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2010年4月16日 (金)

書庫の隅から見つけた、私の昭和(2)昭和40年代のソ連映画

書棚の端の埃だらけのマチのある封筒から出てきたのは、『キネマ旬報』数冊と横長の薄いパンフレットが10冊近く。パンフには「ソビエト映画祭」とあり、並べてみると、第2回(1964年)から第12回(1974年)分までそろう。その体裁は、よくみるとA4、B5の横長、B5の縦長とめまぐるしくかわる。そういえば、このころだったのか、毎年秋になると、新聞などに発表される日程を見て、ソ連大使館に往復はがきを出しては、入場券をゲットしていたことを思い出す。まだ、映画青年のはしくれのつもりで、映画とは縁が切れていなかったわけだ。劇場で映画を見ることはめっきり少なくなっていた一方で、職場に、文学座の友の会?の友人がいてチケットを買わされたり、民芸や俳優座養成学校の卒業公演などを見に行ったりしたのもこのころだったか。

ソビエト映画祭のパンフをながめると、見ているはずの映画の題名すらも覚束ない。全国で23か所を巡回して短編も含めて36編が上映されるのが恒例であった。東京会場は、有楽町の読売ホールだったり、サンケイ会館、虎ノ門ホールだったりしている。全編を見たくて2日間通ったこともある。なにがそんなに魅力的だったのか、と思い返す。私のソ連映画体験の最初は“総天然色映画”『石の花』」(1946年製作、アレクサンドル・プトゥシュ監督、日本公開1947年)ではなかったかと思う。小学校から映画館に出かけて鑑賞した記憶があるのだが、何年生の時だったか、これもはっきりしない。高校以後の学生時代に見たソ連映画はプロパガンダ映画とばかりとの思い込みがあったが、『誓いの休暇』(1959年製作、グリゴリー・チュフライ監督、日本公開1960年)あたりから、なにか違う風を感じるようになったのも確かである。映像理論の教科書ともいわれる『戦艦ポチョムキン』(1926年製作、日本公開1959年)は、多分、ソビエト映画祭とは別に開催されてた国立近代美術館フィルムライブラリー主催「ソ連映画の歩み」(1966715~821日、16本上映)という上映会で見たかと思う(そのプログラムも今回再発見)。『戦艦ポチョムキン』のオデッサ海岸の階段シーン、転げ落ちる乳母車に向かって発砲する場面は、やはり今でも忘れ難い。19056月、実際に起こった戦艦ポチョムキンの水兵たちのツアーリズムへの反乱が主題で、水兵たちとオデッサ市民、鎮圧に来た黒船艦隊との連帯がうたわれる群衆劇である。しかし、その後の水兵たちは指導者を失い、食糧もつき、ルーマニア政府に投降、多くはルーマニアに定住、ロシアにもどった兵たちは死刑ほか強制労働に課せられたという後日談がある。

ソビエト映画祭で見た映画の詳細は、ほんとうに嘘のように記憶から消えている。わずかな記憶をたどってのことであるが、当時、私がなぜソ連映画にこだわっていたかといえば、ソ連への言い知れぬ不安や不信感があったからではないかと思う。しかし、1964年第2回ソビエト映画祭で出会った『私はモスクワを歩く』(1963年モスフィルム、ゲオルキー・シバリコフ監督)は、モスクワの街を舞台に若者たちの1日を追い、青春の普遍性をやわらかな、やさしいタッチで淡々と描いていて、夢を将来につなげそうな気がしたのを覚えている。モスクワやレニングラードで製作されるトルストイ、チェーホフなどの文芸大作や革命もの、レーニンの伝記映画の類は、私には苦手だった。しかし、映画祭で上映される作品の中には、多くの連邦共和国の作品が「紛れ込んで」いた。そうした映画への期待が毎年足を運ばせたのではないかと思っている。そこには、美しい風景とヒューマンな人々の息づかいが描かれ、社会主義体制の官僚主義に堕した組織や政策への批判や抵抗も垣間見ることができたからではないかと思う。ラトビア共和国『ふたり』(1965年、ミハイル・ボーギン監督、第3回映画祭)は、音楽院生徒の少年とサーカス学校生徒の聾唖の少女との恋を描いていた。グルジア共和国『戦火を越えて』(1964年製作、レヴァース・チヘイゼ監督、第3回映画祭)は、グルジアの農夫がドイツと闘って負傷したという息子を追い、苦労してようやく会えたのは市街戦のビルで戦闘中の息子だった。二人はビルの1階と3階で積もる話をかわすなか、息子は敵弾に倒れるというラストだった。トゥルクメン共和国『うちの嫁さん』(1972年製作、ホジャクーリ・ナルリーエフ監督、第10回映画祭)、カザフ共和国『灰色の狼』(1973年製作、トロムーン・オケエフ監督、第12回映画祭)などが、プログラムの解説や写真によってかすかによみがえるものがある程度である。

ソビエト映画祭は、1963年に始まり1979年まで続いたという。私は、1976年に東京を離れ、仕事と子育ての時代に入り、映画自体とはほぼ縁が切れたことになるのだった。

今回の資料の中には、『キネマ旬報』の「ソビエト映画の全貌(ソビエト革命50周年記念特集)」(196711月下旬号)、「1970年代のソビエト映画展望(ソビエト社会主義共和国連邦成立50周年記念)」(19721130日号増刊)も入っており、これは私が購入したと思われるが、一緒にあった『フランス映画大鑑』(増刊1954120日号増刊)、『イタリア映画大鑑』(増刊195545日号)は古書店で入手したのか、兄の持ち物だったのか、定かではない。いずれにしても、しばし「懐かしの映画」に浸ったのだった。

しかし、ソ連邦解体後の元の共和国、東欧諸国と現在のロシア政府との関係を思うと、その紛争・緊張関係、最近では、たとえばカチンの森虐殺事件追悼式典のロシアの対応等は依然として暗い影をよみがえらせるのだった。

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