾崎正峰
2 パネルディスカッション「都政転換への視座」
  東京都の医療・福祉政策の課題     森山治
  東京の都市像とまちづくり       福川裕一
  地域・自治体住宅政策2010      中島明子

地球温暖化防止と東京の環境政策       寺西俊一

3 「都政への対抗と改革の展望」      渡辺治

 私は第2部の質疑前、415分に退席したので、あとは聞いていない。

「新銀行東京」については、『世界』以降の新たな資料も加わり、幾つかのグラフを使っての報告では、中小企業支援という大義名分とは裏腹な経営しかやってこなかったのが分かった。

また、オリンピック東京招致は、コンパクトと環境配慮をうたいながらも、たなざらしの臨海副都心再開発と環状道路建設を全うするための方便にすぎず、スポーツ振興とは無縁だったという。そのためにどれだけの無駄遣いがあったのかも検証してほしかった。

都の医療政策、病院政策の沿革と石原知事と密接な徳田虎雄の徳州会方式と共通するところが多いとする報告は興味深かった。

東京都の都市計画とまちづくりについての話は、パワーポイントで興味深い年表や資料が映し出されるが、すぐに消えてしまい、残念だった。都市計画のビジョンと現実とのかい離が実例で示されたが、やや散漫となったきらいがあった。私の住む県や町でいささか関わってきた問題だけに、もっとも関心があるテーマだった。都市計画行政で、いつも考えさせられるのは、いわゆる都市計画の専門家や研究者の多くが、自治体のプロジェクトに参加したり、審議会委員になったりしながら、もっぱら行政やディベロッパー支援に傾き、住民参加はお題目に終わることが多いことだった。計画「先にありき」で、結果へのフォローがなく、地域の生活が置き去りにされることを何回となく経験させられたからである。わが町での区画整理事業、地区計画策定、マンション建設、道路・交通行政、大型店進出などなど・・・、その結果、自然は壊され、地元に商店が定着せず、高齢化が進み、住環境は日に日に損なわれているからだ。これを食い止めるには住民の覚悟と体力がことのほか要求されるのが実情である。力を貸してくれる専門家はいないのか、の思いが募る。

東京の住宅・居住事情の過酷さと対策の貧困さも差し迫っていることがよくわかった。また、温暖化防止対策を巡る国際動向、猶予を許さない日本の選択、CO2直接排出数値の管理の重大性などが分かったが、具体的にはどんな道筋が考えられるのだろう。

会場では、思いがけず大津留公彦さんと初めてお目にかかり、一昨年のNHK7時ニュース事件?では、紹介・リンク等でお世話になったお礼を申し上げることができた。「今もツイッターで書き込んでいるんです」とのことだったが、あのいま流行の140字のツイッター、私には短すぎてちょっと苦手だし、正直分からないんです、と伝えたのだった。

時間切れで、4時過ぎ会場を後にした。往きとは違った道をと、とちのき通りを猿楽町方面に向かい、文化学院やアテネフランセのたたずまいに一人思いにひたっていて思わず、男坂を通り過ぎてしまい、はや暮れかけた女坂、急階段をくだることになった。階段の両側にはマンションの壁が迫り、2か所ほどの踊り場がそれぞれ出入り口になっていた。

仕事柄、環境問題には関心がある娘だが、築地市場移転問の話は出なかったね、と、あまり多くを話せないまま神保町駅で別れた。

帰宅後、「坂の上の雲」関係の本を読んでいたら、正岡子規と秋山真之が二人で下宿していたのが神田猿楽町だったらしいことがわかった。

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2010年1月22日 (金)

木原実さんの訃報に接して~歌人としての業績に触れる

1月20日の新聞で木原実さんの訃報を知りました。18日に亡くなり、21日に告別式とありましたが、伺えなかったので、この小文をしたためることとしました。同じ千葉県に住みながら、木原さんにはとうとうお目にかからずじまいでした。新聞には、元社会党衆議院議員、93歳。1967年に初当選し、5期務めたと記されていましたが、歌人としての仕事には触れられていませんでした。最近、木原さんの歌人としての仕事に触れて書きました「時代の<空気を読む>ことの危うさ」(『短歌研究』2009年6月)と、15年以上も前に『芸術と自由』に寄稿し、拙著『現代短歌と天皇制』にも収録しました一文とを、ここに再録いたします。闘病生活が長かったとも伺っていましたが、『芸術と自由』や『掌』での作品を読むたびにむしろ励まされる思いでした。『芸術と自由』の最新号の巻末には、次のような木原さんの通信が載せられていました。

