ポーランド、ウィーンの旅(2)古都クラクフとアウシュビッツ
5月上旬、我が家の垣根のテッセンが蕾のまま、なかなか開いてくれなかったのだが、5月20日帰宅してみると、いつになく大輪の、やや、その紫は薄かったが、たくさん咲いていた。すでに花弁を落としているものもあった。当地は、19日夜からの雨以外はほとんど降らなかったらしい。留守番の飼い犬のお世話をお願いしていた方によれば、犬は玄関先で夜を過ごしたということだった。まとめて届けてもらった新聞を繰っていると、私たちがクラクフを発った後、大雨に見舞われ、アウシュビッツ・ビルケナウ収容所博物館は洪水の恐れにより閉鎖されたという記事を見出した。あらためて、アウシュビッツでの雨の冷たさと衝撃を思い起こすのだった。
5月13日(木)
古都の宮廷コンサート
物価も安いことだし、今回は、あまり無理をせずに車を使うことにしていた。なのに、クラクフ駅からホテルのある旧市街まで、意外に手間取ってしまった。若い運転手は、途中何度もこちらの持っていた地図を見直し、迷っているようだった。クラクフは、17世紀初頭までポーランド王国の首都であった。あとで旧市街の広場に出てみてわかるのだが、ホテルグランドは、広場に通ずる路地の一本を50mほど入ったところだった。戦災を免れた建物が多いので、ホテルの入り口も小さく、よほど注意しないと通り過ぎてしまうほどだ。泊った部屋は、少しカギ形になっている分だけゆったりした感じだった。まずは、ひと風呂浴びて街に出てみる。旧市街広場は、大がかりな工事の真っ最中の織物会館が大きく二分するが、旧市庁舎側には、店というより、同じ大きさの白いテントが軒を連ねて並んでいる。テントの内外では、ものを売るというのでなく、若者たちが立ち働き、よくみると地元のヤギェオ大学の名をはじめ学部名、サークル名らしき看板があげられている。旧市庁舎をバックに舞台もしつらえてあって、そこには、ユニバーシティ、フェスティバルなどと読める横断幕が掲げられ、歌や踊り、さまざまなパフォーマンスが繰り広げられていた。正面に日の丸らしきものが貼ってあるテントも見えた。のぞいてみたが、今は人がいない。広場近くの旅行案内所に入って目に着いたのが、宮殿コンサートのパンフレットだった。聴いてみようかと、当日券を買い置き、近くだという会場の下見にも行ってみる。これが宮殿?広場に面した入り口の右はレストランだし、反対側に小さなカウンターがあって、そこでも当日券を売っていたのでここらしい。7時開演だから、夕食はあまりゆっくりしていられない。近くの「15/16」という店に入った。奥が深く、中庭なのだろうか、あずまや風のものがいくつも建っている。つれあいは、カツレツを食べたいというが、どうも「コトレット」(?)はなく、ビフテキを一人前注文、それにサラダで、クラクフ第一夜をワインで乾杯となった。コンサートは、まだ学生のような女性ピアニストのショパンで、1時間余り。70席ほどの部屋はほぼ満席、旅行者が多い。ノクターンにはことさら眠りを誘われたのだろう、つれあいはいつ起こそうかとハラハラしていたという。
5月14日(金)
アウシュビッツの雨
翌朝は予報通りの雨だった。それに寒い。申し込んであったアウシュビッツ・ビルケナウ収容所博物館のツアーである。集合場所は、旧市街の北、クラクフ生まれの国民的画家に由来するマテイコ広場、歩いて10分もかからない距離のはずだ。折りたたみの傘では少し頼りない本格的な降りである。大がかりな道路工事があちこちにあるので、迷うことしきり、20分近く歩くが広場にたどりつかない。街角には、雨でも透けたビニールの覆いの中でプレッツェルやベーグル様のパンを商う人がいる。そのお年寄りにも尋ねてみると、すぐ近くらしいが、わからずじまい。今度はビジネスマン風の男性に聞いてみると、曲がる次の路地まで案内してくださり、朝の出勤時というのにありがたいことだった。集合時間ぎりぎりに着いたマテイコ広場、中央には大きなモニュメントと、ショパンが幼少時使ったという可愛いピアノのレプリカがあり、ツアーバスの停留所にはなるほど多くの客が待っていた。大きなバス、小さなバスが次々発車して行くが、私たちのバスではないらしい。ガイドさんが大きな声を張り上げてチケットを確認しながらお客さんを拾っていく。いよいよ車上の人となる。アウシュビッツ・ビルケナウツアーの英語コースの始まりだ。オルビスホテルでだいぶ乗り込んできて大型バスはほぼ満席、9時55分から、話に聞いていた見学先についての映画が始まった。英語版だし、小さな画面だし、集中はできなかった。まじめに観ているのは、やはり年配の人々だ。斜め後ろの若いカップルなどはしっかりと眠っていた。1時間近い映画が終わり、15分ほどでアウシュビッツに到着、バスでのガイドさんから収容所博物館の女性ガイドに引き継がれた。とても落ち着いた、知的な雰囲気の人だった。この博物館ガイドの中には、日本の男性が一人いらして、使命感から困難なガイド資格を取得、15年近く続けられている人の新聞記事を読んだことがある。その方だったらありがたかったのに、ともかく、数時間、英語のシャワーを浴びることになる。なかなか聴きとれず、若い時の不勉強がたたることになる。それでも、写真や現物を見、説明を読み、とてつもなく衝撃的な遺構や遺品、その数や量に圧倒されることにはかわりがない。もはや、言葉を超える事実が目の前にあった。
収容所の全貌と博物館
