« 『坂の上の雲』を見ました(6・完)幾つかの疑問~小説とドラマと~「坂の上の雲」の女たち | トップページ | 命日は過ぎたけれども~管野スガの墓前にふたたび »

2010年2月 7日 (日)

残雪の羽村へ~中里介山の墓所を訪ねて

 羽村駅で下車、改札係に地図を所望、明日が立春というのに、表に出たら空気が冷たい。出がけにあわててマフラーを忘れてしまっていた。目的地の羽村市博物館へは20分以上歩くというのでタクシーに乗ったのだが、運転手さんはなんとなくおぼつかない。一度降ろされたが、引き返してきた運転手さん、「間違えました。料金は結構です。乗ってください」と。しばらく桜並木が続く玉川上水沿いに走り、羽村大橋を経て多摩川の土手際の博物館に着く。帰りは「はむらん」というワンコインバスがあるというので、時刻を確かめる。羽村の自然、玉川上水の歴史、羽村の養蚕などの展示もそこそこに、目当ての「中里介山の世界」の部屋へ。ちょうど「はむらのひな祭り展」も開催中で、館内は華やいでいた。何年分かのひなまつりが一度にやってきた感じで、今年のわが家のおひなさまは出されずじまいか。

 正直言って「大菩薩峠」は読んでいないが、知れば知るほど中里介山の生涯は、ユニークで、魅力的だった。いつか出かけてみたいと話していた。連れ合いは、介山と幸徳秋水らとのかかわり(1903年頃)や日露戦争時の非戦論が関心を持つ発端ではなかったか。私は、『改造』に連載中の「夢殿」掲載禁止(1927年)事件、日本文学報国会入会辞退事件(1942年)が興味を持ったきっかけだった。介山の常設展示は大規模ではないが、1885年、羽村の農家で生まれた中里弥之助少年が電話交換手、代用教員時代を経て、やがて「都新聞」を根拠地に著作活動を始め、1913年、28歳の時「大菩薩峠」連載を始め、生涯の仕事となる過程がたどれるようになっていた。例の如く私は、好きな?「年表」を前に写真におさまる。30歳代半ばで都新聞を退社した後の活動の詳細をたどってみると実にユニークなのである。奥多摩の地に転々と草庵や塾、日曜学校や農耕塾を開き、高尾山ケーブルカー建設、青梅鉄道延長などにも抵抗しつつ民間教育に力を入れる。太平洋戦争時にも批判精神はおとろえず、日本文学報国会(小説部会)入会辞退にいたる。1944年腸チフスにて他界、59歳の生涯を閉じる。この日入手した博物館の紀要には桜沢一昭による介山の昭和期の日記再録と解説が連載されていた。じっくり読んでみたい。

 コミュニティバスで、介山の墓地がある禅林寺近くの寺坂下まで行く。通りがかりの人に聞いてもはっきりした道順が分からない。ようやく寺とは別の入り口の看板にたどり着き、「介山居士の墓」の矢印を頼りに見つけ出すことが出来た。地図によれば羽村東小学校の裏手の丘になり、立派な案内板も設置されていた。介山の墓の隣には中里家の立派な墓があり、その墓誌にも「弥之助 五十九歳」と刻まれていて、生涯独身だっただけになぜかホッとするのだった。供花を用意するわけでもなかったが、お水を供え、お参りを済ませた。両親のお墓にもだいぶご無沙汰しているなあ、とふと思ったものである。

|

« 『坂の上の雲』を見ました(6・完)幾つかの疑問~小説とドラマと~「坂の上の雲」の女たち | トップページ | 命日は過ぎたけれども~管野スガの墓前にふたたび »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 『坂の上の雲』を見ました(6・完)幾つかの疑問~小説とドラマと~「坂の上の雲」の女たち | トップページ | 命日は過ぎたけれども~管野スガの墓前にふたたび »