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2010年4月13日 (火)

書庫の隅から見つけた、私の昭和(1)きいちのぬりえ

2010_0422  夫の退職に伴って、たくさんの本が家に帰って来た。我が家の小さな書庫は二人のため込んだ本ですでに満杯、不要なものは捨てなければならない。切羽詰まった感じで3月から作業を始めているが、なかなかはかどらない。いろいろな思いがつまった本、本ではない、移り渡った職場でのレファレンス記録や会議録、組合資料やサークル資料に、10年間の司書講習で使った教材・記録、自分の使った教科書、子どもの教科書、どういうわけか、大正15年生れと昭和8年生れの兄たちの教科書まである。まさに「過去を引きずる女」と夫は笑うが、「片付けられない」女になってしまった。

紙類は、なるべく目をつぶって捨てた。本は、今のところ6箱ほど古本屋さんに送ってみたが、着払いのところ、送料負担のところとあったが、たいした額にはならなかった。しかし、捨てきれないものは、懲りもせず古本屋行きとなるだろう。

そんな作業のなかで、2か所から出てきた、袋入りの「ぬり絵」、すでに色をぬったものを含めると数十枚になった。触ると崩れそうな仙花紙だから丁寧に分類してみると、やはり「きいち」作のものがいちばん多かった。大部分がB6の大きさで、カラー刷りの袋入りであった。なかには、B5、B4という大判もある。漫画とも、アニメの絵とも違う、まして、最近書店に並ぶ「大人のぬりえ」の精密さもない、ふくよかで、目が大きくて、小さい唇の顔、太い足の4・5等身の少女たち。大きなリボン、幅広の帽子、フリルのついたワンピース、浴衣や振り袖も結構多い。憧れのファッションやお姫様のイメージが強かったが、実際のところ、意外と生活感のある絵も多かった。といっても当時の実生活とはかけ離れた牧歌的なものではあったが、「たのしいかりいれ」(大きな稲の束を抱えた)、「ごはんをたきます」(大きな釜ののったかまどに火をくべる)、「むしぼし」(干された着物のかげから顔を出す)の少女たちが愛らしい。なかには男の子と三輪車の「ふたりのり」や男の子が野球帽を後ろ前にかぶった「じてんしゃ」というのもあった。私がぬり絵を楽しんでいたのは、昭和25年前後ではなかったか。小学校高学年で、こんな遊びをしただろうか。もう記憶が定かではない。

そこで、ネット上で行き当たった、町屋にある「ぬりえ美術館」(2002年8月開館)の記事によれば、「ぬりえ」もなかなか奥が深い。国際的な交流もあるという。週末と祝日開館というが、ぜひ訪ねてみたい。

私のスクラップの中に、きいち、蔦谷喜一は200591歳で亡くなった時の訃報がある。川端画学校、クロッキー研究所で本格的に学んでいた。また、美術館の「きいちプロフィル」によれば、敗戦前は、一時「フジヲ」の名前でぬりえを作成していたが、本格的にぬりえを作成し始めたのは昭和22年あたりからだという。私の持っている「きいちのぬりえ」の袋には、いずれも「石川松聲堂」「不許復製」の文字が小さく印刷されている。

ほかの作者では「ひでを」「きみこ」「フジオ」「たけを」と名前のないものが数枚ずつ、残っている。はやく美術館に出かけ、どんな画家だったのかも確かめてみたい。片付けのさなか、また仕事が増えたようだ。

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