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2010年4月30日 (金)

ノルウェーとデンマーク、日本との違いは何か(1)三井マリ子さんの講演会

 当初は、ノルウェーとデンマーク、フィンランド、スウェーデンなどの位置関係など曖昧で、ノルウェーとデンマークをよく取り違えていた私だったが、昨年、ノルウェーとデンマークの急ぎ旅をして以来、少しずつだが、関心を持つようになった。急ぎ旅の顛末は本ブログにも登載した。最近、関連の二つの講演会に出かけたので、報告してみたい。

1.三井マリ子さんの出版記念講演会

4月27日(火)夜7時から、南麻布のノルウェー大使館で開催されたのは、「ノルウェーを変えた髭のノラ―男女平等社会はこうしてできた」という三井マリ子さんの講演だった。

最近、ある集会で三井さんと知り合ったつれあいが、講演のタイトルとなった本(明石書店 20104月)の出版記念の講演とレセプションに大使館から招かれた。テーマがテーマなので、私もどうかと誘われ、二人で出掛けた。

 三井さんといえば、高校の先生から都議会議員を務められ、その後は女性問題について研究されている人という認識であった。私たちは、去年の夏、ノルウェーからの帰国後、ノルウェー大使館のホームページ上で、三井さんがノルウェーの政治や女性問題について幾つかのレポートをされているのを知って、私のブログでも紹介させていただいた。もう少し早くから読んでおけば、ノルウェーの旅もいささか趣が変わったかもしれなかった。女性の政治参加、女性の社会的進出は日本の比ではないことを知って、驚いたのである。

 三井さんはすでにノルウェーに関する本も何冊か書かれているが、今回は昨年9月の秋の選挙結果などをも踏まえての啓蒙書といえようか。講演を聞き、本を読んで、初めて知ることも多く、ノルウェーへの認識を新たにしたのだった。

三井さんは、講演の冒頭で、ノルウェーでは、3歳以下の子どもがいる母親の就労率は75%、日本の女性就労者は第1子が生まれると70%が仕事を辞める、という現実を指摘しながら、現代のノルウェー人の考え方の根底にある、インターネットのフル活用、ポストの代理や代行を促進するシステム、環境への柔軟性にまず言及された。

 続いて、女性の社会進出には「クオータ」制の重要性を説いた。つい最近までは日本の女性が置かれている状況と変わりがなかったのに、1970年から急速にノルウェーを変えたのは「クオータ」制であったと。そして、駆け足とはなったが、1970年代は各政党内での候補者数において4050%の女性を、1980年代は雇用において40%の女性を、1990年代は男性の育児休暇取得を90%に、2000年に入って会社の取締役に40%以上の女性をという流れで進んできた歴史を語る。そして、2009年の国政選挙では7人の党首の内4人が女性で、169議席のうち66議席を女性が占める(39.1%)結果を招来するに至ったと。さらには、1879年イプセンが「人形の家」を発表した時代まで遡り、1913年女性が参政権を獲得、1978年中絶決定権を女性が獲得して行った過程が語られた。

 また、あとで、今回の本『髭のノラ』にあたってみると、現在の日本で議論されている、夫婦別姓については1964年に、1990年には、王位継承権が女性にも認められているのを知り、興味深いものがあった。この本の分かりやすさは、先駆的な女性への著者自らのインタビューを通して、男女平等への歴史や女性政策が綴られているからではないかと思う。ノルウェー最初の女性首相ブルントラント、当時の民主社会党で、党内の決定機関は50%を女性にすること、クオータ制を初めて導入した党首ベリオット・オース、女性初の南極点単独踏破の探検家リブ・アーネセンらの体験が歴史となっていく行程を解き明かす。また、著者のたゆまない行動力にも感服、とくに最終章「100年遅れを挽回するには」では、三井さん自身の教師、都議会議員時代の体験や実践には説得力があった。1980年代後半から90年代にかけてのことである。

 最近の三井さんには、もう一つの大仕事が続いている。今年の330日、大阪高裁で、「豊中市男女共同参画推進センターすてっぷ館館長だった三井さんの雇い止め」による人格権侵害が認められた逆転判決が出たばかりだったのだ。判決は「20009月から20042月まで館長を務めた三井さんを排除しようとする一部勢力に行政が屈した」とし、原告三井さんへの人格侵害による賠償の支払いを命じた。被告は上告したので、今後は最高裁で争われることになり、法廷闘争は、当分続くことになったのだ。

 講演の日、受付に立つ三井さんは、参加者の「逆転判決、よかったですね」のねぎらいの言葉に、ガッツポーズで応えていた。「きょうは、その件については一言も触れはしないけれど、ありがとう」と笑顔はさわやかだったのを思い出す。

(追記)

この日の様子は、たくさんのスナップと共に、以下の三井さんご自身のブログ(5月29日)に詳しい。

50%プラス:lykkeilig.exblog.jp

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2010年4月27日 (火)

