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2010年5月31日 (月)

二つの『坂の上の雲』講演会に行ってきました

①「『坂の上の雲』と正岡子規」

日時:529日(土)午後4時~515

講師:金井景子早稲田大学教授

主催:船橋稲門会主催

場所:船橋市フローラ西船

地域新聞のイベント欄には子規と律のことを中心にというコメントがあったので、是非と思って申し込んだ。本ブログでも、NHKドラマ『坂の上の雲』に登場した子規や律について、司馬の原作と照合したことがあるので、聴いておきたかった。金井さんは、そのホームページなどによると「文学・ジェンダー・教育」をテーマに近代日本文学を専攻されている。

早稲田大学同窓会のイベントながら一般公開の講演会らしかった。定員80人とあったが、それを超える盛況ぶりで、講師は和服姿であった。ウーン? いつか、どこかで見た光景だ。数年前のジェンダー関係のシンポジウムで、やはり上野千鶴子が和服姿でパネリストを務めていた。ご両人とも日常的に和服を着ている風にも思えないので、一種の女の「勝負服」なのかな、と思えるのだった。短歌の世界でも、授賞式だ、グラビアだ、というと和服姿で現れる女性歌人が多いのに、ややげんなりして、苦言を呈したことがある。ファッションは個人の勝手といえばそうなのだ。しかし、私には、それ以外の要素を感じてしまうのだが、思い過ごしだろうか。

『坂の上の雲』の子規を通し、ジェンダーの視点から解明してくれるのかな、と勝手に思い込んで出かけた。講演は、最初に、ドラマ「坂の上の雲」の冒頭で毎回流される映像がスクリーンに映し出された。そのナレーションについて、司馬の原作は脂の乗り切った時期の作品だけに、「朗読」に適した心地よい表現でもありますね、と話し出すのだった。また、原作に登場する正岡子規、ドラマに登場した正岡子規に言及し、小説では触れられないこと、省略されていることも、テレビというメディアでは、その特徴を生かして、さらにイメージをふくらませて、人物の深層や時代背景を描くことが可能で、補完しあっている、という趣旨のことが話された。その典型として、原作にはない、子規が志願した従軍先で、曹長が中国人を虫けらのように扱っているのに怒りを覚えるシーンも映し出された。ドラマに挿入されたこの場面について、金井さんはどう思われたのか、明確には聞き取れなかったが、子規の心情を補完するとして肯定的に話されたように思う。

この場面が司馬の原作における日清戦争観と齟齬があることは、放映後、幾人かに指摘されている。また、子規の従軍記録などを通覧しても、直接こうした場面に遭遇した形跡は見当らない。この場面に、ドラマの制作者たちは何を意図したのだろうか。私が気になるのもその点で、子規のヒューマニズムをここに折り込むことによって、日清戦争における日本、ドラマにおける軍人や政治家たちのミリタリズムを少しでも和らげようとでも思ったのだろうか。

しかし、原作者の司馬は「坂の上の雲」は歴史的事実を史実に、資料を丹念に調査した上での歴史小説であると「あとがき」で自負していることからも、こうした形で、原作にない部分を挿入することは、ドラマ化におけるルール違反ではないか。さらに、もっと基本的なことを言えば、原作者の自負にもかかわらず、明らかに歴史的事実と異なる場合、重要な事実を見落とし、省略している場合が各所にみられるとき、ドラマ化自体にかなりのリスクが伴うのではないか。だからこそ、司馬遼太郎は、死ぬまで、原作のドラマ化を頑なに拒んでいたのではないか。にもかかわらず、司馬遼太郎原作をうたった大掛かりな、今回のドラマ化計画には大きな問題があったはずだ。そういう状況下で、ドラマにおける、さらなるフィクションによる挿入は、慎重を期すべきもので、安易に肯定すべきものではない。

そんなことを考えているうちに、講演は、子規をめぐる人々の血縁、地縁、学縁の話しに及んだ。「学縁」という言葉は金井さんの造語らしい。子規の「学縁」は東大であり、「俳句」であり、その豊饒な人脈の源は「学縁」にあった、と結び、同窓会の講演らしく早稲田の「学縁」に大いに期待するということで終わったのだった。

子規の妹、律の話やジェンダーに及ぶことはなかった。

②「『坂の上の雲』のどこが問題なのか~史実の偽造を拡散させるNHKの社会的責任 」

 日時:530日(土)午後130分~330

講師:醍醐聰:「坂の上の雲」放送を考える全国ネットワーク

        呼びかけ人、

         NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ共同代表

 主催:さくら・志津憲法9条まもりたい会

 場所:佐倉市志津コミュニティセンター

  地域の9条の会の一つ「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」に世話人としてかかわっており、参加した。その詳細は、講師の開くブログ「醍醐聰のブログ」に報告があるので、ぜひ参照していただければと思う。

醍醐 聰のブログ

http://sdaigo.cocolog-nifty.com/

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ポーランド、ウィーンの旅(2)古都クラクフとアウシュビッツ

 5月上旬、我が家の垣根のテッセンが蕾のまま、なかなか開いてくれなかったのだが、520日帰宅してみると、いつになく大輪の、やや、その紫は薄かったが、たくさん咲いていた。すでに花弁を落としているものもあった。当地は、19日夜からの雨以外はほとんど降らなかったらしい。留守番の飼い犬のお世話をお願いしていた方によれば、犬は玄関先で夜を過ごしたということだった。まとめて届けてもらった新聞を繰っていると、私たちがクラクフを発った後、大雨に見舞われ、アウシュビッツ・ビルケナウ収容所博物館は洪水の恐れにより閉鎖されたという記事を見出した。あらためて、アウシュビッツでの雨の冷たさと衝撃を思い起こすのだった。 

 

513日(木)