「長いスランプでした。ようやく字が書けるようになりました。1月号からまた書きます。宮崎、金子さんにお悔やみ申しあげます。* (編集部へ)忙しいことは理由にならぬ。僕も何回も考えなおした。結局、書けない歌でも書いていこう。まずい歌を死ぬまで書いてゆきます。(木原実)」  
そして、その1月号に発表された新作9首から選びました。

・「もういいかい」「まあだだよ」尋ねる人はたしかにいる
・多様性というどうでもよい男が喋る国なるもののおかしさ
 (『芸術と自由』269号2010年1月) 
なお、1月号の「編集ノオト」によれば、これまで2年間の発表作品は、すべて預かっていた作品だった由、これにも驚きました。
つつしんでお悔やみ申し上げます。


・おれという男の歌を集めた雑誌がくる九十二歳 青二歳
・こちら笑う人あちら笑われる人ひとり笑わないでいる 
(『芸術と自由』268号2009年11月)
・天皇がいるときの虚と実ひそかに教えてくれた史観の遊び
・挨拶じゃない自由律にんげんをみるたしかなレジーム
・九十三歳 表現や住むところ俺というものがなくなっていく
(『掌』100号2009年7月)

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■時代の「空気を読む」ことの危うさ■
(『短歌研究』2009年6月号所収)

・自己正当化を原点とせる評論を手間ひまかけて書きしか人は
(清水房雄『蹌踉途上吟』)
・うらみを持って神になる石には皇室下乗と彫ってある
(木原実『芸術と自由』二五一号)
・凶状を負ひたるものどち姑息にぞ寄り添ひ名を変へ銀行はも嘉し
(島田修三『東洋の秋』)
  清水房雄は、一九一五年生まれ。二〇〇九年の第十四歌集から引いた。歌壇というところで歌人たちが書く「評論」のたぐいを、あるスパンで振り返って読むと、その「ブレ」にいささか惑わされることが多い。もちろん歌人に限るものではないが、たくさんの留保、微妙な言い回し、難解な表現など、「手間ひま」をかけ、苦労の跡がわかるものもある。「空気が読めない」という言い方が流行ったが、時代の「空気を読み」ながら、「陽のあたる場所」を歩こうとする書き手たちを苦々しく嘆いている。その一首の近くには「社会批判の歌はいつにても威勢よし実践行動を前提とせず」という歌もある。勇ましく、格好よく、社会批判めいたことを作品にしたとしても、その作者が日常的に何をしているのか、生涯を通じ、どういう軌跡をたどったのかが大事だという風にも読める。また「いざといふ場合に本音吐かぬこと身すぎ世すぎのかなめとぞして」という一首もある。自嘲的に詠んでいるが、これだけ明確に、客観的に自分を把握できる人には、逆に信頼を寄せてもよいという気になる。ちなみに、清水は昭和末期の五年間「歌会始」の選者を務めていた。 
  木原の掲出作品は、二〇〇七年「駅伝日和」三七首の連作からとった。木原は、一九一六年生まれ。戦前から農民運動に携わり、口語による作歌歴は昭和初期にさかのぼる。戦後は、一九六七年から八一年まで社会党の衆議院議員を務める。歌集には『韋駄天』(一九八七年)『笑う海』(一九九四年)があり、『木原実全詩集』(一九八六年)もある。他に評伝集、エッセイ集、紀行文、労働者向けの学習テキストなどの著書は多岐にわたる。活動家、政治家としては、『社会主義』『月刊社会党』などへの執筆も多い。私は、『笑う海』以降、木原作品は『芸術と自由』『掌』誌上で読んでいるが、自在さと率直さに加えて、何よりも衰えることのない時代への鋭い考察に啓発されることが多い。長年の活動における資料類は、法政大学大原社会問題研究所に「木原実文書」として所蔵されたという。経歴にこだわり過ぎたかもしれないが、私にとって、短歌と生涯の軌跡との整合性は、その歌人の評価にも関わるからである。短歌一首としての力やしなやかさも大切であるが、作者における、その成り立ち、位置づけによりさらに輝きを増すような、そんな作品にあこがれる。木原における天皇制への一貫したスタンスは貴重ともいえる。最新作に「開戦に熱狂 敗戦に従順 なるほど天皇制はかすり傷」(『掌』九八号 二〇〇九年一月)があり、木原にも「おのれをごま化すのが歌の道ならいつまでも歌を作っていたい」(『芸術と自由』二四二号 二〇〇五年)という一首があり、清水の自嘲と自信に通ずるものがある。
  島田修三は、一九五〇年生まれ。作品、評論において精力的な活動を展開している。最近は大学の管理職にも就いたらしい。歌人としての評価も定まる年齢で、自虐的ながら、反権力、反権威のスタンスは崩していない。最近、メディアへの露出度が高いが、その志を守りきれるかどうか、正念場かもしれない。二〇〇七年刊行の『東洋の秋』には「『女性セブン』待合室に読みゐしが飯島愛かなし皇后はまして」「九重に繁れる森より逃げたきと逃がしたくなきとが薄く笑まふも」などが散見でき、皇室や宮内庁にも遠慮がなく、その直截さが掲出作品とも共通する。「何かコトが起くる即ちいろめきて囀る短歌やなんたる矇さ」「軍閥を知らざりしなどウソを歌ひ茂吉の戦後の悲しみ昏かる」(『離騒放吟集』一九九三年)など短歌や歌人への視線も厳しく、短歌に関わり続けているみずからの「矇さ」や「昏さ」に自戒の念を垣間見せる。 私は、これからも、その歌人の「権力や権威、マス・メデイアとの距離の取り方」に着目したい。たとえば、天皇制への親密性を尺度にすると、思いがけずアポリアを照らし、解明の糸口を示してくれることもあるからだ。
・雨来たる敗戦の日にして野に立てば五輪の金も国歌も要らず
(内野光子、合同歌集『青葉の森へ』より)


