『坂の上の雲』を見ました(6・完)幾つかの疑問~小説とドラマと~「坂の上の雲」の女たち
6.「坂の上の雲」の女たち
もう一つ、私が気になるのは、正岡律に限らず、小説、ドラマにおける女性の「登場の仕方」と「描かれ方」である。小説は、冒頭から子規没後あたりまでは、明治の男の波乱に満ちた青春物語の様相を呈するが、大部分は、日清・日露戦争における軍人や政治家たちの戦略、戦術、作戦の話に力が入り、そこにさまざまな偶然や奇跡がからみあっての、二人の軍人のサクセスストーリーのように変貌する。その戦略・戦術・作戦にしても、ドラマになると子供じみていて、撮影にお金がかかっていることは伝わってくるが、作りものめいてチャチにしか思えない。いわゆる「軍事オタク」の人たちはどうみているのだろう、とさえ思う。
そのような展開の中で登場する女性たちなのだから、その描かれ方には、当然限界があるだろう。小説での律の登場は、上記でみたとおりである。秋山兄弟の母(貞)、子規の母(八重)、好古の妻(多美)にしても、たとえば、つぎのようにそっけないところが多分にある。子規の母は、子規に尽して、あたたかく見守りながら「武家の妻」という気丈さをもって何度か登場するが、他の女性たちに関する描写は簡素なものである。
・「家といえば、お八重は中学生の子規のために陽あたりのいい三畳の書斎をつくったが、こんどの家でも奥四畳の陽あたりがもっともよかった。お八重の生活は―お律をふくめて―ほとんどが子規にむかってうごいているようだった」(第1巻「ほととぎす」299p)
・「その前年に、松山に残っていた母お貞に家をひきはらわせ、東京へよんだ。はじめて一家をかまえた。家は四谷の信濃町十番地にもったが、しかしこのため一家の宰領者が必要になった。好古は結婚することにふみきった。(第2巻「渡米」202p)
なお、子規が療養のため帰省した折の「こんどの帰省で、子規にとってもっともまばゆかったのは、妹のお律がすっかり女らしくなってしまっていたことだった」(第1巻298p)とか、子規の晩年近く看病でやつれた妹を「お律にはもう娘のにおいがない」(第3巻20p)といった記述には、司馬世代の男性の女性観なのだろうか、俗っぽい、陳腐な固定観念にいささかげんなりしたものである。
一方、ドラマでは、子規の母は原田美枝子、秋山兄弟の母は竹下景子、好古の妻は松たか子というキャスティングからもなんとか出番を作らねばという、かなり原作の小説にはない場面が設定されていた。「史実に忠実」をうたった小説を原作とするのだから、原作をも検証し、「女性の出番を多くする」などの安易なドラマづくりはやめてほしい、と思った。松山市の教育委員会が、このドラマを視聴して家族と話し合うことを呼びかける文書を幼稚園・小・中学校に配布するという異常な事態も発生している。
ところで、これまでも、正岡律は子規への献身的な看病に明け暮れた様子と子規の病人特有のわがままから、律への不満を募らせていた様子が同時に語られてきた書物に出会ったことがあった(いま手元にあるのは、坪内稔典『子規山脈』(NHK市民大学テキスト1987年、立川昭二『病の人間史』新潮社 1989年、前掲、河東碧悟桐『子規を語る』くらいなのだが)。今回、子規晩年の病床録「仰臥漫録」「病牀六尺」と阿木津英『妹・律の視点から―子規との葛藤が意味するもの』子規庵保存会 2003年)を読んでみて、
子規のもう一つの読み方を興味深く思った。「病牀六尺」は、亡くなる年の明治35年5月5日から新聞『日本』に連載され、亡くなる2日前の9月17日まで掲載された。「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。」で始まるのだが、127回分のエッセイには、自作の披露はもちろん、痛苦と衰弱と闘いながら、俳論、絵画論、西欧文明論、写生論があり、外出できない身ながら行ってみたいところ、新聞記事の抜粋抄録、地域の最新情報、知人たちからの海外情報、見舞いや土産など到来物の記録、弟子たちとの語らい・・・、談論風発で身動きできない重病人の書く文章とは思えないほど多種多様なものへ好奇心と知見が披露されてゆく。強靭な精神力と情報収集のアンテナの張り様も尋常でないことが分かる。上記「妹・律の視点から」においては、一連の中の介護論から始まる女子教育論、理想の家庭論というものに着目し、「<古い女>律の抵抗」について論じているのが新鮮に思えた。私自身当初は、病人のわがまま、男の身勝手からくる開き直りのようにも思えて通り過ぎていたのだが、今回、公表を前提としなかったという「仰臥漫録」もあわせて読んでみた。
