『坂の上の雲』を見ました(4)幾つかの疑問~小説とドラマと~正岡子規の実像を求めて
4.正岡子規の実像を求めて
前回は、主として日清戦争の原因をめぐって、小説とドラマでどのように語られているか、原作とドラマとの違いはあるのか。それらが史実であるのか否か、歴史書ではどうなっているのかの観点から、検証してみたが、結構面倒な作業になってしまった。映像の検証は難しい。
以下では、この小説、ドラマにおいて正岡子規がどのような役割を果たしているのか。描かれた子規像、あわせて妹の正岡律像と、残された足跡、「実像」との隔たりを検証しようと思う。
学生時代から短歌にかかわって来たので、子規との出会いは何度かあったが、その出発点は、学校の教科書や幾つかの近代短歌史で出会ったときの正岡子規像と『坂の上の雲』の正岡子規像とにはいささか異なることに興味を持ったことにある。なお、退職後、メデイア史を勉強することになって、明治の新聞を調べる中、新聞『日本』で正岡子規の従軍記事に出会ったときも、子規のあらたな一面に触れた思いがしていた。日清戦争の従軍記者を体験した子規については「子規の従軍―<君が代は足も腕も接木かな>考」(『運河』1997年12月、『現代短歌と天皇制』風媒社 2001年所収。PDFにて後掲)を書いているので、後掲をご覧いただければと思う。
<小説>
伊予松山に生まれた三人の主人公の一人となった正岡子規は、小説の冒頭で「俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れて中興の祖になった」と他の二人に先だって紹介されている。
小説での子規は、幼年時代は腕白なガキ大将秋山真之の、一風変わった遊び友達として描かれる。子規は母方の祖父大原観山の意向もあって、小学校に入っても髷を結っていた。「従順な子だったが、このことを子供心に苦にしていた」(第1巻82p)といい、松山の教員伝習所付属小学校の教員は「升(のぼる、子規の幼名)はなんぼ教えても覚えるけれ、教えるのが楽しみじゃ」といったという(第1巻86p)。さらに漢学の塾にも通い、漢詩に夢中になる子供で、中学3年の頃には、家には専用の「書斎」までつくってもらい、書物の筆写や新聞づくりに励み、自由民権運動にも関心を示していた(同101~107p)。英語が苦手ながら、世界に夢を馳せ、明治16年中学校5年で中退、母の弟で、すでに外務省に勤務していた叔父加藤恒忠の伝手で上京した。子規は、渡仏した加藤の友人、陸羯南(後に新聞『日本』の社長)に託され、大学予備門を目指す。その子規を追いかけるように、秋山真之は兄の好古を頼って上京、二人は大学予備門に合格。おおいに青春を楽しみながらも、各々進路に悩み始め、子規は文学に目覚め、予備門を中退、真之は海軍兵学校へと転身する。
明治22年(1889年)、喀血、結核と診断されるが、かねてより親しんでいた野球や俳句に励み、この頃から「子規」と号するようになる。療養のため一時松山に帰省(第1巻「ほととぎす」)。明治23年には、文科大学哲学科に入学するが、旧藩主久松家による給費生の寄宿舎では、寮生らと文芸、とくに俳句に熱が入り、翌年には国文科に転じ、退寮を余儀なくされ、学年試験にも落第、退学。明治25年には、陸羯南の援助で、郷里から母と妹を迎え、『日本』新聞社員となる。俳話の連載、俳句欄の創設、絵入り家庭新聞「小日本」創廃刊等を経る。
明治28年(1895年)、前年からの日清戦争では、同僚の従軍などに刺激され、従軍への思いが募り、病身ながら陸に懇願、3月、実現する。松山出身の後輩の弟子である高浜虚子、河東碧悟桐には遺言のような手紙を残し、日本を発つのだが、「子規の従軍は、結局こどものあそびのようなものにおわった」(第2巻「須磨の灯」169p)と評する。というのも、日本を発つ頃、すでに講和談判が始まっていたし、一か月ほどで日本に戻るのだが、その帰りの船上で再び喀血、神戸病院、須磨保養院で療養の後、松山へ帰省、折から松山中学校に赴任中の大学時代からの親友、夏目漱石の下宿に逗留する。この間、地元の仲間と句会を開き、漱石も句作を始める。秋には上京、根岸子規庵で、カリエス発症、進む病状の中、俳論、蕪村論など執筆活動は活発となり、明治30年「ホトトギス」創刊にいたる。明治31年(1898年)2月から「歌よみに与ふる書」を『日本』に連載、短歌の実作にも力を入れ、伊藤左千夫、長塚節らも子規庵を訪れるようになる。明治33年、子規に身辺では、すでに熊本の第五高等学校教授となっていた夏目漱石がイギリスへ留学し、秋山真之がアメリカ留学より帰国する(第2巻「子規庵」)。病状はさらに悪化、拷問のような苦痛の中、「墨汁一滴」「仰臥漫録」「病牀六尺」と題して書き続けたが、明治35年(1902年)9月19日、35歳で没する(第3巻「十七夜」)。
