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2010年2月24日 (水)

池袋のキンカ堂が自己破産~池袋のデパート今昔と

キンカ堂倒産(221日営業終了)のニュースは、突然のことだったが、いろいろのことを思い起こさせくれた。池袋三越(1957年開店)が閉店したのは、20095月だったのに引き続き、やはりさびしい思いが先に立つ。キンカ堂といえば、池袋東口の西武、三越、西口の東武というデパートのなかにあって、庶民の衣料店として奮闘していた観があった。といっても私は、1970年代の初めに池袋の生家を離れているので、関東地方に総合スーパーを展開しているなんていうことはあまり知らなかった。

池袋東口が、まだ都電の17番・16番のターミナルだったとき、通学に17番を利用していたこともあって、キンカ堂にはときどき立ち寄ったものだ。苦手ながら中学校の家庭科実技の材料選びなどに余念がなかった。刺繍、ブラウス、ワンピース、浴衣などに挑戦したことも思いだす。デパートに比べて安くて、豊富な生地、ここで服の仕立てを頼んだこともある。当時は「イージーオーダー」といって、生地とある程度のデザインが選べるようになっていたし、デパートでも力を入れているようだった。私の就職・卒業用スーツは、たしか丸物デパートのイージーオーダーたった。いまから思えば、ダサイのだが、西武や三越はやや値段が張っていたのではなかったか。その丸物は、1958年頃に開店、1969年には閉店、パルコに変っている。「就活」(当時そんな言葉はなかったが)用の写真は、まだ東横の時代だったか、もう東武になっていたかの美容室とスタジオの世話になった。実家の近くの美容院というのは場所柄、「センセー、ラーメンの出前とっていいかしら」などという女言葉の男たちが出入りする店が多く、閉口していたのだ。

ところで、この何十年、洋服の仕立てというのはしたことがないが、敗戦直後の私の小学校時代は、近くのKさんという洋裁のおばさんに作ってもらうことが多かった。というのは、母は手先が器用でない上に、父と長兄と母とで店をやり繰りしていた時期で忙しかったからだろう。いまでいう、リサイクルだったのだろうか、母の朱色の縮みの襦袢で作ってもらったジャンパースカートで、学芸会に出て「赤ちゃんお耳はかわいいお耳」を踊ったと聞かされた。これは写真に残っているのだが、白のブラウスにチェックの生地で胸あてのあるスカートでドッジボールを抱えたポーズをとっているのもある。そのスカートはたしかKさんに縫いなおしてもらったものである。小学校高学年になって、当時トッパーと呼んでいた上着を新しい生地で縫ってもらって、うれしかったのを覚えている。Kさんは、お菓子屋さんの裏の小さな家に一人住まいをしていて、母とはよく世間話をしていたようだ。母の話によれば、彼女は、NHK(ラジオ)のアナウンサーの奥さんだったが離婚したということであった。お姑さんやご主人だった人ともいろいろあったったらしく「華やかな仕事だけどねえー」というのが母の常だった。そして「芸は身を助ける」ともいってKさんは洋裁の腕が自活の道につながったのだから、「あなたも大きくなったら何か資格を取りなさい」というのが持論だった。 

公務員勤めの独り暮らしの時代、職場に出入りする生地屋さんがいて、多くはイタリヤ製の生地というのを勢いで買って(買わされて)、何人かの同僚と一緒に中野の文化式の洋裁の先生に仕立ててもらっていた記憶がある。それも結婚直前や出産前に何着か仕立てたりしたが、名古屋に転職、私の注文服の歴史は終わった。だいぶ経ってから、たいして袖を通さず、捨てられないでいた服を、リサイクルの店に持ち込んだが、ほとんどがそっけなく突っ返されたりしたのだった。

キンカ堂で洋服の生地を眺めて回った頃のことがよみがえる、破産のニュースだった。

池袋西口の新しい地下街にはまだ行っていない。

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2010年2月17日 (水)

命日は過ぎたけれども~管野スガの墓前にふたたび

東京に出たついでに代々木、正春寺の管野スガ(18811911年)のお墓に参ることになった。久しぶりの大江戸線、都庁前で下車、地の底からようやく地上に出ると、そこはまた摩天楼街の底のようなコンクリートの上だった。都庁と中央公園の間を進み、甲州街道に突きあたって、首都高をくぐると寺はある。以前訪ねたのはいつだったか、「管野スガ」の一章もある拙著『短歌に出会った女たち』(三一書房 一九九六年)の出版以降だったと思うから一〇年以上は経ったのだろうか、庫裏が新しくなっていた。ガラスの壁のような超高層ビル、曲がりくねった高速道路が迫る、広いとはいえない墓地には墓石がひしめき合っている。大きな木の近くの、見覚えのある自然石がスガのお墓だ。お花もお線香も持たず、気の利かないことだね、と連れ合いと苦笑、桶と柄杓を拝借する。墓石の正面には「くろがねの窓にさしいる日の影の移るを守りけふも暮らしぬ」という獄中での歌が刻まれ、裏には「革命の先駆者管野スガここにねむる」とあり、「大逆事件の真実を明らかにする会」が一九七一年七月一一日に建てたとの文字が読める。死刑が執行された命日一月二五日前後には墓前祭が続けられているとのこと、今年も新聞報道で読んだ記憶がある。

