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2010年3月29日 (月)

インターネットの中の短歌情報~楽しく、役に立つ私流ネット検索-1-  

       

昨年、本欄で『インターネット「歌壇」はどうなるか』(二〇〇九年二月~一二月)を連載し、ご意見などお寄せいただきながら、どこか半端で終わってしまった。独断ながら、その後も気がかりな短歌関係のホームページやブログを紹介出来ればと思う。

 いま、短歌愛好者のネット利用者がどのくらいの割合を占めるだろうか。インターネットの功罪はよく聞く。機器の操作・保守や悪用被害は不安ながら、自宅に居ながら情報を入手でき、メールやブログから広がる人の輪もある。情報の取捨さえあれば、思考過程や行動様式にも少なからず刺激はあろう。加齢に伴い、そのメリットはますます大きくなるにちがいない。

①短歌ポータルtankaful(運営者光森裕樹)

運営する光森は、二〇〇八年角川短歌賞を受賞した気鋭の歌人でもある。トップの短歌情報は新聞社発のネットニュースから採録、全国紙の地方版、地方新聞の最新のニュースが見られる。イベント・書籍情報はたしかに若い歌人のものが多い。私が重宝して利用するのは「短歌賞の記録」「記念館・資料館」「リンク集」である。おもな短歌賞の第一回からのデータが一覧できる。年度や受賞者名などは主催者情報や事典・年鑑でわかるが、ここでは応募者数・選考委員までを再録する。私は選考委員の変遷、応募者数、女性の割合などに関心が及ぶ。また「歌中の歌人」は歌人の名前を詠み込んだ作品を収集している。もちろん網羅性はないし、歌壇人同士のお遊びの域を出ない向きもあるが、楽しいこともある。

・七万人を殺しし一人・いちにんの竹山広を殺せざりし (大口玲子『ひたかみ』)

・宮中の岡井隆はたちつてととてもキュートなたてがみらしい(荻原裕幸『世紀末君!』) 

  歌人の名を詠み込んだといえば、「電脳日記・夢見る頃を過ぎても」を二〇〇七年九月に閉じた藤原龍一郎は、昨二〇〇九年一二月には「藤原龍一郎・龍は眠っている」をスタートさせ、「人間のいる短歌」の連載を始めた。歌人の名に限らない短歌に詠み込まれた人名から、歌人とその生きる時代を探ろうという試みだろうか。広い目配りと自在な筆致が楽しみでもある。

②青磁社のホームページ(運営者永田淳)

 京都の歌集・歌書を専門とする出版社(創業一〇年目)のHPで、運営者は『塔』主宰者夫妻の子息で歌人でもある。新刊案内・既刊書一覧・自費出版案内・PR誌「青磁社通信」記事などは自社の宣伝である。短歌関係リンク集、掲示板もあるが、現在は、あまり更新がない。私が注目するのは「週刊時評」で、二〇〇六年六月から二年間、吉川宏志・大辻隆弘によって書き続けられた時評は、さまざまな論争を喚起した。私も途中から読み始めたのだが、歌壇には珍しくスリリングであった。論争からシンポジウムまで発展し、『社会詠とは何か』という冊子にまでなる。全容は『対峙と対話』(二〇〇九年七月)として共に青磁社から刊行された。週刊という速さが雑誌や新聞にないメリットだったのではないか。二〇〇八年六月からは、川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人が引き継ぎ、それぞれ違った切り口とときには鋭い批評が楽しめる。最近では、『短歌』二月号特集「女歌の現在(いま)」について、川本が評者や座談会参加者が男性だけという構造に疑問を呈し(「女流歌人という分類」二〇一〇年二月一日)、広坂があくまでも男性が評価する側で、女性が評価される側という古い図式に疑問を投げかけた(「<女歌>と括る意味」同年二月八日)。短歌総合誌の特集や受賞者の紹介や後追いでお茶をにごす時評が多い中、私はこの時評に着目してゆきたい。

③三月書房のホームページ(運営者宍戸立夫)

