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2010年1月19日 (火)

「歌会始」への無関心を標榜する歌人たち~その底流を文献に探る(2)

 

つぎつぎと明らかになる旧ソ連や東欧諸国の旧社会主義国体制の暴力性を認めるわけにはいかない。が、高島のいう「収容所列島」と日本の「学生運動」や「新左翼」とが本質を一にするという括り方に驚きもした。

『短詩形文学』(20099月)の匿名短歌時評は、先の今井の「新左翼」への認識を質しつつ、歌会始の政治的機能に踏み込んでいる点を評価し、高島の「皇国史観」による無邪気さと独善を指摘した。

 各国、各地域での「人権や民主主義」の在りようを少しでも知れば、高島のように簡単に割り切れるものではない。また、明治以降の日本を振り返り、天皇の名のもとに人権や命が侵されてきた歴史、象徴天皇制自体の曖昧性と民主主義との矛盾を思えば、「収容所列島」か「象徴天皇制」かの選択肢しかないというのは極論に等しい。

さらに、『短歌研究』「短歌時評」(200910月)の藤島秀憲は、「宮中歌会始の選者について思うのだが、あれは歌人としての仕事なのだ。仕事であるからには喜んで引き受ける場合もあるだろうし、義理で引き受けなくてはならない場合もあるだろう。本音の言えないことが、世の中にはたくさんある。思想の問題だけでは解決できないことが、現実の世界にはたくさんある。選者がだれであろうと、主催者が誰であろうと、二万首以上の中から選ばれた十首はさすがに、いい。短歌に携わる者として、そのことを素直に喜んでいる」と述べる、このナイーブさは何だろう。

日本の他の国家的褒章制度と同じように、関係省庁と特定の限られた「専門家」の推薦で決まってゆく人選の構図が見えているはずなのに、「支えてくれた人たち」、「今後に続く人たち」のために、その「栄誉」を嬉々として受入れる人々、それをいち早く全肯定をしてしまう人々の実態を目の当たりにした思いである。歌会始の沿革や背景へと踏み込もうとしないのは、歴史や社会への無関心さ、あるいはそれを装おう心情に通じはしないか。その風潮は短歌結社や短歌メディアをめぐる歌人たちにも蔓延し、処世の術がなせる技かと、私には手が届かないもどかしさが残る。

 「もう誰も何も言わない」という私が嘆いたのはいささか不正確ではあった。二〇〇八年、『短詩形文学』では「短歌と天皇制」をめぐる発言が続いていたし(橋本三郎「天皇制と短歌」一~四、1月~4月)、同誌匿名短歌時評「歌会始蟹工船」九月)もある。また『開放区』の岡貴子「“歌会始”は短歌の寿命を延ばすか」(八一号、20082月)は、二〇〇七年のお題「月」に寄せられた瑞々しい実感にあふれた皇族や入選者の作品と比べて選者たちの歌の紋切り型を指摘し、さらに「このところ、かつて天皇制アレルギーをもった歌人達が続々と選者などになっている。国家体制の矛盾に抗議の声を上げた人達だ。彼らの本音を聞きたい。が、彼等は彼等なりに、歴史と伝統に対する自覚と責任をもっているのだろう。言葉が氾濫する時代、現代短歌に問題意識を持つからこそ、その任を引き受けたのだろうと、私は信じたい」と記す。

 そして、最近、佐藤通雅「評論月評」(『短歌往来』200911月)、「今年を評論する・時を走る』(『角川短歌年鑑平成二二年版』)では、『ポトナム』一〇〇〇号の拙稿を紹介し、前者では次のように、その「不健全さ」に言及していた。

「『誰もものを言わない』わけではない。そうではあるが、内野が最も正面から論じている。『どんな言い訳をしようと、国家権力に最も近い短歌の場所が歌会始はないか。短歌の文学としての自立は、国家からの自立にほかならない。』こういう真直ぐな論を、見殺しにしていいのだろうか」