<ドラマ>
①子規の幼少時代、いつまでも髷を結っていたのを町人の悪童たちに冷やかさ れ、いじめられるのを助けるのはもっぱら秋山真之であり、妹の律であった。中学校時代、松山で開かれる自由民権運動家たちの演説会、そのチラシを配り、のぼりを立てて、子規らも演説をする。東京の叔父からの手紙で、念願かなって子規は上京、大学予備門の予備校に通い、真之とも合流、英語教師の高橋是清の授業を受け、横浜外国人居留地では日本人の地位などに疑問を持つ出来事にも出会う。(第1回「少年の国」)
②大学予備門の入学試験、学期末試験で、子規が英語で苦労しながらも、勉学の合間には、寄席や娘義太夫を見に、ある時は野球に興じ、無銭旅行に出たりする。子規は、哲学をはじめ、人情本や小説にも夢中になりながら、何を学ぶのかに悩み、俳句に興味を持ち始める。真之と同じ下宿生活をしていたが、真之は進路に疑問を持ち、海軍兵学校に入学、二人は別の道を歩むことになる。(第2回「青雲」)
③子規は無銭旅行中に一度喀血しているが、明治22年喀血、療養のため帰省。江田島から見舞いに来る真之と再会。東京に戻った子規は『日本』に俳論を連載発表。ついに大学予備門を退学、俳句に賭ける覚悟を陸に告げると、陸は『日本』への入社、家族をも呼ぶ便宜を計る。連載は「俳句といういわばふるくさい、明治の知識人からみればとるにたらぬ日本の伝統文芸に近代文学の光をあて」た仕事だったことが強調される。(第3回「国家鳴動」)
④日清開戦後、子規も従軍を希望していたが、明治28年2月に決定。従軍先では、日本軍の現地人への非情な仕打ちを目の当たりにする。宿舎では軍医の森鴎外と会い、文学談義となり、子規の俳句の写実と簡潔さを正岡らしいと励まされる。(第4回「日清開戦」)
⑤従軍からの帰途、再度喀血したが、松山では漱石の下宿に寄宿、療養、小康を得、帰京、真之のアメリカ留学を送り、「君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く」と詠む。子規の天地は、子規庵がすべてで「この小さな庭が全世界なんじゃ。こんな庭でも森羅万象、あらゆるものが学びとれる」と。(第5回「留学生」)
三人の主人公の一人である子規だが、ドラマの第1部は、いわば主人公たちの「青春物語」の部分なので、松山では時代の変わり目の家族愛や葛藤が描かれ、上京後は、青春群像の中で際立つ子規、真之にライトがあてられる。年の離れた秋山好古は、ドラマの先導役で、「優秀な軍人」へと成長してゆくさまが描かれる。少年時代、中学校時代、学生時代における「時代の空気」や「群像」の描き方は、やはり非常に類型的ではなかったかと思う。城下の街並みや野山を「棒を持って走りまわる」少年たちという、これまでの時代劇の子供像の域を出ないし、学生時代では、大声ではしゃいだり、議論したり、暴れたりといった、ただ騒々しさだけが印象に残る場面が多かった。
また、子規が展開する文学論について、原作でこそ若干そのハイライトが語られているが、ドラマではほとんど話されないし、会話にも見あたらない。確かに映像化は難しいだろうが、子規が「写実だ」「写生だ」と息せき切って語ることが多く、その核心には触れようとしない。小説では第3巻の序章で子規は没するが、ドラマでは、子規の死が第2部第7話まで持ち越されるらしい。小説では、明治の軍人兄弟の物語に子規の文芸の話をからませて、文化的な香りを醸し出すことに成功しているかもしれない。司馬の子規に対する傾倒、子規をめぐる人々の多様な魅力ある生き方への興味・関心が強いのはよく伝わってくる。司馬自身、次のように語っている。
