命日は過ぎたけれども~管野スガの墓前にふたたび
東京に出たついでに代々木、正春寺の管野スガ(1881~1911年)のお墓に参ることになった。久しぶりの大江戸線、都庁前で下車、地の底からようやく地上に出ると、そこはまた摩天楼街の底のようなコンクリートの上だった。都庁と中央公園の間を進み、甲州街道に突きあたって、首都高をくぐると寺はある。以前訪ねたのはいつだったか、「管野スガ」の一章もある拙著『短歌に出会った女たち』(三一書房 一九九六年)の出版以降だったと思うから一〇年以上は経ったのだろうか、庫裏が新しくなっていた。ガラスの壁のような超高層ビル、曲がりくねった高速道路が迫る、広いとはいえない墓地には墓石がひしめき合っている。大きな木の近くの、見覚えのある自然石がスガのお墓だ。お花もお線香も持たず、気の利かないことだね、と連れ合いと苦笑、桶と柄杓を拝借する。墓石の正面には「くろがねの窓にさしいる日の影の移るを守りけふも暮らしぬ」という獄中での歌が刻まれ、裏には「革命の先駆者管野スガここにねむる」とあり、「大逆事件の真実を明らかにする会」が一九七一年七月一一日に建てたとの文字が読める。死刑が執行された命日一月二五日前後には墓前祭が続けられているとのこと、今年も新聞報道で読んだ記憶がある。
管野スガは、いわゆる天皇暗殺事件を謀ったという大逆事件の被告26人中ただ一人の女性であり、幸徳秋水らとともに死刑に処せられた12人中の一人であった。他の11人は1911年1月24日に、彼女は翌日1月25日に刑が執行された。正春寺は、17世紀の初めに湯島に建てられ、幕府に仕えた初台というお局さんの菩提寺だったらしい。案内板や栞でも寺の沿革については詳しいが、スガのことには一切触れていない。一世紀も経たというのに、いわば日本の近代史の大きな汚点でもあるフレームアップの犠牲者というのに、ややさびしい気がした。
スガは、大阪生まれ、母を早くに亡くし、継母との折り合い悪く、早くに自立を目指すが19歳で結婚、解消後、ジャーナリスト宇田川文海の世話で『大阪朝報』の記者になる。大阪婦人矯風会を根拠地に執筆をつづけ、思想的には社会主義に傾倒し、紀州『牟婁新報』の記者となり、社会運動家、荒畑寒村を知り、結婚する。さらにその後、秋水との出会いがある。
・わが心そと奪ひ行きなほ足らで更に空虚(うつろ)を責め給ふ哉
秋水の創刊『自由思想』(1909年5月)に発表された短歌で、秋水の編集後記でスガは次のように紹介されている。「去年赤旗事件で入獄した一人で、日本の法廷に立て『予は無政府主義者なり』と大胆に公言した婦人は恐らく此人が最初なのでしやう」と。
スガと短歌の出会いは1902年『大阪朝報』であり、『牟婁新報』にも発表している。スガの伝記小説に瀬戸内晴美「遠い声」があるが、男性遍歴と女の業に焦点をあてたようなところに私は違和感を覚える。スガの心情や思想は、獄中で書きとめられた次のような短歌に表れているような気がする。
・限りなき時と空とのただ中に小さきものの何を争ふ
・十万の血潮の精を一寸の地図に流して誇れる国よ
・やがて来む終の日思ひ限りなき生命を思ひ微笑みて居ぬ
・野に落ちし種子の行方を問ひますな東風吹く春の日待ちたまへ
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