■野を走るひと―『笑う海』(木原実)によせて■
(内野光子『現代短歌と天皇制』所収)

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2010年1月19日 (火)

『坂の上の雲』を見ました(2)幾つかの疑問~小説とドラマと

放送の冒頭には、松山の城や野原を駆けめぐる明治の少年たちの映像を背景に、「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」という渡辺謙の重々しいナレーションが入り、画面にも印字された。さらに、その語りは続く。

「四国は伊予の松山に、三人の男がいた。この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるにあたって勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦をたて、それを実施した。その兄秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵と言われたコサック師団をやぶるという奇跡を遂げた」

と、このドラマの主人公二人の軍人兄弟を紹介し、さらに続ける。

「もう一人の正岡子規は、俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れてその中興の祖となった俳人である」

第一部は、明治の開化期から日清戦争を経て、日露戦争前夜まで、秋山兄弟の軍人としての足跡と子規の結核と詩歌との闘いの軌跡が同時進行の形で展開されていた。その舞台は、子規の東京・松山であり、二人の軍人の「出世」にともない、旅順、満州、朝鮮、フランス、ロシア、アメリカ、イギリスと広がる。三人が立ち会う戦争と出遭う事件や人々とのエピソードが織りなす物語でもあった。

全体的に、主人公たち(秋山好古:阿部寛、秋山真之:本木雅弘、正岡子規:香川照之)は、通常ならば、いわば主演クラスのタレントが「贅沢に」に起用されて演ずる著名な歴史的人物とやたら遭遇し、思わせぶりに天下国家を語るのだから、演ずるキャストもスタッフもさぞかしイイ気分なのだろうな、といった印象で、視聴者はやや置き去りの感がするのだった。

ドラマでは、荘重に、ときには明るく、国家、戦争、民族、家族や文芸などが語られる。さらに日本の政治や外交上の重大な事柄などはナレーションでいともあっさり片付けられる。私にとって疑問や気になる点を記しておきたい。いまは、印象批評に傾くが、今後調べた上で再考できればと思っている。たとえば、ドラマ化と原作者の関係、歴史小説と史実の関係、近代史における軍事史―政略・戦略・戦術の強調、天皇の役割、原作とドラマにおける正岡子規の役割、ドラマに登場する女たち~正岡律のクロースアップとその意味など。