「その若い晩年において死期をさとりつつもその残されたみじかい時間のあいだに自分のやるべき仕事の量の多さにだけを苦にし、悲しんだ。客観的にはこれほど不幸な材料を多く背負いこんだ男もすくなかっただろうが、しかしこの男の楽天主義は自分を不幸であるとは思えないようであった。明治というこのオプティミズムの時代にもっとも適合した資質を持っていたのは子規であったかもしれない。」(第8巻「あとがき五」349p)
この点に関し、関川夏央は「松山藩の文化が同時期に生みおとした秋山兄弟と正岡子規を文武の両面からえがこうとした、それが最初の発想だったと思います」(『「坂の上の雲」と日本人』文藝春秋2009年、16p)「たとえ日露戦争以前に死んでしまうのだとしても物語に欠かせなかったのだと思います」(同上、17p)と述べる。また、文庫本が出た当初より『坂の上の雲』も読み始めていたという友人が「子規が登場する3巻までは、夢中で読んだが、子規没後の物語は急に面白くなくなったので、その先はどうでもよくなった」と話しているのを最近聞いた。
ドラマの第1部では、まだ子規は存命ながら、その「晩年」に差し掛かっている。とくにドラマでは、後述のように、原作にもない、子規の妹、律の登場場面がだいぶ増やされているのがわかり、不自然に引き延ばされている感もある。子規の従軍先の戦地にあって、原作にない、日本軍曹長(森本レオ)の中国人への態度に怒る場面を挿入して、ジャーナリスト子規の「良心」を少しばかり創出したりする。
子規が取り組んだ俳句の革新、短歌の変革とはなんであったのか。ドラマはそれを明確にしないまま、ただ、病苦と闘いながらも「写生が大事」と懸命に生きているというメッセージが発信されるばかりで、子規のとらえ方が単調のように思えた。
たとえば、子規の従軍については、小説、ドラマともにかなり端折っていて、事実をあまり伝えていないように思う。たとえば『日本』に連載の従軍記「陣中日記」、翌年の『日本』の付録週報に連載の「従軍紀事」、未完小説「わが病」、詩歌作品をもう少し丁寧に読めば、上記の挿入場面のような類型的なものではなく、子規の従軍体験にはもっと複雑なメッセージが込められていたように思う。従軍前後の作品に以下があり、「なき人の・・・」は、ドラマの中で、森鴎外に褒められている句でもある。
(明治27年)
船沈みてあら波月を砕くかな(海戦)
生きて帰れ露の命と言ひながら(従軍の人を送る)
たヽかひのあとを野山の錦かな(野山の錦)
日の旗や淋しき村の菊の垣(天長節)
(明治28年)
戦ひのあとに少き燕かな(金洲 燕)
君が代は足も腕も接木かな(予備病院 接木)
行かばわれ筆の花散る処まで(従軍の時)
なき人のむくろを隠せ春の草(金洲城外 春草)
なまじひに生き残りたる暑かな(病後 熱)
(明治29年)
匹夫にして神と祭られ雲の峰 (戦死者を弔ふ 雲の峰)
また、従軍中の軍隊内では新聞記者の待遇について激しく抗議したり、内地の新聞に発表される従軍記について憲兵からの詰問があったりする。しかし、子規に従軍記は、ライバル紙『国民新聞』の徳富蘇峰「旅順占領記」や国木田独歩「愛弟通信」などの声高な愛国的な文章と比べると実に穏やかで、大陸の山河や小動物、村人の営みや日本兵や記者たちの日常を克明に綴る誠実なものであった。
ドラマはもちろん小説においても子規が果たした俳句・短歌の革新とは何であったのか、詩歌史上どう位置付けられているか、が意外と触れられていないのではないか。蕪村や万葉集への評価はどうして生まれてきたのか、などについては、私自身も、もう一度読み直し、考えてみたいと思うほどである。