管野スガは、いわゆる天皇暗殺事件を謀ったという大逆事件の被告26人中ただ一人の女性であり、幸徳秋水らとともに死刑に処せられた12人中の一人であった。他の11人は1911124日に、彼女は翌日125日に刑が執行された。正春寺は、17世紀の初めに湯島に建てられ、幕府に仕えた初台というお局さんの菩提寺だったらしい。案内板や栞でも寺の沿革については詳しいが、スガのことには一切触れていない。一世紀も経たというのに、いわば日本の近代史の大きな汚点でもあるフレームアップの犠牲者というのに、ややさびしい気がした。

スガは、大阪生まれ、母を早くに亡くし、継母との折り合い悪く、早くに自立を目指すが19歳で結婚、解消後、ジャーナリスト宇田川文海の世話で『大阪朝報』の記者になる。大阪婦人矯風会を根拠地に執筆をつづけ、思想的には社会主義に傾倒し、紀州『牟婁新報』の記者となり、社会運動家、荒畑寒村を知り、結婚する。さらにその後、秋水との出会いがある。

・わが心そと奪ひ行きなほ足らで更に空虚(うつろ)を責め給ふ哉

秋水の創刊『自由思想』(19095月)に発表された短歌で、秋水の編集後記でスガは次のように紹介されている。「去年赤旗事件で入獄した一人で、日本の法廷に立て『予は無政府主義者なり』と大胆に公言した婦人は恐らく此人が最初なのでしやう」と。      

スガと短歌の出会いは1902年『大阪朝報』であり、『牟婁新報』にも発表している。スガの伝記小説に瀬戸内晴美「遠い声」があるが、男性遍歴と女の業に焦点をあてたようなところに私は違和感を覚える。スガの心情や思想は、獄中で書きとめられた次のような短歌に表れているような気がする。

・限りなき時と空とのただ中に小さきものの何を争ふ

・十万の血潮の精を一寸の地図に流して誇れる国よ

・やがて来む終の日思ひ限りなき生命を思ひ微笑みて居ぬ

・野に落ちし種子の行方を問ひますな東風吹く春の日待ちたまへ

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2010年2月 7日 (日)

残雪の羽村へ~中里介山の墓所を訪ねて

 羽村駅で下車、改札係に地図を所望、明日が立春というのに、表に出たら空気が冷たい。出がけにあわててマフラーを忘れてしまっていた。目的地の羽村市博物館へは20分以上歩くというのでタクシーに乗ったのだが、運転手さんはなんとなくおぼつかない。一度降ろされたが、引き返してきた運転手さん、「間違えました。料金は結構です。乗ってください」と。しばらく桜並木が続く玉川上水沿いに走り、羽村大橋を経て多摩川の土手際の博物館に着く。帰りは「はむらん」というワンコインバスがあるというので、時刻を確かめる。羽村の自然、玉川上水の歴史、羽村の養蚕などの展示もそこそこに、目当ての「中里介山の世界」の部屋へ。ちょうど「はむらのひな祭り展」も開催中で、館内は華やいでいた。何年分かのひなまつりが一度にやってきた感じで、今年のわが家のおひなさまは出されずじまいか。

 正直言って「大菩薩峠」は読んでいないが、知れば知るほど中里介山の生涯は、ユニークで、魅力的だった。いつか出かけてみたいと話していた。連れ合いは、介山と幸徳秋水らとのかかわり(1903年頃)や日露戦争時の非戦論が関心を持つ発端ではなかったか。私は、『改造』に連載中の「夢殿」掲載禁止(1927年)事件、日本文学報国会入会辞退事件(1942年)が興味を持ったきっかけだった。介山の常設展示は大規模ではないが、1885年、羽村の農家で生まれた中里弥之助少年が電話交換手、代用教員時代を経て、やがて「都新聞」を根拠地に著作活動を始め、1913年、28歳の時「大菩薩峠」連載を始め、生涯の仕事となる過程がたどれるようになっていた。例の如く私は、好きな?「年表」を前に写真におさまる。30歳代半ばで都新聞を退社した後の活動の詳細をたどってみると実にユニークなのである。奥多摩の地に転々と草庵や塾、日曜学校や農耕塾を開き、高尾山ケーブルカー建設、青梅鉄道延長などにも抵抗しつつ民間教育に力を入れる。太平洋戦争時にも批判精神はおとろえず、日本文学報国会(小説部会)入会辞退にいたる。1944年腸チフスにて他界、59歳の生涯を閉じる。この日入手した博物館の紀要には桜沢一昭による介山の昭和期の日記再録と解説が連載されていた。じっくり読んでみたい。

 コミュニティバスで、介山の墓地がある禅林寺近くの寺坂下まで行く。通りがかりの人に聞いてもはっきりした道順が分からない。ようやく寺とは別の入り口の看板にたどり着き、「介山居士の墓」の矢印を頼りに見つけ出すことが出来た。地図によれば羽村東小学校の裏手の丘になり、立派な案内板も設置されていた。介山の墓の隣には中里家の立派な墓があり、その墓誌にも「弥之助 五十九歳」と刻まれていて、生涯独身だっただけになぜかホッとするのだった。供花を用意するわけでもなかったが、お水を供え、お参りを済ませた。両親のお墓にもだいぶご無沙汰しているなあ、とふと思ったものである。

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『坂の上の雲』を見ました(6・完)幾つかの疑問~小説とドラマと~「坂の上の雲」の女たち