なお、『ポトナム』の田鶴雅一「歌壇時評」(200912月)では、高島、吉川の時評を引用しながら次のように結ぶ。

「歌会始の論議については各論各様があろうが、もう左右の極論は必要ないのではと私は思う。岡井、三枝のほか篠弘、河野裕子、永田和宏の選者三氏の天皇観を持ち出すこともなければそれを選考基準にすることもない。それなりの人生経験をつんでおり、歌人界の代表として、遜色のない人達だと思う。その五氏の歌会始参加を云々することと天皇制を論ずることとは別問題だとおもうがいかがであろうか。」

目くじら立てるわけではない。「別問題」なのか否かを冷静に考える必要があろう。

以上、近年の「歌会始」についてのエッセイを通覧してみた。活発とはいえないまでも、「歌会始」への関心は少なからずあることがわかった。温度差はあるものの、「歌会始」への何らかの疑問を呈する評者のいることも知った。

しかし、たとえば、高島裕(一九六七年生)と藤島秀憲(一九六〇年生れ)の両者が「歌会始」へ捧げるオマージュに共通する屈託のない明るさは、各々の歌集を読んだ時の印象とはかなり異なるのも、私が戸惑う理由の一つだった。その底流にあるのは、「歌会始」が日本古来の伝統文化の一画をなすものであることを前提にしている点である。高島は「短歌詩型は、その歴史的本質において、皇室の伝統と不可分の関係である」として、その主たる担い手が皇室であることを重視し、藤島は「選者が誰であろうと、主宰者がどこであろうと」「大相撲や歌舞伎を見るのと同じ感覚で様式美を楽しんでいる」と深く考えようとしない。

ここでは、担い手こそが問題であることが看過されようとしている。純粋に天皇家で守られようとしている「歌会始」であったなら、それもよかろうと、ひとまず私も考える。冷泉家が和歌を守り続けてきて、現在の在りようを評価するならば、それを文化財として守ることも意義があろう。しかし、「短歌詩型」を守ってきたのは皇室ばかりではない。第一、皇室・天皇の時代における位置づけが推移するなかで、とくに近代、明治以降に限ってすら、天皇という制度は大きく変貌した。「短歌」自体も大きく変わってゆくなかで、何が本質で、何を守ろうというのだろうか。ともかく、短歌や歌壇の今の在りようを全面肯定しようという思考停止のモデルケースのような気がする。文芸が国家とつながる危うさにもう一度立ち返る必要があるのではないか。

二〇一〇年の歌会始も一月一四日に行われた。二万三三四六首の応募があった。この数字は、過去五年間二万一千から四千首の間を推移している。一九九三年来選者を務める岡井隆に加えて、永田和宏、篠弘、三枝昂之、河野裕子が選者となり、若返りをはかった時期でもあるが、昭和時代には戻るはずもない。かつていわば体制批判の作品をものしていた選者の二首のナリシストぶり見ておこう。

・光あればかならず影の寄りそふを肯ひながら老いゆくわれは(岡井隆)

・あたらしき一歩をわれに促して山河は春へ光をふくむ(三枝昂之)

一方、東洋大学が一九八七年から主催する「現代学生百人一首」には、毎年、小学校から大学生まで六万首前後の応募があり、指導者の研修会なども行っているという。青少年の短歌離れが進むなか、短歌の普及という試みの一つとして、果たす役割は大きい。大学の宣伝も兼ねるイベントながら、国から自立した工夫が実った例だろうか。(完)

補記(2010年1月22日):

読者の方から、阿木津英「二十一世紀的歌壇・今年の回顧」(『短歌新聞』2009年12月10日)をご教示いただいた。見落としていた。阿木津は、歌人たちが、今、明治以来かつてないほどに「支配体制の全体」へ組み込まれている危機を指摘し、その現象の一つとして次のように述べる件があった。多くの「歌人」「短歌ジャーナリズム」は真摯に受け止めるべき言葉ではないか。

「<日本>のアイデンティティを守護する場としての宮中に、歌人が<歌壇>の権威を背負って出入りするというばかりでなく、出入りすることによって権威を得るようになった。」

                                                                        

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