ポーランド、ウィーンの旅(1)ワルシャワ、夏時間の夜
5月、この時期に海外に出るのは初めてだった。日本の天候はいつになく不順だったが、東欧は過ごしやすい季節のはずだった。今回は、これまでの最長、8泊の行程だが、クラクフ3泊をメインにアウシュビッツ収容所跡の博物館をはじめ、第2次大戦の戦跡を訪ねるという一応の目的を定めていた。
5月11日(火)
ショパンに迎えられたワルシャワ
乗り換えのウィーン空港には30分以上早く着いたので、ワルシャワ行きのB30ゲイトで待つこと1時間、搭乗時のボディチェックは厳しかった。服み忘れないようにとポケットに入れて置いた降圧薬の錠剤のアルミ箔が反応したためか、別途、椅子に座らされ、靴の裏まで入念に調べられた。ワルシャワ空港、正式にはショパン・フレデリック空港、夕方7時着、2010年はショパンの生誕200年に当るということで、ショパンの大きな看板に迎えられる。東京との時差は夏時間で7時間(4月~10月)、まだ明るい。宿泊は、ワルシャワ中央駅前のマリオット34階、夕食は、手近なホテル内のイタリアレストランで済ませた。サラダとパスタと定番ながら、私があったかいものが欲しいと頼んだスープが、赤ワインのような色で、妙に甘いので残してしまった。あとで調べると赤カブのスープだったらしい。日没は8時半くらいだったのだろうか、部屋の窓からは、右手の超高層ビルのてっぺんにSHARPの文字が見え、眼下の二本の大通りの車の灯がまぶしかった。
5月12日(水)
突然視力が落ちる、遠くが見えない!?
朝起きて、こともあろうに、眼鏡をかけても右目が見えない、ぼんやりしか見えない。目薬をさしても、洗ってもさっぱり変わらない。旅の初めに大変なことになったと妙な予感がよぎる。今回は持って出た携帯用の血圧計で計ると、いつもより高い。読書用だといつものように見えるのだが、不安が募り、定期検診を受けている東邦大病院まで電話をしてしまった。「視野が欠けてはいませんか」「いえ」・・・、「ご心配なら、クリニックに行かれたらどうですか」と看護師は言うが、簡単なことではない・・・。ん?足元の床に鈍く光るものが、レンズだったのだ。つれあいには「しっかりしてよ」と笑われる。きょうはいちばんにメガネ屋さんを探さねばならない。
カチンの森の展示パネル
ホテルから南に、ショパン像のあるワジェンキ公園を目指す。それにしても、緑の多い街だ。まず、ウジャドフスキ公園を左に見て、立体交差路を越えるとワジェンキ公園が始まる。右側には、EUの紺色の旗と赤白のポーランド国旗を掲げる建物や大使館らしい建物が見えてくる。そして、公園の始まる道路際の緑地に、いくつものパネルが立っていた。近づいてみると、「KATYN」とあり、1940年、ソ連のカチンでポーランド将校2万人が虐殺されたという「カチンの森」事件の全容を伝えるパネルであった。1940年以降、1989年までゴルバチョフがソ連軍のやったことだと認めるまでは、ドイツ軍の仕業と言い通していた事件である。今年、事件より70年を迎え、4月10日、記念追悼行事に参加しようとカチンに向かったポーランドカチンスキ大統領をはじめとする政府要人を乗せた航空機が墜落するという事故があった。プーチン元大統領と事故死した反ロシア派のポーランド大統領との確執があったことを知ると、事故にロシアがかかわっていなかったか、などの憶測が私の頭によぎるのだが。昨年末、アンジェイ・ワイダ監督の映画『カチンの森』を観ていなかったら、通り過ぎる展示だったかもしれない。
ショパン像の足元に