1.ドラマ化と原作者の関係

原作者、司馬遼太郎の『坂の上の雲』テレビドラマ化への反対の意思表示は、産経新聞に連載中、NHKの申し出に「やっぱり無理やで」との答えたことに始まる(西村与志木「制作者からのメッセージ」『NHKスペシャルドラマ・ガイド坂の上の雲』168p)。司馬の危惧は、①戦争の映像化は戦争賛美と取られかねない②当時のテレビ技術では小説のスケールを映像化できない、というものであった。司馬の没後も夫人福田みどり氏は、あるインタビューでつぎのように答えていた(tarokanja投稿「Community16200912月号 6p)。

「本人は『坂の上の雲』が軍国主義と間違われることだけは何より嫌だから『映像化だけは絶対断ってくれ。これは遺言だ』といつも言ってました。だから、これだけは守らねばと私は思っているんですけどね」

(『司馬遼太郎―伊予の足跡』アトラス出版社 19995月)

前述のNHK西村プロデューサーによれば、2000年になって、①東西冷戦の対立構造の解消②映像技術の進歩③活字離れといわれる若者を原作の小説に呼び戻したいとの理由で、みどり夫人に対し、テレビドラマ化の説得を開始し、2001年にはドラマ化が具体化した。ここに掲げられた理由の①は、司馬自身は1996年まで存命であったことからも理由にはならないし、②は、技術と言うよりかけるべき時間と予算の問題であり、③に至っては、若者自体がこのドラマを見るかどうかの問題であり、小説の売り上げにストレートに寄与するものか、むしろ、原作・ドラマ化周辺の書物の方が若干売れることになったかもしれない。原作者の固い遺志と著作権継承者の意思の齟齬の問題は依然として残されたままである。(続く)

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「歌会始」への無関心を標榜する歌人たち~その底流を文献に探る(2)

 

つぎつぎと明らかになる旧ソ連や東欧諸国の旧社会主義国体制の暴力性を認めるわけにはいかない。が、高島のいう「収容所列島」と日本の「学生運動」や「新左翼」とが本質を一にするという括り方に驚きもした。

『短詩形文学』(20099月)の匿名短歌時評は、先の今井の「新左翼」への認識を質しつつ、歌会始の政治的機能に踏み込んでいる点を評価し、高島の「皇国史観」による無邪気さと独善を指摘した。

 各国、各地域での「人権や民主主義」の在りようを少しでも知れば、高島のように簡単に割り切れるものではない。また、明治以降の日本を振り返り、天皇の名のもとに人権や命が侵されてきた歴史、象徴天皇制自体の曖昧性と民主主義との矛盾を思えば、「収容所列島」か「象徴天皇制」かの選択肢しかないというのは極論に等しい。

さらに、『短歌研究』「短歌時評」(200910月)の藤島秀憲は、「宮中歌会始の選者について思うのだが、あれは歌人としての仕事なのだ。仕事であるからには喜んで引き受ける場合もあるだろうし、義理で引き受けなくてはならない場合もあるだろう。本音の言えないことが、世の中にはたくさんある。思想の問題だけでは解決できないことが、現実の世界にはたくさんある。選者がだれであろうと、主催者が誰であろうと、二万首以上の中から選ばれた十首はさすがに、いい。短歌に携わる者として、そのことを素直に喜んでいる」と述べる、このナイーブさは何だろう。

日本の他の国家的褒章制度と同じように、関係省庁と特定の限られた「専門家」の推薦で決まってゆく人選の構図が見えているはずなのに、「支えてくれた人たち」、「今後に続く人たち」のために、その「栄誉」を嬉々として受入れる人々、それをいち早く全肯定をしてしまう人々の実態を目の当たりにした思いである。歌会始の沿革や背景へと踏み込もうとしないのは、歴史や社会への無関心さ、あるいはそれを装おう心情に通じはしないか。その風潮は短歌結社や短歌メディアをめぐる歌人たちにも蔓延し、処世の術がなせる技かと、私には手が届かないもどかしさが残る。