「短歌ハーモニー」の活動が千葉市女性センター『みらい』に紹介されました

千葉市女性センターの広報誌『みらい』20号(2010年春号)に、私たちのグループ「短歌ハーモニー」の活動報告が掲載されました。センターが開設10年ということですが、「短歌ハーモニー」のたち上げが2002年3月ですから、来年で10年になり、この4月の歌会は88回でした。活動報告は、当初からのメンバーのKさんが書いてくださいましたし、毎月の歌会の資料は、当初メンバーのMさんがすべて打ちこんでくださっています。そのおかげもあって、2006年には、デザインも編集も会員自らの手によって、『青葉の森へ』という合同歌集を刊行しています。旅行のお土産などを持ち寄りながら、短歌の話はもちろんですが、政治や社会問題、教育・芸術・スポーツへと話題はかぎりなく広がり、さまざまな考え方を学ぶことも多く、楽しいひとときもあります。

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2010年4月23日 (金)

書庫の隅から見つけた、私の昭和(4)「青年歌集」と「平和歌集」

いま、手元にある「青年歌集」は、次の3冊である。

①「青年歌集・第一篇」改訂版(初版1951年)関鑑子編著 音楽センター 1953年 5月 141P 70円
②「青年歌集・第四篇」関鑑子編著 音楽運動社(取扱所音楽センター)1955年4月 70円 136P 70円
③「新青年歌集」東京合唱団編 大田洋子発行 1955年4月 159P 70円

 いずれもA6判の掌サイズの手帖の大きさ。これは、次兄が大学生のときのもので、②には、「世界をつなげ花の輪に」のハーモニカの音符の数字が記されていた。映画と歴史好きのアメリカ文学専攻だった次兄と青年歌集との接点はいまでは不明だが、当時のべストセラーの一冊だったらしい。①にある「スワニー河」「草競馬」「おおスザンナ」「オールドブラックジョー」などのアメリカの歌を、この兄のハーモニカで歌ったような気がする。①は、英・米・独・仏・伊などの民謡と大半を占めるロシア・ソビエトと日本の民謡、朝鮮・中国の解放歌、労働歌という構成で、90曲余りが収録されている。私は、「若者よ」(ひろしぬやま作詞、関忠亮作曲)をはじめ「世界をつなげ花の輪に」(篠崎正作詞、箕作秋吉作曲)「民族独立行動隊の歌」(きしあきら作詞、岡田和夫作曲)「インターナショナル」(佐野碩・佐々木孝丸訳詞 デ・ジェ・エール作曲)などは歌詞を見ながらなら歌えそうだ。
 どこで覚えたかといえば、次兄より8年後に大学生になっている私は、1960年の安保闘争時に参加した学生自治会の集会やデモでではなかったか。集会や行進しながらでも、いろいろ歌っていたような気がするが、1960年5月20日の深夜の自民党の新安保条約単独採決で、安保改定阻止運動はさらに盛り上がり、国会周辺には連日数十万というデモ隊が押し寄せていた頃である。6月15日は、6月4日に続く第2次実力行使の日で、国会周辺は33万人のデモ隊が集結したといい、南通用門では樺美智子さんが圧死した。また、6月20日は、新安保条約が自然承認される日とあって、19日の夜、私たちの自治会も国会へと向かったが、議事堂にはなかなか近づけず、少し進んでは街中の歩道や広場に座り込んでいた。そんなときに好んで歌われていたのが「青年歌集」収録の歌だった。