ワジェンキ公園には、ワルシャワ大学の大規模な植物園もあるようだ。さらに公園内を進むと広場に出て、遠足の小学生たちが中央のショパン像の台座によじ登っていた。多くの子どもたちはデジカメを持っていて驚いた。大きな池は工事中で水はなく、映像や写真でみるショパン像の風景とはやや違っていたが、私たちもショパン像の足元で写真を撮り合った。まだまだ、奥が深いワジェンキ公園だったが、バス116番で旧市街に向かうことにした。
「ピエロギ」って
ブリストルホテル前で降りて、サスキ公園に入り、このあたりで昼食と思うが、ふと見かけた、ポーランド風の餃子ピエロギの小さな店があり、地元の人たちのテイクアウトで結構にぎわっていた。当地の名物とも聞いているので、私たちも、公園のベンチでピエロギでも食べて昼は済まそうと、2種類ほど温めてもらい、ホテルの朝食時に“頂戴”したリンゴとオレンジと一緒に食べ始めた。しかし、買った種類が口に合わなかったのか、決して美味とは言えなかったのである。
きょう、5月12日は、何の日
気を取り直して、公園の木立を抜けて、無一物に思えるコンクリートの広場に出てみると、大きな十字架が一つ目につく。その対面に、無名戦士の墓があって、国旗が翻るアーチ様の建物のなかで兵士に見守られていた。見学者というか、参拝者は子どもから年配者まで途絶えることがなく、広場には何組かの団体客が群れをなしていた。この広場には、先の航空機事故で亡くなったカチンスキ大統領(1949~2910、ワレサ元大統領らの「連帯」幹部から政治家に転身、ワルシャワ市長など歴任)の追悼式典に10万人の人々が集まったという。その広場を横切って道を隔てた向かいに、急に人が集まり出したので、私たちも近づいてみる。国旗の色のタスキを掛けた人たちや制服の人々に見守られながら、銅像へ花環を献ずる人たちがいる。荘厳なアナウンスがあたりに流れ、献花のたびに鼓笛隊の太鼓が打ち鳴らされている。追悼セレモニーのようでもあるが、軍服の銅像は誰なのかわからないまま、つれあいは参列者の間や背後に迫って盛んに写真を撮っていたのでハラハラしたが、あちこちに立っている警官に咎められることもなかった。ガイドブックによれば、銅像はピウスツキ元帥であり、あの広場はピウスツキ元帥広場と名付けられていた。夜、持参の『ポーランドを知るための60章』(渡辺克義編 明石書店2001年)にあたると、なるほど、きょうは、ピウスツキ元帥の命日であった。他国に翻弄されやすかったポーランドで、ロシア流刑、逮捕、精神病院収容などを経ながら、一時独裁政権をとったこともあったが、ポーランド建国の父といわれている軍人・政治家であった。ユダヤ民族に対しても寛容であった彼は、国民的人気が高い軍人であり、政治家だったのである。そういえば、少年少女や髪を編み込んだ黒人青年も花を供えていたが、今のポーランドの政情のなかで、この銅像の元帥はどんな位置づけなのか、もう少し調べてみる必要があるかもしれない。
ようやく、眼鏡がなおって、歴史博物館へ
旧市街に向かう右手に、写真で見覚えのあるモニュメントが現れる。ワルシャワ蜂起記念碑、実物は見上げるほど巨大で、戦う市民の、苦しみと覚悟をリアルに表現した群像が周囲から迫って来る勢いである。1944年8月1日、解放間近いと見た市民たちがドイツ軍に対して一斉に蜂起した。ヴィスワ川対岸にまできているソ連の援軍を期待したが、ついに来らず、ドイツ軍に制圧された。市街のほとんどが破壊され、2ヶ月後の降伏時に死者20万人に達したという。東京空襲での死者が10万人というから、その市街戦の規模は私には想像がつかない。1989年8月、45年を経て、この記念碑が建てられ、博物館も2004年に開設されている。先を急ぎ、入館することができなかったのが残念だった。