 「もう誰も何も言わない」という私が嘆いたのはいささか不正確ではあった。二〇〇八年、『短詩形文学』では「短歌と天皇制」をめぐる発言が続いていたし(橋本三郎「天皇制と短歌」一~四、1月~4月)、同誌匿名短歌時評「歌会始蟹工船」九月)もある。また『開放区』の岡貴子「“歌会始”は短歌の寿命を延ばすか」(八一号、20082月)は、二〇〇七年のお題「月」に寄せられた瑞々しい実感にあふれた皇族や入選者の作品と比べて選者たちの歌の紋切り型を指摘し、さらに「このところ、かつて天皇制アレルギーをもった歌人達が続々と選者などになっている。国家体制の矛盾に抗議の声を上げた人達だ。彼らの本音を聞きたい。が、彼等は彼等なりに、歴史と伝統に対する自覚と責任をもっているのだろう。言葉が氾濫する時代、現代短歌に問題意識を持つからこそ、その任を引き受けたのだろうと、私は信じたい」と記す。

 そして、最近、佐藤通雅「評論月評」(『短歌往来』200911月)、「今年を評論する・時を走る』(『角川短歌年鑑平成二二年版』)では、『ポトナム』一〇〇〇号の拙稿を紹介し、前者では次のように、その「不健全さ」に言及していた。

「『誰もものを言わない』わけではない。そうではあるが、内野が最も正面から論じている。『どんな言い訳をしようと、国家権力に最も近い短歌の場所が歌会始はないか。短歌の文学としての自立は、国家からの自立にほかならない。』こういう真直ぐな論を、見殺しにしていいのだろうか」

なお、『ポトナム』の田鶴雅一「歌壇時評」(200912月)では、高島、吉川の時評を引用しながら次のように結ぶ。

「歌会始の論議については各論各様があろうが、もう左右の極論は必要ないのではと私は思う。岡井、三枝のほか篠弘、河野裕子、永田和宏の選者三氏の天皇観を持ち出すこともなければそれを選考基準にすることもない。それなりの人生経験をつんでおり、歌人界の代表として、遜色のない人達だと思う。その五氏の歌会始参加を云々することと天皇制を論ずることとは別問題だとおもうがいかがであろうか。」

目くじら立てるわけではない。「別問題」なのか否かを冷静に考える必要があろう。

以上、近年の「歌会始」についてのエッセイを通覧してみた。活発とはいえないまでも、「歌会始」への関心は少なからずあることがわかった。温度差はあるものの、「歌会始」への何らかの疑問を呈する評者のいることも知った。

しかし、たとえば、高島裕(一九六七年生)と藤島秀憲(一九六〇年生れ)の両者が「歌会始」へ捧げるオマージュに共通する屈託のない明るさは、各々の歌集を読んだ時の印象とはかなり異なるのも、私が戸惑う理由の一つだった。その底流にあるのは、「歌会始」が日本古来の伝統文化の一画をなすものであることを前提にしている点である。高島は「短歌詩型は、その歴史的本質において、皇室の伝統と不可分の関係である」として、その主たる担い手が皇室であることを重視し、藤島は「選者が誰であろうと、主宰者がどこであろうと」「大相撲や歌舞伎を見るのと同じ感覚で様式美を楽しんでいる」と深く考えようとしない。

ここでは、担い手こそが問題であることが看過されようとしている。純粋に天皇家で守られようとしている「歌会始」であったなら、それもよかろうと、ひとまず私も考える。冷泉家が和歌を守り続けてきて、現在の在りようを評価するならば、それを文化財として守ることも意義があろう。しかし、「短歌詩型」を守ってきたのは皇室ばかりではない。第一、皇室・天皇の時代における位置づけが推移するなかで、とくに近代、明治以降に限ってすら、天皇という制度は大きく変貌した。「短歌」自体も大きく変わってゆくなかで、何が本質で、何を守ろうというのだろうか。ともかく、短歌や歌壇の今の在りようを全面肯定しようという思考停止のモデルケースのような気がする。文芸が国家とつながる危うさにもう一度立ち返る必要があるのではないか。