 6.「坂の上の雲」の女たち

もう一つ、私が気になるのは、正岡律に限らず、小説、ドラマにおける女性の「登場の仕方」と「描かれ方」である。小説は、冒頭から子規没後あたりまでは、明治の男の波乱に満ちた青春物語の様相を呈するが、大部分は、日清・日露戦争における軍人や政治家たちの戦略、戦術、作戦の話に力が入り、そこにさまざまな偶然や奇跡がからみあっての、二人の軍人のサクセスストーリーのように変貌する。その戦略・戦術・作戦にしても、ドラマになると子供じみていて、撮影にお金がかかっていることは伝わってくるが、作りものめいてチャチにしか思えない。いわゆる「軍事オタク」の人たちはどうみているのだろう、とさえ思う。

  そのような展開の中で登場する女性たちなのだから、その描かれ方には、当然限界があるだろう。小説での律の登場は、上記でみたとおりである。秋山兄弟の母(貞)、子規の母(八重)、好古の妻(多美)にしても、たとえば、つぎのようにそっけないところが多分にある。子規の母は、子規に尽して、あたたかく見守りながら「武家の妻」という気丈さをもって何度か登場するが、他の女性たちに関する描写は簡素なものである。

 

・「家といえば、お八重は中学生の子規のために陽あたりのいい三畳の書斎をつくったが、こんどの家でも奥四畳の陽あたりがもっともよかった。お八重の生活は―お律をふくめて―ほとんどが子規にむかってうごいているようだった」(第1巻「ほととぎす」299p

・「その前年に、松山に残っていた母お貞に家をひきはらわせ、東京へよんだ。はじめて一家をかまえた。家は四谷の信濃町十番地にもったが、しかしこのため一家の宰領者が必要になった。好古は結婚することにふみきった。(第2巻「渡米」202p

  なお、子規が療養のため帰省した折の「こんどの帰省で、子規にとってもっともまばゆかったのは、妹のお律がすっかり女らしくなってしまっていたことだった」(第1巻298p)とか、子規の晩年近く看病でやつれた妹を「お律にはもう娘のにおいがない」(第320p)といった記述には、司馬世代の男性の女性観なのだろうか、俗っぽい、陳腐な固定観念にいささかげんなりしたものである。

  一方、ドラマでは、子規の母は原田美枝子、秋山兄弟の母は竹下景子、好古の妻は松たか子というキャスティングからもなんとか出番を作らねばという、かなり原作の小説にはない場面が設定されていた。「史実に忠実」をうたった小説を原作とするのだから、原作をも検証し、「女性の出番を多くする」などの安易なドラマづくりはやめてほしい、と思った。松山市の教育委員会が、このドラマを視聴して家族と話し合うことを呼びかける文書を幼稚園・小・中学校に配布するという異常な事態も発生している。

  ところで、これまでも、正岡律は子規への献身的な看病に明け暮れた様子と子規の病人特有のわがままから、律への不満を募らせていた様子が同時に語られてきた書物に出会ったことがあった(いま手元にあるのは、坪内稔典『子規山脈』(NHK市民大学テキスト1987年、立川昭二『病の人間史』新潮社 1989年、前掲、河東碧悟桐『子規を語る』くらいなのだが)。今回、子規晩年の病床録「仰臥漫録」「病牀六尺」と阿木津英『妹・律の視点から―子規との葛藤が意味するもの』子規庵保存会 2003年)を読んでみて、                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

子規のもう一つの読み方を興味深く思った。「病牀六尺」は、亡くなる年の明治3555日から新聞『日本』に連載され、亡くなる2日前の917日まで掲載された。「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。」で始まるのだが、127回分のエッセイには、自作の披露はもちろん、痛苦と衰弱と闘いながら、俳論、絵画論、西欧文明論、写生論があり、外出できない身ながら行ってみたいところ、新聞記事の抜粋抄録、地域の最新情報、知人たちからの海外情報、見舞いや土産など到来物の記録、弟子たちとの語らい・・・、談論風発で身動きできない重病人の書く文章とは思えないほど多種多様なものへ好奇心と知見が披露されてゆく。強靭な精神力と情報収集のアンテナの張り様も尋常でないことが分かる。上記「妹・律の視点から」においては、一連の中の介護論から始まる女子教育論、理想の家庭論というものに着目し、「<古い女>律の抵抗」について論じているのが新鮮に思えた。私自身当初は、病人のわがまま、男の身勝手からくる開き直りのようにも思えて通り過ぎていたのだが、今回、公表を前提としなかったという「仰臥漫録」もあわせて読んでみた。

①「律は理窟づめの女なり 同感同情のなき木石の如き女なり 義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むることなし 病人の命ずることは何にてもすれども婉曲に諷したることなどは少しも分らず 例へば「団子が食ひたいな」と病人は連呼すれども・・・(明治34920日)」(『仰臥漫録』岩波書店 1927年、60p

②「律は強情なり 人間にむかつて冷淡なり 特に男に向かつてshyなり 彼は到底配偶者として世界に立つ能はざるなり しかもその事が原因となりて彼は終に兄の看病人となれり・・・(同上921日)」(同上62p) 

①②の記述の直前には、三度の食事、おやつ、夜食に至るすべてのメニューが記録され、包帯の交換、排泄の世話までが付記されている。②の後半には、妹は看護婦でもありお三どん、同時に一家の整理役と子規の秘書として書籍の出納、原稿の浄書までこなしていることが記されている。

