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2010年1月26日 (火)

石原都政を考える~これからどうすればいいのか

「石原都政への対抗軸―新しい東京 福祉・環境都市を目指して」(新東京政策研究会主催 2010124日午後130分~ 明治大学11号館)というシンポジウムに出かけた。連れ合いが報告をするので、都民ではないながら、神奈川県に住む娘を誘い、昼食でも一緒にしてからということになった。この日は、明大校舎が英検会場になっているらしく、昼休みでもあり、大通りはかなりのにぎわいだった。リバティタワー付近は立派だが、とちのき通りに入ったところの11号館は、いかにも古い。娘は「場違いな気がする」と年輩男性の多い階段教室を見回す。主催である研究会は2008年に発足、その成果の一部を昨年末『世界』12月号での特集「東京都政も転換を!―<石原時代>の終焉」などに発表している。この日のプログラムの第1部の報告は特集の中にもあった。

<プログラム>

1部「新東京政策研究会からの報告」

共同提言「チェンジ・ザ・イシハラ」  進藤兵
  新銀行東京に清算以外の道はない    醍醐聰
  オリンピックと地域スポーツの架橋   尾崎正峰
2 パネルディスカッション「都政転換への視座」
  東京都の医療・福祉政策の課題     森山治
  東京の都市像とまちづくり       福川裕一
  地域・自治体住宅政策2010      中島明子

地球温暖化防止と東京の環境政策       寺西俊一

3 「都政への対抗と改革の展望」      渡辺治

 私は第2部の質疑前、415分に退席したので、あとは聞いていない。

「新銀行東京」については、『世界』以降の新たな資料も加わり、幾つかのグラフを使っての報告では、中小企業支援という大義名分とは裏腹な経営しかやってこなかったのが分かった。

また、オリンピック東京招致は、コンパクトと環境配慮をうたいながらも、たなざらしの臨海副都心再開発と環状道路建設を全うするための方便にすぎず、スポーツ振興とは無縁だったという。そのためにどれだけの無駄遣いがあったのかも検証してほしかった。

都の医療政策、病院政策の沿革と石原知事と密接な徳田虎雄の徳州会方式と共通するところが多いとする報告は興味深かった。

東京都の都市計画とまちづくりについての話は、パワーポイントで興味深い年表や資料が映し出されるが、すぐに消えてしまい、残念だった。都市計画のビジョンと現実とのかい離が実例で示されたが、やや散漫となったきらいがあった。私の住む県や町でいささか関わってきた問題だけに、もっとも関心があるテーマだった。都市計画行政で、いつも考えさせられるのは、いわゆる都市計画の専門家や研究者の多くが、自治体のプロジェクトに参加したり、審議会委員になったりしながら、もっぱら行政やディベロッパー支援に傾き、住民参加はお題目に終わることが多いことだった。計画「先にありき」で、結果へのフォローがなく、地域の生活が置き去りにされることを何回となく経験させられたからである。わが町での区画整理事業、地区計画策定、マンション建設、道路・交通行政、大型店進出などなど・・・、その結果、自然は壊され、地元に商店が定着せず、高齢化が進み、住環境は日に日に損なわれているからだ。これを食い止めるには住民の覚悟と体力がことのほか要求されるのが実情である。力を貸してくれる専門家はいないのか、の思いが募る。

東京の住宅・居住事情の過酷さと対策の貧困さも差し迫っていることがよくわかった。また、温暖化防止対策を巡る国際動向、猶予を許さない日本の選択、CO2直接排出数値の管理の重大性などが分かったが、具体的にはどんな道筋が考えられるのだろう。

会場では、思いがけず大津留公彦さんと初めてお目にかかり、一昨年のNHK7時ニュース事件?では、紹介・リンク等でお世話になったお礼を申し上げることができた。「今もツイッターで書き込んでいるんです」とのことだったが、あのいま流行の140字のツイッター、私には短すぎてちょっと苦手だし、正直分からないんです、と伝えたのだった。

時間切れで、4時過ぎ会場を後にした。往きとは違った道をと、とちのき通りを猿楽町方面に向かい、文化学院やアテネフランセのたたずまいに一人思いにひたっていて思わず、男坂を通り過ぎてしまい、はや暮れかけた女坂、急階段をくだることになった。階段の両側にはマンションの壁が迫り、2か所ほどの踊り場がそれぞれ出入り口になっていた。

仕事柄、環境問題には関心がある娘だが、築地市場移転問の話は出なかったね、と、あまり多くを話せないまま神保町駅で別れた。

帰宅後、「坂の上の雲」関係の本を読んでいたら、正岡子規と秋山真之が二人で下宿していたのが神田猿楽町だったらしいことがわかった。

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