 また、学生時代は、体育の授業の代わりに登山やスキーの講座もあったので、友人とよく参加し、山小屋やスキー宿で、盛んに歌われたのも「雪山讃歌」や「青年歌集」のロシア民謡だった。どんな場にも、歌や合唱のサークル、セツルメントの友人たちがいて、率先して指揮をとったものだった。「泉に水汲みに来て 娘らが話していた 若者がここにきたら 冷たい水あげましょう・・・」という「泉のほとり」は今でも好きな歌の一つだ。さらに、就職先の労働組合からも色々な集会への誘いは受けたが、あまり参加することがなくなった。しかし、メーデーには新人ということでよく動員された。流れ解散でいつもの勤務より早めに途中から抜け出すことができることもあって、自分から参加したこともあった。会場や行進中に配られたのが、次の「平和歌集」ではなかったか。
④「うたごえは平和の力 平和歌集1965」(第36回メーデー記念)音楽センター刊 23P 10円
 「青年歌集」よりさらに一回り小さい判のてのひら歌集で、いわば歌詞集で楽譜が付いているのは44曲中3曲、曲目は「青年歌集」に重なるものが多い。いま、私の手元には、④と1967年版と1968年版の3冊がある。「青年歌集」は左開きで、「平和歌集」は右開きというのも時代の流れか。「ぼうぎゃくの鎖たつ日 旗は血に燃えて・・・いざ闘わんいざふるい起て ああインターナショナル・・・」「民族独立行動隊 前へ前へ進め」「聞け万国の労働者 轟わたるメーデーの・・・」などの定番の歌詞は、もう、なんか気恥ずかしくて、大声では歌えなくなっている自分がいた。「若者よ」などには、変な「替え歌」があって、職場の忘年会などで歌われていた。さらに、その一方で、「沖縄を返せ」(全司法福岡地裁支部作詞、荒木栄作曲)「原爆許すまじ」(浅田石二作曲、木下航二作曲)などは、歌詞をいま落ち着いて読むと、そのメッセージは半世紀以上経っても通用するものであることにむしろ驚いている。
 「1953年日本うたごえ祭典」が11月に東京の共立講堂と日比谷公会堂で開催され、6000人が参加し、以降は、会場にもよるが、1965年日本武道館の52000人が最高で、その後もしばらく3~5万人規模の参加が続く。同じ1965年は労音会員が65万人にも達し、労働者たちの文化的関心や活動が多様化してくる中、1969年には新宿駅の西口広場の反戦フォークソング集会が恒例化しつつあった。また、1950年前半には新宿の「どん底」「灯」など「うたごえ喫茶」がオープンし、私が住んでいた池袋に「山小屋」が出来たのが1957年だった。学生や社会人になっても、私は、まず煙草が嫌いなのでほとんど出入りはしなかった。
 なお、「うたごえ運動」や「労音」が盛り上がっていた頃、私にはどうしてものめり込めない何かがあった。というより私自身が「歌う」こと自体あまり上手ではなかったし、みんなで一緒に歌うということが苦手だったからか。さらに、コンサートや演劇くらいせめて自分で選んで出かけたいと思ったからではないかと思う。しかし、実際には映画・展覧会はかなり気ままに、新劇がときどき・・といった程度の「文化的生活」に過ぎなかった。
 その無関心さのためか、今回、この記事のため、若干の書物やネット検索によって、はじめて知ることも多かった。「歌」が出来るまでには、さまざまな背景や物語があることも知った。「インターナショナル」はすでに大正時代から歌われ、訳詞が定着したのは、昭和の初期の佐野・佐々木の演劇人によるものだった。たしかに、佐々木孝丸は、映画の渋いわき役でよく見ていた俳優だった。「民族独立行動隊」の作詞者が、国鉄大井工場でレッドパージに遭って煙突に登って抵抗した人物であったこと。1954年3月第五福竜丸被爆事故を機に原水爆禁止運動の歌として作られたのが「原爆許すまじ」だったこと。「世界をつなげ花の輪に」は敗戦後まもなく新労働歌として公募した時に第2位入選作だったこと。「青年歌集」の編者であり、うたごえ運動の指導者でもあった関鑑子の生き方、などなど。