古都の宮廷コンサート 

物価も安いことだし、今回は、あまり無理をせずに車を使うことにしていた。なのに、クラクフ駅からホテルのある旧市街まで、意外に手間取ってしまった。若い運転手は、途中何度もこちらの持っていた地図を見直し、迷っているようだった。クラクフは、17世紀初頭までポーランド王国の首都であった。あとで旧市街の広場に出てみてわかるのだが、ホテルグランドは、広場に通ずる路地の一本を50mほど入ったところだった。戦災を免れた建物が多いので、ホテルの入り口も小さく、よほど注意しないと通り過ぎてしまうほどだ。泊った部屋は、少しカギ形になっている分だけゆったりした感じだった。まずは、ひと風呂浴びて街に出てみる。旧市街広場は、大がかりな工事の真っ最中の織物会館が大きく二分するが、旧市庁舎側には、店というより、同じ大きさの白いテントが軒を連ねて並んでいる。テントの内外では、ものを売るというのでなく、若者たちが立ち働き、よくみると地元のヤギェオ大学の名をはじめ学部名、サークル名らしき看板があげられている。旧市庁舎をバックに舞台もしつらえてあって、そこには、ユニバーシティ、フェスティバルなどと読める横断幕が掲げられ、歌や踊り、さまざまなパフォーマンスが繰り広げられていた。正面に日の丸らしきものが貼ってあるテントも見えた。のぞいてみたが、今は人がいない。広場近くの旅行案内所に入って目に着いたのが、宮殿コンサートのパンフレットだった。聴いてみようかと、当日券を買い置き、近くだという会場の下見にも行ってみる。これが宮殿?広場に面した入り口の右はレストランだし、反対側に小さなカウンターがあって、そこでも当日券を売っていたのでここらしい。7時開演だから、夕食はあまりゆっくりしていられない。近くの「1516」という店に入った。奥が深く、中庭なのだろうか、あずまや風のものがいくつも建っている。つれあいは、カツレツを食べたいというが、どうも「コトレット」(?)はなく、ビフテキを一人前注文、それにサラダで、クラクフ第一夜をワインで乾杯となった。コンサートは、まだ学生のような女性ピアニストのショパンで、1時間余り。70席ほどの部屋はほぼ満席、旅行者が多い。ノクターンにはことさら眠りを誘われたのだろう、つれあいはいつ起こそうかとハラハラしていたという。  

 

5月14日(金)

アウシュビッツの雨 

翌朝は予報通りの雨だった。それに寒い。申し込んであったアウシュビッツ・ビルケナウ収容所博物館のツアーである。集合場所は、旧市街の北、クラクフ生まれの国民的画家に由来するマテイコ広場、歩いて10分もかからない距離のはずだ。折りたたみの傘では少し頼りない本格的な降りである。大がかりな道路工事があちこちにあるので、迷うことしきり、20分近く歩くが広場にたどりつかない。街角には、雨でも透けたビニールの覆いの中でプレッツェルやベーグル様のパンを商う人がいる。そのお年寄りにも尋ねてみると、すぐ近くらしいが、わからずじまい。今度はビジネスマン風の男性に聞いてみると、曲がる次の路地まで案内してくださり、朝の出勤時というのにありがたいことだった。集合時間ぎりぎりに着いたマテイコ広場、中央には大きなモニュメントと、ショパンが幼少時使ったという可愛いピアノのレプリカがあり、ツアーバスの停留所にはなるほど多くの客が待っていた。大きなバス、小さなバスが次々発車して行くが、私たちのバスではないらしい。ガイドさんが大きな声を張り上げてチケットを確認しながらお客さんを拾っていく。いよいよ車上の人となる。アウシュビッツ・ビルケナウツアーの英語コースの始まりだ。オルビスホテルでだいぶ乗り込んできて大型バスはほぼ満席、9時55分から、話に聞いていた見学先についての映画が始まった。英語版だし、小さな画面だし、集中はできなかった。まじめに観ているのは、やはり年配の人々だ。斜め後ろの若いカップルなどはしっかりと眠っていた。1時間近い映画が終わり、15分ほどでアウシュビッツに到着、バスでのガイドさんから収容所博物館の女性ガイドに引き継がれた。とても落ち着いた、知的な雰囲気の人だった。この博物館ガイドの中には、日本の男性が一人いらして、使命感から困難なガイド資格を取得、15年近く続けられている人の新聞記事を読んだことがある。その方だったらありがたかったのに、ともかく、数時間、英語のシャワーを浴びることになる。なかなか聴きとれず、若い時の不勉強がたたることになる。それでも、写真や現物を見、説明を読み、とてつもなく衝撃的な遺構や遺品、その数や量に圧倒されることにはかわりがない。もはや、言葉を超える事実が目の前にあった。

収容所の全貌と博物館 

私たちは、まず、鉄製の広い門をくぐるのだが、その上部には例の「働けば自由になる」(ARBEIT MACHT FREI)という欺瞞に満ちた言葉が掲げられている。行き止まりの鉄路、高い有刺鉄線、監視塔の列、ぬかるみの先には左右にレンガの2階建てが続く。その内の一部が今回見ることができた展示館になっている。最初に入った4ブロック展示館では、アウシュビッツの収容所跡の全貌と「国立オシフィエンチウム博物館・アウシュヴィッツ・ビルケナウ」の概要が示されていた。この地のかつての収容所は、まず、1940年ポーランドの政治犯収容のためにアウシュビッツに建てられたが、やがてドイツならびにドイツ軍によって占領された国々のユダヤ人がここに集められるようになり(1.2万~2万人収容) 1942年、3km離れたビルケナウに大規模なアウシュビッツ2号(1944年には9万人以上収容)が建設された。6km離れたモノビッツェに3号が建設され、囚人を労働力とする工場などが置かれた。その地に住んでいた人々は強制退去させられた。地図によれば、鉄道は収容所近くになるとこの13号に向かう3本に枝分かれする。第4ブロックの展示資料によれば、あくまで推定だが、ここに収容されたのは約130万人、その内110万人がユダヤ人で、次に多いのがポーランド人1415万人で、ジプシー、ソ連軍捕虜と続き、いちばん少ないノルウェー人が690人という数字もあった。その内の犠牲者はユダヤ人100万、ポーランド人は7万~75万人に及んだ。日本語版の「案内書」によれば、不完全な数字として「約150万人が殺害された」とも記される。1944年に送られてきたハンガリーのユダヤ人たちの到着、労働の可不可の選別など、記録写真でたどる。このブロックで、最初の衝撃は、家一軒分くらいの広さの部屋いっぱいの毛髪の山(2トン)だった。女性の遺体から切られた毛髪が廊下側のガラスに傾れるように迫って展示されている。その傍らには、それらを原料に織られた絨毯であり、服地であった。話には聞いていたが、すばやく通り過ぎたい所であった。 

 

死の壁 

Sinokabe 

 

 

目を覆ってはいけない 

館内の廊下が行き違うのがやっとくらいの幅なので、ガイドの説明はほとんど、屋外で傘をさして行われていた。足元はぬかるみ、うっかりすると水たまりにはまってしまうこともあった。以下のブロックでの主な遺品展示や遺構は次のようであった。

 

 

 

5ブロック:眼鏡、靴(80000足)、義足・義肢・松葉づえ(460本)、鍋・釜(12000個)等の調理用具、かばん・トランク(3800個)、手袋・シャツ・セーター、ブラシ類、チクロの空き缶など 

7ブロック:藁だけが敷かれた三段ベッド、トイレ・洗面所つき居室など。廊下には収容時の登録写真と個人データ。 

11ブロック:死の壁、集団虐殺実験室、立ち牢、集団絞首台、点呼広場、焼却炉、ガス室など 

 