①「律は理窟づめの女なり 同感同情のなき木石の如き女なり 義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むることなし 病人の命ずることは何にてもすれども婉曲に諷したることなどは少しも分らず 例へば「団子が食ひたいな」と病人は連呼すれども・・・(明治34年9月20日)」(『仰臥漫録』岩波書店 1927年、60p)
②「律は強情なり 人間にむかつて冷淡なり 特に男に向かつてshyなり 彼は到底配偶者として世界に立つ能はざるなり しかもその事が原因となりて彼は終に兄の看病人となれり・・・(同上9月21日)」(同上62p)
①②の記述の直前には、三度の食事、おやつ、夜食に至るすべてのメニューが記録され、包帯の交換、排泄の世話までが付記されている。②の後半には、妹は看護婦でもありお三どん、同時に一家の整理役と子規の秘書として書籍の出納、原稿の浄書までこなしていることが記されている。
③病状が進むと、肉体的な苦痛は薄らぐと忘れもするが、苦しみが続き、朝から晩まで誰か傍にいて看護せねばならない暮らしになると、看護、介抱の問題に直面する。苦痛や衰弱のため心細くなったときなど看護の如何が病人の苦楽に大きな影響を及ぼす。家族としてもあらゆる家事を務めた上での看病であるから、つきっきりというわけにはいかない。突然看護の必要が生じても、それに対応する手立てや工夫が今の女子にはなく役に立たない。ここに至ってはじめて感じた。「教育は女子に必要である(明治35年7月16日)」(『病牀六尺』岩波書店1927年 108~109p)
④「女子の教育が病気の介抱に必要であるといふ事になると、それは看護婦の修業でもさせるのかと誤解する人があるかも知れんが、さうではない、やはり普通学の教育をいふのである。女子に常識を持たせようといふのである。(同年7月17日)」(同上108~110p)
⑤「家庭の教育といふ事は、男子にも固より必要であるが、女子には事に必要である。家庭の教育は知らず知らずの間に施されるもので、必ずしも親が教へようとは思はない事でも、子供は能く親の真似をして居る事が多い。(同年7月18日)」 その家庭教育の場としての「一家の団欒」の重要性を強調する。(同上110p)
⑥「病気の介抱に精神的と形式的との二様がある。精神的の介抱といふのは看護人が同情を以て病人を介抱することである。・・・平生から病気介抱の修業をさせるといふわけには行かないのであるから、そこはその人の気の利き次第で看護の上手と下手とが別れるのである。(同年7月20日)」(同上113~115p)
こうして読んでみると、子規は、妹、律が2回の結婚に破れたのも、病人の看護が下手なのもその性格がわるいからと言わんばかりの書きぶりだったのが、病状が進んだ最晩年になると、介抱が行き届かないのは常識というものがないからで、女子の教育、家庭教育の重要性を説くようになった。
上記阿木津の著作では、律と子規との関係やその背景を次のように分析する。
まず、律の二度の結婚生活も、当時としては決して珍しいことではなく、家制度の中では些細な理由で嫁ぎ先から追い出されることはよくあることで、2度目の結婚について、司馬遼太郎の「兄の看病のために離婚した」という見方には疑問を呈している(15p)。律は、むしろ東京で母と兄との核家族での暮らしが「もっとも楽に息のできる生活のありかた」を享受していたのではないか、とする(37p)。