私たちは、まず、鉄製の広い門をくぐるのだが、その上部には例の「働けば自由になる」(ARBEIT MACHT FREI)という欺瞞に満ちた言葉が掲げられている。行き止まりの鉄路、高い有刺鉄線、監視塔の列、ぬかるみの先には左右にレンガの2階建てが続く。その内の一部が今回見ることができた展示館になっている。最初に入った4ブロック展示館では、アウシュビッツの収容所跡の全貌と「国立オシフィエンチウム博物館・アウシュヴィッツ・ビルケナウ」の概要が示されていた。この地のかつての収容所は、まず、1940年ポーランドの政治犯収容のためにアウシュビッツに建てられたが、やがてドイツならびにドイツ軍によって占領された国々のユダヤ人がここに集められるようになり(1.2万~2万人収容) 、1942年、3km離れたビルケナウに大規模なアウシュビッツ2号(1944年には9万人以上収容)が建設された。6km離れたモノビッツェに3号が建設され、囚人を労働力とする工場などが置かれた。その地に住んでいた人々は強制退去させられた。地図によれば、鉄道は収容所近くになるとこの1~3号に向かう3本に枝分かれする。第4ブロックの展示資料によれば、あくまで推定だが、ここに収容されたのは約130万人、その内110万人がユダヤ人で、次に多いのがポーランド人14~15万人で、ジプシー、ソ連軍捕虜と続き、いちばん少ないノルウェー人が690人という数字もあった。その内の犠牲者はユダヤ人100万、ポーランド人は7万~7.5万人に及んだ。日本語版の「案内書」によれば、不完全な数字として「約150万人が殺害された」とも記される。1944年に送られてきたハンガリーのユダヤ人たちの到着、労働の可不可の選別など、記録写真でたどる。このブロックで、最初の衝撃は、家一軒分くらいの広さの部屋いっぱいの毛髪の山(2トン)だった。女性の遺体から切られた毛髪が廊下側のガラスに傾れるように迫って展示されている。その傍らには、それらを原料に織られた絨毯であり、服地であった。話には聞いていたが、すばやく通り過ぎたい所であった。
死の壁
目を覆ってはいけない
館内の廊下が行き違うのがやっとくらいの幅なので、ガイドの説明はほとんど、屋外で傘をさして行われていた。足元はぬかるみ、うっかりすると水たまりにはまってしまうこともあった。以下のブロックでの主な遺品展示や遺構は次のようであった。
第5ブロック:眼鏡、靴(80000足)、義足・義肢・松葉づえ(460本)、鍋・釜(12000個)等の調理用具、かばん・トランク(3800個)、手袋・シャツ・セーター、ブラシ類、チクロの空き缶など
第7ブロック:藁だけが敷かれた三段ベッド、トイレ・洗面所つき居室など。廊下には収容時の登録写真と個人データ。
第11ブロック:死の壁、集団虐殺実験室、立ち牢、集団絞首台、点呼広場、焼却炉、ガス室など
第5ブロックの展示は廊下の両側はガラスで、各室は、人間の営みに最低限度必要な品々が、その営みの痕跡を残し、圧倒的な物量で見学者の身に迫って来るような展示になっている。第7ブロックでは、収容所の日常の過酷さが、第11ブロックでは、まさに絶滅センターとしてのアウシュビッツの恐怖と狂気が立ちあがって来る場所である。
収容時の個人登録票は国別展示となっているという。顔写真はどれも正面・横・着帽斜めの3枚で、たまたま、メモした表には「32629 Fuks Mosze Drybylur(?) 7.12.1923 24.4.1941 3.7.1942」とあった。「登録番号・名前・地名・生年月日・収容年月日・死亡年月日」と思われる。当時27歳の青年で、収容から1年数か月後に殺害(死亡)にいたる記録である。ほんの一部なのだろうが、そのような票が廊下の両側の壁いっぱいに貼られていた。点呼広場では、女性ガイドは声を低めて、このような雨の日も、長い時は19時間もの間、立ちづくめで点呼を受けていたと説明していた。シャワーを浴びることができると信じて真裸で、ガス室に入って行った人々を思うと、その暗いガス室に入る壁の間で、私は立ちつくすしかなかった。
私たちのツアーでは、バスで5・6分のところにあるアウシュビッツ2号ビルケナウの収容所跡の正門前で降ろされた。175ヘクタール(53万坪)に300棟以上のバラックが建設されたが、今残るのは45棟のレンガ造りと22棟の木造の囚人棟だけという。1944年8月には約10万人が収容されていたという。ソ連軍による解放・侵攻を目前に、証拠隠滅のためドイツ軍が破壊・解体しきれなかった施設や遺品がこの博物館の核である。いまは、レンガ造りの煙突だけが残る荒涼とした光景が広がる。私たちは、1棟のバラックに案内された。52頭用の馬小屋に400~1000人の囚人が収容されていたという。13kmに及ぶという有刺鉄線、監視塔の列のほんの端っこに立ったとき、雨や寒さもあったのか、しばらく胸が締めつけられるような思いであった。
1947年に設立、1979年にはユネスコの世界遺産になっている。1979年、81年にここを訪ねた早乙女勝元氏が編んだ『母と子でみるアウシュビッツ』(草土文化 1983年)を見ると、樹木や雑草に覆われた当時の収容所跡の写真がある。また、今回のツアーのコースでは見なかった、より残酷な写真も収録されていた。博物館として年々整備されて来て、現在があるのだろう。年間約100万人の見学者があり、日本人も8000人近く訪れるそうだ。今回の見学は数時間ではあったが、私もこの記憶はやはり記録に留め、人に伝えなければならない思い切であった。
アウシュビッツ2号ビルケナウ
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