5ブロックの展示は廊下の両側はガラスで、各室は、人間の営みに最低限度必要な品々が、その営みの痕跡を残し、圧倒的な物量で見学者の身に迫って来るような展示になっている。第7ブロックでは、収容所の日常の過酷さが、第11ブロックでは、まさに絶滅センターとしてのアウシュビッツの恐怖と狂気が立ちあがって来る場所である。

 

収容時の個人登録票は国別展示となっているという。顔写真はどれも正面・横・着帽斜めの3枚で、たまたま、メモした表には「32629 Fuks Mosze Drybylur(?) 7.12.1923 24.4.1941 3.7.1942」とあった。「登録番号・名前・地名・生年月日・収容年月日・死亡年月日」と思われる。当時27歳の青年で、収容から1年数か月後に殺害(死亡)にいたる記録である。ほんの一部なのだろうが、そのような票が廊下の両側の壁いっぱいに貼られていた。点呼広場では、女性ガイドは声を低めて、このような雨の日も、長い時は19時間もの間、立ちづくめで点呼を受けていたと説明していた。シャワーを浴びることができると信じて真裸で、ガス室に入って行った人々を思うと、その暗いガス室に入る壁の間で、私は立ちつくすしかなかった。 

 

私たちのツアーでは、バスで56分のところにあるアウシュビッツ2号ビルケナウの収容所跡の正門前で降ろされた。175ヘクタール(53万坪)に300棟以上のバラックが建設されたが、今残るのは45棟のレンガ造りと22棟の木造の囚人棟だけという。19448月には約10万人が収容されていたという。ソ連軍による解放・侵攻を目前に、証拠隠滅のためドイツ軍が破壊・解体しきれなかった施設や遺品がこの博物館の核である。いまは、レンガ造りの煙突だけが残る荒涼とした光景が広がる。私たちは、1棟のバラックに案内された。52頭用の馬小屋に4001000人の囚人が収容されていたという。13kmに及ぶという有刺鉄線、監視塔の列のほんの端っこに立ったとき、雨や寒さもあったのか、しばらく胸が締めつけられるような思いであった。

 

 1947年に設立、1979年にはユネスコの世界遺産になっている。1979年、81年にここを訪ねた早乙女勝元氏が編んだ『母と子でみるアウシュビッツ』(草土文化 1983年)を見ると、樹木や雑草に覆われた当時の収容所跡の写真がある。また、今回のツアーのコースでは見なかった、より残酷な写真も収録されていた。博物館として年々整備されて来て、現在があるのだろう。年間約100万人の見学者があり、日本人も8000人近く訪れるそうだ。今回の見学は数時間ではあったが、私もこの記憶はやはり記録に留め、人に伝えなければならない思い切であった。

アウシュビッツ2号ビルケナウ

 

Birukenau

 

 

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2010年5月25日 (火)

安心、安全な歌人たち~「歌会始」は何に寄与しているのか~ 

なぜ「歌会始」にこだわるのか

私は、これまで、「歌会始」が現代短歌において果たす役割について、以下のようなエッセイなどを発表してきた。繰り返し、飽きもせず、国家と文芸、とくに国家と短歌との危うい関係について述べてきたつもりである。短歌は安心、安全な文学であってよいのか、の思いは募るばかりである。

①「『歌会始』-現代短歌における役割をめぐって」(『短歌と天皇制』風媒社 一九八八年、初出『風景』一九八三年一〇月~一九八八年一月) 
②「『選者』になりたい歌人たち」(『現代短歌と天皇制』風媒社 二〇〇一年、初出『ポトナム』一九九二年一二月)
③「勲章が欲しい歌人たち」(『風景』一〇〇~一〇一号 二〇〇二年九月~一一月)
④「芸術選奨はどのようにえらばれたのか」(『ポトナム』二〇〇六年一〇月~一一月)
⑤「戦後六四年、歌会始の現実」(『ポトナム』一〇〇〇号記念 二〇〇九年八月)
⑥「『歌会始』への無関心を標榜する歌人たち~その底流を文献に探る」(『ポトナム』  二〇一〇年一月~三月)
(④はマイリスト「短歌の森」目次から⑤⑥は「内野光子のブログ」のカテゴリー「短歌」「歌会始」検索可能録) 
そして今回も、次のような表をあらためて作成することにした。

新聞歌壇選者と歌会始 

第1表では、現時点での歌会始選者及び五大全国紙・NHKの投稿歌壇の選者とその就任年の一覧と参考のため芸術院会員就任年も併記した。現在、歌人では岡野・馬場・佐佐木、岡井の四人が日本芸術院会員で、過去には、佐藤佐太郎、宮柊二、前川佐美雄、斉藤史がおり、茂吉、信綱、白秋、空穂、水穂、薫園、勇、麓、善麿、文明、順らに続いた。一九九三年、岡井隆は歌会始選者に就任した。当時、現在の「歌会始」は「体制も反体制もいまは死語、民衆の参加する短歌コンクールとしては本邦最大で知名度が高い」として、特別扱いする要因はもはやないというのが就任の理由だった(「インタビュー“前衛短歌の旗手”歌会始選者に―批判と期待の岡井隆氏に聞く」『朝日新聞(大阪版)(夕)』一九九二年九月四日)。表にはない近年の選者に安永蕗子、清水房雄、武川忠一らがおり、物故選者には、木俣修、香川進、四賀光子、五島美代子、上田三四二、窪田章一郎、山本友一、前田透、千代国一らがいる。選者の中で在任期間の長い吉井勇(一九四八~一九六〇年)、木俣修(一九五九~一九八三年)、岡野弘彦(一九七九~二〇〇八年)岡井隆(一九九三~)が実質的なリーダー役となって行く。歌会始選者と新聞歌壇選者の関係をみると、篠は「サンケイ」から「毎日」に変り、二〇〇六年からは歌会始選者を併任する。永田は「サンケイ」から「歌会始」「朝日」へと移行する。高野は「日経」から「朝日」へ、栗木は「日経」から「読売」へ、伊藤は「サンケイ」と「毎日」を兼任、表にはないが、岡野は「読売」のほか「東京新聞」を、佐佐木も「朝日」のほか「東京」を兼任している。これを見る限り、新聞歌壇選者の実績と歌会始選者への道は連動し、文字通り、歌会始は新聞歌壇の延長線上にあるといえよう。新聞歌壇にもランクがあるらしく、経済紙から一般紙への移行が多い。発行部数では「読売」が一位だが、伝統と話題性では「朝日歌壇」の評価が高い。ネット上では「朝日歌壇鑑賞会」なるものが一九九一年から立ちあげられ、右翼的な手口で朝日歌壇を特化してその選者・入選者への個人攻撃や中傷が氾濫していたこともある。いまはターゲットの変貌にやや沈静化し、昨年二〇〇九年あたりから更新は滞りがちである。現在の新聞歌壇選者は、いずれも近い将来の歌会始選者の候補者という図式が成り立ちそうだ。「NHK歌壇」選者は2年任期で、意識的に起用している若手の女性は、将来的に新聞歌壇、歌会始選者の予備軍かもしれない。もっとも、歌会始選者ではない馬場あき子と佐佐木幸綱は別格で、すでに芸術院会員となっている。馬場は、その思想的な出自から宮内庁ないし岡野弘彦とは距離があったのだろう。佐佐木も、岡井の選者就任の折、「俺は行かない」(「時評・俺は行かない」『現代短歌雁』二七号一九九三年七月)と早々と自らの選者拒否の宣言をしていたこともあって、その道を選ばなかった。しかし、両者とも、現歌壇での指導力と影響力は絶大で、それぞれ『かりん』、『心の花』においては着々と「歌会始」選者を育てつつあるのではないか。第1表に登場する歌人の中には、すでに声はかかってはいるが、佐佐木以外にも「行かない」でいる歌人がいるようにも思うのは私のはかない期待だろうか。