③病状が進むと、肉体的な苦痛は薄らぐと忘れもするが、苦しみが続き、朝から晩まで誰か傍にいて看護せねばならない暮らしになると、看護、介抱の問題に直面する。苦痛や衰弱のため心細くなったときなど看護の如何が病人の苦楽に大きな影響を及ぼす。家族としてもあらゆる家事を務めた上での看病であるから、つきっきりというわけにはいかない。突然看護の必要が生じても、それに対応する手立てや工夫が今の女子にはなく役に立たない。ここに至ってはじめて感じた。「教育は女子に必要である(明治35716日)」(『病牀六尺』岩波書店1927年 108109p)

④「女子の教育が病気の介抱に必要であるといふ事になると、それは看護婦の修業でもさせるのかと誤解する人があるかも知れんが、さうではない、やはり普通学の教育をいふのである。女子に常識を持たせようといふのである。(同年717日)」(同上108110p)

⑤「家庭の教育といふ事は、男子にも固より必要であるが、女子には事に必要である。家庭の教育は知らず知らずの間に施されるもので、必ずしも親が教へようとは思はない事でも、子供は能く親の真似をして居る事が多い。(同年718日)」 その家庭教育の場としての「一家の団欒」の重要性を強調する。(同上110p)

⑥「病気の介抱に精神的と形式的との二様がある。精神的の介抱といふのは看護人が同情を以て病人を介抱することである。・・・平生から病気介抱の修業をさせるといふわけには行かないのであるから、そこはその人の気の利き次第で看護の上手と下手とが別れるのである。(同年720日)」(同上113115p)

こうして読んでみると、子規は、妹、律が2回の結婚に破れたのも、病人の看護が下手なのもその性格がわるいからと言わんばかりの書きぶりだったのが、病状が進んだ最晩年になると、介抱が行き届かないのは常識というものがないからで、女子の教育、家庭教育の重要性を説くようになった。

上記阿木津の著作では、律と子規との関係やその背景を次のように分析する。

まず、律の二度の結婚生活も、当時としては決して珍しいことではなく、家制度の中では些細な理由で嫁ぎ先から追い出されることはよくあることで、2度目の結婚について、司馬遼太郎の「兄の看病のために離婚した」という見方には疑問を呈している(15p)。律は、むしろ東京で母と兄との核家族での暮らしが「もっとも楽に息のできる生活のありかた」を享受していたのではないか、とする(37p)。

また、子規が女子教育、家庭団欒の重要性を説いたのは、19世紀から20世紀にかけての「不如帰」などの家庭小説の流行、幾つかの「家庭」を冠する婦人雑誌などいずれも男性による女性啓蒙が盛んになったことなどの時代背景とも密接な関係があるだろうとする。子規の笛吹けど踊らずのもどかしさを指摘している(2223p)。子規の没後に登場する「新しい女」の決して解放されなかった現実にも言及する。

さらに、私は、女性の教育の現状としては、大日本帝国憲法発布(1889年)と教育勅語発布(1890年)の抱き合わせの法制度、義務教育ながら女子の就学率があがらず、小学校に裁縫の教科を設置(1893年)、高等女学校令公布(1899年)、民法典論争を経るも女性の権利を認めない家制度を固定的なものにした親族・相続編公布(1898年)などにも象徴的に表れているのではないかと思う。子規の新しい女子教育・家庭改革論は、律にまで沁み込んでは行かなかったのである。子規の没後の律は、翌年、共立女子職業学校に入学、裁縫はじめその他の科目も修め、母校の職員を経て、和裁の教員として1921年まで務めた後は、自宅で母を看病しながら(1927年没)、裁縫教室を開き、子規の遺品・作品、住まいの保存に努めた。1914年には、叔父の加藤拓川の三男忠三郎を養子として正岡家を継がせている。1941年、71歳で没するまでの堅実で、自律的な生き方に、晩年は「ひたすら妹を待った」子規はなんと応えるだろう。

(明治34年)

母と二人いもうとを待つ夜寒かな(時候 秋)

いもうとの帰り遅さよ五日月 (即事 天文)

7.おわりに

 NHKテレビドラマ「坂の上の雲」第1部放映終了を機会に、だいぶ脱線・迷走しながら、ドラマと原作である小説と史実との関係をなるべく具体的に検証してみた。まだ、整理も足りないし、歴史の詳細も手つかずのところがある。これからも、司馬の原作では、明治天皇をどう位置付けているのかについては分かりにくいので、さらに読む込むこととドラマではどんな扱いになるのかも見極めてみたい。

 ただ、今回、短歌にかかわる者として、あらためて正岡子規について読み直したり、初めて読む著作あったりしたのは収穫であった。

 いま、また文庫本に収録された「あとがき一」を読んでいると次のような一節があった。どこかで聞いたような・・・。ときどき見ていた、NHKの人気番組だった「プロジェクトⅩ」の、あのナレーションを彷彿とさせるような文章に思えたのだった。

「政府も小世帯であり、ここに登場する陸海軍もうそのように小さい。その町工場のように小さい国家のなかで、部分部分の義務と権能をもたされたスタッフたちは世帯が小さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義(オプティミズム)からきているのであろう。」(第832p

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『坂の上の雲』を見ました(5)幾つかの疑問~小説とドラマと~正岡律の実像をもとめて

