池袋のキンカ堂が自己破産~池袋のデパート今昔と
キンカ堂倒産(2月21日営業終了)のニュースは、突然のことだったが、いろいろのことを思い起こさせくれた。池袋三越(1957年開店)が閉店したのは、2009年5月だったのに引き続き、やはりさびしい思いが先に立つ。キンカ堂といえば、池袋東口の西武、三越、西口の東武というデパートのなかにあって、庶民の衣料店として奮闘していた観があった。といっても私は、1970年代の初めに池袋の生家を離れているので、関東地方に総合スーパーを展開しているなんていうことはあまり知らなかった。
池袋東口が、まだ都電の17番・16番のターミナルだったとき、通学に17番を利用していたこともあって、キンカ堂にはときどき立ち寄ったものだ。苦手ながら中学校の家庭科実技の材料選びなどに余念がなかった。刺繍、ブラウス、ワンピース、浴衣などに挑戦したことも思いだす。デパートに比べて安くて、豊富な生地、ここで服の仕立てを頼んだこともある。当時は「イージーオーダー」といって、生地とある程度のデザインが選べるようになっていたし、デパートでも力を入れているようだった。私の就職・卒業用スーツは、たしか丸物デパートのイージーオーダーたった。いまから思えば、ダサイのだが、西武や三越はやや値段が張っていたのではなかったか。その丸物は、1958年頃に開店、1969年には閉店、パルコに変っている。「就活」(当時そんな言葉はなかったが)用の写真は、まだ東横の時代だったか、もう東武になっていたかの美容室とスタジオの世話になった。実家の近くの美容院というのは場所柄、「センセー、ラーメンの出前とっていいかしら」などという女言葉の男たちが出入りする店が多く、閉口していたのだ。
ところで、この何十年、洋服の仕立てというのはしたことがないが、敗戦直後の私の小学校時代は、近くのKさんという洋裁のおばさんに作ってもらうことが多かった。というのは、母は手先が器用でない上に、父と長兄と母とで店をやり繰りしていた時期で忙しかったからだろう。いまでいう、リサイクルだったのだろうか、母の朱色の縮みの襦袢で作ってもらったジャンパースカートで、学芸会に出て「赤ちゃんお耳はかわいいお耳」を踊ったと聞かされた。これは写真に残っているのだが、白のブラウスにチェックの生地で胸あてのあるスカートでドッジボールを抱えたポーズをとっているのもある。そのスカートはたしかKさんに縫いなおしてもらったものである。小学校高学年になって、当時トッパーと呼んでいた上着を新しい生地で縫ってもらって、うれしかったのを覚えている。Kさんは、お菓子屋さんの裏の小さな家に一人住まいをしていて、母とはよく世間話をしていたようだ。母の話によれば、彼女は、NHK(ラジオ)のアナウンサーの奥さんだったが離婚したということであった。お姑さんやご主人だった人ともいろいろあったったらしく「華やかな仕事だけどねえー」というのが母の常だった。そして「芸は身を助ける」ともいってKさんは洋裁の腕が自活の道につながったのだから、「あなたも大きくなったら何か資格を取りなさい」というのが持論だった。
公務員勤めの独り暮らしの時代、職場に出入りする生地屋さんがいて、多くはイタリヤ製の生地というのを勢いで買って(買わされて)、何人かの同僚と一緒に中野の文化式の洋裁の先生に仕立ててもらっていた記憶がある。それも結婚直前や出産前に何着か仕立てたりしたが、名古屋に転職、私の注文服の歴史は終わった。だいぶ経ってから、たいして袖を通さず、捨てられないでいた服を、リサイクルの店に持ち込んだが、ほとんどがそっけなく突っ返されたりしたのだった。
キンカ堂で洋服の生地を眺めて回った頃のことがよみがえる、破産のニュースだった。
池袋西口の新しい地下街にはまだ行っていない。
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コメント
僕本人が人生初めて「キンカ堂池袋」に来店したのは、1982・11・3にでした。最初にB館に入ったとなると、男性トイレは一番上と下にありましたが、ToyotokiによるU23と言う朝顔型で2連で、次にA館入ると5階にTTKと書かれて同じ一つでしたが、A館は最強の恐怖でエレベーターなんか「お子様一人じゃダメ」だと注意されました。思えば、A館の地下に食堂がありました。
投稿: 岡本ひろげん | 2021年3月27日 (土) 13時23分
内田弘様 コメントありがとうございます。私の生家は、池袋西口から4・5分のところです。通学は、地下鉄(丸の内線)で、当時はガードをくぐって東口からに乗っていました。ブログ記事にも繰り返し書いておりますが、歌壇でも、天皇制の問題はいまだにタブーに近い現実が残念です。
投稿: 内野 | 2016年2月18日 (木) 23時16分
初めてメールします。
池袋には姉が住んでいました。北関東から大学受験にきたとき(1958年春)、西武デパートのビルの高さに、圧倒された記憶が鮮明に残っています。
内野さんの天皇制と短歌についての論評に強く同感します。なお、拙著に『啄木と秋瑾』(社会評論社、2010年)があります。国際啄木学会から「妄論」と評価され、脱会しました。その学会に在籍していたときも、天皇制についてあいまいな態度をとる方がいて、これはおかしいと思ったことがあります。
引用された管野スガの歌は、悲しみが静かに湛えられて、心打たれます。
お元気で。
2016年2月16日 内田弘
投稿: 内田弘 | 2016年2月16日 (火) 19時51分
50年ほど前に、父と母が勤めていました。そこで出会い、やがて結婚し、私が生まれました。私が生まれたときは池袋に住んでいたそうです。時代の流れが早い中、いままでよくがんばったんじゃないかと思います。
投稿: きたの | 2010年4月 7日 (水) 14時50分