第1表:歌会始・NHK・新聞歌壇(全国版)選者一覧(2010年1月現在)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/dai1hyo.pdf

短歌大会と歌会始

岡井隆が「民衆の参加する本邦最大の短歌コンクール」と位置づけた「歌会始」と主要な短歌大会の概要を第2表とした。歌会始選者をゴチックで示した。応募歌数で並ぶのは歌会始とNHK大会だが、出詠料が無料というのがその理由かもしれない。また、NHK大会の選者は、上記の新聞歌壇選者を総ざらいしている感もある。国民文化祭と日本歌人クラブ、現代歌人協会の選者には地方色を反映している。最近では「町おこし」の一環や観光で短歌大会を立ち上げる自治体や神社仏閣、地方の歌人団体が主催する短歌大会が増えている。それらの選者として声がかかるのも、この表の著名歌人の一群である。特定のたかだか二十数人の歌人たちが東奔西走していて、大会の最優秀賞を選び、選者賞を選ぶ。大会独自、地域独自の特色などはなかなか出にくい状況ではないのか。『短歌現代』(二〇一〇年四月)「小議会特集・短歌大会」では、地方の短歌大会運営の工夫が語られていて興味深い。「著名歌人を呼んで選者や講演を依頼する」パターンも限界にきているようなのだ。ちなみに、以下は第2表の五つの大会の入選作、筆頭大会賞にあたる作品である。

①指ほどに育ちし五齢の蚕いま驟雨の如く桑の葉を食む                    ②まはりから少し遅れて年老いた欅も芽吹く、呼ばれてゐるのだ
③うす暗き築地市場の石だたみ冷凍鮪が煙をあぐる
④雲間より光射しくる中空へ百畳大凧揚がり鎮まる         
⑤ふたりかと遠目に見しは人と犬共に座りて川をみて居り

どの大会の入選作品か判定は困難なのはもちろんだが、ちなみにその出典を文末に記してみた。④は②の大会賞「百畳の大凧空に静止してわれら引き手の天井をなす」の作者と同一であった。モチーフは同じながら、表現は異なる二首なので、宮内庁(選者:)は未発表作品として扱ったのだろうか。読んでいてあまり気分のよいものではなかった。

第2表:主要全国短歌大会選者一覧
http://dmituko.cocolog-nifty.com/dai2hyo.pdf

歌会始と芸術選奨

 毎年三月に公表される芸術選奨・文学部門の文部科学大臣賞に、今年は柳宣宏『施無畏』という歌集が入っていた。大衆芸能部門の坂本龍一らと一緒の受賞である。歌壇に疎い私は、受賞者の名前くらいしか知らず、やや唐突な感じがしたのだった。この芸術選奨は、一九五〇年より発足した芸術振興のための国家的褒章制度である。文学部門で対象になった歌集(歌人)と選考審査員などをまとめ、第3表とした。各選考審査委員が自分の専門分野の推薦作品を持ち寄り、審議をするらしいのだが、その詳細はわからない。その選考審査員すら公表されたことがない。他の選考審査委員の推薦作品を読んでいなかったり、見ていなかったりというのが普通らしく、推薦者の弁の説得力がカギらしい。こんな状況を露呈したのが、二〇〇三年、二〇〇二年度美術部門の受賞者の盗作が問題になった時だった。推薦者以外の選考審査員は対象作品を確認していなかったことが報道の過程で分かった。そして、次の年から推薦委員制度が設けられたが、これがどの程度機能しているかは定かではない。しかし、短歌関係に限ってみても、かつて、篠弘は自らの時評において、はからずも選考過程を垣間見せたことがある(『北海道新聞』二〇〇二年三月一一日)。国家の芸術振興政策の在り方自体にも私は問題があると考えているが、少なくとも「国家的な権威」を伴う褒章制度が、限りなく個人的な知見に左右されている事実だけは指摘できるのではないか。作品の内容ではなく、選ぶ者も選ばれた者もその権威だけを引きづって一人歩きしているのではないか。短歌関係の選考審査員、推薦委員の名前を見て、どう思われるだろうか。前掲の二つの表に登場する「毎度おなじみの」著名歌人たちである。沿革や選考過程についての詳細は、拙著文献④を参照してほしい。以上、「選者」の在り方を概観してみた。歌壇には、角川短歌賞など短歌メディアが主催する賞、現代歌人協会賞など歌人団体が授けるの賞、さらに、斉藤茂吉、若山牧水、前川佐美雄等を冠する賞など増加の一途をたどっている。ただ、さまざまな賞の「選者」、とくに歌会始選者を頂点とする「選者」というフィルターは、抵抗や挑戦を促すものではなく、安心・安全な歌人、歌壇づくりに寄与していることは間違いなさそうである。つぎに、最近の「選者」たちの声も確かめておきたいと思う。

第3表:短歌関係(文学部門)芸術選奨選考委員・推薦委員・受賞者一覧
(1950~2009年度)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/dai3hyo.pdf