5.正岡律の実像をもとめて                                                   

菅野美穂が演ずる子規の妹、正岡律は、今回のドラマの第1部では主役級で、番組宣伝やポスターなどでも主役の一人である。ドラマでは、いったいどんな風に描かれるのかは当初から関心があった。というのは、小説では、律の登場自体が少なく、その人間像に言及する場面はなおさらだったからである。

<小説>

①明治22年、子規が療養のため松山に帰省した折、律はすでに嫁いでいたが、看病のために実家に通うさまやいじめられた兄の仇を取ると悪童に石を投げたりするエピソードなどによりその性格にも言及する。(第1巻「ほととぎす」299300p)

また、真之が見舞いに来た折には、律の真之への態度を見てとって、好意を持っていたことを子規はあらためてさとり、「陸軍の好古のことはお律もよく知らなかったが、海軍の真之は兄の少年のころの親友だけによく知っている。この気持はそれ以上のことではなかったが、とにかく真之が帰省して当家を来訪するとなれば、平静ではいられぬ思いが、心のどこかにある」(同306p)と記す。

②日清開戦後、子規の病状は小康を得ながらも、戦地に行けない焦燥感を律にもあらわにしていたが、やがて従軍が決定する。(第2巻「根岸」131p、ほか)

 真之がアメリカ留学を控え根岸にやって来た際の子規と律との対応が描かれ、律の看病ぶりも紹介される。(第2巻「渡米」217218p)

③子規の病状悪化も極まり、真之最後の見舞いの折の律の看病やつれに驚く。子規臨終前後の人々の出入りに母と律の気丈な振る舞いが描かれる。(第3巻「十七夜」20pほか)

<ドラマ>

①「口は達者だが、喧嘩はめっぽう弱い」幼少時代の子規は、真之や気の強い妹の律に助けられていた。子規上京後、真之も上京したがっているのを律が忖度、からかう。真之、上京の折は船着きまで、律は見送り別れを惜しむ。(第1回)

②明治18年(1885年)、結婚直前の律(15歳)が上京、兄と真之のために着物を仕立てると採寸しながら「淳(真之の幼名)さんの着物を縫うんのは、これが最初で最後じゃけん・・・」「(これからは)淳さん、兄さんの楯になってつかあさい。ほしたら、ウチは思い残すことなくお嫁にいけるけん」と。江田島に移った海軍兵学校から松山に帰省した真之は、すでに婚家から離縁された律と会い、「一身独立」のつもりで結婚したはずが、姑の世話だけの生活を強いられていたという実情を知る。(第2回)

③明治22年(1889年)、子規が喀血のため松山で療養中、真之が江田島の海軍兵学校から見舞いにきて、嫁ぎ先から看病にきている律とも再会、子規は妹の真之への思いを確信する。律は「ウチが看病するけん」と言い切って、覚悟を決めている様子であった。(第3回)

④日清開戦後、子規は『日本』の仕事をしていても、戦地からの記事や社の従軍記者の動向が気がかりで、従軍できない自分に焦りを感じ、律にも漏らす。(第4回)

⑤従軍で病状を悪化させた子規は、再び松山で療養、律がつきっきりで看病に励む。見舞いに来た真之は、見送る律に、子規の本当のところの病状を尋ねる。東京に戻った子規は母と律を呼び、3人の暮らしが始まる。病状は悪化、その看護もきびしさを増す。明治30年、真之はアメリカ留学の直前に根岸の子規を訪ね、律らによる看護の手厚さときびしさを目の当たりにする。(第5回)

  ドラマでは、まだ、小説の3巻までには至っていない。小説とドラマとの違いは、律と真之との関係で、小説では希薄なものであって、むしろ淡々と描かれるのだが、ドラマでは、二人の出会いも対話も一対一となる設定が多く、ともに秘めた情感の濃密なところも見せる。そして、その出会いの回数も多くなっている。ドラマ①の船着き場の別れの場面、ドラマ②律の結婚前に真之の着物の採寸をする場面、「一身独立」のこころざしで嫁いだものの、結婚相手の東京の赴任先を独り訪ねて離婚を決意した事情を真之に語る場面などは小説では見当らない。小説自体の正岡律に関する情報源はあまり多くないが、河東碧悟桐の律へのインタビュー「家庭より観たる子規」(初出『同人』19339月、河東碧悟桐『子規を語る』岩波書店 2002年所収)に拠るところが多いのではないか。ドラマでは、上述のように律が東京住まいになる前に、一人で二度も上京していることになる。しかし、このインタビューによれば、東京への引越しの際が初めての大旅行であったように語っている。当時の交通事情や女性の暮らしから考えたとき、ドラマの設定に不自然さを感じてしまう。律と真之の出会いについては、だいぶ「脚色」があるようなのだ。そんなことを考えながら見るドラマは、信憑性も興味も半減してしまうではないか。(続く)

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2010年2月 3日 (水)

『坂の上の雲』を見ました(4)幾つかの疑問~小説とドラマと~正岡子規の実像を求めて

4.正岡子規の実像を求めて

前回は、主として日清戦争の原因をめぐって、小説とドラマでどのように語られているか、原作とドラマとの違いはあるのか。それらが史実であるのか否か、歴史書ではどうなっているのかの観点から、検証してみたが、結構面倒な作業になってしまった。映像の検証は難しい
 
以下では、この小説、ドラマにおいて正岡子規がどのような役割を果たしているのか。描かれた子規像、あわせて妹の正岡律像と、残された足跡、「実像」との隔たりを検証しようと思う。
 