さらに旧市街へと進む中、ようやくメガネ屋さんが目に入り、飛び込んだ。眼鏡が壊れましてと、外れたレンズを差し出すと、女性店員はにこやかに「ちょっと待って」と奥に引っ込み、ものの数十秒?で修理、レンズも磨いてくれた。料金を尋ねると断られ、”have a nice day”と見送られたのだった。そして、旧市街広場に面してあるはずの歴史博物館が見あたらない。ガイドブックには入り口は小さいが中は広いとある。工事現場の隣にスタッフオンリーのほんとに小さな入り口を見つけたので、奥をのぞくと、今日と明日はショパンのイベントがあって休館だと、係員は説明する。
自転車で新婚旅行に出たキューリー夫人
がっかりして、砦、バルバカンの周辺をめぐり、川岸から離れ、キューリー夫人博物館へと向かう。キューリー夫人(1867~1934)の生家がそのまま博物館になっている。フランスに渡る1891年までここで暮らしたという。生誕100年を記念して1967年博物館として開放されている。多くの写真や資料とともに書斎が復元されていて、当時の雰囲気や彼女の全生涯がわかるようになっている。むかし、娘と一緒に読んだキューリー夫人の伝記で、彼女たちの新婚旅行は自転車の旅だったことを思い出し、探して見ると「あった!」、だいぶ高いところに、夫妻が、2台の自転車でまさに出かけようとしているスナップが飾られていた。帰りには、その写真が絵ハガキになっていたのでさっそく買ってしまった。
また、サスキ公園を経て、今度は、ワルシャワ・ゲットー記念広場へと向かう。分かってしまえば近い距離なのだが、地図を頼りようやくたどり着く。周辺は、工事中で、ユダヤ博物館が建設されるらしい。今は大きな英雄記念碑の前で、オジサンが一人、絵ハガキや関係資料を広げて売っていた。急に空が暗くなったと思ったら、すごい降りとなり、私たちは大きな街路樹の下でしばらく雨宿りとなった。傘を持たない通りすがりの人たちもしばし同じ木のもとで雨をやり過ごすのだった。
10分もしないうちに雨は上がり、ひとまず帰ることにした。だいぶ歩きまわったので、ひと風呂浴びてから夕食に出ようということになった。また、横断歩道のところで地図を手に迷っていると、中国系のビジネスマン風の男性が声をかけてくれ、中央駅まではバスで二駅、歩いても20分あれば着きますよ、の言葉に歩き始めたのだが、結構きつかった。いったん止んだ雨が本降りとなってしまった。
ふたたび旧市街へ、本格的なポーランド料理とは
今回の旅行では、簡易な湯沸かしを持参していたので、宿の水を沸かせば、いつでも熱い日本茶が飲めたのはありがたかった。入浴後一息入れて、今度は車で、旧市街の「フキエル」へ行って本格的なポーランド料理?を食べてみようということになった。タクシーも乗降場までしか行かず、運転手は路地を入ってすぐのように教えてくれるが、結構探すのに苦労する。入り口が花や植木に囲まれている店だった。結局注文して、出てきた料理、私のスープは、アスパラの白とグリーンのポタージュ風、メインは鮭のフィレ、人参とカブの甘酢漬け風のサラダと白ワインであった。白アスパラは、メインの付け合わせにも登場したが、スープは格別だった。夕闇の王宮広場は、まだまだ、人の群れが途絶えていなかった。眼鏡騒動で始まった一日、長い一日が終わろうとしていた。この日の万歩計、33700歩。
5月13日(木)
聖十字架教会のミサ
はっきりしない空模様ではあったが、10時には開館するショパン博物館へ直行し、きのうはバスで素通りしたワルシャワ大学へ行ってみることにした。ホテルから乗った車の運転手は、しきりにショパン博物館はクローズしているというのだが、ともかく10時には開くのでと、降ろしてもらう。周辺は大掛かりな工事中で、大回りをして、近くの音楽学校のピアノ練習の音を聞きつつ、博物館らしい建物を見つける。だが、あたりは閑散として、幾つかのドアも閉まっている。大通りに面した入り口には、12時オープンの事務的な張り紙のみで、ガイドブックの記載と違う。運転手はこのことを言っていたのだろうか。たしかに3月末までは工事で閉館していたらしいが、今年は生誕200年でもあることだし、せめて通常の開館時間に戻してほしかった。