 京都の寺町二条にある三月書房は、知る人ぞ知る有名な本屋さんだ。一九五〇年創業ながら一〇坪ほどしかない店だという。三代目店主がこのHPの運営者らしい。これらの情報は『出版ニュース』に連載していた彼のエッセイに拠る。HP上にも「三月記」というブログや「三月書房販売速報」という業界向けのメールマガジンで発信を続けている。図書館勤めが長かった私には、出版界、図書館界、書店業界などの最新情報を得られるのが楽しい。HPのトップには「ふつうの新刊本」の案内があるが、他店では見かけない本、最近消えた出版社の本、吉本隆明はじめ渡辺京二、三木成夫、中井久夫・・・、かなりの読書人でないと分からないような著者の本が一覧できるコーナーもある。その一つ「現代短歌の本」をクリックすると、数百冊の「新刊一覧」があり、それに続き「現代短歌歌集・歌書在庫目録抄」がある。普通の書店の詩歌コーナーではまず見つからない短歌の本が取り揃えられている。私がこのHPを知ったのは『現代短歌と天皇制』を出版したばかりで、書評などがまだ出ない時期、上記メルマガ「三月書房販売速報」四二号(二〇〇〇年一二月)に「これから売れそうな気がする本」の一冊として拙著が掲載されていたからである。心細かった私はそれだけで随分と励まされたものだった。さらに、ブログを開設すると「短歌関係リンク集」には、たった二〇件ほどのリンク集の中に「内野光子のブログ」が載っているのを発見した。ここからのアクセスがコンスタントに持続しているだけにありがたいことだった。ブロガーの中には、アクセスランキングを競ったりする向きも少なくないが、私は自然体でいきたいと思いながらもうれしかった。京都へ出かけた折には、三月書房に立ち寄ってみたいと楽しみにしている。

一九七六年から一九八八年の一二年間、私は名古屋で暮らしていた。短大の図書館に勤めながら子育てをしていた時期で、歌壇や歌人とはほとんど没交渉となった。その後、夫の転勤で、住まいや仕事は首都圏にもどったが、仕事を辞めた現在もその状態は続いている。短歌結社、出版社、歌人のホームページやブログは、短歌情報や歌壇情報を補完するものだと思い始めている。今回は、私がよくアクセスする名古屋発信の歌人のHPやブログを紹介しよう。

ogiharacom(運営者荻原裕幸)

 昨年の本欄でも紹介したブログだが、かつては「荻原裕幸活動報告」というサブタイトルがつけられていた。一週間から一〇日のタイムラグがある。この時間差が、自在に書いているかのようであって、現実には検証や推敲に時間をかけているからだろう。冒頭の日記部分では、自分や家族の動向、季節の移ろい、羽生善治の対局だったり、ときにはサリンジャーの死や非核三原則に言及したりする。次が、歌論や比較的若い人たちの新旧の歌集や作品の紹介・鑑賞であり、分かりやすい。最後が「きょうの一首」として自らの新作を掲げる、というスタイルはほぼ不動である。そこに登場する地名や場所などはなつかしさとともに名古屋での暮らしの苦楽を思い起こさせる。愛知出身の岡井隆の影をそこここにただよわせながらも、淡々とした生き方とブログに写真を取り込まないといった自制心がときには好もしくさえ思える。最近の「きょうの一首」から引いておこう。

・淀みなきひとのことばは信じがたくたどたどしけれ梅の花咲く(三月四日)

・菜の花のひかりが眼鏡につけられた指紋のかげと混つて届く(三月六日)

                              (続く)

      (『ポトナム』20104月号~5月号所収)

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2010年3月13日 (土)

戸山公園から鬼子母神へ――箱根の山と本の山

一気に登る「箱根山」

箱根山通りは、かれこれ10年近く通い続けた道だ。国際医療センターへと数か月に一度の定期検診に向かう。帰路は、風がやや冷たいものの、ようやく晴れたこの日、初めて戸山公園へと入る。いつも急ぎ足で通り過ぎる、都営住宅1階の商店街の裏側の侘しさは格別で、店を閉じて久しい幾軒かがあった。敗戦直後の1949年、明治以降陸軍用地であった一帯に戸山ハイツと呼ばれる団地ができ、1970年代にいまの高層に建て替えられた。この公園自体は、17世紀の半ば造られた尾張藩の下屋敷で、水戸の偕楽園に並ぶ回遊式名園の跡だという。きょう目指すのは、海抜44.6mの箱根山である。団地の棟を離れて木立の中へ入ると、戸山教会と幼稚園が見えてくる。さらに進むと、なるほどスリ鉢を伏せたような築山にきちんとした階段がつけられていた。登り始めると、背後からは、男子高校生の一団がすごい勢いで駆け上がって来る。そういえばあちこちに「箱根山駅伝大会」の順路表示がされていた。息づかいがだいぶ荒くなっている生徒たちがあとから、あとから「スイマセーン」と追い抜いてゆく。中には、手をついて這い上がるようにのぼっていく生徒もいる。近くの高校の体育の授業ででもあるのだろうか。起伏もほどよい、格好のマラソンコースなのだろう。頂上からは、新宿方面が一望できる。辺りには、桜の裸木が大きく枝を張り、芽吹きを待ちかねているようであった。50段ほどの階段を下りれば、野良猫にえさをやっているお年寄り夫婦、車いすを押し、押されているのは、その会話から息子と老いた母のようでもあったし、犬との散歩を楽しむお年寄りも多い。団地の住人の高齢化は著しいにちがいない。沈丁花や越前水仙の香を楽しむのもつかの間、車の往来の激しい早稲田通りに出る。ようやく念願の「箱根山登山」を果たすことができたというわけだ。

