『坂の上の雲』を見ました(3)幾つかの疑問~小説とドラマと~日清戦争の原因をめぐって
2.歴史小説と史実の関係
今回のNHKのドラマ化は、司馬の歴史小説を原作とするもので、フィクションなのだから、歴史に忠実かどうかあまり目くじら立てることもない、という人も多い。しかし、原作者自身が、この小説についてつぎのように語っていることは見逃せない。
①「この作品は、小説であるかどうか、じつに疑わしい。ひとつは事実に拘束されることが百パーセント近いからであり、いまひとつは、この作品の書き手―私のことだ―はどうにも小説にならない主題をえらんでしまっている。」(「あとがき四」『坂の上の雲』(単行本第4巻1971年、文庫本第8巻収録 文芸春秋)
②「『坂の上の雲』という作品は、ぼう大な事実関係の累積のなかで書かねばならないため、ずいぶん疲れた。本来からいえば、事実というのは、作家にとってその真実に到達ための刺激剤であるにすぎないのであるが、しかし『坂の上の雲』にかぎってはそうではなく、事実関係に誤りがあってはどうにもならず、それだけに、ときに泥沼に足を取られてしまったような苦しみを覚えた。」(「首山堡と落合」『司馬遼太郎全集28巻月報』1973年、文庫本第8巻収録 文芸春秋)
文献・資料探索や新資料発見の苦労を自慢話のように記す著作や論文もうんざりだが、上記の司馬の述懐はどう読むべきか。官修の戦史がアテにならないことは何度か述べている司馬なので、典拠や参考文献の記載こそしないが、『坂の上の雲』は「事実」に即して書いたことを公言していることになる。とすれば、読者の多くはその記述を大方事実として読み進めるであろう。その記述に、その当時すでに史料的な裏付けをもって証明できる大きな間違いがあるとしたら・・・。そして、その後の研究で明らかになったことがあるとしたら・・・。
3.日清戦争~小説・ドラマの検証
日本近代史の専門家たちは、たとえば、日清戦争についてのつぎのような小説での記述①②③を指摘した上で、これらを質している(中塚明『司馬遼太郎の歴史観』高文研 2009年8月。中村政則『<坂の上の雲>と司馬史観』岩波書店2009年11月)。さらに、ドラマの第1部での該当部分とを検証してみよう。ドラマにおいては、日清開戦の理由が明確に語られる場面というのは、どの辺だったろうか。
小説
①そろそろ、戦争の原因にふれねばならない。原因は朝鮮にある。といっても、韓国や韓国人に罪があるのではなく、罪があるとすれば、朝鮮半島という地理的存在にある。(第2巻48p)
②この戦争は清国や朝鮮を領有しようとしておこしたものではなく、多分に受け身であった。(第2巻49p)
③韓国自身、どうにもならない。李王朝はすでに五百年もつづいており、その秩序は老化しきっているため、韓国自身の意思と力で自らの運命をきりひらく能力は皆無といってよかった。(第2巻50p)
④参謀本部の活動はときに政治の埒外に出ることもありうると考えており、ありうるどことか、現実ではむしろつねにはみ出し、前へ前へと出て国家をひきずろうとしていた。この明治二十年代の川上(操六)の考えかたは、その後太平洋終了までの国家と陸軍参謀本部の関係を性格づけてしまったといっていい。――日清戦争はやむにやまれぬ防衛戦争ではなく、あきらかに侵略戦争であり、日本においては早くから準備されていた。と後世いわれたが、この痛烈な後世の批評をときの首相である伊藤博文がきけばびっくり仰天するであろう。伊藤はそういう考えかたはまったくなかった。が、参謀次長川上操六にあっては、あきらかに後世の批判どおりであるといっていい。(第2巻54~55p)
⑤川上は外相陸奥宗光と内々で十分なうちあわせをとげていた。短期に大勝をおさめるしごとは川上が担当し、しおをみてさっさと講和へともってゆくしごとは陸奥が担当する。この戦争は、このふたりがやったといっていいだろう。(第2巻61~62p)
