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2010年4月23日 (金)

書庫の隅から見つけた、私の昭和(4)「青年歌集」と「平和歌集」

いま、手元にある「青年歌集」は、次の3冊である。

①「青年歌集・第一篇」改訂版(初版1951年)関鑑子編著 音楽センター 1953年 5月 141P 70円
②「青年歌集・第四篇」関鑑子編著 音楽運動社(取扱所音楽センター)1955年4月 70円 136P 70円
③「新青年歌集」東京合唱団編 大田洋子発行 1955年4月 159P 70円

 いずれもA6判の掌サイズの手帖の大きさ。これは、次兄が大学生のときのもので、②には、「世界をつなげ花の輪に」のハーモニカの音符の数字が記されていた。映画と歴史好きのアメリカ文学専攻だった次兄と青年歌集との接点はいまでは不明だが、当時のべストセラーの一冊だったらしい。①にある「スワニー河」「草競馬」「おおスザンナ」「オールドブラックジョー」などのアメリカの歌を、この兄のハーモニカで歌ったような気がする。①は、英・米・独・仏・伊などの民謡と大半を占めるロシア・ソビエトと日本の民謡、朝鮮・中国の解放歌、労働歌という構成で、90曲余りが収録されている。私は、「若者よ」(ひろしぬやま作詞、関忠亮作曲)をはじめ「世界をつなげ花の輪に」(篠崎正作詞、箕作秋吉作曲)「民族独立行動隊の歌」(きしあきら作詞、岡田和夫作曲)「インターナショナル」(佐野碩・佐々木孝丸訳詞 デ・ジェ・エール作曲)などは歌詞を見ながらなら歌えそうだ。
 どこで覚えたかといえば、次兄より8年後に大学生になっている私は、1960年の安保闘争時に参加した学生自治会の集会やデモでではなかったか。集会や行進しながらでも、いろいろ歌っていたような気がするが、1960年5月20日の深夜の自民党の新安保条約単独採決で、安保改定阻止運動はさらに盛り上がり、国会周辺には連日数十万というデモ隊が押し寄せていた頃である。6月15日は、6月4日に続く第2次実力行使の日で、国会周辺は33万人のデモ隊が集結したといい、南通用門では樺美智子さんが圧死した。また、6月20日は、新安保条約が自然承認される日とあって、19日の夜、私たちの自治会も国会へと向かったが、議事堂にはなかなか近づけず、少し進んでは街中の歩道や広場に座り込んでいた。そんなときに好んで歌われていたのが「青年歌集」収録の歌だった。
 また、学生時代は、体育の授業の代わりに登山やスキーの講座もあったので、友人とよく参加し、山小屋やスキー宿で、盛んに歌われたのも「雪山讃歌」や「青年歌集」のロシア民謡だった。どんな場にも、歌や合唱のサークル、セツルメントの友人たちがいて、率先して指揮をとったものだった。「泉に水汲みに来て 娘らが話していた 若者がここにきたら 冷たい水あげましょう・・・」という「泉のほとり」は今でも好きな歌の一つだ。さらに、就職先の労働組合からも色々な集会への誘いは受けたが、あまり参加することがなくなった。しかし、メーデーには新人ということでよく動員された。流れ解散でいつもの勤務より早めに途中から抜け出すことができることもあって、自分から参加したこともあった。会場や行進中に配られたのが、次の「平和歌集」ではなかったか。
④「うたごえは平和の力 平和歌集1965」(第36回メーデー記念)音楽センター刊 23P 10円
 「青年歌集」よりさらに一回り小さい判のてのひら歌集で、いわば歌詞集で楽譜が付いているのは44曲中3曲、曲目は「青年歌集」に重なるものが多い。いま、私の手元には、④と1967年版と1968年版の3冊がある。「青年歌集」は左開きで、「平和歌集」は右開きというのも時代の流れか。「ぼうぎゃくの鎖たつ日 旗は血に燃えて・・・いざ闘わんいざふるい起て ああインターナショナル・・・」「民族独立行動隊 前へ前へ進め」「聞け万国の労働者 轟わたるメーデーの・・・」などの定番の歌詞は、もう、なんか気恥ずかしくて、大声では歌えなくなっている自分がいた。「若者よ」などには、変な「替え歌」があって、職場の忘年会などで歌われていた。さらに、その一方で、「沖縄を返せ」(全司法福岡地裁支部作詞、荒木栄作曲)「原爆許すまじ」(浅田石二作曲、木下航二作曲)などは、歌詞をいま落ち着いて読むと、そのメッセージは半世紀以上経っても通用するものであることにむしろ驚いている。
 「1953年日本うたごえ祭典」が11月に東京の共立講堂と日比谷公会堂で開催され、6000人が参加し、以降は、会場にもよるが、1965年日本武道館の52000人が最高で、その後もしばらく3~5万人規模の参加が続く。同じ1965年は労音会員が65万人にも達し、労働者たちの文化的関心や活動が多様化してくる中、1969年には新宿駅の西口広場の反戦フォークソング集会が恒例化しつつあった。また、1950年前半には新宿の「どん底」「灯」など「うたごえ喫茶」がオープンし、私が住んでいた池袋に「山小屋」が出来たのが1957年だった。学生や社会人になっても、私は、まず煙草が嫌いなのでほとんど出入りはしなかった。
 なお、「うたごえ運動」や「労音」が盛り上がっていた頃、私にはどうしてものめり込めない何かがあった。というより私自身が「歌う」こと自体あまり上手ではなかったし、みんなで一緒に歌うということが苦手だったからか。さらに、コンサートや演劇くらいせめて自分で選んで出かけたいと思ったからではないかと思う。しかし、実際には映画・展覧会はかなり気ままに、新劇がときどき・・といった程度の「文化的生活」に過ぎなかった。
 その無関心さのためか、今回、この記事のため、若干の書物やネット検索によって、はじめて知ることも多かった。「歌」が出来るまでには、さまざまな背景や物語があることも知った。「インターナショナル」はすでに大正時代から歌われ、訳詞が定着したのは、昭和の初期の佐野・佐々木の演劇人によるものだった。たしかに、佐々木孝丸は、映画の渋いわき役でよく見ていた俳優だった。「民族独立行動隊」の作詞者が、国鉄大井工場でレッドパージに遭って煙突に登って抵抗した人物であったこと。1954年3月第五福竜丸被爆事故を機に原水爆禁止運動の歌として作られたのが「原爆許すまじ」だったこと。「世界をつなげ花の輪に」は敗戦後まもなく新労働歌として公募した時に第2位入選作だったこと。「青年歌集」の編者であり、うたごえ運動の指導者でもあった関鑑子の生き方、などなど。

参考資料:
① 『日本流行歌史』古茂田信男ほか編著 社会思想社 1970

② 「うたごえ年表1945-2009」うたごえサークルおけら(bunbun)編 2010年1月

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