路面電車で鬼子母神へ

きょうの帰り道には、もう一つ寄りたいところがあった。鬼子母神近くというか、むしろ南池袋、明治通りにある「古書往来座」をのぞいてみたかったのである。家の中の本がなかなか片付かないので、買い取りを相談してみようかと思い立ったのである。まずその前に、早稲田大学南門前の「高田牧舎」で昼食を済ませた。この店の独特のロゴでの店名を掲げる看板を見上げて、一度入ってみたいと思っていたのだ。2時近かったので、客はまばら、何の変哲もないレストランながら、窓越しに眺める門を出入りする学生たち、門の際には数本の桜も咲き始めていて、どこか懐かしい風景であった。「牧舎」というのは、明治時代の創業者が麹町の放牧場からこの地に引っ越してきて、ミルクホールを開いたことに由来するらしい。ランチはどれもフライやソテーで、中高年向きとはいえないが、グルメ情報では、やや割高感があって学生よりも教職員の利用が多いようなことが記されていたのを思い出す。なるほど、お年寄り夫婦は、食後、二人で薬を取り出して服み、ともにしっかりと帽子をかぶる散歩スタイルであった。大隈講堂の左手、成文堂の路地を入っていくと、「角帽」の大きな看板、水野帽子店というのがあり、棚には角帽が重ねられることなく等間隔で並んでいた。商売として成り立つのかな、と余分な心配もしながら、大通りにつきあたり、左折すると屋根のある都電のホームが見えてくる。久しぶりの路面電車、一律160円。鬼子母神までは、面影橋、学習院下をへて三つ目である。始発から20人ちょっとで満席となった。鬼子母神で下車後、矢印に沿って進んだのは、ケヤキ並木の参道だが、両脇は普通の住宅で、壁や屋根にぶつかるケヤキは、どれも相当の古木で、太い幹だけが残されているものもあった。境内の駄菓子屋は江戸時代からで、上川口屋の看板をあげている。隅にある句碑はと近づいてみると、作者が「苔人」とあり、もしやと裏面に回ってみる。「昭和37年、白炎社」とあり、御子息が建立されたらしく、河合苔人の句とわかる。昭和30年代になって、父は、河合氏が主催する句会によく出かけていた。池袋で 薬局を営む薬剤師であった父は、ドクダミの別称「十薬」という俳号が気に入っていて、地元の「豊島新聞」の俳壇に自作が載るのを楽しみにしていた。たしか選者をつとめていらした苔人さんの句碑に出会うとは思わなかっただけに、きょうの散歩の収穫だった。鬼子母神から明治通りに出る角のビルの一階にあった!古本屋さんの「往来座」が。

店内をひとまわりしてみると、整然としていて見やすかったのだが、歌集の類が見つからなかったので、聞いてみる。「少しだけですが」と棚の前まで案内してくれる。子規、茂吉から塚本邦雄、馬場あき子、福島泰樹等が並ぶ。店のひとは、基本的には、発送費を持って下さるのなら、どんな本でも、何冊でもよいという。査定をした後、値のつかないものも引き取らせていただく、とのこと。私がいま手放してもよいと思うのは、図書館学・書道関係と短歌関係の一部である。天皇制と女性史、美術関係の本はもう少しの間?手元に残しておきたい!