二〇一〇年の歌会始も一月一四日に行われた。二万三三四六首の応募があった。この数字は、過去五年間二万一千から四千首の間を推移している。一九九三年来選者を務める岡井隆に加えて、永田和宏、篠弘、三枝昂之、河野裕子が選者となり、若返りをはかった時期でもあるが、昭和時代には戻るはずもない。かつていわば体制批判の作品をものしていた選者の二首のナリシストぶり見ておこう。

・光あればかならず影の寄りそふを肯ひながら老いゆくわれは(岡井隆)

・あたらしき一歩をわれに促して山河は春へ光をふくむ(三枝昂之)

一方、東洋大学が一九八七年から主催する「現代学生百人一首」には、毎年、小学校から大学生まで六万首前後の応募があり、指導者の研修会なども行っているという。青少年の短歌離れが進むなか、短歌の普及という試みの一つとして、果たす役割は大きい。大学の宣伝も兼ねるイベントながら、国から自立した工夫が実った例だろうか。(完)

補記(2010年1月22日):

読者の方から、阿木津英「二十一世紀的歌壇・今年の回顧」(『短歌新聞』2009年12月10日)をご教示いただいた。見落としていた。阿木津は、歌人たちが、今、明治以来かつてないほどに「支配体制の全体」へ組み込まれている危機を指摘し、その現象の一つとして次のように述べる件があった。多くの「歌人」「短歌ジャーナリズム」は真摯に受け止めるべき言葉ではないか。

「<日本>のアイデンティティを守護する場としての宮中に、歌人が<歌壇>の権威を背負って出入りするというばかりでなく、出入りすることによって権威を得るようになった。」

                                                                        

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2010年1月12日 (火)

『坂の上の雲』を見ました(1)放送にいたる背景

NHK(総合)テレビの「坂の上の雲」(司馬遼太郎原作)の第一部15回が終了した。第二部4回分の放映は今年12月だそうで、再来年12月の第三部をもって完結するという。原作は1968年から1972年にかけて産経新聞に連載されていたというが、その「評判」を聞くようになったのは、管理職を自認するような世代のサラリーマンが通勤電車で文庫本を熱心に読んでいるのを見かけるようになった頃だろうか。リーダー成りきりの司馬ファンが、周辺にも見受けられた。

映像化は軍国主義に傾きやすいと、決して了承しなかった原作者だったが、1996年の他界以降、NHKは遺族とのドラマ化交渉を続け、ようやく取り付け、その構想を発表したのが2003年。脚本を手掛けていた野沢尚の自殺が報じられたのは覚えているが、調べてみると20046月だった。彼はテレビや映画のシナリオライターとして数々の賞もとり、ヒットメーカーの一人だったはずである(野沢尚公式サイト参照)。野沢の作品は男女の愛憎が絡むドラマやミステリーが多かったようでもあり、私自身ほとんどテレビドラマを見ていなかった時代ながら、司馬の歴史小説とはミスマッチのような気もしていた。野沢はどこまでの脚本を書いていたのか。海老沢会長時代からNHKの「不祥事」がつぎつぎ発覚し、すぐに撮影に入るところまでは進捗しなかったが、2007年から撮影が始まり、2009年に入って、とくに、その後半の番組宣伝は異常なほどで、あの番宣のすさまじさに本番を見たくなくなったという友人もいるくらいだ。

NHKが総力をあげて、豪華なキャスト、スタッフを投入し、度重なる海外ロケ、技術を駆使した映像処理など、民放では考えられないお金の使いようは、今回の放映でよくわかった。財源はおおかた受信料にもかかわらずである。

また、国内ロケは、明治の面影の残る各地をめぐっている様子が地図入りで解説され、大がかりな「ご当地ドラマ」の様相を呈し(『NHKスペシャルドラマ・ガイド坂の上の雲』2009年12月 )、これで視聴率を稼ぎたいのかもしれない。わが町の『こうほう佐倉』(20091215日号)でも「平成21年の出来事」として「928日NHK坂の上の雲、旧堀田邸で収録、第二部7回に登場する」と写真入りで伝えられているではないか。(続き)

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2010年1月 1日 (金)

「歌会始」への無関心を標榜する歌人たち~その底流を文献に探る(1)

