二つの『坂の上の雲』講演会に行ってきました
①「『坂の上の雲』と正岡子規」
日時:5月29日(土)午後4時~5時15分
講師:金井景子早稲田大学教授
主催:船橋稲門会主催
場所:船橋市フローラ西船
地域新聞のイベント欄には子規と律のことを中心にというコメントがあったので、是非と思って申し込んだ。本ブログでも、NHKドラマ『坂の上の雲』に登場した子規や律について、司馬の原作と照合したことがあるので、聴いておきたかった。金井さんは、そのホームページなどによると「文学・ジェンダー・教育」をテーマに近代日本文学を専攻されている。
早稲田大学同窓会のイベントながら一般公開の講演会らしかった。定員80人とあったが、それを超える盛況ぶりで、講師は和服姿であった。ウーン? いつか、どこかで見た光景だ。数年前のジェンダー関係のシンポジウムで、やはり上野千鶴子が和服姿でパネリストを務めていた。ご両人とも日常的に和服を着ている風にも思えないので、一種の女の「勝負服」なのかな、と思えるのだった。短歌の世界でも、授賞式だ、グラビアだ、というと和服姿で現れる女性歌人が多いのに、ややげんなりして、苦言を呈したことがある。ファッションは個人の勝手といえばそうなのだ。しかし、私には、それ以外の要素を感じてしまうのだが、思い過ごしだろうか。
『坂の上の雲』の子規を通し、ジェンダーの視点から解明してくれるのかな、と勝手に思い込んで出かけた。講演は、最初に、ドラマ「坂の上の雲」の冒頭で毎回流される映像がスクリーンに映し出された。そのナレーションについて、司馬の原作は脂の乗り切った時期の作品だけに、「朗読」に適した心地よい表現でもありますね、と話し出すのだった。また、原作に登場する正岡子規、ドラマに登場した正岡子規に言及し、小説では触れられないこと、省略されていることも、テレビというメディアでは、その特徴を生かして、さらにイメージをふくらませて、人物の深層や時代背景を描くことが可能で、補完しあっている、という趣旨のことが話された。その典型として、原作にはない、子規が志願した従軍先で、曹長が中国人を虫けらのように扱っているのに怒りを覚えるシーンも映し出された。ドラマに挿入されたこの場面について、金井さんはどう思われたのか、明確には聞き取れなかったが、子規の心情を補完するとして肯定的に話されたように思う。
この場面が司馬の原作における日清戦争観と齟齬があることは、放映後、幾人かに指摘されている。また、子規の従軍記録などを通覧しても、直接こうした場面に遭遇した形跡は見当らない。この場面に、ドラマの制作者たちは何を意図したのだろうか。私が気になるのもその点で、子規のヒューマニズムをここに折り込むことによって、日清戦争における日本、ドラマにおける軍人や政治家たちのミリタリズムを少しでも和らげようとでも思ったのだろうか。
しかし、原作者の司馬は「坂の上の雲」は歴史的事実を史実に、資料を丹念に調査した上での歴史小説であると「あとがき」で自負していることからも、こうした形で、原作にない部分を挿入することは、ドラマ化におけるルール違反ではないか。さらに、もっと基本的なことを言えば、原作者の自負にもかかわらず、明らかに歴史的事実と異なる場合、重要な事実を見落とし、省略している場合が各所にみられるとき、ドラマ化自体にかなりのリスクが伴うのではないか。だからこそ、司馬遼太郎は、死ぬまで、原作のドラマ化を頑なに拒んでいたのではないか。にもかかわらず、司馬遼太郎原作をうたった大掛かりな、今回のドラマ化計画には大きな問題があったはずだ。そういう状況下で、ドラマにおける、さらなるフィクションによる挿入は、慎重を期すべきもので、安易に肯定すべきものではない。
そんなことを考えているうちに、講演は、子規をめぐる人々の血縁、地縁、学縁の話しに及んだ。「学縁」という言葉は金井さんの造語らしい。子規の「学縁」は東大であり、「俳句」であり、その豊饒な人脈の源は「学縁」にあった、と結び、同窓会の講演らしく早稲田の「学縁」に大いに期待するということで終わったのだった。
子規の妹、律の話やジェンダーに及ぶことはなかった。
②「『坂の上の雲』のどこが問題なのか~史実の偽造を拡散させるNHKの社会的責任 」
日時:5月30日(土)午後1時30分~3時30分
講師:醍醐聰:「坂の上の雲」放送を考える全国ネットワーク
呼びかけ人、
NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ共同代表
主催:さくら・志津憲法9条まもりたい会
場所:佐倉市志津コミュニティセンター
地域の9条の会の一つ「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」に世話人としてかかわっており、参加した。その詳細は、講師の開くブログ「醍醐聰のブログ」に報告があるので、ぜひ参照していただければと思う。
醍醐 聰のブログ
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