また、子規が女子教育、家庭団欒の重要性を説いたのは、19世紀から20世紀にかけての「不如帰」などの家庭小説の流行、幾つかの「家庭」を冠する婦人雑誌などいずれも男性による女性啓蒙が盛んになったことなどの時代背景とも密接な関係があるだろうとする。子規の笛吹けど踊らずのもどかしさを指摘している(22~23p)。子規の没後に登場する「新しい女」の決して解放されなかった現実にも言及する。
さらに、私は、女性の教育の現状としては、大日本帝国憲法発布(1889年)と教育勅語発布(1890年)の抱き合わせの法制度、義務教育ながら女子の就学率があがらず、小学校に裁縫の教科を設置(1893年)、高等女学校令公布(1899年)、民法典論争を経るも女性の権利を認めない家制度を固定的なものにした親族・相続編公布(1898年)などにも象徴的に表れているのではないかと思う。子規の新しい女子教育・家庭改革論は、律にまで沁み込んでは行かなかったのである。子規の没後の律は、翌年、共立女子職業学校に入学、裁縫はじめその他の科目も修め、母校の職員を経て、和裁の教員として1921年まで務めた後は、自宅で母を看病しながら(1927年没)、裁縫教室を開き、子規の遺品・作品、住まいの保存に努めた。1914年には、叔父の加藤拓川の三男忠三郎を養子として正岡家を継がせている。1941年、71歳で没するまでの堅実で、自律的な生き方に、晩年は「ひたすら妹を待った」子規はなんと応えるだろう。
(明治34年)
母と二人いもうとを待つ夜寒かな(時候 秋)
いもうとの帰り遅さよ五日月 (即事 天文)
7.おわりに
NHKテレビドラマ「坂の上の雲」第1部放映終了を機会に、だいぶ脱線・迷走しながら、ドラマと原作である小説と史実との関係をなるべく具体的に検証してみた。まだ、整理も足りないし、歴史の詳細も手つかずのところがある。これからも、司馬の原作では、明治天皇をどう位置付けているのかについては分かりにくいので、さらに読む込むこととドラマではどんな扱いになるのかも見極めてみたい。
ただ、今回、短歌にかかわる者として、あらためて正岡子規について読み直したり、初めて読む著作あったりしたのは収穫であった。
いま、また文庫本に収録された「あとがき一」を読んでいると次のような一節があった。どこかで聞いたような・・・。ときどき見ていた、NHKの人気番組だった「プロジェクトⅩ」の、あのナレーションを彷彿とさせるような文章に思えたのだった。
「政府も小世帯であり、ここに登場する陸海軍もうそのように小さい。その町工場のように小さい国家のなかで、部分部分の義務と権能をもたされたスタッフたちは世帯が小さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義(オプティミズム)からきているのであろう。」(第8巻32p)
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コメント
日本放送協会第1110回経営委員会議事録
http://www.nhk.or.jp/keiei-iinkai/giji/giji_new.html
を見ると、安田委員が次のような発言をしています。
『私は、今の若者に徴兵制はだめとしても、徴農制とか、徴林制とか漁村に行けとか、そういう法律で、テレビの番組も何時から何時まできちんと見るということにすればいいと思います。この番組を見なければ会社に就職させないとか、抜本的に政策を変えないと、日本は本当に大変なところへ行くのではないかと思います。したがって、そういう面でNHKの役割は非常に大きいので、許される範囲を超えるものもあると思いますが、もっときつい方策をとらなければならないところまで来ているのではないか思います。』
安田委員の発言をとんでもない時代錯誤の暴言と一笑に付すのは簡単です。しかし、
『松山市の教育委員会が、このドラマを視聴して家族と話し合うことを呼びかける文書を幼稚園・小・中学校に配布するという異常な事態も発生している。』というブログ記事を読むと、両者には相通ずるものがあると思い慄然としました。
投稿: momoko | 2010年2月 7日 (日) 16時56分