選者たちからの発言~岡井隆の場合 

昨年まとめられた小高賢を聞き手とする岡井隆のインタビュー記録『私の戦後史』(角川書店 二〇〇九年)には、興味深いものがあった。私がまっさきに確認したのは「歌会始問題とその後」の章だった。岡井自身が「歌会始選者就任」について、これまでは、あまり深く語らなかったが、もう「時効」か「潮時」とも思ったのか、あるいは聞き手が上手だったのか、けっこう、ラフに語っているのが印象的だった。小高が「岡井さんの選者就任で一番足りないのは、ご自身の論理的説明ではなかったか」の質問には次のように答えている。「今になって振り返って客観的に眺めてみると、やっぱり僕は転向したのだと思う、明らかに。(中略)六〇年安保のころに反天皇的な歌を作りましたね。あの時の僕自身と四十代、五十代、六十代にかけての僕自身とは明らかに違っている。そう思います。違っているけれど、自分の中にずっとそういうふうに動いてきた思想的経緯というものに関して、もうちょっと責任をとるべきだったという気もします。言い訳をする必要はないのだけれども、自分自身はこういうかたちで考え方を変えて来ていると筋道を語るべきだったのかもしれない。(後略)」(二六八~二六九頁)   「自分自身のためだけでもいいから、きちっとあきらかにしておく必要があったかなあとは思う。ただ、なにか書こうとすると、みんな、大島史洋君もそうだったけれど、『岡井さん、もうやめなさい。何を言ったって、全部、言い訳に取られるから、何も言わない方がいいですよ』と言うから、そうかなと思っちゃった。」(二六九頁) 戦後の短歌史をけん引してきたという自負を垣間見せながら、この幼稚な発言が共存するところに、岡井の本質があると思った。「表現者としての説明責任」は逃れようもない責務だと思うが、小高のいう「論理的説明」を岡井に求めても、多分破綻するだろうから、岡井自身も避けてきたのだと思う。また、彼は、選者就任直後の「現代歌人協会会報」での批判を「あのような誌面に個人の悪口をあんなにまとめて出していいのかなあ」と回想しているが、「悪口」と受けとるところこそ世俗的で、あまりに「論理的」ではない証拠だろう。かつて、岡井が現代歌人協会入会に際して、会報『現代歌人』(一九六〇年五月)に、協会が「歌会始の入選者を祝う会」を開催するのは何事かと、協会の幹部たちを名指しで非難したのは何だったのか(「非情の魅力について」)。会員の思想や行動についてもオープンな論議がなされてこそ、健全な団体だと考えるのだが、現在の協会は一九九〇年代の気概も失ったようだ。また、戦後短歌史の中でグループ活動の持つ魅力や刺激を語る中で、小高が近頃の歌人は「表面的な利害損得だけに頭が働くようになってきたのではないですか」と水をむけると「それはすごく世俗的」と岡井は答える。自身については、つねに「トップランナーみたいなところにいる人って、前を走っている人がいないわけですから、孤独感以外になにもないので」、「ニヒリズム、アナーキズムの衝動」に駆られる状況を語り、「世俗」とは一線を画しているような話しぶりではあった。(二六一~二六四頁)このインタビューの中で、ともかく、自らの転向の筋道をもっと語るべきだった、という発言を引き出したのは、大きな収穫であった。岡井の今後に、これ以上求めるのは無理かもしれないが、多くの歌人はこの一件から学ぶべきことは多いはずである。  

選者たちのからの発言~永田和宏の場合 

少し古い雑誌を読んでいて「大特集・永田和宏を探検する」にぶつかった(『短歌』二〇〇六年一〇月)。その中に、永田自身のエッセイがあった。近藤芳美の言葉を枕に、「歌への尊敬」の念こそが「今、歌を作り続けることで、最終的に何がいちばん自分にとって大切かを考える」よりどころだ、という主旨だった。さらに、自分は、なにか新しいことをして短歌史上に足跡を残したいと考えたが、「<新しさ>のためにだけ歌を作っていくのでは、あまりにもさびしくはないか」と述懐し、次のように述べる。  「昨今の歌壇を見ていると、歌を好きだというよりは、歌をたんに自己宣伝の具として歌をもてあそんでいる歌人が多すぎはしないか、という気がする。歌壇の表面に出て、しかし顔は歌壇以外のところ向いている。あるいは逆に歌壇的な人の集まりの中で顔を売ることだけで、なんとなく歌人としての格を得たような気になっている。そんなかつて厳しく否定された歌壇的な悪弊がまたもろ大きな顔をし始めているということはないだろうか。」(一〇八頁)   永田は、歌人と研究者という二足の草鞋を履く多忙さを強調しながら「自分の時間への責任」を取りつつ「歌を作って過ごしてきた人生」を良かったと言い切れることが大切だとする。しかし、今回の調査や永田の歌壇での振る舞いを思うとき、その発言と行動に違和感がつきまとう。ほんとうに多忙な人は、自ら多忙とはなかなか言い出さないものではないか。歌壇における自らの歌人としての活動に加えて結社経営や家族運営、研究生活に加えての大学・学会行政など、多忙は忖度できるが、どれも自分の責任において選択した結果であろう。選者就任など歌人としての本質的な活動なのだろうか。「自己宣伝」を兼ねた結社運営に必要な営業活動の一種ではなかったのか。『塔』のホームページや記念号の年表には、ことさらに受賞歌人や会員数の増加が強調されている。謙虚さや自制を失いかけた、こうした風潮が当り前になってしまった歌壇にはどうしてもなじめないでいる。

 作業を終えて

今回、「新聞歌壇の選者の就任年月」を田村広志編「新聞歌壇選者一覧」ほか『短歌往来』(二〇〇七年五月)の特集「新聞歌壇の現在と未来」の各記事を参考に調べた上、新聞社に確認した。ところが、データベース化がなされてない部分(一九八〇年代以前)を遡及するのはむずかしい、とする結果が多かった。典拠はまちまちで、縮刷版などでの確認に至らないところがある。また、「芸術選奨」の選考審査員・推薦委員の名前を決して公表しようとしない文化庁の姿勢は、十年一日のごとく改まらない。受賞者の発表は選考委員とセットでなされるべきと何度か要望しているが、「検討する」として実現していない。ネット上の公表でも十分である。なお、ここ数年間に関しては受賞作品名と受賞理由の一覧が文化庁のホームページで公開されているが、作品名にミスがあったりして万全ではない。

参考:前掲各短歌大会の入賞作と作者名 

①指ほどに育ちし五齢の蚕いま驟雨の如く桑の葉を食む                    (国民文化祭・文部科学大臣賞 高田馴三)
②まはりから少し遅れて年老いた欅も芽吹く、呼ばれてゐるのだ                   (全国短歌大会・朝日新聞社賞 掃部伊津子)
③うす暗き築地市場の石だたみ冷凍鮪が煙をあぐる 
(全日本短歌大会・文部科学大臣賞 本吉得子)
④雲間より光射しくる中空へ百畳大凧揚がり鎮まる
 (歌会始入選 後藤正樹)     
⑤ふたりかと遠目に見しは人と犬共に座りて川をみて居り
(NHK大会・大会大賞 石川つる)

(『新日本歌人』2010年6月号所収)

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2010年5月24日 (月)