参考資料:
① 『日本流行歌史』古茂田信男ほか編著 社会思想社 1970

② 「うたごえ年表1945-2009」うたごえサークルおけら(bunbun)編 2010年1月

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書庫の隅から見つけた、私の昭和(3)「川田正子愛唱童謡曲集・第一輯」と「五年生の音楽」ほか

歌集というと歌詠みの歌集と間違われるのだが、曲も付いた、古い歌集がいろいろ出てきた。何回かの引越しの度にどうしても捨てられず、ここまでたどり着いたのだろう。まずは私が使った童謡集と教科書だ。

①「川田正子愛唱童謡曲集・第一輯」海沼実選曲 白眉社 19469月 16P 15円 

②「川田正子愛唱童謡曲集・第三輯」海沼実選曲 白眉社 194791615

③「川田正子孝子愛唱童謡曲集第1集」海沼実編 新興音楽出版社 19495 24P 40

④「日本名歌百曲集」加藤省吾編 新興音楽出版社 195010月 160P 160

⑤「日本童謡唱歌百曲集」改訂版 加藤省吾編 新興楽譜出版社 195011月 160P 160

⑥「五年生の音楽」再版翻刻版(文部省著作教科書)文部省著 大阪書籍(株)1949 12月 1090

⑦「六年生の音楽」修正版(文部省著作教科書)文部省著 日本書籍(株) 1951 3月 26円 


 ①から⑤まではB5判、⑥⑦はA5判で、いずれも綴じが崩れ、表紙がはずれているものもある。仙花紙というのか、すっかり茶色になっている。

①には「平和日本の進路に第二国民の健全なる知能徳性の涵養は重大関心事である。天真無雑な児童の感情に音楽の与へる偉大なる影響は決して等閑視出来ない。この意味に於て今日ラジオの有する重要な存在意義を深く考えるとき・・・」という編輯者、三戸知章の「はしがき」のような文が表紙裏に記されている。「見てござる」「めえめえ子山羊」「赤とんぼ」「里の秋」「汽車ポッポ」など9曲。②には、草川信の短い「はしがき」があり、「海沼さんと云ふ良いお百姓さんは、正子ちゃんと云ふ美しい花を咲かせました・・・」と始まる。「蛙の笛」「嬉しい豊年」「お猿のかごや」「可愛いい魚屋さん」「みかんの花咲く丘」など8曲。私は「里の秋」と「みかんの花咲く丘」が好きだったから買ってもらったのだろうか。裏表紙の広告によれば、このシリーズは第五輯まであって、第二輯は持っていないが、「農家の皆さん今晩は」「土曜日の午後」「シンチュウグンノヘイタイサン」などを収録している。これらは聞けば思い出すかもしれないが、覚えていない。なかの「月の沙漠」「婆や訪ねて」はよく歌ったものだ。③11曲のトップが「少年王者の歌」で、これは聞けば思い出すだろうが、すぐには歌えない。知っているのは「あの子は誰あれ」「赤い靴」「どこかで春が」「みかんの花咲く丘」だ。①②の表紙にはいずれも川田正子、③には笑顔の正子・孝子の写真があり、当時の私たちにはアイドルであり、スターだった。時代が少し下ると美智子が加わり三姉妹の童謡歌手といわれた。さらに、後年、美智子は、二人の姉とは異父姉妹だったことなどを知ることになる。

④⑤は、⑤の初版の方が先に出版しているが、姉妹編として④を出すにあたって、十数曲を④に譲り、文部省唱歌を加えたという。④の編者の「序言」によれば⑤の初版が売れて判を重ねたので「童謡唱歌」の方は小学生向け、④の「名歌」の方は中学校高校生向けということで、改訂したようだ。たしかにこの2冊は、私も長い間利用していたと思う。

⑥⑦は教科書だから、楽器の写真や楽典の初歩的な記述もあり、私の書き込みもある。いわゆる文部省唱歌だから外国曲が多いが、歌詞は、文語調が多く小学生にはなじまなかったのでは。高学年になって、音楽専科の若い女性教師は、男の子のいたずらに怒って泣いて教室を出て行ったり、歌の上手な子を「ひいきに」したりで、私は、教科の音楽は好きになれず、「ヒステリー」などという言葉を覚えたのもこのころだ。その分、ラジオから流れる童謡には、胸踊らせたのではないか。

 

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2010年4月16日 (金)

書庫の隅から見つけた、私の昭和(2)昭和40年代のソ連映画

書棚の端の埃だらけのマチのある封筒から出てきたのは、『キネマ旬報』数冊と横長の薄いパンフレットが10冊近く。パンフには「ソビエト映画祭」とあり、並べてみると、第2回(1964年)から第12回(1974年)分までそろう。その体裁は、よくみるとA4、B5の横長、B5の縦長とめまぐるしくかわる。そういえば、このころだったのか、毎年秋になると、新聞などに発表される日程を見て、ソ連大使館に往復はがきを出しては、入場券をゲットしていたことを思い出す。まだ、映画青年のはしくれのつもりで、映画とは縁が切れていなかったわけだ。劇場で映画を見ることはめっきり少なくなっていた一方で、職場に、文学座の友の会?の友人がいてチケットを買わされたり、民芸や俳優座養成学校の卒業公演などを見に行ったりしたのもこのころだったか。

ソビエト映画祭のパンフをながめると、見ているはずの映画の題名すらも覚束ない。全国で23か所を巡回して短編も含めて36編が上映されるのが恒例であった。東京会場は、有楽町の読売ホールだったり、サンケイ会館、虎ノ門ホールだったりしている。全編を見たくて2日間通ったこともある。なにがそんなに魅力的だったのか、と思い返す。私のソ連映画体験の最初は“総天然色映画”『石の花』」(1946年製作、アレクサンドル・プトゥシュ監督、日本公開1947年)ではなかったかと思う。小学校から映画館に出かけて鑑賞した記憶があるのだが、何年生の時だったか、これもはっきりしない。高校以後の学生時代に見たソ連映画はプロパガンダ映画とばかりとの思い込みがあったが、『誓いの休暇』(1959年製作、グリゴリー・チュフライ監督、日本公開1960年)あたりから、なにか違う風を感じるようになったのも確かである。映像理論の教科書ともいわれる『戦艦ポチョムキン』(1926年製作、日本公開1959年)は、多分、ソビエト映画祭とは別に開催されてた国立近代美術館フィルムライブラリー主催「ソ連映画の歩み」(1966715~821日、16本上映)という上映会で見たかと思う(そのプログラムも今回再発見)。『戦艦ポチョムキン』のオデッサ海岸の階段シーン、転げ落ちる乳母車に向かって発砲する場面は、やはり今でも忘れ難い。19056月、実際に起こった戦艦ポチョムキンの水兵たちのツアーリズムへの反乱が主題で、水兵たちとオデッサ市民、鎮圧に来た黒船艦隊との連帯がうたわれる群衆劇である。しかし、その後の水兵たちは指導者を失い、食糧もつき、ルーマニア政府に投降、多くはルーマニアに定住、ロシアにもどった兵たちは死刑ほか強制労働に課せられたという後日談がある。