学生時代から短歌にかかわって来たので、子規との出会いは何度かあったが、その出発点は、学校の教科書や幾つかの近代短歌史で出会ったときの正岡子規像と『坂の上の雲』の正岡子規像とにはいささか異なることに興味を持ったことにある。なお、退職後、メデイア史を勉強することになって、明治の新聞を調べる中、新聞『日本』で正岡子規の従軍記事に出会ったときも、子規のあらたな一面に触れた思いがしていた。日清戦争の従軍記者を体験した子規については「子規の従軍―<君が代は足も腕も接木かな>考」(『運河』199712月、『現代短歌と天皇制』風媒社 2001年所収。PDFにて後掲)を書いているので、後掲をご覧いただければと思う。

<小説>
 
伊予松山に生まれた三人の主人公の一人となった正岡子規は、小説の冒頭で「俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れて中興の祖になった」と他の二人に先だって紹介されている。

小説での子規は、幼年時代は腕白なガキ大将秋山真之の、一風変わった遊び友達として描かれる。子規は母方の祖父大原観山の意向もあって、小学校に入っても髷を結っていた。「従順な子だったが、このことを子供心に苦にしていた」(第182p)といい、松山の教員伝習所付属小学校の教員は「升(のぼる、子規の幼名)はなんぼ教えても覚えるけれ、教えるのが楽しみじゃ」といったという(第186p)。さらに漢学の塾にも通い、漢詩に夢中になる子供で、中学3年の頃には、家には専用の「書斎」までつくってもらい、書物の筆写や新聞づくりに励み、自由民権運動にも関心を示していた(同101107p)。英語が苦手ながら、世界に夢を馳せ、明治16年中学校5年で中退、母の弟で、すでに外務省に勤務していた叔父加藤恒忠の伝手で上京した。子規は、渡仏した加藤の友人、陸羯南(後に新聞『日本』の社長)に託され、大学予備門を目指す。その子規を追いかけるように、秋山真之は兄の好古を頼って上京、二人は大学予備門に合格。おおいに青春を楽しみながらも、各々進路に悩み始め、子規は文学に目覚め、予備門を中退、真之は海軍兵学校へと転身する。

明治22年(1889年)、喀血、結核と診断されるが、かねてより親しんでいた野球や俳句に励み、この頃から「子規」と号するようになる。療養のため一時松山に帰省(第1巻「ほととぎす」)。明治23年には、文科大学哲学科に入学するが、旧藩主久松家による給費生の寄宿舎では、寮生らと文芸、とくに俳句に熱が入り、翌年には国文科に転じ、退寮を余儀なくされ、学年試験にも落第、退学。明治25年には、陸羯南の援助で、郷里から母と妹を迎え、『日本』新聞社員となる。俳話の連載、俳句欄の創設、絵入り家庭新聞「小日本」創廃刊等を経る。

明治28年(1895年)、前年からの日清戦争では、同僚の従軍などに刺激され、従軍への思いが募り、病身ながら陸に懇願、3月、実現する。松山出身の後輩の弟子である高浜虚子、河東碧悟桐には遺言のような手紙を残し、日本を発つのだが、「子規の従軍は、結局こどものあそびのようなものにおわった」(第2巻「須磨の灯」169p)と評する。というのも、日本を発つ頃、すでに講和談判が始まっていたし、一か月ほどで日本に戻るのだが、その帰りの船上で再び喀血、神戸病院、須磨保養院で療養の後、松山へ帰省、折から松山中学校に赴任中の大学時代からの親友、夏目漱石の下宿に逗留する。この間、地元の仲間と句会を開き、漱石も句作を始める。秋には上京、根岸子規庵で、カリエス発症、進む病状の中、俳論、蕪村論など執筆活動は活発となり、明治30年「ホトトギス」創刊にいたる。明治31年(1898年)2月から「歌よみに与ふる書」を『日本』に連載、短歌の実作にも力を入れ、伊藤左千夫、長塚節らも子規庵を訪れるようになる。明治33年、子規に身辺では、すでに熊本の第五高等学校教授となっていた夏目漱石がイギリスへ留学し、秋山真之がアメリカ留学より帰国する(第2巻「子規庵」)。病状はさらに悪化、拷問のような苦痛の中、「墨汁一滴」「仰臥漫録」「病牀六尺」と題して書き続けたが、明治35年(1902年)919日、35歳で没する(第3巻「十七夜」)。

<ドラマ>
 
①子規の幼少時代、いつまでも髷を結っていたのを町人の悪童たちに冷やかさ   れ、いじめられるのを助けるのはもっぱら秋山真之であり、妹の律であった。中学校時代、松山で開かれる自由民権運動家たちの演説会、そのチラシを配り、のぼりを立てて、子規らも演説をする。東京の叔父からの手紙で、念願かなって子規は上京、大学予備門の予備校に通い、真之とも合流、英語教師の高橋是清の授業を受け、横浜外国人居留地では日本人の地位などに疑問を持つ出来事にも出会う。(第1回「少年の国」)
 
②大学予備門の入学試験、学期末試験で、子規が英語で苦労しながらも、勉学の合間には、寄席や娘義太夫を見に、ある時は野球に興じ、無銭旅行に出たりする。子規は、哲学をはじめ、人情本や小説にも夢中になりながら、何を学ぶのかに悩み、俳句に興味を持ち始める。真之と同じ下宿生活をしていたが、真之は進路に疑問を持ち、海軍兵学校に入学、二人は別の道を歩むことになる。(第2回「青雲」)
 