ポーランド、ウィーンの旅(1)ワルシャワ、夏時間の夜

5月、この時期に海外に出るのは初めてだった。日本の天候はいつになく不順だったが、東欧は過ごしやすい季節のはずだった。今回は、これまでの最長、8泊の行程だが、クラクフ3泊をメインにアウシュビッツ収容所跡の博物館をはじめ、第2次大戦の戦跡を訪ねるという一応の目的を定めていた。

 

5月11日(火)  

ショパンに迎えられたワルシャワ 

乗り換えのウィーン空港には30分以上早く着いたので、ワルシャワ行きのB30ゲイトで待つこと1時間、搭乗時のボディチェックは厳しかった。服み忘れないようにとポケットに入れて置いた降圧薬の錠剤のアルミ箔が反応したためか、別途、椅子に座らされ、靴の裏まで入念に調べられた。ワルシャワ空港、正式にはショパン・フレデリック空港、夕方7時着、2010年はショパンの生誕200年に当るということで、ショパンの大きな看板に迎えられる。東京との時差は夏時間で7時間(4月~10月)、まだ明るい。宿泊は、ワルシャワ中央駅前のマリオット34階、夕食は、手近なホテル内のイタリアレストランで済ませた。サラダとパスタと定番ながら、私があったかいものが欲しいと頼んだスープが、赤ワインのような色で、妙に甘いので残してしまった。あとで調べると赤カブのスープだったらしい。日没は8時半くらいだったのだろうか、部屋の窓からは、右手の超高層ビルのてっぺんにSHARPの文字が見え、眼下の二本の大通りの車の灯がまぶしかった。

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5月12日(水) 

突然視力が落ちる、遠くが見えない!? 

朝起きて、こともあろうに、眼鏡をかけても右目が見えない、ぼんやりしか見えない。目薬をさしても、洗ってもさっぱり変わらない。旅の初めに大変なことになったと妙な予感がよぎる。今回は持って出た携帯用の血圧計で計ると、いつもより高い。読書用だといつものように見えるのだが、不安が募り、定期検診を受けている東邦大病院まで電話をしてしまった。「視野が欠けてはいませんか」「いえ」・・・、「ご心配なら、クリニックに行かれたらどうですか」と看護師は言うが、簡単なことではない・・・。ん?足元の床に鈍く光るものが、レンズだったのだ。つれあいには「しっかりしてよ」と笑われる。きょうはいちばんにメガネ屋さんを探さねばならない。

 

カチンの森の展示パネル  

ホテルから南に、ショパン像のあるワジェンキ公園を目指す。それにしても、緑の多い街だ。まず、ウジャドフスキ公園を左に見て、立体交差路を越えるとワジェンキ公園が始まる。右側には、EUの紺色の旗と赤白のポーランド国旗を掲げる建物や大使館らしい建物が見えてくる。そして、公園の始まる道路際の緑地に、いくつものパネルが立っていた。近づいてみると、「KATYN」とあり、1940年、ソ連のカチンでポーランド将校2万人が虐殺されたという「カチンの森」事件の全容を伝えるパネルであった。1940年以降、1989年までゴルバチョフがソ連軍のやったことだと認めるまでは、ドイツ軍の仕業と言い通していた事件である。今年、事件より70年を迎え、4月10日、記念追悼行事に参加しようとカチンに向かったポーランドカチンスキ大統領をはじめとする政府要人を乗せた航空機が墜落するという事故があった。プーチン元大統領と事故死した反ロシア派のポーランド大統領との確執があったことを知ると、事故にロシアがかかわっていなかったか、などの憶測が私の頭によぎるのだが。昨年末、アンジェイ・ワイダ監督の映画『カチンの森』を観ていなかったら、通り過ぎる展示だったかもしれない。

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ショパン像の足元に

ワジェンキ公園には、ワルシャワ大学の大規模な植物園もあるようだ。さらに公園内を進むと広場に出て、遠足の小学生たちが中央のショパン像の台座によじ登っていた。多くの子どもたちはデジカメを持っていて驚いた。大きな池は工事中で水はなく、映像や写真でみるショパン像の風景とはやや違っていたが、私たちもショパン像の足元で写真を撮り合った。まだまだ、奥が深いワジェンキ公園だったが、バス116番で旧市街に向かうことにした。

 

「ピエロギ」って 

ブリストルホテル前で降りて、サスキ公園に入り、このあたりで昼食と思うが、ふと見かけた、ポーランド風の餃子ピエロギの小さな店があり、地元の人たちのテイクアウトで結構にぎわっていた。当地の名物とも聞いているので、私たちも、公園のベンチでピエロギでも食べて昼は済まそうと、2種類ほど温めてもらい、ホテルの朝食時に“頂戴”したリンゴとオレンジと一緒に食べ始めた。しかし、買った種類が口に合わなかったのか、決して美味とは言えなかったのである。

 

きょう、5月12日は、何の日 

気を取り直して、公園の木立を抜けて、無一物に思えるコンクリートの広場に出てみると、大きな十字架が一つ目につく。その対面に、無名戦士の墓があって、国旗が翻るアーチ様の建物のなかで兵士に見守られていた。見学者というか、参拝者は子どもから年配者まで途絶えることがなく、広場には何組かの団体客が群れをなしていた。この広場には、先の航空機事故で亡くなったカチンスキ大統領(1949~2910、ワレサ元大統領らの「連帯」幹部から政治家に転身、ワルシャワ市長など歴任)の追悼式典に10万人の人々が集まったという。その広場を横切って道を隔てた向かいに、急に人が集まり出したので、私たちも近づいてみる。国旗の色のタスキを掛けた人たちや制服の人々に見守られながら、銅像へ花環を献ずる人たちがいる。荘厳なアナウンスがあたりに流れ、献花のたびに鼓笛隊の太鼓が打ち鳴らされている。追悼セレモニーのようでもあるが、軍服の銅像は誰なのかわからないまま、つれあいは参列者の間や背後に迫って盛んに写真を撮っていたのでハラハラしたが、あちこちに立っている警官に咎められることもなかった。ガイドブックによれば、銅像はピウスツキ元帥であり、あの広場はピウスツキ元帥広場と名付けられていた。夜、持参の『ポーランドを知るための60章』(渡辺克義編 明石書店2001年)にあたると、なるほど、きょうは、ピウスツキ元帥の命日であった。他国に翻弄されやすかったポーランドで、ロシア流刑、逮捕、精神病院収容などを経ながら、一時独裁政権をとったこともあったが、ポーランド建国の父といわれている軍人・政治家であった。ユダヤ民族に対しても寛容であった彼は、国民的人気が高い軍人であり、政治家だったのである。そういえば、少年少女や髪を編み込んだ黒人青年も花を供えていたが、今のポーランドの政情のなかで、この銅像の元帥はどんな位置づけなのか、もう少し調べてみる必要があるかもしれない