ソビエト映画祭で見た映画の詳細は、ほんとうに嘘のように記憶から消えている。わずかな記憶をたどってのことであるが、当時、私がなぜソ連映画にこだわっていたかといえば、ソ連への言い知れぬ不安や不信感があったからではないかと思う。しかし、1964年第2回ソビエト映画祭で出会った『私はモスクワを歩く』(1963年モスフィルム、ゲオルキー・シバリコフ監督)は、モスクワの街を舞台に若者たちの1日を追い、青春の普遍性をやわらかな、やさしいタッチで淡々と描いていて、夢を将来につなげそうな気がしたのを覚えている。モスクワやレニングラードで製作されるトルストイ、チェーホフなどの文芸大作や革命もの、レーニンの伝記映画の類は、私には苦手だった。しかし、映画祭で上映される作品の中には、多くの連邦共和国の作品が「紛れ込んで」いた。そうした映画への期待が毎年足を運ばせたのではないかと思っている。そこには、美しい風景とヒューマンな人々の息づかいが描かれ、社会主義体制の官僚主義に堕した組織や政策への批判や抵抗も垣間見ることができたからではないかと思う。ラトビア共和国『ふたり』(1965年、ミハイル・ボーギン監督、第3回映画祭)は、音楽院生徒の少年とサーカス学校生徒の聾唖の少女との恋を描いていた。グルジア共和国『戦火を越えて』(1964年製作、レヴァース・チヘイゼ監督、第3回映画祭)は、グルジアの農夫がドイツと闘って負傷したという息子を追い、苦労してようやく会えたのは市街戦のビルで戦闘中の息子だった。二人はビルの1階と3階で積もる話をかわすなか、息子は敵弾に倒れるというラストだった。トゥルクメン共和国『うちの嫁さん』(1972年製作、ホジャクーリ・ナルリーエフ監督、第10回映画祭)、カザフ共和国『灰色の狼』(1973年製作、トロムーン・オケエフ監督、第12回映画祭)などが、プログラムの解説や写真によってかすかによみがえるものがある程度である。

ソビエト映画祭は、1963年に始まり1979年まで続いたという。私は、1976年に東京を離れ、仕事と子育ての時代に入り、映画自体とはほぼ縁が切れたことになるのだった。

今回の資料の中には、『キネマ旬報』の「ソビエト映画の全貌(ソビエト革命50周年記念特集)」(196711月下旬号)、「1970年代のソビエト映画展望(ソビエト社会主義共和国連邦成立50周年記念)」(19721130日号増刊)も入っており、これは私が購入したと思われるが、一緒にあった『フランス映画大鑑』(増刊1954120日号増刊)、『イタリア映画大鑑』(増刊195545日号)は古書店で入手したのか、兄の持ち物だったのか、定かではない。いずれにしても、しばし「懐かしの映画」に浸ったのだった。

しかし、ソ連邦解体後の元の共和国、東欧諸国と現在のロシア政府との関係を思うと、その紛争・緊張関係、最近では、たとえばカチンの森虐殺事件追悼式典のロシアの対応等は依然として暗い影をよみがえらせるのだった。

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2010年4月13日 (火)

書庫の隅から見つけた、私の昭和(1)きいちのぬりえ

2010_0422  夫の退職に伴って、たくさんの本が家に帰って来た。我が家の小さな書庫は二人のため込んだ本ですでに満杯、不要なものは捨てなければならない。切羽詰まった感じで3月から作業を始めているが、なかなかはかどらない。いろいろな思いがつまった本、本ではない、移り渡った職場でのレファレンス記録や会議録、組合資料やサークル資料に、10年間の司書講習で使った教材・記録、自分の使った教科書、子どもの教科書、どういうわけか、大正15年生れと昭和8年生れの兄たちの教科書まである。まさに「過去を引きずる女」と夫は笑うが、「片付けられない」女になってしまった。

紙類は、なるべく目をつぶって捨てた。本は、今のところ6箱ほど古本屋さんに送ってみたが、着払いのところ、送料負担のところとあったが、たいした額にはならなかった。しかし、捨てきれないものは、懲りもせず古本屋行きとなるだろう。

そんな作業のなかで、2か所から出てきた、袋入りの「ぬり絵」、すでに色をぬったものを含めると数十枚になった。触ると崩れそうな仙花紙だから丁寧に分類してみると、やはり「きいち」作のものがいちばん多かった。大部分がB6の大きさで、カラー刷りの袋入りであった。なかには、B5、B4という大判もある。漫画とも、アニメの絵とも違う、まして、最近書店に並ぶ「大人のぬりえ」の精密さもない、ふくよかで、目が大きくて、小さい唇の顔、太い足の4・5等身の少女たち。大きなリボン、幅広の帽子、フリルのついたワンピース、浴衣や振り袖も結構多い。憧れのファッションやお姫様のイメージが強かったが、実際のところ、意外と生活感のある絵も多かった。といっても当時の実生活とはかけ離れた牧歌的なものではあったが、「たのしいかりいれ」(大きな稲の束を抱えた)、「ごはんをたきます」(大きな釜ののったかまどに火をくべる)、「むしぼし」(干された着物のかげから顔を出す)の少女たちが愛らしい。なかには男の子と三輪車の「ふたりのり」や男の子が野球帽を後ろ前にかぶった「じてんしゃ」というのもあった。私がぬり絵を楽しんでいたのは、昭和25年前後ではなかったか。小学校高学年で、こんな遊びをしただろうか。もう記憶が定かではない。