今日は、中央駅1時24分発の列車でクラクフに向かわねばならないのだ。ともかくワルシャワ大学へと向かう。まず、右手にコペルニクス像が現れ、やがて左手に十字架を背負ったキリスト像が見えてきた。聖十字架教会のはずだ。階段を上がり、重い扉をそっと開けてみる。朝のミサのさなからしい。高い天井、正面の奥深くには、黄金の祭壇、祈りと聖歌が交互に続き、聖歌の歌詞は左手のスクリーンに映し出される。聖歌は、祭壇に歌い手がいるらしく、低く、やさしく魅力的な声で、荘厳に堂内に響き渡る。人々は共に歌い、立ちあがったり、膝まづいたり、一斉に祈ったりし、ときに周囲人々に握手を求めたりする。私もあわてて近くの青年と握手をする羽目となる。これがカトリックのミサなのかなと、キリスト教的素養のない私は妙に緊張する。後方の左手には、ショパンの心臓が埋められてあるという柱があり、国旗のテープが掛けられていた。観光客はむしろ少なく、地元の家族連れや老若男女がしきりに入って来るのだが、いつ果てるともない祈り、20分くらいいただろうか、表に出た。向かいの大学の正門を入ると、キャンパスの野外では、ミーテイングかゼミをやっているらしい幾組かのグループに出会う。1816年開学のこの大学ではショパンも学び、構内の宮殿にはショパン一家が住んでいた部屋もあるそうだ。ある建物では、ショパン展もやっていて、ワルシャワの歴史、ショパンの生涯が模型や図面、パネルや絵画などをふんだんに使っての展示だった。ゆっくりしたいところだったが、つれあいが、もう一度ピウスツキ元帥像を、人に邪魔されないでカメラに収めたいというので、出かけてみる。ピウスツキ元帥広場は相変わらずの人出であったが、元帥像付近は閑散としていた。
発車ホームは何番?クラクフへ
ホテルに戻る途中、中央駅に着いたときから気になっていたのは、高い寺院風の塔と高層ビル、文化科学宮殿と呼ばれているもので、さまざまな施設が入居しているという。この巨大な建物は、1956年に完成したスターリンからの贈り物で、ガイドブックに拠れば、ワルシャワ市民にはすこぶる評判が悪いらしい。かつてはたくさんの観光客も来たのかもしれない。これまた巨大な駐車場ビルが今にも傾きそうな風情で建っていた。チェックアウト後、バゲッジを引きずり、中央駅構内で、昼食になりそうなものを物色、鳥のソテーとサラダを一皿ようやく買い込んだ。ビールを探すが、どこにも置いてないようなのだ。それに、クラクフ行きの発車ホームを探すが、ボードにはなかなか表示が出ないのであわててしまう。5分ほど前にようやく表示が出、結局いちばんにぎわっているホームだったことがわかった。コンパートメントに落着き、相席の男性には申しわけなかったが、これまた、ホテルから“頂戴”したパンと果物も取り出した。つれあいによれば、車内の売店にもビールはなかったそうだ。4時には、クラクフに着く列車の旅、眠りに落ちるまではと、メモの整理を始めるのだった。列車への乗り際、駅の案内所でもらった日本語の「ワルシャワの簡単な紹介」(ワルシャワ観光案内所 2008年)という135頁の小冊子が、日本から持ってきた、どのガイドブックよりも詳しく、史料的にはいちばん役に立った。到着時に入手していればと、あとのまつりの悔しさを味わった。ただ、目的別・ルート別になっているので、同じ施設が何か所にも出てくる、索引でもあればな、と贅沢言いたくなるのだった(続く)
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