新年のご挨拶申し上げます。

アクセスいただきありがとうございます。   

テーマは、雑多で、更新も不定期ながら、自らの疑問を少しでも追って行きたいと思います。解りやすい、読みやすいを目指したいと思います。

今年もどうぞよろしくお願いします。

2010年1月1日

お正月だからというわけではありませんが、短歌にかかわる者にとって「歌会始」と

は何かを考えておこうと思います。

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「歌会始」への無関心を標榜する歌人たち~その底流を文献に探る(1)         

 

 昨2009年1月17日、私自身のブログに、「もう誰も何も言わない―今年の歌会始」と題して、近年の歌会始選者の就任への軌跡をたどり、そこに見られる歌会始と政治との関係に触れた。岡井隆が歌会始の選者に内定した一九九二年夏以降しばらくの間の歌壇の反響と篠弘、永田和宏、三枝昂之、河野裕子の就任時の無反応に等しい状況とを比べ、後者において大方の歌人が無関心を装い、口をつぐんでいる現況を指摘した。その中で、風間祥のブログ「銀河最終便」(2008年7月23日)の記事「<短歌という文学でないものがあり夫妻でつとめる歌会始>(中略)来年歌会始には、短歌結社『塔』の主宰夫婦が揃って歌会始選者をつとめるそうだ。大分県の教育委員会も驚くような人事である(後略)」を紹介した。その後、今井正和による「短歌時評・歌会始と歌人―権力と文学」(『開耶』一八号 2009年4月)におけるつぎのような発言が注目された。今井は、三枝の歌会始選者就任について、「三枝昂之の名前にはサプライスを通りこして、呆然とした。三枝といえば『やさしき志士達の世界へ』で、新左翼の心情を詠いあげて登場した歌人だったからである。(中略)それだけに歌会始の選者となったことは歌壇への衝撃の大きさを想う」とし、個人的にも三枝の歌集を愛読していたので「裏切られた悔しさを覚える。なぜ、私がそのことにこだわるかと言えば、天皇と国家と統治される権力の側だからである」とも記した。

私も『ポトナム』一〇〇〇号(2009年8月)に「戦後六四年、<歌会始>の現実」を寄せた。過去のブログ記事に加筆、二〇〇九年三月脱稿したものだが、その後『短歌新聞』(四月号)の時評において、佐藤通雅が、三枝の選者就任について発言のない歌壇の「不健全」さを質しているのを見出した。

 そこへ高島裕「歌壇時評・歌会始をめぐって」(『短歌』2009年8月)が登場し、今井を評して「歌会始の選者、なかでも三枝や岡井隆のように左翼的なスタンスで作歌していた(と思われている)歌人に対して批判を持つ人々の、最大公約数的な見解といえるだろう。(中略)<新左翼><学生運動>が依拠していた理念は、旧社会主義諸国に見るような、恐怖によって人民を支配する収容所国家を生み出した観念と、本質的に同じものである。<個人の人権や民主主義>を守るには、そのような理念が生み出すものよりも、天皇を象徴的統合軸とする現在の日本の統治システムの方が、はるかにすぐれていることは、明白である。年に一度、象徴的君主と国民とが、詩歌を通じて繋がりあうということは、まことにありがたく、めでたく、うるわしいことと思う。また、私たちのよく知る代表的現代歌人が、選者としてそこに参与することも、よろこばしいことと思う。(後略)」と述べたのである。

今度は、インターネット上で、この高島の時評について、広坂早苗が違和感を覚えたとして、その問題点を丁寧に指摘した(「歌会始は文学の場か」『青磁社ホームページ・週刊時評』2009年8月10日)。歌会始では「君が代」や「天皇制」批判を歌うことが考えられないという「制限された場の中で、許される範囲のことを、許される程度の穏健さで、自己規制して歌うことが求められる。そのような短歌が、文学と言えるだろうか。美しい工芸品に過ぎないのではないか」と疑問を呈した。さらに、広坂は、高島の持ち出した「美の幻想共同体としての<日本>」という考え方が、思考停止を招き、かつてのように戦争へとなだれ込んでいく危険性を指摘した。吉川宏志も『短歌新聞』(九月号)で「歌会始を<踏み絵>のようにして、歌人を断罪する批判のしかたに、私は与しない」としながら、高島の「象徴天皇制の方がすぐれているのは明白である」とする単純化と観念の強制の危険性を指摘する。(続く)(『ポトナム』2010年1月号所収)

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