そこで、ネット上で行き当たった、町屋にある「ぬりえ美術館」(2002年8月開館)の記事によれば、「ぬりえ」もなかなか奥が深い。国際的な交流もあるという。週末と祝日開館というが、ぜひ訪ねてみたい。

私のスクラップの中に、きいち、蔦谷喜一は200591歳で亡くなった時の訃報がある。川端画学校、クロッキー研究所で本格的に学んでいた。また、美術館の「きいちプロフィル」によれば、敗戦前は、一時「フジヲ」の名前でぬりえを作成していたが、本格的にぬりえを作成し始めたのは昭和22年あたりからだという。私の持っている「きいちのぬりえ」の袋には、いずれも「石川松聲堂」「不許復製」の文字が小さく印刷されている。

ほかの作者では「ひでを」「きみこ」「フジオ」「たけを」と名前のないものが数枚ずつ、残っている。はやく美術館に出かけ、どんな画家だったのかも確かめてみたい。片付けのさなか、また仕事が増えたようだ。

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2010年4月 9日 (金)

美容院の閉店と街づくり

近くの美容室が閉店になった

3ヶ月ぶりにカットに出かけた美容室が、4月末日で閉店になるという。平成元年にオープンという。我が家が当地に転居したのが1988年、昭和63年だから、この町の移り変わりをほぼ一緒に眺めてきたことになる。家にいちばん近いこととスタッフのおしゃべりが過ぎないのが気に入っていた。私がまだ働いていた頃、休日に行くと必ず23人の客が待っていた。予約制ではなかったものの「すぐできますよ」と言われて1時間以上待たされて、いらだつこともあった。当初、美容師はオーナーをふくめて3人だったが、ここ数年は、オーナーとその姪にあたる人との2人になり、どの時間帯に出かけても待たずにできた。この間、近隣に美容室が増えたことも確かではある。

そして、1年前、この店から23分ほど歩いた近くにマンションとスーパーができて、それに付随する商業施設として格安料金の美容院がオープンしたのだ。新しい店はカット1700円で割引券もバラ撒かれ、1400円になるという。これまでの店は、カット3500円で、値下げすることはなかった。私自身は面倒くささが先に立って、店を変えることはしなかったのだが、客足は落ちていたのだろう。閉店の理由として、オーナーは、世にいう定年還暦を迎えたし、店の賃貸契約も更新の時期となったからと語っていたが、やはり、格安店のオープンが大きな影を落としていたことは間違いないだろう。

「都市計画」の杜撰さと不正経理と

近頃、どこにでもある話ではあるが、20年以上通った店がなくなるのは、ことのほかさびしい。格安でなくてもいい、便利で気持ちよく利用できる店には続いてほしかった。隣接の土地区画整理事業区域内の地元開発業者によるマンションは300戸以上の大型で、招いたスーパーも中規模で24時間営業をうたってオープンした。が、そのマンションはまだ3分の2は売れ残り、窓の明かりもまばらな状況だし、スーパーもすでに営業時間は24時間から9時~夜中12時までに短縮し、つい先月、薬品部とパン屋が撤退している。商業施設の空き室も多く、テナントも長続きしない中、先の格安の美容院のみが健在なのだ。「長引く景気の低迷」のなせるワザだけなのか。近接の井野東土地区画整理事業による開発がごとごとく裏目に出ているのはなぜだろうか。私たち近隣住民有志が、あるいは、隣接自治会が、みずからの住環境保全のため、この開発事業の見直しや縮小を、行政や土地区画整理組合、業務代行の開発業者に要望してきたのは、決して間違ってはいなかったのだ、とつくづく思う。身の丈に合った、適正規模の開発ならば、環境保全と便利さのバランスの中で、もう少し住みやすい街づくりが進められたのではなかったか。

この土地区画整理組合による開発事業を認可したのは、千葉県だ。その千葉県・佐倉市の「都市計画」の「無計画さ」と杜撰さは、本ブログでも何度か書いてはいるが、このたび発覚した千葉県の不正経理のあくどさと共通している。その根ぐされの原因は、業者との癒着、職員のやる気の無さ、モラルの低下ではなかったか。そんな場面に私も何度か遭遇したのだった。

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2010年4月 8日 (木)