司馬が随所で述べる子規の文学観を追ってみると、まず、子規が小説のような「独りだけの仕事」から短詩型(俳句・短歌)の復興の世界に入ったのは「才能よりも多分に性格的なものであった。俳句の運座を想像すればわかるであろう。宗匠役の者がその運座のお膳だてをし、題を出し、ふんいきをもりあげ、やがて選をし、たがいに論評しあって歓談する。そういう同気相集うたサロンのなかからできあがってゆく文芸であり、この形式ほど子規の性格や才質にぴったり適ったものはない」(第1巻310p)と述べる。また、司馬は、子規のいう「<空想よりも実景の描写>という芸術上の立場は」、俳句というものを歴史的に調べることからスタートし、古今の俳書、句集を丹念に探し集めて「俳句分類」を成し遂げた、ともいう(第1巻21~22p)。さらに、子規が短歌への関心を深めるにいたった事情を次のようにも述べる。「子規はこの時期、その俳論と俳句研究とその実作によって、俳句革新はほぼなしとげたといってよく、世間もこの子規の革命事業の成功をほぼみとめていた。のこるは、短歌である。この世界は、俳句よりもやっかいだった」(第2巻301p)
いま、私が関心を寄せるのは、その「俳句分類」という基礎的な地味な作業と『日本』に連載していた「歌よみに与ふる書」(全10回)一連の歌論である。後者は、「仰せの如く近来和歌は一向に振ひ不申候」、「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候」、「前略。歌よみ如く馬鹿な、のんきなものは、またと無之候」、「拝啓。空論ばかりにて傍人に解しがたく、実例につきて評せよとの御言葉御尤と在候」(1~4回)と毎回こんな風に書き起こし、「小さき事を大きくいふ嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申候」、「ただありのままを写生すると、一部一部の写生を集めるとの相違に有之、生の写実も同様の事に候。これらは大誤解に候」、「漢語にても洋語にても文学的に用ゐられなばみな歌の詞と可申候」(5~7回)のように語りおさめられる明快さで当時の名流大家を鋭く批判する。連載中の読者からの反論や批判にもすぐに応え、その姿勢と熱意には目を見張るものがある。明治31年といえば病状もかなり進んでいたにもかかわらず、である。小説・ドラマで描かれる子規像には、当時の俳句や短歌の状況が描かれないまま、やや独善的な断定に満ちていないか。子規自身の作品や著作から立ち上がる子規像との乖離が大きいように思える。ちょっと句集を開いてみても、俳句や病にちなんだものだけ選んでみても次のような作品に出会えるはずである。
(明治29年)
歌書俳書紛然として昼寝かな(昼寝)
夜を寒み俳書の山の中に坐す(夜寒)
枕にす俳句分類の秋の集 (秋時候雑)
野分の夜書読む心定まらず(野分)
吾に爵位なし月中の桂手折るべく(月)
(明治30年)
書を干すや昔わが張りし不審紙(有所思)
三千の俳句を閲し柿二つ(ある日夜にかけて俳句函の底を叩きて 木)
(明治31年)
我病んで花の発句もなかりけり(木)
紅葉山の文庫保ちし人は誰(木 観月会)
小説を草して独り春を待つ(冬 病中小照自題)
(明治32年)
芭蕉忌や我に派もなく傳もなし
門松やわがほととぎす発行所 新年
(明治33年)
新年の白紙綴じたる句帖かな(新年)
和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男(水滸伝の内 夏)
書きなれて書きよき筆や冬籠(人事 冬)
筆洗の水こぼしけり水仙花(草 冬)
(明治34年)
何も書かぬ赤短冊や春浅し(時候 春)
病人の息たへたへに秋の蚊帳(人事 秋)
(明治35年)
画き終へて昼寝も出来ぬ疲れかな(自画菓物帖の後に)
首あげて折々みるや庭の萩(臥病十年 草)
をととひのへちまの水も取らざりき(絶筆三句)
(続く)
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コメント
坂の上の雲は何回も読みました。今ドラマの再放送を見て子規が従軍記者としての活動中、中国人が軍隊批判をする姿に共鳴する処を見ましたが原作にはないものでした。これを見て以前NHKが台湾統治時の放送で台湾人にインタビューした内容を編集者の思い込みで事実のごとく放送していたことを思い出し、公共放送としてかなり偏向していると感じました。これは私だけの感じでしょうか、原作にないことをあたかも原作者である司馬遼太郎さんの考え方として映像にすることは問題だと思う。
投稿: 圓福 哲治 | 2010年12月 3日 (金) 20時53分