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ようやく、眼鏡がなおって、歴史博物館へ 

旧市街に向かう右手に、写真で見覚えのあるモニュメントが現れる。ワルシャワ蜂起記念碑、実物は見上げるほど巨大で、戦う市民の、苦しみと覚悟をリアルに表現した群像が周囲から迫って来る勢いである。1944年8月1日、解放間近いと見た市民たちがドイツ軍に対して一斉に蜂起した。ヴィスワ川対岸にまできているソ連の援軍を期待したが、ついに来らず、ドイツ軍に制圧された。市街のほとんどが破壊され、2ヶ月後の降伏時に死者20万人に達したという。東京空襲での死者が10万人というから、その市街戦の規模は私には想像がつかない。1989年8月、45年を経て、この記念碑が建てられ、博物館も2004年に開設されている。先を急ぎ、入館することができなかったのが残念だった。

さらに旧市街へと進む中、ようやくメガネ屋さんが目に入り、飛び込んだ。眼鏡が壊れましてと、外れたレンズを差し出すと、女性店員はにこやかに「ちょっと待って」と奥に引っ込み、ものの数十秒?で修理、レンズも磨いてくれた。料金を尋ねると断られ、”have a nice day”と見送られたのだった。そして、旧市街広場に面してあるはずの歴史博物館が見あたらない。ガイドブックには入り口は小さいが中は広いとある。工事現場の隣にスタッフオンリーのほんとに小さな入り口を見つけたので、奥をのぞくと、今日と明日はショパンのイベントがあって休館だと、係員は説明する。

自転車で新婚旅行に出たキューリー夫人 

がっかりして、砦、バルバカンの周辺をめぐり、川岸から離れ、キューリー夫人博物館へと向かう。キューリー夫人(1867~1934)の生家がそのまま博物館になっている。フランスに渡る1891年までここで暮らしたという。生誕100年を記念して1967年博物館として開放されている。多くの写真や資料とともに書斎が復元されていて、当時の雰囲気や彼女の全生涯がわかるようになっている。むかし、娘と一緒に読んだキューリー夫人の伝記で、彼女たちの新婚旅行は自転車の旅だったことを思い出し、探して見ると「あった!」、だいぶ高いところに、夫妻が、2台の自転車でまさに出かけようとしているスナップが飾られていた。帰りには、その写真が絵ハガキになっていたのでさっそく買ってしまった。

また、サスキ公園を経て、今度は、ワルシャワ・ゲットー記念広場へと向かう。分かってしまえば近い距離なのだが、地図を頼りようやくたどり着く。周辺は、工事中で、ユダヤ博物館が建設されるらしい。今は大きな英雄記念碑の前で、オジサンが一人、絵ハガキや関係資料を広げて売っていた。急に空が暗くなったと思ったら、すごい降りとなり、私たちは大きな街路樹の下でしばらく雨宿りとなった。傘を持たない通りすがりの人たちもしばし同じ木のもとで雨をやり過ごすのだった。

10分もしないうちに雨は上がり、ひとまず帰ることにした。だいぶ歩きまわったので、ひと風呂浴びてから夕食に出ようということになった。また、横断歩道のところで地図を手に迷っていると、中国系のビジネスマン風の男性が声をかけてくれ、中央駅まではバスで二駅、歩いても20分あれば着きますよ、の言葉に歩き始めたのだが、結構きつかった。いったん止んだ雨が本降りとなってしまった。

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ふたたび旧市街へ、本格的なポーランド料理とは  

今回の旅行では、簡易な湯沸かしを持参していたので、宿の水を沸かせば、いつでも熱い日本茶が飲めたのはありがたかった。入浴後一息入れて、今度は車で、旧市街の「フキエル」へ行って本格的なポーランド料理?を食べてみようということになった。タクシーも乗降場までしか行かず、運転手は路地を入ってすぐのように教えてくれるが、結構探すのに苦労する。入り口が花や植木に囲まれている店だった。結局注文して、出てきた料理、私のスープは、アスパラの白とグリーンのポタージュ風、メインは鮭のフィレ、人参とカブの甘酢漬け風のサラダと白ワインであった。白アスパラは、メインの付け合わせにも登場したが、スープは格別だった。夕闇の王宮広場は、まだまだ、人の群れが途絶えていなかった。眼鏡騒動で始まった一日、長い一日が終わろうとしていた。この日の万歩計、33700歩。

 

5月13日(木)  

聖十字架教会のミサ  

はっきりしない空模様ではあったが、10時には開館するショパン博物館へ直行し、きのうはバスで素通りしたワルシャワ大学へ行ってみることにした。ホテルから乗った車の運転手は、しきりにショパン博物館はクローズしているというのだが、ともかく10時には開くのでと、降ろしてもらう。周辺は大掛かりな工事中で、大回りをして、近くの音楽学校のピアノ練習の音を聞きつつ、博物館らしい建物を見つける。だが、あたりは閑散として、幾つかのドアも閉まっている。大通りに面した入り口には、12時オープンの事務的な張り紙のみで、ガイドブックの記載と違う。運転手はこのことを言っていたのだろうか。たしかに3月末までは工事で閉館していたらしいが、今年は生誕200年でもあることだし、せめて通常の開館時間に戻してほしかった。

今日は、中央駅1時24分発の列車でクラクフに向かわねばならないのだ。ともかくワルシャワ大学へと向かう。まず、右手にコペルニクス像が現れ、やがて左手に十字架を背負ったキリスト像が見えてきた。聖十字架教会のはずだ。階段を上がり、重い扉をそっと開けてみる。朝のミサのさなからしい。高い天井、正面の奥深くには、黄金の祭壇、祈りと聖歌が交互に続き、聖歌の歌詞は左手のスクリーンに映し出される。聖歌は、祭壇に歌い手がいるらしく、低く、やさしく魅力的な声で、荘厳に堂内に響き渡る。人々は共に歌い、立ちあがったり、膝まづいたり、一斉に祈ったりし、ときに周囲人々に握手を求めたりする。私もあわてて近くの青年と握手をする羽目となる。これがカトリックのミサなのかなと、キリスト教的素養のない私は妙に緊張する。後方の左手には、ショパンの心臓が埋められてあるという柱があり、国旗のテープが掛けられていた。観光客はむしろ少なく、地元の家族連れや老若男女がしきりに入って来るのだが、いつ果てるともない祈り、20分くらいいただろうか、表に出た。向かいの大学の正門を入ると、キャンパスの野外では、ミーテイングかゼミをやっているらしい幾組かのグループに出会う。1816年開学のこの大学ではショパンも学び、構内の宮殿にはショパン一家が住んでいた部屋もあるそうだ。ある建物では、ショパン展もやっていて、ワルシャワの歴史、ショパンの生涯が模型や図面、パネルや絵画などをふんだんに使っての展示だった。ゆっくりしたいところだったが、つれあいが、もう一度ピウスツキ元帥像を、人に邪魔されないでカメラに収めたいというので、出かけてみる。ピウスツキ元帥広場は相変わらずの人出であったが、元帥像付近は閑散としていた。