千葉県、不正経理の泥沼~「移動交番」なんかに騙されてはいけない

氷山の一角のような気がしてならない

 4月5日で、森田健作が千葉県知事に就任して1年になる。ほんとうに、腹が立つやら、情けないやら、千葉県民が選んでしまった知事なのだ。千葉テレビは、48日から、森田健作主演のテレビドラマ「おれは男だ」の再放送がはじまるというので、知事は大喜びらしい。(『毎日新聞(千葉版)』201042日)

 その森田知事が、昨2009年夏、発覚した県庁の不正経理について、堂本暁子前知事時代の不祥事とばかり、勇んでその解明に胸を張った。が、調査は遅々として進まず、それでも9月と12月に調査結果が公表された。森田知事就任以降も、複数部署で不正経理がなされていたことも発覚。分かっただけでも、2008年までの6年間で40億円になる。関係部署は、96%に及び、知事部局ではすべての部署から、全体で1824名の職員の処分者を出している(教育職は別)。一般行政職員は約8000人だから、ほぼ4分の1が処分されていることになる。教育職約40000人、警察職約12500人(「千葉県の給与・定員等について・平成19年度」)においても不正経理は報告され、県立学校からも462人が処分された。これでは、県民の税金で犯罪者集団を雇っているようなものではないか。

その不正経理の手口は多岐にわたる。会計検査院はつぎのように区分する。そのすべての方法が「実施」されていたという。

①預け金:取引業者に架空請求させ、その支払い代金を業者にプールさせる

②差替え:契約とは別の物品を納入させる)

③一括払い(業者に納入させ、納入物品とは異なる請求書を作らせ、後でまとめて支払う)

④先払い、翌年度納入、前年度納入など事実と異なる検収日付により支払う)

千葉県では、圧倒的に①の「預け」が多かったが、「不適正」については千葉県独自の分類もする。経理処理の日付が不適切な場合、伝票とは異なる消耗品を納めさせた場合、消耗品の支出伝票でパソコンやデジカメ等の備品を納入させ、現物確認できた場合(返還率は0~10%)、確認できなかった場合、将棋盤など公金の支出として不適当で、現物が確認できる場合、公金支出が不適当な消耗品、飲食物などで現物確認できない場合、私的流用が疑われる金券類や使途が不明な場合など、は、全額返還させる、としている。昨年末の報告では、推定約9億円を職員から県に返還させるとしているのだが、主幹級以上の職員による、その返還金について、ある部署で職員一人1万円のカンパを強要したという事実までも内部告発で明らかになった。

2月県議会予算委員会では、この不正経理の質疑においても、知事はほとんど答弁に立たず、総務部長に代弁させていたという。さらに、昨秋1022日議会に設置された不正経理調査特別委員会は13回開かれたが、さらに調査期間延長を、民主・公明と共産・市民ネット・社民・無所属の4会派で発議したが、自民の反対で否決された。自民党の言い分はといえば「特別委の所期の目的は果たせたので、今後は再発防止の未来志向で」「千葉県国民体育大会に力を入れるべき」「議会にも責任があるのだから議員報酬の削減を」などと調査の幕引きをはかった。

長期間、巨額の不正経理がなぜ見逃されてきたのだろう。1997年には、内部告発もあって、議会でも問題になったが、当時の沼田武知事は「誰からとも分からない通報だ」と調査を拒否し、2008年堂本前知事が指示した内部調査も進まなかった。県職幹部と多数会派自民党、業者との癒着は闇に葬られようとしていたのだと思う。毎日新聞政治部記者の署名記事では、その防止対策として仲間内の内部監査では限界があり、日常的な外部監査の必要性が強調されていた。

「移動交番」なんかに騙されてはいけない

 森田知事は、父親が警視庁の警察官であったとかで、警察行政への個人的な思い入れがあるそうだ。その一つの表れなのか、「移動交番車」の制度が3月から発足した。佐倉警察署にも1台配備され、4月は1日2時間の4か所に開設という。1か月で延べ8時間稼働したところで何ができるというのだろう。事件事故多発地帯、交番新設要望地域での届け出受理、パトロールなどを行い犯罪抑止や防犯強化を図るという。今年度は県内の15市に1台配備、佐倉市が、その15市に選ばれたのは犯罪多発区域だったからだろう。近頃、私の住む町内でも、空き巣や車上狙いが多発、振り込め詐欺もあとを絶たないらしい。だとしたら、もっと先にやるべきことがあるのではないか。知事のパフォーマンスに振り回されるだけではないか。まず、まるで焼け石に水のような移動交番より既設交番への警察官配備を徹底してほしい。交番の前を通っても、無人の場合がほとんどなのである。110番通報しようものなら、通報者の身分を徹底的に調べ上げるが、肝心の対応がにぶい。昨年末、佐倉警察署では、薬物捜査担当の警部補が覚せい剤取締法違反で逮捕された。最近では、中井国家公安委員長、警察庁幹部らのスキャンダルが次々と報道されている。そして、今回発覚した県警の不正経理の詳細も明らかにされていない。森田知事だって当選直後に発覚した自称「剣道2段」問題はともかく、「完全無所属」公選法違反問題では不起訴処分になったものの釈然としないし、政治資金問題はその後ウヤムヤになっているではないか。