⑥韓国に対する大鳥(圭介)の要求はただふたつである。「清国への従属関係を断つこと。さらには日本軍の力によって清国軍を駆逐してもらいたいという要請を日本に出すこと」であった。(第2巻62~63p)
⑦(英国汽船)高陞号の船内は騒然としており清国兵は船長以下をおどし、下船させなかった。東郷はこの間の交渉に二時間半もかけたあげく、マストに危険をしらせる赤旗をかかげ、そのあと、撃沈の命令をくだした。浪速は水雷を発射し、ついで砲撃した。高陞号はしずんだ。船長以下船員はことごとく救助されたが、清国兵はほとんど溺死した。(第2巻65p)
ドラマ
①明治27年春、朝鮮半島に大規模な農民の反乱が起きた。東学党の乱である。朝鮮政府が清国にたいして救援を要請した明治27年6月1日の翌日、日本の閣議で出兵が決定したのを受けて、出兵自体に慎重な伊藤博文首相(加藤剛)に陸奥宗光外務大臣(大杉漣)、参謀次長川上操六(国村準)とが大量の出兵を決意させる場面。その説得に憲法上の天皇の統帥権を持ち出して、出兵・作戦の権限は首相に権限はなく、運用は参謀本部にあるとする。そこでのナレーションの主旨は次のようであった。
「当時、陸軍の至宝といわれた陸軍参謀次長川上操六。いっぽう、カミソリといわれた外務大臣陸奥宗光。この戦争は、このふたりが始めたといっていいだろう。」(第3回「国家鳴動」)
②明治27年7月25日、東郷平八郎大佐(渡哲也)が艦長の「浪速」が、清国の兵と武器を積んだ英国汽船「高陞号」と遭遇、投錨を告げるが満載の清国兵たちが抵抗したので撃沈。清国への宣戦布告は8月1日であったが、ここでは、東郷の手続きと判断が国際法に照らして合法であることが強調されていた。(第4回「日清開戦」)
以上は、原作における日清戦争の開戦理由の記述と思われる個所、小説①~⑦であり、ドラマにおいては判定しにくいが、該当すると思われる場面①②である。原作における日清開戦への総論的な記述は①②③④であり、各論的と思われる⑤⑥⑦は、局面における日本のとった行動に対する司馬の評価がうかがえる。
専門家ではない私でも、司馬の原作における断定的口調の極論には「?」も多く、にわかに信じがたい。日清戦争といえば、明治27年(1894年)8月1日の宣戦布告から翌1895(明治27年)4月17日の下関条約調印まで指すが、布告以前の高陞号の撃墜からすでに始っていたといえる。しかし、その2日前の7月23日には、日本軍が朝鮮ソウルの王宮を占拠し、国王を捕え、清国軍攻撃を日本に公式要請させて、開戦の口実としたことは、近年の上記中塚の研究などにより検証されている。公的な戦史では、日本軍は、王宮における突発的な日朝の兵の衝突から国王を保護して「お慰め」した、ことになっているが、これにさえ、司馬はまったく触れていないし、ドラマでもいっさい触れてはいない。小説①の朝鮮の地理的条件や③の侮蔑的ともいえる朝鮮無能力論は、全編を貫く司馬の朝鮮観であるが、ドラマの会話やナレーションでは、さすがに差別的な表現は避けられていた。また、ドラマで強調されたのが、日清開戦で果たした陸奥と川上の役割だった。小説④⑤にも見られるが、ドラマでは、もっと端的に、この二人がはかって伊藤博文をだますような形で大量派兵へと踏み込んだように描かれていた。そこには小説よりさらに策略家としての二人に焦点をあてた運びとなっている。しかし、日清戦争自体が侵略主義的な戦争であったという、定着しつつある論(中村177~8p)からは、ますますかけ離れた展開をするのだった。(続く)
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