③子規は無銭旅行中に一度喀血しているが、明治22年喀血、療養のため帰省。江田島から見舞いに来る真之と再会。東京に戻った子規は『日本』に俳論を連載発表。ついに大学予備門を退学、俳句に賭ける覚悟を陸に告げると、陸は『日本』への入社、家族をも呼ぶ便宜を計る。連載は「俳句といういわばふるくさい、明治の知識人からみればとるにたらぬ日本の伝統文芸に近代文学の光をあて」た仕事だったことが強調される。(第3回「国家鳴動」)
 
④日清開戦後、子規も従軍を希望していたが、明治282月に決定。従軍先では、日本軍の現地人への非情な仕打ちを目の当たりにする。宿舎では軍医の森鴎外と会い、文学談義となり、子規の俳句の写実と簡潔さを正岡らしいと励まされる。(第4回「日清開戦」)

⑤従軍からの帰途、再度喀血したが、松山では漱石の下宿に寄宿、療養、小康を得、帰京、真之のアメリカ留学を送り、「君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く」と詠む。子規の天地は、子規庵がすべてで「この小さな庭が全世界なんじゃ。こんな庭でも森羅万象、あらゆるものが学びとれる」と。(第5回「留学生」)

三人の主人公の一人である子規だが、ドラマの第1部は、いわば主人公たちの「青春物語」の部分なので、松山では時代の変わり目の家族愛や葛藤が描かれ、上京後は、青春群像の中で際立つ子規、真之にライトがあてられる。年の離れた秋山好古は、ドラマの先導役で、「優秀な軍人」へと成長してゆくさまが描かれる。少年時代、中学校時代、学生時代における「時代の空気」や「群像」の描き方は、やはり非常に類型的ではなかったかと思う。城下の街並みや野山を「棒を持って走りまわる」少年たちという、これまでの時代劇の子供像の域を出ないし、学生時代では、大声ではしゃいだり、議論したり、暴れたりといった、ただ騒々しさだけが印象に残る場面が多かった。

また、子規が展開する文学論について、原作でこそ若干そのハイライトが語られているが、ドラマではほとんど話されないし、会話にも見あたらない。確かに映像化は難しいだろうが、子規が「写実だ」「写生だ」と息せき切って語ることが多く、その核心には触れようとしない。小説では第3巻の序章で子規は没するが、ドラマでは、子規の死が第2部第7話まで持ち越されるらしい。小説では、明治の軍人兄弟の物語に子規の文芸の話をからませて、文化的な香りを醸し出すことに成功しているかもしれない。司馬の子規に対する傾倒、子規をめぐる人々の多様な魅力ある生き方への興味・関心が強いのはよく伝わってくる。司馬自身、次のように語っている。

「その若い晩年において死期をさとりつつもその残されたみじかい時間のあいだに自分のやるべき仕事の量の多さにだけを苦にし、悲しんだ。客観的にはこれほど不幸な材料を多く背負いこんだ男もすくなかっただろうが、しかしこの男の楽天主義は自分を不幸であるとは思えないようであった。明治というこのオプティミズムの時代にもっとも適合した資質を持っていたのは子規であったかもしれない。」(第8巻「あとがき五」349p)

この点に関し、関川夏央は「松山藩の文化が同時期に生みおとした秋山兄弟と正岡子規を文武の両面からえがこうとした、それが最初の発想だったと思います」(『「坂の上の雲」と日本人』文藝春秋2009年、16p)「たとえ日露戦争以前に死んでしまうのだとしても物語に欠かせなかったのだと思います」(同上、17p)と述べる。また、文庫本が出た当初より『坂の上の雲』も読み始めていたという友人が「子規が登場する3巻までは、夢中で読んだが、子規没後の物語は急に面白くなくなったので、その先はどうでもよくなった」と話しているのを最近聞いた。

ドラマの第1部では、まだ子規は存命ながら、その「晩年」に差し掛かっている。とくにドラマでは、後述のように、原作にもない、子規の妹、律の登場場面がだいぶ増やされているのがわかり、不自然に引き延ばされている感もある。子規の従軍先の戦地にあって、原作にない、日本軍曹長(森本レオ)の中国人への態度に怒る場面を挿入して、ジャーナリスト子規の「良心」を少しばかり創出したりする。

子規が取り組んだ俳句の革新、短歌の変革とはなんであったのか。ドラマはそれを明確にしないまま、ただ、病苦と闘いながらも「写生が大事」と懸命に生きているというメッセージが発信されるばかりで、子規のとらえ方が単調のように思えた。
 
たとえば、子規の従軍については、小説、ドラマともにかなり端折っていて、事実をあまり伝えていないように思う。たとえば『日本』に連載の従軍記「陣中日記」、翌年の『日本』の付録週報に連載の「従軍紀事」、未完小説「わが病」、詩歌作品をもう少し丁寧に読めば、上記の挿入場面のような類型的なものではなく、子規の従軍体験にはもっと複雑なメッセージが込められていたように思う。従軍前後の作品に以下があり、「なき人の・・・」は、ドラマの中で、森鴎外に褒められている句でもある。

(明治27年)

船沈みてあら波月を砕くかな(海戦)

生きて帰れ露の命と言ひながら(従軍の人を送る)

