「歌会始」への無関心を標榜する歌人たち~その底流を文献に探る(1)
新年のご挨拶申し上げます。
アクセスいただきありがとうございます。
テーマは、雑多で、更新も不定期ながら、自らの疑問を少しでも追って行きたいと思います。解りやすい、読みやすいを目指したいと思います。
今年もどうぞよろしくお願いします。
2010年1月1日
お正月だからというわけではありませんが、短歌にかかわる者にとって「歌会始」と
は何かを考えておこうと思います。
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「歌会始」への無関心を標榜する歌人たち~その底流を文献に探る(1)
昨2009年1月17日、私自身のブログに、「もう誰も何も言わない―今年の歌会始」と題して、近年の歌会始選者の就任への軌跡をたどり、そこに見られる歌会始と政治との関係に触れた。岡井隆が歌会始の選者に内定した一九九二年夏以降しばらくの間の歌壇の反響と篠弘、永田和宏、三枝昂之、河野裕子の就任時の無反応に等しい状況とを比べ、後者において大方の歌人が無関心を装い、口をつぐんでいる現況を指摘した。その中で、風間祥のブログ「銀河最終便」(2008年7月23日)の記事「<短歌という文学でないものがあり夫妻でつとめる歌会始>(中略)来年の歌会始には、短歌結社『塔』の主宰夫婦が揃って歌会始選者をつとめるそうだ。大分県の教育委員会も驚くような人事である(後略)」を紹介した。その後、今井正和による「短歌時評・歌会始と歌人―権力と文学」(『開耶』一八号 2009年4月)におけるつぎのような発言が注目された。今井は、三枝の歌会始選者就任について、「三枝昂之の名前にはサプライスを通りこして、呆然とした。三枝といえば『やさしき志士達の世界へ』で、新左翼の心情を詠いあげて登場した歌人だったからである。(中略)それだけに歌会始の選者となったことは歌壇への衝撃の大きさを想う」とし、個人的にも三枝の歌集を愛読していたので「裏切られた悔しさを覚える。なぜ、私がそのことにこだわるかと言えば、天皇と国家と統治される権力の側だからである」とも記した。
私も『ポトナム』一〇〇〇号(2009年8月)に「戦後六四年、<歌会始>の現実」を寄せた。過去のブログ記事に加筆、二〇〇九年三月脱稿したものだが、その後『短歌新聞』(四月号)の時評において、佐藤通雅が、三枝の選者就任について発言のない歌壇の「不健全」さを質しているのを見出した。
そこへ高島裕「歌壇時評・歌会始をめぐって」(『短歌』2009年8月)が登場し、今井を評して「歌会始の選者、なかでも三枝や岡井隆のように左翼的なスタンスで作歌していた(と思われている)歌人に対して批判を持つ人々の、最大公約数的な見解といえるだろう。(中略)<新左翼><学生運動>が依拠していた理念は、旧社会主義諸国に見るような、恐怖によって人民を支配する収容所国家を生み出した観念と、本質的に同じものである。<個人の人権や民主主義>を守るには、そのような理念が生み出すものよりも、天皇を象徴的統合軸とする現在の日本の統治システムの方が、はるかにすぐれていることは、明白である。年に一度、象徴的君主と国民とが、詩歌を通じて繋がりあうということは、まことにありがたく、めでたく、うるわしいことと思う。また、私たちのよく知る代表的現代歌人が、選者としてそこに参与することも、よろこばしいことと思う。(後略)」と述べたのである。
今度は、インターネット上で、この高島の時評について、広坂早苗が違和感を覚えたとして、その問題点を丁寧に指摘した(「歌会始は文学の場か」『青磁社ホームページ・週刊時評』2009年8月10日)。歌会始では「君が代」や「天皇制」批判を歌うことが考えられないという「制限された場の中で、許される範囲のことを、許される程度の穏健さで、自己規制して歌うことが求められる。そのような短歌が、文学と言えるだろうか。美しい工芸品に過ぎないのではないか」と疑問を呈した。さらに、広坂は、高島の持ち出した「美の幻想共同体としての<日本>」という考え方が、思考停止を招き、かつてのように戦争へとなだれ込んでいく危険性を指摘した。吉川宏志も『短歌新聞』(九月号)で「歌会始を<踏み絵>のようにして、歌人を断罪する批判のしかたに、私は与しない」としながら、高島の「象徴天皇制の方がすぐれているのは明白である」とする単純化と観念の強制の危険性を指摘する。(続く)(『ポトナム』2010年1月号所収)
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