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2010年5月25日 (火)

安心、安全な歌人たち~「歌会始」は何に寄与しているのか~ 

なぜ「歌会始」にこだわるのか

私は、これまで、「歌会始」が現代短歌において果たす役割について、以下のようなエッセイなどを発表してきた。繰り返し、飽きもせず、国家と文芸、とくに国家と短歌との危うい関係について述べてきたつもりである。短歌は安心、安全な文学であってよいのか、の思いは募るばかりである。

①「『歌会始』-現代短歌における役割をめぐって」(『短歌と天皇制』風媒社 一九八八年、初出『風景』一九八三年一〇月~一九八八年一月) 
②「『選者』になりたい歌人たち」(『現代短歌と天皇制』風媒社 二〇〇一年、初出『ポトナム』一九九二年一二月)
③「勲章が欲しい歌人たち」(『風景』一〇〇~一〇一号 二〇〇二年九月~一一月)
④「芸術選奨はどのようにえらばれたのか」(『ポトナム』二〇〇六年一〇月~一一月)
⑤「戦後六四年、歌会始の現実」(『ポトナム』一〇〇〇号記念 二〇〇九年八月)
⑥「『歌会始』への無関心を標榜する歌人たち~その底流を文献に探る」(『ポトナム』  二〇一〇年一月~三月)
(④はマイリスト「短歌の森」目次から⑤⑥は「内野光子のブログ」のカテゴリー「短歌」「歌会始」検索可能録) 
そして今回も、次のような表をあらためて作成することにした。

新聞歌壇選者と歌会始 

第1表では、現時点での歌会始選者及び五大全国紙・NHKの投稿歌壇の選者とその就任年の一覧と参考のため芸術院会員就任年も併記した。現在、歌人では岡野・馬場・佐佐木、岡井の四人が日本芸術院会員で、過去には、佐藤佐太郎、宮柊二、前川佐美雄、斉藤史がおり、茂吉、信綱、白秋、空穂、水穂、薫園、勇、麓、善麿、文明、順らに続いた。一九九三年、岡井隆は歌会始選者に就任した。当時、現在の「歌会始」は「体制も反体制もいまは死語、民衆の参加する短歌コンクールとしては本邦最大で知名度が高い」として、特別扱いする要因はもはやないというのが就任の理由だった(「インタビュー“前衛短歌の旗手”歌会始選者に―批判と期待の岡井隆氏に聞く」『朝日新聞(大阪版)(夕)』一九九二年九月四日)。表にはない近年の選者に安永蕗子、清水房雄、武川忠一らがおり、物故選者には、木俣修、香川進、四賀光子、五島美代子、上田三四二、窪田章一郎、山本友一、前田透、千代国一らがいる。選者の中で在任期間の長い吉井勇(一九四八~一九六〇年)、木俣修(一九五九~一九八三年)、岡野弘彦(一九七九~二〇〇八年)岡井隆(一九九三~)が実質的なリーダー役となって行く。歌会始選者と新聞歌壇選者の関係をみると、篠は「サンケイ」から「毎日」に変り、二〇〇六年からは歌会始選者を併任する。永田は「サンケイ」から「歌会始」「朝日」へと移行する。高野は「日経」から「朝日」へ、栗木は「日経」から「読売」へ、伊藤は「サンケイ」と「毎日」を兼任、表にはないが、岡野は「読売」のほか「東京新聞」を、佐佐木も「朝日」のほか「東京」を兼任している。これを見る限り、新聞歌壇選者の実績と歌会始選者への道は連動し、文字通り、歌会始は新聞歌壇の延長線上にあるといえよう。新聞歌壇にもランクがあるらしく、経済紙から一般紙への移行が多い。発行部数では「読売」が一位だが、伝統と話題性では「朝日歌壇」の評価が高い。ネット上では「朝日歌壇鑑賞会」なるものが一九九一年から立ちあげられ、右翼的な手口で朝日歌壇を特化してその選者・入選者への個人攻撃や中傷が氾濫していたこともある。いまはターゲットの変貌にやや沈静化し、昨年二〇〇九年あたりから更新は滞りがちである。現在の新聞歌壇選者は、いずれも近い将来の歌会始選者の候補者という図式が成り立ちそうだ。「NHK歌壇」選者は2年任期で、意識的に起用している若手の女性は、将来的に新聞歌壇、歌会始選者の予備軍かもしれない。もっとも、歌会始選者ではない馬場あき子と佐佐木幸綱は別格で、すでに芸術院会員となっている。馬場は、その思想的な出自から宮内庁ないし岡野弘彦とは距離があったのだろう。佐佐木も、岡井の選者就任の折、「俺は行かない」(「時評・俺は行かない」『現代短歌雁』二七号一九九三年七月)と早々と自らの選者拒否の宣言をしていたこともあって、その道を選ばなかった。しかし、両者とも、現歌壇での指導力と影響力は絶大で、それぞれ『かりん』、『心の花』においては着々と「歌会始」選者を育てつつあるのではないか。第1表に登場する歌人の中には、すでに声はかかってはいるが、佐佐木以外にも「行かない」でいる歌人がいるようにも思うのは私のはかない期待だろうか。