このレポート作成には、以下の資料とMSN産経ニュース、asahi.comマイタウン千葉などのインターネット情報を利用した。

千葉県経理問題特別調査結果報告書概要(千葉県)200999

千葉県経理問題特別調査結果報告書[追加調査分]概要(千葉県)20091218

記者の目・病理根深い千葉県の不正経理(倉田陶子)『毎日新聞』201041

千葉県議会議員小松実のホームページ2010319日ほか

市民ネット・社民・無所属千葉県議会報告『ししゃむ通信』20103

“熱血”県政の評価・森田知事就任1年『東京新聞』(千葉中央版)201045

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2010年4月 2日 (金)

醍醐志万子追悼関連書誌~お礼にかえて~

 醍醐志万子の一昨年20089月の逝去から一年半が経つ。一周忌には妹弟が相寄って、第九歌集『照葉の森』(短歌新聞社 2009年)を刊行した。志万子本人も次の歌集の心づもりがあったので、あえて「遺歌集」とはしなかったのが遺族の気持ちだった。解説を書いてくださった遠藤秀子さんはじめ『風景』『塩』短歌会でご一緒してくださった同人の皆様には一方ならぬお世話になった。

 また、書の会では、一周忌にあわせて、和田青篁先生はじめ同人の方々のご尽力で「追悼展」(兵庫県民アートギャラリー、2009924日~27日、図録『追悼展・醍醐志万子の書』青心会・榛の会刊)を開催してくださった。(本ブログ200937日「歌人、醍醐志万子をたどる」、2009927日「何年ぶりの神戸だろうか~『追悼展・短歌と書・醍醐志万子の書』参照」)。

私は、短歌の道の後輩として、身内の一人として、ここに、皆様の追悼文及び『照葉の森』評などの文献を記録し、お礼にかえたいと思う。また、頂いた掲載誌、コピーなどがきょうだいの間で行き来したりして、漏れがあるかもしれない。おいおい補ってゆきたい。

本ブログでは省かせていただいたが、貴重な紙面を割いて訃報掲載や出版紹介をしてくださった誌紙編集部にも心からお礼を申し上げたい。

ありがとうございました。

(短歌関係)

小島さえ:追悼 醍醐志万子さん      『郷友』(多紀郷友会)

 20095

内野光子:(戦中派歌人研究下)醍醐志万子・照葉の森へ

                     『短歌現代』20095月 

北尾勲:現代歌人の近作鑑賞」       『日本海新聞』

 20091014

清水房雄:本格・熟練の調べ・『照葉の森』『短歌新聞』

 20091110

受贈歌集紹介『照葉の森』         『青樫』200911

玉城徹:歌集『照葉の森』について     『左岸便り』200911月

日高堯子:(ほんのページ)『照葉の森』  『短歌』200912月 

楠田立身:(歌集)書と歌を止揚した実り  『照葉の森』

          『神戸新聞』

 20091224日                 

多田達代:(本の風景)『照葉の森』    『短歌海流』

                    (香川県歌人協会)

                          2010年1 

田中夏日:(受贈歌集紹介)『照葉の森』  『青炎』20102

桜井美保子:受贈歌集歌書御礼『照葉の森』『冬雷』20104月 

安森敏隆:(いのちを見つめる)お辞儀一つ『NHK短歌』20104月 

その他、作品抄出・紹介を掲載していいただいた雑誌

『稜』(200911月刊)

『辛夷』『創生』『サキクサ』『ポトナム』『林間』『餐』

                    (200912月刊)

『白鷺』『醍醐』『薫風』『埴』『あふち』(20101月刊)

(書関係)

和田青篁:醍醐志万子氏の書業  『青心』臨時号2010年1月

織田菁水:凜として       同上

新家青女:生涯の師       同上

小島みかゑ:ゆたにゆたに    同上

池崎真理:私の好きな書「醍醐志万子の書」より 同上

和田青篁:高い精神性      『追悼展・醍醐志万子の書』

 20099

遠藤秀子:飛白の書       同上 

安東久子:ぐみの実       同上

小島さえ:書に向く       同上

木田茂之:醍醐志万子さん    同上

醍醐聰:姉・志万子の思い出   同上

清水和美:志万子の書と歌    同上

安倉瑞穂:書塾のこと      同上

内野光子:こころざし一つ    同上

醍醐志万子さん没後1年・書と短歌で追悼展

                               『神戸新聞』2009924

(鼎談・池崎真理・白杉順・和田青篁):醍醐さんの書を語る

                『青心』

               (追悼展特集)20101

なお、以下のブログ記事も参照していただけば幸いです。

醍醐聰:醍醐志万子第九歌集『照葉の森』の出版に寄せて

                     (『醍醐聰のブログ』20091025日)

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