たヽかひのあとを野山の錦かな(野山の錦)

日の旗や淋しき村の菊の垣(天長節)

(明治28年)
 
戦ひのあとに少き燕かな(金洲 燕)

君が代は足も腕も接木かな(予備病院 接木)

行かばわれ筆の花散る処まで(従軍の時)

なき人のむくろを隠せ春の草(金洲城外 春草)

なまじひに生き残りたる暑かな(病後 熱)

(明治29年)

匹夫にして神と祭られ雲の峰 (戦死者を弔ふ 雲の峰)         

また、従軍中の軍隊内では新聞記者の待遇について激しく抗議したり、内地の新聞に発表される従軍記について憲兵からの詰問があったりする。しかし、子規に従軍記は、ライバル紙『国民新聞』の徳富蘇峰「旅順占領記」や国木田独歩「愛弟通信」などの声高な愛国的な文章と比べると実に穏やかで、大陸の山河や小動物、村人の営みや日本兵や記者たちの日常を克明に綴る誠実なものであった。

ドラマはもちろん小説においても子規が果たした俳句・短歌の革新とは何であったのか、詩歌史上どう位置付けられているか、が意外と触れられていないのではないか。蕪村や万葉集への評価はどうして生まれてきたのか、などについては、私自身も、もう一度読み直し、考えてみたいと思うほどである。
 
司馬が随所で述べる子規の文学観を追ってみると、まず、子規が小説のような「独りだけの仕事」から短詩型(俳句・短歌)の復興の世界に入ったのは「才能よりも多分に性格的なものであった。俳句の運座を想像すればわかるであろう。宗匠役の者がその運座のお膳だてをし、題を出し、ふんいきをもりあげ、やがて選をし、たがいに論評しあって歓談する。そういう同気相集うたサロンのなかからできあがってゆく文芸であり、この形式ほど子規の性格や才質にぴったり適ったものはない」(第1310p)と述べる。また、司馬は、子規のいう「<空想よりも実景の描写>という芸術上の立場は」、俳句というものを歴史的に調べることからスタートし、古今の俳書、句集を丹念に探し集めて「俳句分類」を成し遂げた、ともいう(第12122p)。さらに、子規が短歌への関心を深めるにいたった事情を次のようにも述べる。「子規はこの時期、その俳論と俳句研究とその実作によって、俳句革新はほぼなしとげたといってよく、世間もこの子規の革命事業の成功をほぼみとめていた。のこるは、短歌である。この世界は、俳句よりもやっかいだった」(第2301p

いま、私が関心を寄せるのは、その「俳句分類」という基礎的な地味な作業と『日本』に連載していた「歌よみに与ふる書」(全10回)一連の歌論である。後者は、「仰せの如く近来和歌は一向に振ひ不申候」、「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候」、「前略。歌よみ如く馬鹿な、のんきなものは、またと無之候」、「拝啓。空論ばかりにて傍人に解しがたく、実例につきて評せよとの御言葉御尤と在候」(1~4回)と毎回こんな風に書き起こし、「小さき事を大きくいふ嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申候」、「ただありのままを写生すると、一部一部の写生を集めるとの相違に有之、生の写実も同様の事に候。これらは大誤解に候」、「漢語にても洋語にても文学的に用ゐられなばみな歌の詞と可申候」(57回)のように語りおさめられる明快さで当時の名流大家を鋭く批判する。連載中の読者からの反論や批判にもすぐに応え、その姿勢と熱意には目を見張るものがある。明治31年といえば病状もかなり進んでいたにもかかわらず、である。小説・ドラマで描かれる子規像には、当時の俳句や短歌の状況が描かれないまま、やや独善的な断定に満ちていないか。子規自身の作品や著作から立ち上がる子規像との乖離が大きいように思える。ちょっと句集を開いてみても、俳句や病にちなんだものだけ選んでみても次のような作品に出会えるはずである。

(明治29年)
 
歌書俳書紛然として昼寝かな(昼寝)

夜を寒み俳書の山の中に坐す(夜寒)

枕にす俳句分類の秋の集 (秋時候雑)

野分の夜書読む心定まらず(野分)

吾に爵位なし月中の桂手折るべく(月)

(明治30年)

書を干すや昔わが張りし不審紙(有所思)

三千の俳句を閲し柿二つ(ある日夜にかけて俳句函の底を叩きて 木)

(明治31年)

我病んで花の発句もなかりけり(木)

紅葉山の文庫保ちし人は誰(木 観月会)

小説を草して独り春を待つ(冬 病中小照自題)

(明治32年)

芭蕉忌や我に派もなく傳もなし

門松やわがほととぎす発行所 新年

(明治33年)

新年の白紙綴じたる句帖かな(新年)

和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男(水滸伝の内 夏)

書きなれて書きよき筆や冬籠(人事 冬)

筆洗の水こぼしけり水仙花(草 冬)

(明治34年)

何も書かぬ赤短冊や春浅し(時候 春)

病人の息たへたへに秋の蚊帳(人事 秋)

(明治35年)

画き終へて昼寝も出来ぬ疲れかな(自画菓物帖の後に)

首あげて折々みるや庭の萩(臥病十年 草)

をととひのへちまの水も取らざりき(絶筆三句)
(続く)

■子規の従軍■ (『現代短歌と天皇制』所収) 「sikinojugun1.pdf」をダウンロード 「sikinojugun2.pdf」をダウンロード

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