第1表:歌会始・NHK・新聞歌壇(全国版)選者一覧(2010年1月現在)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/dai1hyo.pdf

短歌大会と歌会始

岡井隆が「民衆の参加する本邦最大の短歌コンクール」と位置づけた「歌会始」と主要な短歌大会の概要を第2表とした。歌会始選者をゴチックで示した。応募歌数で並ぶのは歌会始とNHK大会だが、出詠料が無料というのがその理由かもしれない。また、NHK大会の選者は、上記の新聞歌壇選者を総ざらいしている感もある。国民文化祭と日本歌人クラブ、現代歌人協会の選者には地方色を反映している。最近では「町おこし」の一環や観光で短歌大会を立ち上げる自治体や神社仏閣、地方の歌人団体が主催する短歌大会が増えている。それらの選者として声がかかるのも、この表の著名歌人の一群である。特定のたかだか二十数人の歌人たちが東奔西走していて、大会の最優秀賞を選び、選者賞を選ぶ。大会独自、地域独自の特色などはなかなか出にくい状況ではないのか。『短歌現代』(二〇一〇年四月)「小議会特集・短歌大会」では、地方の短歌大会運営の工夫が語られていて興味深い。「著名歌人を呼んで選者や講演を依頼する」パターンも限界にきているようなのだ。ちなみに、以下は第2表の五つの大会の入選作、筆頭大会賞にあたる作品である。

①指ほどに育ちし五齢の蚕いま驟雨の如く桑の葉を食む                    ②まはりから少し遅れて年老いた欅も芽吹く、呼ばれてゐるのだ
③うす暗き築地市場の石だたみ冷凍鮪が煙をあぐる
④雲間より光射しくる中空へ百畳大凧揚がり鎮まる         
⑤ふたりかと遠目に見しは人と犬共に座りて川をみて居り

どの大会の入選作品か判定は困難なのはもちろんだが、ちなみにその出典を文末に記してみた。④は②の大会賞「百畳の大凧空に静止してわれら引き手の天井をなす」の作者と同一であった。モチーフは同じながら、表現は異なる二首なので、宮内庁(選者:)は未発表作品として扱ったのだろうか。読んでいてあまり気分のよいものではなかった。