家に帰って、あちこちに積まれたり、押し込まれたりした本の山を眺めては、途方に暮れるのである。

補記:昨3月13日の「毎日新聞」によれば、「箱根山駅伝」は、3月14日、新宿区若松地区16町会が合同で初めて開催するのだという。区内在住・在勤者の一般参加16チームと町会対抗14チームが参加、5人が4200mを走るらしい。(2010年3月14日)

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箱根山通りに面した戸山住宅

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戸山教会の右手奥が箱根山

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2010年3月 5日 (金)

ボランティアっていうけれど、いろいろですね

  佐倉市内の組合方式による井野東土地区画整理事業はまだ進行中だが、その一部の工区の完成に伴い、マンションが建ち、商業施設が営業を始めた。その区域へのアクセスとしてユーカリが丘線をまたぐ形の傾斜10度に近い陸橋が新設され、開通した。この急な坂道と既存の幹線道路との交差路は、小中学校の通学路にもなっていた。坂下の危険性については早くより地元自治会からの指摘があり、信号機設置などの安全対策が要請されていた。組合の主たる地権者で業務代行でもある地元の開発業者(「山万」)は、工区の造成中やマンション・商業施設の建設中は、建設会社の負担で交通整理要員を配置していた。20097月、工事の終了後わずかで要員が引き上げられてしまった。工事車両の出入りはなくなったが、スーパーの買い物客や通りぬけの車が増えた。自治会は、開発業者の協力も得て要員配置の継続を希望したが、応じてもらえなかった。坂道と既存道路の歩道に自転車一時停止のポールを3か所設置したものの、通学路としての危険性は依然として解消しないままである。

 そこで、自治会は、小学校長、PTAと相談の上、会員のボランティアによる通学時の交通整理要員を配置することにした。朝の715分から30分間、午後3時から40分間、いまは多いとはいえないボランティアが2人ひと組で「交通見守り」を続け、児童たちの横断の安全確保に心がけている。私も昨年9月から週2回ほど参加して7か月になる。自分の子育て以降はじめて接する小学生たち、最初は挨拶するにも、「横断中」の旗を振るのもなんとなくぎごちなかったが、いつしか、子どもたちの方から挨拶してきたり、話しかけてきたり、なかにはいたずらを仕掛けてきたりするようになった。この交差点で毎回友だちと待ち合わせる男の子、大勢の下級生をしっかりと引き連れてくる女の子、いつもおしゃべりに夢中な女の子・・・。ふざけながら横断したりする子どもには、思わずかけよって止めることもある。ときどき姿を見せる小学校の校長や先生、PTA会長や当番の相方とのコミュニケーションもある。やっていることはささやかながら、得るものは大きかった。といって、長く続けるというのは結構むずかしい。

 「長続きすることのむずかしさ」で、思い起こすのは、毎朝早く、ゴミ拾いを 一人で続けている同じ町内のSさんのことだ。Sさんが早朝一人で3種類くらいのゴミ袋をもって街のゴミを拾っているのを知って、もう10年にもなるだろうか。私は朝の犬の散歩でときどき出会ってお話を聞く。Sさんは、退職後、健康のために続けていると、こともなげにいうが、その歩く範囲が半端ではない。自治会でいえば、少なくとも78の自治会区域におよび、世帯にしたら数千になるのではないか。日ごと巡回場所を変えているのだろうか、神出鬼没なのだ。市役所の担当からは、ゴミ袋を届けてもらい、いっぱいになったゴミ袋は、所定の場所に置いて回収してもらうようである。この町にも、複数のボランティア団体がユニホームを着たり腕章をつけたりして防犯パトロールや一斉清掃をするのを見かけるが、自分たちの「おしゃべり」に余念がなく、ゴミ袋はいつも軽そうだ。Sさんは、かつて中学生のマナーの悪さを嘆いていた時期もあったし、開発途中の街のゴミ管理にも苦言を呈していた。いまは、悪質な一部の大人たちが粗大ゴミ、吸殻、カン・ビン、生ゴミなどを路上に捨て去っていくのが、気になっているという。目には見えない、そうした人たちとの闘いでもある、ともらしていた。それにしても、とSさんは嘆く。機会があって、自らの経験を踏まえ、この町の美化について地元の開発業者に提言したことがあったそうだ。しかし、感謝の一言もなく、事務的な一通の文書が届いたきりだったという。派手な宣伝や小賢しい広報戦略?だけが目につく業者のやりそうなことのように思われた。それでもSさんは、一人、ゴミを拾いながら朝もやの街に消えて行った。 

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