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発車ホームは何番?クラクフへ  

ホテルに戻る途中、中央駅に着いたときから気になっていたのは、高い寺院風の塔と高層ビル、文化科学宮殿と呼ばれているもので、さまざまな施設が入居しているという。この巨大な建物は、1956年に完成したスターリンからの贈り物で、ガイドブックに拠れば、ワルシャワ市民にはすこぶる評判が悪いらしい。かつてはたくさんの観光客も来たのかもしれない。これまた巨大な駐車場ビルが今にも傾きそうな風情で建っていた。チェックアウト後、バゲッジを引きずり、中央駅構内で、昼食になりそうなものを物色、鳥のソテーとサラダを一皿ようやく買い込んだ。ビールを探すが、どこにも置いてないようなのだ。それに、クラクフ行きの発車ホームを探すが、ボードにはなかなか表示が出ないのであわててしまう。5分ほど前にようやく表示が出、結局いちばんにぎわっているホームだったことがわかった。コンパートメントに落着き、相席の男性には申しわけなかったが、これまた、ホテルから“頂戴”したパンと果物も取り出した。つれあいによれば、車内の売店にもビールはなかったそうだ。4時には、クラクフに着く列車の旅、眠りに落ちるまではと、メモの整理を始めるのだった。列車への乗り際、駅の案内所でもらった日本語の「ワルシャワの簡単な紹介」(ワルシャワ観光案内所 2008年)という135頁の小冊子が、日本から持ってきた、どのガイドブックよりも詳しく、史料的にはいちばん役に立った。到着時に入手していればと、あとのまつりの悔しさを味わった。ただ、目的別・ルート別になっているので、同じ施設が何か所にも出てくる、索引でもあればな、と贅沢言いたくなるのだった(続く)

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2010年5月 2日 (日)

マイリスト「すてきなあなたへ」に59号が登載されました

間隔が開いてしまいましたが、59号発行です。新しい寄稿者お二人を迎え、この春何かを始めたい方へ、その道のベテランからのお誘いもあります。左欄のマイリストのトップ59号をクリックしてください。

(目次)
“楽農家”人生 (佐倉市R.Y.)
盆石に魅せられて、幾十年(千葉市 美多賀鼻千世)
福祉コーナー~グループホームに親戚を訪ねました(K)
菅沼正子の映画招待席31「プレシャス」~無知は罪である
編集後記

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ノルウェーとデンマーク、日本との違いは何か(2)ケンジ・ステファン・スズキさんの講演会

 

 佐倉市市民オンブズマンのお二人の方から案内を頂いていた。「デンマークという国について」との演題、429日(木)、佐倉市立美術館ホールの午後、すでに会場は満席に近かった。スズキさんの名前は初めて聞くのだが、略歴によれば、学生時代の1967年にデンマークに渡り、大学で学び、航空会社、大使館、農場と職場を変え、1979年にはデンマーク国籍を取得、1990年代には、デンマークの風力発電などを日本に紹介・普及させる事業を手掛け、環境教育の場としてデンマーク、日本に「かぜの学校」を開設・運営するようになる。現在も両国を往来し、講演活動などで多忙な日を送っている、とのことだ。

まず、デンマークの高福祉政策の実際とそれがなぜ可能になるのかを話された。まさに、ゆりかごから墓場まで、出生、育児、教育、就職支援、医療、年金などすべてを国が責任を持つ制度は、国民の納税額の再配分による「共生」が根幹であると。親の子供の扶養義務は18歳までで、以降は国が負担、大学生の教育費はもちろん生活費まで保障される。思うような仕事に就けない場合でも、生活費は保障される。働けば15歳以上から納税義務が生じ、25%の消費税を含めると、総所得の約50%が税金となり、個人番号制により徴税は徹底しているという。働かなくても生活費が保障されるならば、国民は覇気を失いみんな怠けものにならないかの疑問に、スズキさんは、デンマーク人は実によく働くという。人間は自立したい、社会に貢献したい、働く喜びのある暮らしを望むのが自然で、そんな心配は無用だと明言された。

さらに、高福祉の実現は環境問題との切っても切れない関係がある。環境悪化は医療・福祉の負担が増大し、健康に生きるためには大氣と水の汚染防止が不可欠となり、食やエネルギーの自給が課題であると。

そして、話の後半は、資源の少ないデンマークがEU諸国で、エネルギー自給率100%を超える唯一の国であり、風力発電が盛んになった歴史から、さらに麦わら、木材、家畜の糞尿などによるバイオガスなどを再生エネルギーとする政策の実態と工夫、廃棄物の65%再利用され、26%は燃料化され、埋め立てと特別処理に回るのがわずか9%であることなどに及んだ。

スズキさんは、最後に、デンマーク社会の根幹は、教育、とくに倫理哲学教育の徹底、情報公開による民主主義の追求、中高生からの政治参加、女性の社会進出、権力者監視のオンブズマン制度にある、と結ばれた。

会場の参加者からは、風車の環境への影響、健康被害についての質問があった。日本では正確なデータがとれないということであったが、デンマークでは、建物より300mは離す、騒音は40デシベル、低周波は20デシベル以下という基準があるという。日本の各地で、すでに風車による健康被害が続出しているので、その導入は手放しでは喜べない。山の多い国土環境から慎重な設置が必要と思われるが、被害の少ない洋上設置が一つの方向なのだろうか。

最初は、とても信じられない気持で、別世界の話として聞いていたデンマークのエネルギー政策の転換は1973年オイルショックがきっかけだったというから、その後の日本のエネルギー・環境政策を思うと、まったく実現不可能ではなかったことが分かるのだった。

昨年の夏、オスロへの空路の中継地だったコペンハーゲン空港、洋上に並ぶ風車が描く弧は強烈な印象だった。ウインドファームと呼ぶそうだ。また、ノルウェーからの帰路、2日ほど過ごしたコペンハーゲンで、自転車専用道路を疾走する通勤の人々の群れ、抵抗博物館でのナチスへの抵抗の足跡を目の当たりにしたのが思い出された。

また、昨年末見た、デンマークに侵攻したナチスに抵抗した二人のテロリストの愛と苦悩を描いた映画『誰がため』は、本国での観客動員数は記録的だったいう。実在した二人が抵抗組織のなかで果たす要人殺人のクールな描き方に、私などは違和感を持ったものだが、国民からの賛辞は揺るがないようである。

デンマークから学ぶことはまだたくさんありそうな気がした。

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