第2表:主要全国短歌大会選者一覧
http://dmituko.cocolog-nifty.com/dai2hyo.pdf

歌会始と芸術選奨

 毎年三月に公表される芸術選奨・文学部門の文部科学大臣賞に、今年は柳宣宏『施無畏』という歌集が入っていた。大衆芸能部門の坂本龍一らと一緒の受賞である。歌壇に疎い私は、受賞者の名前くらいしか知らず、やや唐突な感じがしたのだった。この芸術選奨は、一九五〇年より発足した芸術振興のための国家的褒章制度である。文学部門で対象になった歌集(歌人)と選考審査員などをまとめ、第3表とした。各選考審査委員が自分の専門分野の推薦作品を持ち寄り、審議をするらしいのだが、その詳細はわからない。その選考審査員すら公表されたことがない。他の選考審査委員の推薦作品を読んでいなかったり、見ていなかったりというのが普通らしく、推薦者の弁の説得力がカギらしい。こんな状況を露呈したのが、二〇〇三年、二〇〇二年度美術部門の受賞者の盗作が問題になった時だった。推薦者以外の選考審査員は対象作品を確認していなかったことが報道の過程で分かった。そして、次の年から推薦委員制度が設けられたが、これがどの程度機能しているかは定かではない。しかし、短歌関係に限ってみても、かつて、篠弘は自らの時評において、はからずも選考過程を垣間見せたことがある(『北海道新聞』二〇〇二年三月一一日)。国家の芸術振興政策の在り方自体にも私は問題があると考えているが、少なくとも「国家的な権威」を伴う褒章制度が、限りなく個人的な知見に左右されている事実だけは指摘できるのではないか。作品の内容ではなく、選ぶ者も選ばれた者もその権威だけを引きづって一人歩きしているのではないか。短歌関係の選考審査員、推薦委員の名前を見て、どう思われるだろうか。前掲の二つの表に登場する「毎度おなじみの」著名歌人たちである。沿革や選考過程についての詳細は、拙著文献④を参照してほしい。以上、「選者」の在り方を概観してみた。歌壇には、角川短歌賞など短歌メディアが主催する賞、現代歌人協会賞など歌人団体が授けるの賞、さらに、斉藤茂吉、若山牧水、前川佐美雄等を冠する賞など増加の一途をたどっている。ただ、さまざまな賞の「選者」、とくに歌会始選者を頂点とする「選者」というフィルターは、抵抗や挑戦を促すものではなく、安心・安全な歌人、歌壇づくりに寄与していることは間違いなさそうである。つぎに、最近の「選者」たちの声も確かめておきたいと思う。

第3表:短歌関係(文学部門)芸術選奨選考委員・推薦委員・受賞者一覧
(1950~2009年度)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/dai3hyo.pdf

選者たちからの発言~岡井隆の場合 

昨年まとめられた小高賢を聞き手とする岡井隆のインタビュー記録『私の戦後史』(角川書店 二〇〇九年)には、興味深いものがあった。私がまっさきに確認したのは「歌会始問題とその後」の章だった。岡井自身が「歌会始選者就任」について、これまでは、あまり深く語らなかったが、もう「時効」か「潮時」とも思ったのか、あるいは聞き手が上手だったのか、けっこう、ラフに語っているのが印象的だった。小高が「岡井さんの選者就任で一番足りないのは、ご自身の論理的説明ではなかったか」の質問には次のように答えている。「今になって振り返って客観的に眺めてみると、やっぱり僕は転向したのだと思う、明らかに。(中略)六〇年安保のころに反天皇的な歌を作りましたね。あの時の僕自身と四十代、五十代、六十代にかけての僕自身とは明らかに違っている。そう思います。違っているけれど、自分の中にずっとそういうふうに動いてきた思想的経緯というものに関して、もうちょっと責任をとるべきだったという気もします。言い訳をする必要はないのだけれども、自分自身はこういうかたちで考え方を変えて来ていると筋道を語るべきだったのかもしれない。(後略)」(二六八~二六九頁)   「自分自身のためだけでもいいから、きちっとあきらかにしておく必要があったかなあとは思う。ただ、なにか書こうとすると、みんな、大島史洋君もそうだったけれど、『岡井さん、もうやめなさい。何を言ったって、全部、言い訳に取られるから、何も言わない方がいいですよ』と言うから、そうかなと思っちゃった。」(二六九頁) 戦後の短歌史をけん引してきたという自負を垣間見せながら、この幼稚な発言が共存するところに、岡井の本質があると思った。「表現者としての説明責任」は逃れようもない責務だと思うが、小高のいう「論理的説明」を岡井に求めても、多分破綻するだろうから、岡井自身も避けてきたのだと思う。また、彼は、選者就任直後の「現代歌人協会会報」での批判を「あのような誌面に個人の悪口をあんなにまとめて出していいのかなあ」と回想しているが、「悪口」と受けとるところこそ世俗的で、あまりに「論理的」ではない証拠だろう。かつて、岡井が現代歌人協会入会に際して、会報『現代歌人』(一九六〇年五月)に、協会が「歌会始の入選者を祝う会」を開催するのは何事かと、協会の幹部たちを名指しで非難したのは何だったのか(「非情の魅力について」)。会員の思想や行動についてもオープンな論議がなされてこそ、健全な団体だと考えるのだが、現在の協会は一九九〇年代の気概も失ったようだ。また、戦後短歌史の中でグループ活動の持つ魅力や刺激を語る中で、小高が近頃の歌人は「表面的な利害損得だけに頭が働くようになってきたのではないですか」と水をむけると「それはすごく世俗的」と岡井は答える。自身については、つねに「トップランナーみたいなところにいる人って、前を走っている人がいないわけですから、孤独感以外になにもないので」、「ニヒリズム、アナーキズムの衝動」に駆られる状況を語り、「世俗」とは一線を画しているような話しぶりではあった。(二六一~二六四頁)このインタビューの中で、ともかく、自らの転向の筋道をもっと語るべきだった、という発言を引き出したのは、大きな収穫であった。岡井の今後に、これ以上求めるのは無理かもしれないが、多くの歌人はこの一件から学ぶべきことは多いはずである。  

選者たちのからの発言~永田和宏の場合 

少し古い雑誌を読んでいて「大特集・永田和宏を探検する」にぶつかった(『短歌』二〇〇六年一〇月)。その中に、永田自身のエッセイがあった。近藤芳美の言葉を枕に、「歌への尊敬」の念こそが「今、歌を作り続けることで、最終的に何がいちばん自分にとって大切かを考える」よりどころだ、という主旨だった。さらに、自分は、なにか新しいことをして短歌史上に足跡を残したいと考えたが、「<新しさ>のためにだけ歌を作っていくのでは、あまりにもさびしくはないか」と述懐し、次のように述べる。  「昨今の歌壇を見ていると、歌を好きだというよりは、歌をたんに自己宣伝の具として歌をもてあそんでいる歌人が多すぎはしないか、という気がする。歌壇の表面に出て、しかし顔は歌壇以外のところ向いている。あるいは逆に歌壇的な人の集まりの中で顔を売ることだけで、なんとなく歌人としての格を得たような気になっている。そんなかつて厳しく否定された歌壇的な悪弊がまたもろ大きな顔をし始めているということはないだろうか。」(一〇八頁)   永田は、歌人と研究者という二足の草鞋を履く多忙さを強調しながら「自分の時間への責任」を取りつつ「歌を作って過ごしてきた人生」を良かったと言い切れることが大切だとする。しかし、今回の調査や永田の歌壇での振る舞いを思うとき、その発言と行動に違和感がつきまとう。ほんとうに多忙な人は、自ら多忙とはなかなか言い出さないものではないか。歌壇における自らの歌人としての活動に加えて結社経営や家族運営、研究生活に加えての大学・学会行政など、多忙は忖度できるが、どれも自分の責任において選択した結果であろう。選者就任など歌人としての本質的な活動なのだろうか。「自己宣伝」を兼ねた結社運営に必要な営業活動の一種ではなかったのか。『塔』のホームページや記念号の年表には、ことさらに受賞歌人や会員数の増加が強調されている。謙虚さや自制を失いかけた、こうした風潮が当り前になってしまった歌壇にはどうしてもなじめないでいる。

 作業を終えて

今回、「新聞歌壇の選者の就任年月」を田村広志編「新聞歌壇選者一覧」ほか『短歌往来』(二〇〇七年五月)の特集「新聞歌壇の現在と未来」の各記事を参考に調べた上、新聞社に確認した。ところが、データベース化がなされてない部分(一九八〇年代以前)を遡及するのはむずかしい、とする結果が多かった。典拠はまちまちで、縮刷版などでの確認に至らないところがある。また、「芸術選奨」の選考審査員・推薦委員の名前を決して公表しようとしない文化庁の姿勢は、十年一日のごとく改まらない。受賞者の発表は選考委員とセットでなされるべきと何度か要望しているが、「検討する」として実現していない。ネット上の公表でも十分である。なお、ここ数年間に関しては受賞作品名と受賞理由の一覧が文化庁のホームページで公開されているが、作品名にミスがあったりして万全ではない。

参考:前掲各短歌大会の入賞作と作者名 

①指ほどに育ちし五齢の蚕いま驟雨の如く桑の葉を食む                    (国民文化祭・文部科学大臣賞 高田馴三)
②まはりから少し遅れて年老いた欅も芽吹く、呼ばれてゐるのだ                   (全国短歌大会・朝日新聞社賞 掃部伊津子)
③うす暗き築地市場の石だたみ冷凍鮪が煙をあぐる 
(全日本短歌大会・文部科学大臣賞 本吉得子)
④雲間より光射しくる中空へ百畳大凧揚がり鎮まる
 (歌会始入選 後藤正樹)     
⑤ふたりかと遠目に見しは人と犬共に座りて川をみて居り
(NHK大会・大会大賞 石川つる)

(『新日本歌人』2010年6月号所収)

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